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중앙영광교회

いただく信仰、献げる信仰

이용규목사, 2008-03-13 02:34:08

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「いただく信仰、献げる信仰」

御言葉//創世記 22:15:-18

信仰の父であるアブラハムを通して、私たちは二つの信仰を学ぶことができる。
アブラハムの信仰は、イサクが生まれる前と、イサクが生まれた後の信仰に分けられる。イサクが生まれる前の信仰を一言でいうと「いただく信仰」であり、イサクが生まれた後の信仰は「献げる信仰」である。

1.       いただく信仰
アブラハムをお呼びになられた神様は、彼を大いなる国民にすると約束なさった(創12:2)。そのときのアブラハムは75歳だった。そこから、アブラハムは神様が与えられた御言葉の道を出発することになる。彼がどの程度待ってこの御言葉の実を結んだのか。彼は、25年を待ってイサクを得た。25年も根気よく待って、約束をいただいたのである(ヘブライ6:15)。御言葉の約束があっても、その実を結ぶためには、待つ期間が必要である。なぜなら、御言葉は実ではなく、種だからだ。種が蒔かれる、芽を吹き、大きくなって実を結ぶまでは、必ずある程度の期間が必要だからだ。
今日の信仰の人々にとって大きな問題は、忍耐できないことである。待てないのだ。絶えて待つことができる人こそ、実の主人になれる。待つことができず、途中で掘ってしまう人は、決してその種の実を結ぶことができない。
アブラハムがイサクという大きな実を結べたのは、25年も根気よく待ったからである。息子を得るためには、「御言葉通りになるということを信じ、待つ忍耐心」が必要だったのである。息子イサクをいただく信仰は、一言でいうと「忍耐の信仰」だった。この信仰がなければ、途中であきらめたり、逃げてしまう。誘惑に陥ることもある。
自ら忍耐の限界を決めないでほしい。「ここまで忍耐してみて、できなければやめる」という人は、必ず失敗するようになっている。これは、悪魔の一段上の計略だからだ。イエス様を見よう。イエス様はどこまで忍耐したか。最後の一滴の血まで全部流されるまで、命が絶えるまで忍耐したのではないか。そのため、イエス様には復活の栄光の実が結ばれたのである。「忍耐にも限界があるよ」だと?違う。忍耐には限界がない。御言葉の実が結ばれるまで、最後まで忍耐することだ。「いただく信仰」は、「忍耐の信仰」をいう。耐える者は祝福される。
荒れ野のイスラエルの民とモーセを比べてみよう。同じ環境の中で、イスラエルの民は 隙間があるといつも不満と不平をいいながら、エジプトにもどろうと言ったが、モーセは水がなくても、食べ物がなくても構わなかった。なぜだろう。なぜこのような差があったのか。モーセは変わらず神様を信じたけれど、民はすでに忍耐の限界が来て、神様を信じられなかったからだ。
あなたはもし人生の荒れ野の時代を迎えたのか。
水のない荒れ野を恐れないで、信仰のない荒れ野を恐るべき出ある。
水のない荒れ野は、信仰の人々には岩から水が湧き出す奇跡の現場に変わるが、信仰のない荒れ野は、結局死の現場で捨てられるからだ。
荒れ野の道を歩んでいるか。水を探そうとしないで、信仰を求めよう。神様を切に求めよう。そうすると、荒れ野が奇跡の現場として変わるであろう。
「主よ!信仰のオアシスが見えるように!信仰の泉が湧き出すように!」

