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중앙영광교회

謙遜

이용규목사, 2008-04-23 01:51:49

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「謙遜」

御言葉//フィリピの信徒への手紙 2:5-9

1.        主の御心
「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(フィリピ2:5)
クリスチャンは、イエス様の自分の救い主、神様として信じる人々であり、イエス様の弟子たちである。よって、クリスチャンが主の御心を見習うというのは、当然なことである。
イエス様の御心を一言でいうと、何だと表現されるか。それは、つまり、「謙遜」だと言えよう。
「わたしは柔和で謙遜な者だから…わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:29)
イエス様が自ら御自分の心を紹介された部分である。イエス様の心は、柔和で謙遜だと言われた。聖書で柔和は、謙遜と同一な意味でよく表現されている(マタイ21:5)。 イエス様の御心をもう一度表現すると、「わたしは謙遜で謙遜な者だから」だと言える。イエス様は本当に謙遜な方だった。謙遜の心をお持ち、この地上に来られた(フィリピ2:5-8)。イエス様の謙遜は、大人しいとか、口が重いとか、頭を下げながら挨拶をよくするなどの消極的な意味とは違う。真の謙遜は、世を生かす素晴らしい力がある。謙遜は、自分を低くして、他人を高めることである。謙遜は、自分を低くすることだが、その目的が、他人を高めるためである(箴言16:19、フィリピ2:3)。
謙遜は、ノルティギ(いたとび。シーソーのような形で、立って板を足で強く踏み、相手を飛ばせることを交代にやりながらする韓国の伝統的な遊び。詳細は掲示板の写真をご参考ください。)のようなものである。
精一杯自分の力を出して、相手を高くすることである。そうすると、その瞬間は、自分がとても低くなるようだが、次の瞬間に、高く上がった相手が重力加速度により、自分をもっと高く上げてくれる。これは、神様が与えられた自然の法則である。誰も変えられない。必ずそのようになる。誰も拒めない結果である。謙遜は、皆が勝者になるウィンウィンの結果をいつも用意している。
この神様の法則は、イエス様にも正確に適用された。
イエス様は高き天から、低きこの地上まで飛び降りた。限りなく低くなられた。神様の姿から、人間の姿に、低くなられた。主人の姿から、僕の姿まで低くなられた。ただ、私たちのために。私たちを死から命に、呪われた民から神様の子どもとして上げてくださるために、イエス様は精一杯低くなられた。それで、私たちは、一瞬間にイエス様のお陰で永遠な命を得、神様の子どもとなった。イエス様が限りなく低くなられたことによって、私たちは高くなった。
ノルティギの原理のように、限りなく高くなった私たちも、またそのお方(イエス様)を限りなく高めることは、当然なことである。これが、すなわち霊的な賛美者の姿である。イエス様はとわに賛美を受ける方である。
「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)
「また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」(黙示録5:13)
クリスチャンがイエス様を高め、賛美するのは、当然なことである。私たちが私たちになったのは、ただイエス様のお陰だからだ。私たちは恵みの無重力の状態にいてはいけない。子どもとして高くあげられたら、また高くなった分の重力で主を高めるべきである。
神様もイエス様の謙遜に、次のような祝福を与えられた。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:9)

2.        謙遜の祝福
神様は、謙遜な人に素晴らしい祝福を約束された。
謙遜な者は、お祈りの答えが早い(詩篇 10:17)
謙遜な者は、満ち足り (詩篇 22:26)
謙遜な者は、倒れても主が支えてくださる(詩篇 147:6)
謙遜な者は、輝きで装われる(詩篇 149:4)
謙遜な者は、豊富な恵みをいただき(箴言 3:34)
謙遜な者には、知恵が伴う(箴言 11:2)
謙遜な者には、名誉が得られる(箴言 15:33)
謙遜な者に与えられる報いは、富と名誉と命であり(箴言 22:4)
謙遜な者は、神様が共におられる。(イザヤ57:15)
神様は謙遜な者を喜ばれる。
神様は謙遜な者と一緒に歩まれ、祝福され、彼をお使いになられる。

