Skip to content

중앙영광교회

環境と御言葉

이용규목사, 2008-03-06 00:42:32

閲覧数
471
推奨数
45
「環境と御言葉」

御言葉//ローマの信徒ヘの手紙4:18

1.信仰の対象
アブラハムは皆が知っている通りに、多くの民族の父(先祖)である。もちろん、信仰を持って
いる我々の父でもある。
では、アブラハムはどんな先祖であるか?アブラハムが我々に譲ってくれたのは何か?
どんな遺伝子を譲ってもらったら、アブラハムの真の子孫に成れるか?
アブラハムから何を相続してもらったら一番良いか?家であるか?土地であるか?財産であるか?
違う。本当に我々がアブラハムから譲ってもらうべきなのは、「信仰」である。何故ならば、アブラハムは「信仰の先祖」からだ。信仰を通じて我々もアブラハムの約束を貰う事が出来る。
「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」(へブライ6:14)
では、これからアブラハムの信仰について探ってみよう。
アブラハムはどんな信仰の持ち主であったか?
信仰で最も大事なのは熱情ではなく、信仰の対象である。いくら熱い熱情があっても、間違った対象を信じる事になったら、それより大変な事もないからだ。
世の中には大きく信仰の対象を二つに分ける事が出来る。一つは「人間を造った神」と他の一つは「人間が作った神」である。もちろん、人間と万物を造った神が真の神であり、人間の手で作った神は偽物である。聖書では、この偽神は人間の工芸品に過ぎず、操り人形であり、自分の足で歩くことさえできない、無能な存在だと描いてある。そのようなな存在に祝福を祈る事はどれほど愚かな行動か、分かると思う。
アブラハムの信仰の対象は、人間を造った神、天の神様であった。
もっと具体的に話すと、彼は「御言葉」を信仰の対象とした。「あなたの子孫はこのようになると言われていたとおりに」、彼は最後まで信じたのである。これを天の神様は義だとされた。
あなたの信仰の対象は何であるか?「神様の御言葉」が本当にあなたの信仰の対象であるか?
その御言葉を信じ、忍耐する事こそ、最高の信仰である。信仰の対象を他の所で探すような愚かなミスをしてはいけない。信仰の対象は聖書であり、聖書の完成であるイエス様である。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使16:31)
愚かな人または信仰がない人こそ、目に見えるものしか信じない。
しかし、知恵のある人、霊的な人は見えないものを信じる。
偶像は全部目に見えるものあって、神様は目に見えないのである。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブライ11:1)

