アーモンドの木に花は咲き
聖書のコヘレトへの言葉に、次のような表現があります。
「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い/アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。」(コヘレトの言葉/ 12章 05節) この言葉は、人が年を重ねて老いて行く姿を表現しています。アーモンドの木を、韓国語聖書では杏の木として訳されていますが、実はアーモンドの木です。この表現は、韓国人にとってはあまり理解できません。英語や日本語の聖書では、アーモンドの木と訳されています。
では、「アーモンドの花は咲く」というのはどんな意味でしょうか。
今年の春、トルコとギリシャに旅行に行ってきましたが、そこはアーモンドの花でいっぱいでした。桜の花のようですが、桜よりもっと白っぽいという感じです。つまり、アーモンドは白い花です。それで、「アーモンドの花が咲く」という言葉は白髪になるという意味です。イスラエルでは、年をとったという表現を「アーモンドの花が咲く」と表現したのです。しかし、アーモンドの木をあまり見かけない私たちには、その意味がすぐ伝わりません。もしかして、「黒髪がネギの根のようになるまで(黒髪が白髪になるまで)」のような表現だったら、韓国人はすぐわかるでしょう。日本では、また違う表現があるようです。「共白髪まで(共に白髪になるまで)」がそれです。英語では、白髪という概念がありません。gray hairのみです。これを、「灰色の髪」で訳すとまた不自然に思えます。
国によって白髪の表現が違うように、人々にも自分なりの表現の仕方があって、自分の世界があります。韓国人が「杏の木に花が咲く」の意味を理解できないように、私たちはどうしても理解できない人に出会える場合があります。そのとき、私たちの心の中にはその相手を批判しようとする心が蟠(わだかま)ってきます。自分と違う考えを持っている人を敵にしようとする心です。違うというのは悪いのではなく、貴重なことです。自分が持ってないのをその人が持っているからです。その人を理解できるようになったときこそ、私たちはその分、また新しい世界を経験することができます。他の国に旅行に行ってみるとすぐわかります。国ごと言語だけではなく、トイレの文化にまでまったく異ります。あるところでは、トイレに行って用を澄まして水を流そうとすると、あまり探しても流すレバーがありませんでした。結局諦めて出ようとした瞬間、床をみると足で踏む何かが見えたのです。そっと踏んでみるとやっと水が流されました。紐を引っ張る方式もあれば、日本のようにレバーを回す方式もあり、ヨーロッパはボタン式で押すタイプも数多くありました。そのなかの一つも間違ってはいません。自分たちが好む方式が違うだけです。
受容と理解は人の視野を広げます。それこそが知恵なのです。なぜなら、受容し理解するとその分多くを知るようになり、アイデアもたくさん生まれるからです。
「黒髪がネギの根になるまで」だけが正しいではなく、
「杏の木に花が咲くまで」も正しいです。ただ表現が違うだけです。
人は、包容力が広い程知恵を得ます。
自分と違うということで拝借せず、違うことを大切に思う人が知恵ある人です。
聖書のコヘレトへの言葉に、次のような表現があります。
「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い/アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。」(コヘレトの言葉/ 12章 05節) この言葉は、人が年を重ねて老いて行く姿を表現しています。アーモンドの木を、韓国語聖書では杏の木として訳されていますが、実はアーモンドの木です。この表現は、韓国人にとってはあまり理解できません。英語や日本語の聖書では、アーモンドの木と訳されています。
では、「アーモンドの花は咲く」というのはどんな意味でしょうか。
今年の春、トルコとギリシャに旅行に行ってきましたが、そこはアーモンドの花でいっぱいでした。桜の花のようですが、桜よりもっと白っぽいという感じです。つまり、アーモンドは白い花です。それで、「アーモンドの花が咲く」という言葉は白髪になるという意味です。イスラエルでは、年をとったという表現を「アーモンドの花が咲く」と表現したのです。しかし、アーモンドの木をあまり見かけない私たちには、その意味がすぐ伝わりません。もしかして、「黒髪がネギの根のようになるまで(黒髪が白髪になるまで)」のような表現だったら、韓国人はすぐわかるでしょう。日本では、また違う表現があるようです。「共白髪まで(共に白髪になるまで)」がそれです。英語では、白髪という概念がありません。gray hairのみです。これを、「灰色の髪」で訳すとまた不自然に思えます。
国によって白髪の表現が違うように、人々にも自分なりの表現の仕方があって、自分の世界があります。韓国人が「杏の木に花が咲く」の意味を理解できないように、私たちはどうしても理解できない人に出会える場合があります。そのとき、私たちの心の中にはその相手を批判しようとする心が蟠(わだかま)ってきます。自分と違う考えを持っている人を敵にしようとする心です。違うというのは悪いのではなく、貴重なことです。自分が持ってないのをその人が持っているからです。その人を理解できるようになったときこそ、私たちはその分、また新しい世界を経験することができます。他の国に旅行に行ってみるとすぐわかります。国ごと言語だけではなく、トイレの文化にまでまったく異ります。あるところでは、トイレに行って用を澄まして水を流そうとすると、あまり探しても流すレバーがありませんでした。結局諦めて出ようとした瞬間、床をみると足で踏む何かが見えたのです。そっと踏んでみるとやっと水が流されました。紐を引っ張る方式もあれば、日本のようにレバーを回す方式もあり、ヨーロッパはボタン式で押すタイプも数多くありました。そのなかの一つも間違ってはいません。自分たちが好む方式が違うだけです。
受容と理解は人の視野を広げます。それこそが知恵なのです。なぜなら、受容し理解するとその分多くを知るようになり、アイデアもたくさん生まれるからです。
「黒髪がネギの根になるまで」だけが正しいではなく、
「杏の木に花が咲くまで」も正しいです。ただ表現が違うだけです。
人は、包容力が広い程知恵を得ます。
自分と違うということで拝借せず、違うことを大切に思う人が知恵ある人です。
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アーモンドの木に花は咲き1 |
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살구 나무가 꽃이 필 것이요 |
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1 コメント
中森千草
2015-05-04 17:40:36
すべてにおいて成長が与えられている。
感謝しなければ…