2.献げる信仰
いただく信仰が「忍耐の信仰」だったら、 献げる信仰は「順従の信仰」だと言える。(創22:18)いただく信仰より 献げる信仰がもっと成熟な信仰である。「いただいたらそれで良い。お祈りがかなわれたから、もう結構だ」と思ってはいけない。そこからが大事である。「いただく信仰」が信仰の最初の段階だとすると、「献げる信仰」は信仰の完成であるからだ。偉大な信仰を持っていた人達は、皆が神様に惜まず献げた信仰を持っていた。
リンカーンは、大統領就任前の誕生パーティーでこのように話した。
「私は全能なる神様を喜ばせる事なら、いつでも私の命を献げる覚悟ができています。」
神様には何を献げても惜しまなかったのである。その程度、彼は神様を信頼し、愛したのである。そのため、神様は彼に最高の地位を与え、今まで尊敬されるようにした。
パウロはこう告白した。
「主イエスから受けた、神の惠みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私の命は少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)
神様がアブラハムを試し、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 と言われたときのアブラハムの反応をご覧になって、神様はこのように賞賛と祝福をたくさんしてくださった。「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し… 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:16-18)
いただく信仰は自分一人だけが満たされる信仰であるが、献げる信仰は全世界が満たされる能力である。アブラハムの「献げる信仰」を通じて、諸国民が祝福を得、パウロの「献げる信仰」を通じて全世界が御言葉を得、リンカーンの「献げる信仰」を通じて全アメリカが祝福を得たのである。
自分一人が「献げる信仰」で神様に惜しまず従順すれば、自分の家族が祝福を得、自分の仕事場が祝福を得、自分の教会が祝福を得 、自分の国が祝福を得るのは、神様が定められた道理である。神様は私たちが世の中に祝福を与える祝福の泉になる事を願われる。
この信仰の蛇口は、御言葉に従順し惜しまず献げる事によって、開けられる。献げる者が祝福される者になる。

3.        惜しまず献げる方法
人間は、本能的にもらうのは好きが、あげるのは嫌がる。
では、どうすれば惜しまず独り子まで献げることができるか。
アブラハムはどうやって愛する独り子である息子イサクを、神様に焼き尽くす献げ物としてささげたことができたのか。
聖書はそれに対して正確に答えている。
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(ヘブライ11:17)
では、ここで述べている「信仰によって献げた」というのはどういう意味だろうか。具体的な信仰の内容が、その次に詳しく書かれている。アブラハムは、神様がイサクをささげなさいと言われる前に語られた御言葉を信じたゆえ、喜んで献げることができた。その御言葉の内容はこうである。「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」(創21:12、ヘブライ17:18)これは、つまり神様が他の人ではなくイサクを通してアブラハムの子孫を繁栄させるという、約束の御言葉だった。そのため、たとえイサクが焼き尽くす献げ物として死んでも、神様は彼を蘇らせると信じていた(ヘブライ11:19)。もし、イサクが蘇らなかったら、神様がすでに語られたこの御言葉は成し遂げられないからである。よって、アブラハムが信じた神様は、死んだものも蘇らせる神様だったのである(ローマ4:17)。彼は、すでに復活の力まで信じていた。
予め与えられた御言葉を信じる信仰は、このように力がある。自分の独り子を惜しまず焼き尽くす献げ物としてささげる能力だから、いかに力があるだろうか。
従順は御言葉を信じる分だけ出る。
そして、もう一つ、彼が惜しまず独り子をささげられた力は、ダビデやヨブを通しても十分考えられる。大信仰を持っていた人々は、皆が万物の所有権が神様にあると告白した。
ヨブはすべてを理由なしに失われたとき、
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)といい、
ダビデは、神様にものすごいささげものを喜びをもってささげるときに、
「まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの…このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」(一歴代誌29:11-14)と告白した。
アブラハムに誰がイサクを与えたか。与えられた方は当然神様である。イサクの主人はアブラハムではなく、神様である。アブラハムはただ管理人として預けられて育てただけだった。主人が戻しなさいというのに、管理人が惜しむのは、何か大きな問題があることだろう。神様のものを自分のものだと我を張りながら生きる愚かなことをしてはいけない。世の観点からは、法的に自分の所有になっていても、神様の御前では所有権を委ねるべきだ。すべてが神様のものだから。命すら(一テモテ6:13  万物に命をお与えになる神)。これを正しく知っている人が信仰の深い人である。それで、彼らは命すら当然惜しまなかった。元々、神様のものだったからである。
所有権の問題は、従順の問題と直決する。まず、所有権をもとの主人に戻さなければならない。そして、自分は良い管理人の姿に戻らなければならない。これが、信仰の回復である。アブラハムがそうだったし、ヨブとダビデが皆そうだった。欲望が問題である。欲望が私たちを神様から離れさせる。
「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15)  
イサクをいただく信仰に留まらず、
イサクを惜しまず献げた信仰まで成長しよう。
これが、信仰の先祖であるアブラハムが今日の私たちに譲ってくれようとする信仰の完全な姿である。
「主よ!諸国民が私(私たち)を通して祝福されますように!」

