契約の箱の前のダビデ
契約の箱と人生は直結する
契約の箱(御言葉)を貴く考えている人は、貴い人生を生きることになり、契約の箱を卑しく考えている人は卑しい人生を生きた。私たちの人生の主管者は神様であるためだ。
「彼は私を慕うものだから彼を災いから逃れさせよう。私の名前を知るものだから、彼を高く上げよう。」(詩篇91:14)
つねに契約の箱を近くに置いたサムエルや契約の箱とは別個の生き方をしたエリの息子たちの人生の結末を私たちは良く知っている。それではこれからダビデとサウルの人生の克明な差異に対して御言葉を通して学んでみたい。
1.ダビデが貴く考えていたこと
サウルはとことんまで神様の恵みにより頭に油を戴きイスラエルの王になった。しかし彼は王になるやいなや、契約の箱中心の生き方は全然しなくなった。彼は一度も契約の箱を探すことも無く、契約の箱がどこにあるか関心さえ持っていなかった。彼と彼の家門のものは結局神様から見離されるようになった。彼が契約の箱を捨てたためだ。「サウルの時代に私たちはこれをおろそかにした。」(歴代誌上13:3)
しかしダビデはまったく違っていた。彼は王になるやいなや、契約の箱を自分のもとに迎えることを何よりも先にした。「私たちの契約の箱をここに移そうではないか。」
ダビデは肉的にはサウルよりも見劣りがした。サウルは最近の言葉で言えばイケメン・ナイスバディーであった。彼はイスラエルの中でも大変顔立ちが整っていて、身長も普通の人が肩より下に来るほど高かった。(サムエル記上9:2)ところでダビデはどうであったか?サムエルがエッサイの家で神様がお選びになった人を探した時、神様は彼にこのように言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に写ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)このみ言葉と別の表現をすれば、ダビデは外見がその兄弟たちの中でちょっと落ちていたということだ。ところが神様はイスラエル最高のイケメンを捨てられ、ダビデを最高に高くされた。ダビデの人生はいつも御言葉を貴く考えているためであった。「いかに幸いなことか神に・・・・主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。」(詩篇1:1,2)
ダビデはイスラエルに契約の箱を通して御言葉を回復させた人物である。だから彼は神様の喜びの人物になった。彼は精兵3万名を動員して契約の箱をお迎えする準備をしていた。一度失敗したが、3ヵ月後にまた試み、大変な苦労をしながら契約の箱を持ってきた。その後彼は違う懸念に陥った。自分はレバノン杉の王宮に住んでいるのに、契約の箱をいまだ幕屋のなかに置いていることは心の痛いことであった。(サムエル記下7:2)だから彼は聖殿を建築することを計画した。契約の箱をきちんとまつるためであった。契約の箱を心を尽くしてお迎えすることはとても貴いことであるが、人が住む家でもない契約の箱をまつる神殿を建てようとすることは神様を感動させることに他ならない。この時神様はなにかとてもうれしく思い、ダビデに驚くべき二つの約束の贈り物を下さった。第一は名前の祝福である。「地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。」(サムエル記下7:9)第二は家門の祝福である。「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。」(サムエル記下7:11)
貴いことを貴いと知っている人は貴い人である。世の中で本当に貴いのは神様が貴いと考えることである。この中の一つがまさに御言葉である。ダビデの人生は契約の箱の人生であった。ダビデは契約の箱のために福を受けた人である。契約の箱のために最善の生き方をした彼を神様は最高に高められた。
神様は今でもおっしゃる。「この律法の書をあなたの口から話すことなく夜も昼も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え成功する。」(ヨシュア記1:8)
2.御言葉に対する実際の態度
昔も今も神様のみ言葉に対する私たちの態度には多くの問題がある。御言葉を真心から求め受け取ることは聖徒には正常な姿であるけれど、この姿は見ることは簡単ではないという傾向が有る。神様の契約の箱がペリシテ人に奪われてから2頭の雌牛の献身でイスラエルに再び戻ってきたが、その当時契約の箱は別に人気がなかった。いや、どの面においても邪魔者に転落してしまったとでもいえようか?世の中で説教は別に良いイメージを持たれているわけではない。「説教するな」という言葉は「小言を言うな」という意味に転落して久しい。ホームページでも御言葉は何となく避けながら、写真や自由掲示板だけを見る人が少なくない。礼拝時間はどうか?交わり・食事時間だけでなく、賛美・祈りの時間までも欠けるところのなかった人が説教時間になると居眠りしたり、おかしなことをする人もいるのではないか?