2.信仰の現場
信仰の「理論」は非常に簡単である。しかし、「現場の信仰」はとても難しい。現場性がない信仰は死んだ信仰である。生活の現場で生きているのが本当に生きている信仰であり、働く信仰であり、力がある信仰である。
そのため、ある人の信仰の本当の姿が見たかったら、理論を聞こうとしないで、その人の生活にある信仰の現場に訪れた方が良い。神様の御国は言葉にあるのではなく、能力にあるからだ。
では、アブラハムの信仰の現場に行ってみよう。
「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(ロマ4:18)
彼の信仰の現場はとても大変な状況だった。彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せない。(ロマ4:19)そんなに子供が欲しがったのに、体の状況はとても絶望的な状況まで至ったのである。体的には、その年で子供を産むことはとても無理だった。最悪な状況の時、苦難の台風が吹く時、希望を失った時、ちょうどその時、世の中の人と信仰を持つ人との間に区別が付くのである。世の中の人は苦難の台風に力なく飛ばされるが、信仰を持つ人は中身が満ちているため、揺れずにそのまま堪え忍ぶ。世の人は世が空いてしまうと中身も空くが、信仰を持つ人は世が空いても、むしろ神様から頂いたもので中身が満たされるからである。
世の人は世の希望が無くなったら、自分の希望も無くなる。しかし、信仰を持つ人は世からの希望ではなく、他の希望を持っている。神様から頂いた「天国の希望」だ。だから、世の中での希望が無くなっても平気である。「世の希望」は環境から来るものだが、「天国の希望」は神様の御言葉から来るのである。聖書は望みの本である。アブラハムの信仰は間違いなく聖書にあった。彼にはたとえ世が与える希望の「灯火」は無くなったが、神様から頂いた「信仰の太陽」は昇っていた。太陽が昇っているのに、持っていた「灯火」がなくなったことで、苦しみながら人生を諦める人がいるか?
信仰を持っている人は、環境が絶望的でもそれに揺れずに、むしろ御言葉で喜びながら希望を持つ人達である。
信仰の人々よ!絶対落胆しないでほしい。絶対挫折しないでほしい。絶対あきらめないでほしい。世の灯火は全部消えてしまったも、あなたの人生には全く影響力がない。あなたにはすでに天の太陽が昇っているのではないか。これが、アブラハムの信仰の力の実体だった。今あなたには、山を移す信仰の太陽が昇っている。今あなたには、世に勝つ御言葉の太陽が昇っている。今あなたには、世の暗闇を退ける神様の太陽が高く昇っている。これを見ることができる人こそ、真の信仰の人である。消えていく灯火を見て不安になったり落胆しないで、今日も変わらず昇っている神様の太陽を見て笑おう。そして、アブラハムのように、変わらない信仰の道、勝利の道、約束の道を歩もう!!!
目を通して信じる人は、信仰がない人である。信仰は目から来るのではなく、心で信じて救われる(ロマ10:9)。世には、「目の信仰」を持っている人が、意外にも多い。見えないのは、信じない信仰である。「心の信仰」を持っている人は祝福される。見えなくても、心で信じるからである。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (ヨハネ20:29)
見える「環境の信仰」から、見えない「御言葉の信仰」を持って一日も早く成長しなければならない。あなたの信仰はまだ「環境の信仰」から離れずにいるのではないか。

3.        環境と御言葉
神様は御言葉を通してお働きになり、悪魔は環境を通して働く。
神様はいつも御言葉を通して私たちに望み、ビジョン、勇気、力を与えられ、私たちを立ててくださるが、悪魔はひどい環境を通して私たちを絶望させ、落胆させ、あきらめさせ、挫折させ、意欲を奪い、結局私たちを倒してしまう。
悪魔は苦しい環境を利用し、私たちの信仰をひどく揺する。「見てよ。あなたの目で見たのではないか。見ても信じないのか。あなたはだめ。あきらめて逃げなさい。」
このとき、私たちは迷わず宣言しなければならない。「サタン、退け。お前は私を倒せようとしている。」
環境にだまされないで、御言葉だけを信じよう。
ある日、アブラハム・リンカーンに新聞記者が次のような質問をした。
「あなたの素晴らしい成功と、人々から尊敬されるその秘訣はどこにあると思いますか。」
リンカーンは微笑みながら次のように答えた。
「それは、私が他の人々より失敗をたくさん経験したからですよ。
悪魔は私が失敗する度に、「もうあなたはおしまいだ」と話したのですよ。
でも、神様はその度に、「違う。あなたはこの失敗からもっと大事なことができるよ。」と望みを与えてくださいました。
私はいつも、悪魔の誘惑の声よりは、神様の御声に耳を傾けました。それが、成功の秘訣です。」
あなたはこういうときに、誰の声をもっと信じて従っているのか。もし、「アーメン!主サタンよ、早く来てください。」と、サタンの誘惑の声に耳を傾いているのではないか。
リンカーンもアブラハムのように、人生に苦しみと失敗が多かった。彼は、7回も選挙で落ち、ビジネスに2回も失敗し、その借金を返すのに17年もかかった人だった。あなた、望みを持つように。主の御声を聞くように。必ず立ち上がる。リンカーンは失敗と不幸が訪れるたびに、その人生の引っかかる石を人生の大事な踏み石に変える能力を持っている人だった。何によって?神様の御言葉で。どの御言葉で?ロマ8:28の御言葉で。
彼は、大変なときはいつも「神は愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と宣言しながら、人生の引っかかる石を踏み石にかえたのである。あなたの人生の前においてある石が問題ではない。石は石に過ぎない。石が引っかかる石になるか、踏み石になるかは、あなたの手によるものだ。神様の御言葉を聞く人には踏み石になり、サタンの言葉に耳を傾ける人には、引っかかる石になるということを、忘れてはならない。