7 コメント

박유진

2008-03-13 02:34:47

2は、イ・ドンフンさんが訳してくださいました。
ありがとうございました。

中森千草

2008-03-13 05:47:26

アブラハムの信仰を通して、 聖書には、人生の成功への道の答えを知ることができ、聖書をもっと悟りながら読まなければと、思いました。
”御言葉は実ではなく、種である” このメッセージをいただいて、焦ることなく、諦めることなく、楽しみながら忍耐しようという心になりました。 
すべての所有権は神様にあって、私たちはあくまで管理者であることを常に意識し、そして、生きているのではなく、生かしていただいているという事実を、もっと行動にだしていきたい。

田辺高幸

2008-03-13 08:19:23

アブラハムは信仰の父と呼ばれている。今回のお話は、このことが良く分かるものだった。いただく信仰。アブラハムは75歳の時、全ての民の父となると言われた。それには子供が必要だったが、それをただ信じていた。そして25年を過ぎて、ようやくイサクを授かった。長い年月をかけて頂いたのである。ハッキリ言って25年は普通の人には余りに長い。しかもアブラハムは失礼ながら言えば老人だ。だけどアブラハムは神を信じていた。だから25年も待てたのである。
献げる信仰。これもアブラハムは出来た。神様に従順だった。神様に言われたら無条件という姿勢だ。でなければやっと出来た子供を焼き尽くす捧げものとして出す訳がない。アブラハムは信じていた。イサクから生まれる者が、あなたの子孫と言われるという神様の言葉を信じていたから、それが出来たのだろう。神様に従順すれば、必ずや神様は言われた約束は守ってくれる、つまり生き返らせてくれる。それを信じていたのだ。
そのアブラハムと自分を比較するのはおこがましい気がするが、自分なりに考えてみた。まずいただく信仰。これは日本人の弟子訓練が始まるまでの過程で、自分はアブラハムほどではないが行う事が出来た。いつからか弟子訓練が始まり、多くの人が参加した。しかし僕は参加が出来なかった。韓国の人の弟子訓練はあるが、日本人の弟子訓練はなかったのだ。そんな状態に悲しいものを感じていた。理由は分かる。本当の意味での教会に必ず来る日本人の数が少ないから行いようがない。しかし僕は、神様に「何で韓国の人にはあって、日本人にはないんだ。それはおかしいのではないでしょうか?あなたは差別をなさる方ではないでしょう」と愚痴を交えながら、待っていた。そうしたら中森姉妹の力もあり(あなたがいなかったら行われなかったと思います。あなたの情熱は素晴らしい。見習っています)、2年位待ち、そして僕は日本人の弟子訓練の席に座っていた。僕は信じていたのだ。だから毎日それが行われる日を来る事を待って教会に通っていた。この方はやはり自分が考えている存在だった。
献げる信仰。これが一番僕に足りないことかも知れない。ここに書かれている通り、僕の信仰は正直言って成熟していないということだろう。僕はいつも貰いっ放しだ。それを僕はそれだけになってしまっている感があり、非常に反省している。これからのテーマになると思う。自分にとって神様に献げるべき信仰って何だろう?まだ分からない、それを探しながら毎日の信仰生活を送りたいと思っている。