何よりも御言葉を貴く考えなければいけないのにだ。契約の箱がべト・シェメシュに到着した時に、一度に50070名が死んでしまった。だからイスラエルの人々は誰も契約の箱をまつろうとしなかった。彼らは、仕方なく、彼らの中に生きていたギブオンの一門であるキルヤト・エアリムの人々に持っていってくれといった。それでそのときから契約の箱は異民族の一個人の家に置かれるようになった。これこそ捨てられた契約の箱だったのである。これをダビデが再び探して求めてやって来た時神様はどんなにうれしかっただろうか?今あなたの契約の箱はどこに保管されているだろうか?もしかしたら倉庫へほうりこまれているのでなかろうか?またはどこにおいていたかを忘れて生きているのでなかろうか?今私たち全てに至急にしなければならないことは契約の箱を回復する仕事である。その契約の箱を聖殿に置くことである。私たちの体に置くことである。み言葉が肉体になられたイエス様のように、御言葉が生き方の基礎となった弟子たちのようにならなければならない。
3.御言葉の前のダビデ
ダビデは神の箱をどのような姿でお迎えしたか?先に失敗したベド・シェメシュの人々の姿を考えてみよう。契約の箱を受けいれたペルセウスの人々がなぜ突然50070名も死んだのだろう。聖書ではこの理由を正確に述べている。「主はベト・シュメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。主は5万のうち70人の民を打たれた。」(サムエル記上6:19)神様の言葉を受けるときには絶対に見学者の立場で受けてはならない。礼拝のとき、御言葉を読むときでも見学のつもりで受けてはならない。
それでは神様のみ言葉をどのように受けなければならないか?自分の人生の肩に背負わなければならない。「最初のときはあなたたちがいなかったので、私の神、主は私たちを打ち砕かれた。私たちが法に従って主を求めなかったからである。」(歴代誌上15:13)
御言葉は見学の対象ではない。直接自分の人生に結び付けなければならない。最近御言葉を見学する人が多いが、御言葉を直接背負って行く人はめったに無い。イエス様は御言葉をその肉体に背負ってこの地にやってこられた。イエス様の体は御言葉の器であった。まさにこれが聖なるからだのことなのだ。私たちも御言葉を目の保養用とばかり考えず、体に背負わなければならない。聖殿は元来御言葉を置くために存在するのである。私たちの体は霊の聖殿であるために、御言葉を体に負わなければならないのは当然の道理である。そのときに初めてみ言葉の祝福という働きは、(体に)点火され始める。御言葉を必ず人生の肩に背負って歩いて行こうではないか。そのとき御言葉は人生の荷物ではなく、大きな力になるという事実を悟る。契約の箱の前でのダビデの姿はどんなだっただろうか?彼は魂の中ににじみ出る感謝と喜びとで力の限り踊った。(サムエル記下6:14)このときミカルはダビデのこの姿を大変良くないと考えた。
「今日のイスラエル王はご立派でした。家臣のはしための前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげも無く裸になるように」(サムエル記下6:20)それこそ、すべての醜態や恥さらしを演じたということである。ミカルはダビデのこの姿を恥ずかしく考えた。彼女は人々の前でのダビデの姿だけを考えたのであった。しかしダビデは違っていた。
彼は神様の前での自分の姿はどんなに美しいかと考えた。だから彼はこのように応えた。
「私はもっと卑しめられ、自分の目にも低いものとなるだろう。」(サムエル記下6:22)
人の前での私の姿よりも大事なのは神様の前での私の姿である。信仰の人はいつも神様の前での自分の姿に神経を使う。ミカルは人の前でのダビデの姿のために王として対面を守るように言った。世間への対面よりも重要なことは神様の喜びになることである。世間では高い地位にいればいるほど御言葉の前ではより頭を下げることが良い。御言葉の前でもっとも大きい障害物は、対面である。世間の中での自分の高い姿によって神様の前で頭を下げることが出来なくなってしまう。「私が王であるが、王の対面がある。私が社長であるが、社長の対面がある。私が教授であるが、教授の対面がある。私が○○であるが、○○の対面がある。」
人の前で対面を重視する人は神様の前では絶対に高い点数を受けることは出来ない。首のギブスを全部とらなければならない。神様の前では王も、社長も、教授も無い。ただ聖徒のみがいるだけである。世間の職位を神様の前に持っていくような馬鹿なことをしないようにしなければならない。父の前では息子、娘しかいない。だから。神様の前での最高の姿は幼い子どもになることなのだ。契約の箱の前でのダビデの姿がまさにこの姿である。ダビデは幼い子どものように純粋に御言葉を受けた。今御言葉の前に立つあなたの姿はどうだろうか?ダビデの形?(謙遜型) ミカルの形?(体面型)サウルの形?(無視型)
最近神様はあなたの姿を見られて何と言われているだろうか?