7 コメント

박유진

2008-03-06 00:43:37

1と2は、イ・ドンフンさんが訳してくださいました。
ありがとうございました。

田辺高幸

2008-03-06 08:09:27

自分は正直言うと神様にお目にかかったことはない。だけども僕はいることを確信している。その応えはコリントの信徒への手紙4章18節に書いてある。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。目に見えることは、ただ単にあるないだけのことである。存在しているだけのことで確信とかする必要はまるでない。またそんなものはそのうち消えてなくなることが余りに多い。神様が何故、僕の心に永遠に存続しているかと言えば、それは見えないからである。その見えないからこそ信じるのだ。そのことはヘブライ人への手紙11章1節に書いてある。「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです」。そこには神様が見えないけどいるという事実を知ることができるのである。
アブラハムはとにかく神様を信じた人である。存在の事実を知っていたひとである。だからどんな苦境があっても信仰を捨てることが無かった。そのことによる奇跡は子供が生まれたことだろう。百歳を過ぎ、妻のサラも不妊であった。どう考えても子供は生まれる状況ではない。なのにイサクを生んだのである。そして神様が約束された通りに多くの民の父親となり、信仰の父とも言われるようになった。多くの人は目に見えるものだけを信じる傾向がある。しかしただそれは存在しているだけで、しかもこの世にしか通用しないものであり、天の国には大して必要がないものだ。アブラハムはそんなものに目を向けなかった。あくまでも神様のみを見つめた人だった。これは非常に見習わなければならないことである。世にはたくさんの物が溢れ、それ故に目に見えない神様が存在するという事実を忘れがちだからである。
神様が目に見えないとすれば、どのように確認するのか。これは聖書以外ない。ヨハネによる福音書1章1節に「初めに言があった。言葉は神と共にあった、言は神であった」と書いてある。御言葉は神様の言葉であり、神様そのものである。神様が存在するという事実を知るには、聖書しかないのだ。だからこれからも聖書を僕は読み続けるだろう。神様の存在を常に忘れる事なく暮らしたいからだ。神様を見つめる事が最も大切なことなのである。

中森千草

2008-03-07 06:41:32

神様からのメッセージにより、 今のわたしの心を強くしてくださいました。 
どこかで自分を守ろうとする力、 もうこれ以上傷つきたくないという心が働き、 忍耐することをあきらめてしまっていました。 
アブラハムの信仰をみせてくださり、 もう一度、私の心を立ち上がらせてくださった神様に、 感謝します。 
水曜日、 日曜日に神様からいただいたメッセージにより、 わたしは現時点ではなくて、遠くを、そして神様を見つめて生きることができています。 