3.        パウロの謙遜
パウロは謙遜の証人である。彼は自ら謙遜に対して、深い体験をした人である。そのため、彼は、クリスチャンにとって、謙遜がいかに大事な徳目かをよく知っていた。パウロは、行く所々「謙遜」を強調し、また強調した。
「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」(エフェソ4:1-2)
「わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら」(使徒20:18-19)
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2:3)
パウロの人生と教えは、ただ謙遜、すべてが謙遜だった。
パウロは、謙遜を弟子としての最高の徳目、力だと考えた。
パウロが謙遜をこのように大事にしたのは、特別な体験があったからだ。彼は、非常に高慢な人であった。自らも、自分を罪人の頭だと表現している。聖書で、罪人と、悪人と、高慢な人は似ている言葉である(参考:詩1:1)。彼は、当たるべからず勢いであった。イエス様を対敵した人だったから、その高慢がどの程度だったか分かると思う。その彼を、主は完全に低くされた。馬の上で高慢の極致であった彼は、一瞬間に馬の下に落とされ、目まで見えなくなってしまう。多くの人々を逮捕しつれていった彼が、今は自分の体さえつれていくことのできない、低い者の状態になってしまう。
神様はどの悪人でもお使いになれるが、高慢な者は使えない。そのため、神様が人をお使いになるときには、必ず「謙遜の訓練」をさせる。モーセも荒れ野で謙遜の訓練を40年間も受け、ヨセフも奴隷生活と、監獄生活によって、限りなく低くなった謙遜の地獄訓練を受けた。神様は、自ら高くなった者は低くさせるが、低くなった者は高くしてお使いになる。苦難は、神様の使用される謙遜訓練の道具である。人生に苦難が来ているか?神様があなたを使われるために、謙遜訓練に入れられた。理由を問わず低くなりなさい。低くなればなるほどいい。底まで降りていくように。荒れ野まで行き、馬から落ち、監獄まで行きなさい。これが、謙遜訓練を最もうまく受けている姿である。パウロとモーセとヨセフが偶然にそういうふうになったことではないということを覚えよう。
神様は、パウロを大事な僕としてお使いになったときにも、体の病のとげを無くさなかった。彼は、いつも体のとげを持って生きた。神様が彼の体のとげを無くさなかった理由が何だっただろうか。パウロが3回もお祈りしたのに、なぜ答えて下さらなかったか。理由は簡単である。パウロを高慢から守ってあげるためであった。「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。」(二コリント12:7-)
私たちを高慢から守ってくれる最高の守り者は、他ではなく、私たちが持っている「弱さ」である。弱さがある人は、高慢になっても、弱さのとげがすぐ悟らせてくれるため、すぐ戻ることができる。これを分かったパウロは、自分の病が癒されなかったことに喜びながら、自分の弱さを誇りと思うようになった。
高慢から自分を守ってくれるのは、たとえそれが体の致命的なとげでも、喜びながら誇りと思うべきである。なぜなら、それが自分の謙遜の宝を最後まで守ってくれるからだ。

4.        イエス様の謙遜
イエス様の謙遜の姿は、私たちが必ず見習うべきの姿である。
二つの姿があるが、世に対する謙遜と、神様に対する謙遜である。
「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 」(フィリピ2:7)
第一の謙遜の姿は、人々にお見せになった謙遜である。イエス様は神様だったが、人間として低くなられた。これを、聖書は僕の身分になったと表現している。イエス様の謙遜の姿は、僕の姿である。イエス様は仕える者としてこの地上にこられた。十字架で私たちを生かしてくださるために、代わりに死なれることによって、仕えを完成し、天国に行かれた。
人々に行われたイエス様の謙遜の姿は、僕の姿、つまり、仕えの姿だった。
二番目の謙遜の姿は、神様にささげた謙遜である。
「 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)
死に至るまで従順することが、イエス様の神様に対する謙遜の真の姿だった。
謙遜の姿は、対象によって違う姿として表れる。
謙遜は、上の人には従順の姿で表れ、
同僚や下の人には仕えの姿で表れる。
クリスチャンなら、イエス様のこの謙遜の二つの姿を失ってはならない。
クリスチャンが謙遜を失うと、イエス様の十字架の人格を失うことであり、結局主の力を失うことになるからだ。
謙遜の二つの姿である仕えと従順を、絶対、高慢に奪われないように。