安間チョウコ

2008-03-14 06:43:55

与える信仰
もらう信仰は、子供の信仰だ。
与える信仰は大人の、親の信仰だ。相手のことを考えることだ。与えるためにはもらうよりもエネルギーを要する。何か与えるものがないと与えることは出来ない。
日本人の信仰はもらう信仰であり、いつまで経っても子供の信仰かも知れないが、私はそれがなつかしい。
使役訓練を受けて、入門の方より信仰に対して自分のスタイルを持っているかも知れないが、また初歩のあの頃に帰ることも出来ないが、天国までたどり着くためには、アブラハムのように、神を完全に信じ、神に奉げきる様になりたい気持ちはないではないが、何も考えないで単純に信じて、聖霊もわからないで信じていた時の方が楽だった。
親は子供を産んでしまった限り、子供にもう一度お腹に入りなさい、とはいえない。私も弟子、使役訓件を受け、キリストの弟子になりますと言った限り、ついて行きます。

木下 

2008-03-14 16:35:54

忍耐には限界がないとのことですが、自分自身で限界を決め付けてしまいあきらめてしまうことが正直あります。忍耐することに対して、未熟で十分ではないと思います。神様の導きがあれば、不可能であると思われることも可能になると思います。自分ひとりの僅かな力に頼って生きるのではなく、神様と共に歩めるように可能性を信じながら生活していきたいと思います。

津田浩史

2008-03-14 16:54:40

 いただく信仰、与える信仰とも、本当に神様を信頼して最後まで行わなければならないとわかりました。
 神様にいただくときは、どんなに長い間結果が出なくても、信じて忍耐し続けることが大切です。今までも結果が出ないとすぐ嫌になり、あきらめてしまうことが多かったのですが、確かにそれでは結局何の実も結ぶことができませんでした。
 与える面でも、奉仕活動や周りの人々に対して、神様に全てを捧げる気持ちで行っていかなければいけないと思います。
 全ては神様のものですから、貸していただくものも今自分が預かっているものも、神様を信じてお願いするようにします。

古郡武志

2008-03-14 17:55:58

1.「忍耐には限界がない」
 わたしたちの生活は忍耐しなければいけない場面は数多くあります。怠けたい心、お酒や性の誘惑、憎悪に任せて悪口を言ってしまいたくなる誘惑… 自分は充分に忍耐できているのか、いやとてもそうは言えない。忍耐力不足を痛感するときには、何を考えなければいけないか?十字架にかけられる前、神の御子は裸にされ、人相が変わってしまうほど叩かれ、鞭打たれ、ののしられ、嘲笑され、いばらの冠をかぶせられ、軽蔑され、唾をかけられました。冷酷な者たちによって虐待され、あざけられ、動物以下の扱いを受けられたのです。」
 命が絶えるまで忍耐されたイエス様…凄惨な屈辱と苦痛を忍耐されたイエス様…私を救
うために無限の忍耐を身をもって示されたイエス様に心から感謝を捧げたい。まだまだ忍
耐できない私であるが、苦しいときにはあなたを思い出して少しでも頑張れるようにした
い。無限の忍耐で私を救って下さったイエス様に恥じない生き方をできるようになりたい。
2.「私は全能なる神様を喜ばせる事なら、いつでも私の命を捧げる覚悟ができています。」
 このリンカーンの言葉を、私は自信を持って言えるのだろうか?正直に言うと、よくわからない。 今日本では信教の自由が保障されている社会であるから、江戸時代のように厳しい刑罰 をもってキリスト教徒が弾圧されることはない。もちろん社会生活上、若干冷たい目を浴びることがある程度であり、身の危険を感じるようなことはないので、現在この重たい問いに直面することはない。しかし、最近、江戸時代のキリシタン弾圧について調査をしたのだが、逃げることなく喜びをもって死んでいくその姿に驚き、今の自分では「とてもできないな」と思ったのである。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る。」クリスチャンとしての道は、決してこの地上での平穏・安らぎを約束するような楽な道ではない。自分の十字架を背負うということなのだ。それでも、神様の祝福を信じて頑張りたいと思います。最後に自分に問いたい。
「あなたは、自分の十字架を背負っていますか?」

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