安間チョウコ

2008-03-07 08:23:03

ナイチンゲールの「真理の探究」について
ナイチンゲールについて知らない人はそういないだろう。1820年~1910年(90歳で死亡)イギリスの貴族出身だがその当時は卑しいといわれていた看護婦を志し、科学的に看護を洞察する力を持ち、近代看護学を確立し,看護学校を作った。彼女は神への信仰の熱い人で、仕事とする看護を通して神の観方にも言及している。「真理の探究」は彼女が30代に書きわずか数冊しか印刷されなかったが、後に日の目を見たのである。巻頭に「はしがき」として書かれているところに、
“本書は、ナイチンゲールの人格の余り知られていない側面に光を当てるものであり、彼女の仕事の指針となった思想を明らかにしにしている。・・「真理の探究」には、さまざまな点で驚くほど今日的な意義を有する点が随所に見られる。現代においても、人々は理性と信仰の折り合いをつけようと努力を重ねているからだ。「真理の探究」を読めば、人間存在にまつわる深遠な問題に真正面から取り組んだ、近代屈指の実際的な知性に出会うことが出来る。これら根源的な問題は、時代を超えた普遍のものであり、ナイチンゲールの言葉は百年のときを経た今も当時と同じく、直接、私たちの心に響いてくるのである。”
この本は確かに簡単な本ではない。本の内容の一部の紹介・・第2章普遍的法則について
「もし私たちが、神という言葉によって知と善の霊を意味するなら、その霊の意思と意志は法則だといえるでしょう。・・・この法則の支えなしに、人間はどうやって困難と危険に満ちた人生の道のりを、雄雄しく恐れず歩むことができるでしょうか。その支えがあるからこそ、人間は自ら犯す過ちにさえ神に感謝し、そこから自らの本性にふさわしい「正しさ」を学んでいくのです。この確信なしには、すなわち、宇宙の諸々の現象はこの法則の発現であり、この法則自体が全能の正義の存在の現れに他ならないという確信なしには、人生の真の安寧はありません。」
「創造物を今のような存在に作ったのは、造物主なのです。その造物主が自らの創造物に対して、罪を与えたり、報いを与えたり、どうして出来るのですか。」
“神は慈悲深い存在であり、法則を用いて全人類を完璧な存在へと導くことを目的としていると信じていたナイチンゲールは、永遠の断罪への信仰に反発を感じていた。人間の意志は神の法則によって決定されるものである以上、神が人類を罰するのは正当なことではない、人間の苦難は、むしろ自らの行為の結果に対する無知によるものであるというのが、彼女の考え方だった。”
この本は聖路加看護大学の教授だった方が、ご自身が翻訳に携わったが、癌に侵され、此の世の最後のプレゼントとして私達にバトンタッチとして渡されたものである。
興味のある方は うぶすな書院「真理の探究」フロレンス・ナイチンゲール著2800円+税

木下 

2008-03-07 09:22:22

人生には、日本の四季のように喜怒哀楽があり、楽しいことだけではなく、辛く苦しいことがあると思います。私は、無意識に辛く苦しいと感じるのは、環境のせいだと決め付けてしまうことがよく、あると思います。確かに、環境が良く順調に生活できるなら心に余裕を持って楽しくいきることは簡単です。今回の説教で、私は、全て私に起こる出来事は神様のご計画があり、つまずきの石ではなく、踏み石として利用するために、いつもその機会を与えてくださっているのではないかと感じました。つまずきの石とするか、踏み石にするかを神様は、私たちに選択の余地を与えているのではないでしょうか。私自身が神様から与えられている日々の機会を踏み石として用いることができますようにお祈りしたいと思います。

津田浩史

2008-03-08 09:16:41

 アブラハム、ヨブ、ルツなど、苦境の中でも神様を信じて負けなかった人々が、聖書には多く出ています。ノアもそうだったし、モーゼやダビデもそうでした。本当に、偉大な人たちの姿を見て私たちも見習うべきだと思いました。
 私は問題があるとすぐ腹を立てたり落ち込んだりして、自分にささやく悪魔の声に負けてしまうことが多くありました。しかし、苦しいときこそ神様の御言葉に耳を傾け、問題を踏み石に変えていくという心の強さが大切なことを知りました。
 今までいろいろな問題に遭ってきましたが、自分の力よりも神様の恵みでそれらの問題を解決していただいたことが多かったと思います。それを神様に感謝しつつ、今後は問題が起きたときに神様の声に耳を傾け、心がたやすく揺らぐことのないようにしたいと思います。