3 コメント

中森千草

2008-04-24 06:09:44

謙遜な姿を通して、世の人々にイエス・キリストの姿を現していかなければならない。
神様を畏れていますが、愛の神様です。赦しをすぐに得られる神様の子どもとしての特権をいただいているため、どうしても畏れる心が弱くなり、自分を低い者と見て、控えめな態度をとることが出来ていません。
イエス・キリストの人格をより知ることで、物事に対する考えであったり、見るものに対しての心に変化が現れ、神様の望まれている姿に近づくとおもいます。意識をもって、日々の生活に望んでいきます。

古郡武志

2008-04-26 09:58:47

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
 これは私の好きな川柳です。大きな能力を持ちながらも、周囲の人から謙虚に学ぶ姿勢を忘れずに努力を重ねていく姿…本当に美しいと思う。
「あの人って自分勝手でわがままだよね」
「使えない奴…」
「あんなできない奴で一緒のチームになるなんて、本当いい迷惑なんだよね。」
 本当に私が多くの時間を過ごす職場だけ見ても傲慢な言動が横行しているのは明らかであるが、はなはだしくは人間というのは自分の欲望を充足させるために他人を傷つけたりする。「謙虚で礼儀正しい」と言われた日本人はどこにいってしまったのか?
 傲慢な言動を聞くにつれ、その人に言いたくなる。「いったいあなたはどれほど偉い存在だっていうの?」
 しかし、傲慢というのは、本当に人間が抜け出し難い悪い性質であると思う。なぜなら、実は、人の傲慢な言動を偉そうに批判している私自身がすでに傲慢な状態に陥っているからである。傲慢な人に向かって「いったいあなたはどれほど偉い存在なのか?」という皮肉を言えば、その質問はすぐに自分に帰ってくる。「では、いったいあなたはどれほど謙遜な心を持っている人なのですか?」
 うん…自信を持って答えるのは難しい。
 日常生活においては、事あるごとに自分が高められたいという欲求が首をもたげるのである。「やさしい人だよね。」「勉強家・努力家だよね。」「仕事がよくできる人だよね」…
明確に自覚をしなくても、人から褒められること・いい評価を受けることを志向しているのである。
 「謙遜」というと、思い出すのはイエス様が弟子達の足を洗ったときのことであった。
足を洗うというのは、当時奴隷がやる仕事だったが、イエス様は、神の身分を持ちながらも人間の姿になり、何の躊躇もなく、足を洗ってあげたのである。もちろん、別にいい評判を求めてのことではなく、単に「神に栄光を帰する」ために行ったことである。
 私たちは、そのようなイエス様によって高められたことを決して忘れずに、自分がいい評価を受けることではなく、ただ神様の喜びとなるためだけに頑張らなくてはいけないと思う。虚栄心・利己心の虜にならずに、イエス様に似た「謙遜な」者となれるように、教会の皆とともに頑張っていきたいと思う。

安間チョウコ

2008-04-26 17:22:05

謙遜
イエス様の十字架、パウロの体の棘、イエス様もパウロも、痛みがありながらも、自分のためではなく、隣人と神の国のために戦い続けられた。真の謙遜の態度が取れるのは、自分が無力とわかり、弱さ、痛み、人生の大変さががわかる者。私は子供がないから半人前の人間だと負い目を感じながら生きてきたけれど、その人その人に神様がお与えになる種や実は違うのだから、半人前と恥じることなく、イエス様、パウロの謙遜の道を追って行きたい。
ところで使役訓練では帰納的属会について学び属会について学んだ。私たちの属会は言葉の障害があるけれど(またそれも面白く)、心を開いて交流しあい家族的で癒される会と私は思っている。世の中には家族として機能していない家族が増えているが、中央栄光教会は兄弟姉妹の家族回復があると思う。

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