古郡武志

2008-03-08 10:46:48

1.一つは「人間を造った神」と他の一つは「人間が作った神」である。
 「人間を造った神」は、とこしえの愛をもってわたしたちを愛し、変わることなく慈しみを与えてくれる存在であり、「人間が作った神」は、人間が金儲け・権力掌握その他の目的を達成するために利用する存在なのである。
 特に日本では、「人間が作った」神が大変多いのであるが、「人間を造った」と「人間が作った」という区別をすることがほとんどないために、「人間が作った神」=「神」となってしまい、「神」と聞くと何か利用されるのではないかという警戒心を呼び起こすのである。
 「人間を造った神」を信じる人と「人間が作った神」を信じる人は何かが違う。「人間が作った神」を信じる人は、「人間が作った神」の利用目的を信じるのであるが、結局その利用目的は世俗的・地上的であることが多いから、世俗的・地上的価値を最上位におき、ひいては利己主義に陥る危険性を免れない。
 これに対し、「人間を造った神」を信じる人は、自分を創造してくれた神様の前で謙虚な心を持ち、神様がわたしたちを愛してくれるように他の人たちも愛するようになるのだろう。私は、以前は「神様」と聞くと誰かが何かのために「利用」するものというイメージをもっていたが、この教会ではそのようなことを感じることはない。
 「人間が作った神」というと典型的に思い浮かぶのは、様々な宗教で出てくる神々ではあるが、それだけには限られないのだと思う。金銭、権力、怠けたい欲望、こういったものすべてが「人間を造った神」への信仰にとって替わろうと毎日毎日強く働いているのを感じる。
 油断しているとそっと心に入り込みそうな「人間が作った神」を排除し、「人間を造た神」への信仰で心が満ちるようにしたいと思う。
2.信仰の「理論」は非常に簡単である。しかし、「現場の信仰」はとても難しい。
このリップルを書きながら、私は、「現場の信仰」に至っていないことを痛感する。例えば、聖書の暗唱は、暗唱のために行うのが目的ではなく、自分の行動を律するために行うものであるが、いざという時に聖書の言葉が頭に浮かんでこなければいけない。不平不満で心が充満したときには、「何事につけ感謝を込めて祈りと願いをささげ求めているものを神に打ち明けなさい。」という御言葉を思い出し、不平不満に満ちた心を感謝に満ちた心に変えなければいけない。
  聖書の知識をひけらかす人ではなく、聖書に御言葉に従う人にならなければいけない。 「奉仕」という言葉がある。本当に自分は周りの人のことを考えているのだろうか? あたかも奉仕しているといいながらも、その実、傲慢な心が支配しているのではないか? 実はほめられたいだけなのではないか?今週はそんな思いにとらわれました。苦しいですが、御言葉に従うことが大きな恵みを有むことを信じて頑張っていきたいと思います。

Board Menu

リスト

Page 44 / 55
Status 番号 タイトル 投稿者 日付 閲覧数
  237

選ばれる者

5
이용규목사 2008-05-08 524
  236

택함 받을 자

31
이용규목사 2008-05-05 1296
  235

言葉が人生を変える

2
이용규목사 2008-05-03 539
  234

말이 인생을 바꾼다

32
이용규목사 2008-04-28 1226
  233

謙遜

3
이용규목사 2008-04-23 549
  232

겸손

36
이용규목사 2008-04-21 1384
  231

世を変化させる力

6
이용규목사 2008-04-17 412
  230

세상을 변화시키는 능력

31
이용규목사 2008-04-14 1207
  229

生きている教会

5
이용규목사 2008-04-08 399
  228

살아 있는 교회

36
이용규목사 2008-04-07 1116
  227

口を開かないイエス様

4
이용규목사 2008-04-02 423
  226

말이 없으신 예수님

39
이용규목사 2008-03-31 1198
  225

復活の人生

6
이용규목사 2008-03-26 427
  224

부활의 삶

35
이용규목사 2008-03-24 1090
  223

洗足と十字架と伝道

8
이용규목사 2008-03-19 661
  222

세족과 십자가와 전도

40
이용규목사 2008-03-17 1207
  221

いただく信仰、献げる信仰

7
이용규목사 2008-03-13 457
  220

받는 믿음, 드리는 믿음

41
이용규목사 2008-03-10 1167
  219

環境と御言葉

7
이용규목사 2008-03-06 471
  218

환경과 말씀

44
이용규목사 2008-03-03 1186

   

sketchbook5, 스케치북5

sketchbook5, 스케치북5

나눔글꼴 설치 안내


이 PC에는 나눔글꼴이 설치되어 있지 않습니다.

이 사이트를 나눔글꼴로 보기 위해서는
나눔글꼴을 설치해야 합니다.

설치 취소