御言葉の前での自分の姿を回復しなければならないときである。
契約の箱と人生は直結する
契約の箱(御言葉)を貴く考えている人は、貴い人生を生きることになり、契約の箱を卑しく考えている人は卑しい人生を生きた。私たちの人生の主管者は神様であるためだ。
「彼は私を慕うものだから彼を災いから逃れさせよう。私の名前を知るものだから、彼を高く上げよう。」(詩篇91:14)
つねに契約の箱を近くに置いたサムエルや契約の箱とは別個の生き方をしたエリの息子たちの人生の結末を私たちは良く知っている。それではこれからダビデとサウルの人生の克明な差異に対して御言葉を通して学んでみたい。
1.ダビデが貴く考えていたこと
サウルはとことんまで神様の恵みにより頭に油を戴きイスラエルの王になった。しかし彼は王になるやいなや、契約の箱中心の生き方は全然しなくなった。彼は一度も契約の箱を探すことも無く、契約の箱がどこにあるか関心さえ持っていなかった。彼と彼の家門のものは結局神様から見離されるようになった。彼が契約の箱を捨てたためだ。「サウルの時代に私たちはこれをおろそかにした。」(歴代誌上13:3)
しかしダビデはまったく違っていた。彼は王になるやいなや、契約の箱を自分のもとに迎えることを何よりも先にした。「私たちの契約の箱をここに移そうではないか。」
ダビデは肉的にはサウルよりも見劣りがした。サウルは最近の言葉で言えばイケメン・ナイスバディーであった。彼はイスラエルの中でも大変顔立ちが整っていて、身長も普通の人が肩より下に来るほど高かった。(サムエル記上9:2)ところでダビデはどうであったか?サムエルがエッサイの家で神様がお選びになった人を探した時、神様は彼にこのように言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に写ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)このみ言葉と別の表現をすれば、ダビデは外見がその兄弟たちの中でちょっと落ちていたということだ。ところが神様はイスラエル最高のイケメンを捨てられ、ダビデを最高に高くされた。ダビデの人生はいつも御言葉を貴く考えているためであった。「いかに幸いなことか神に・・・・主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。」(詩篇1:1,2)
ダビデはイスラエルに契約の箱を通して御言葉を回復させた人物である。だから彼は神様の喜びの人物になった。彼は精兵3万名を動員して契約の箱をお迎えする準備をしていた。一度失敗したが、3ヵ月後にまた試み、大変な苦労をしながら契約の箱を持ってきた。その後彼は違う懸念に陥った。自分はレバノン杉の王宮に住んでいるのに、契約の箱をいまだ幕屋のなかに置いていることは心の痛いことであった。(サムエル記下7:2)だから彼は聖殿を建築することを計画した。契約の箱をきちんとまつるためであった。契約の箱を心を尽くしてお迎えすることはとても貴いことであるが、人が住む家でもない契約の箱をまつる神殿を建てようとすることは神様を感動させることに他ならない。この時神様はなにかとてもうれしく思い、ダビデに驚くべき二つの約束の贈り物を下さった。第一は名前の祝福である。「地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。」(サムエル記下7:9)第二は家門の祝福である。「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。」(サムエル記下7:11)
貴いことを貴いと知っている人は貴い人である。世の中で本当に貴いのは神様が貴いと考えることである。この中の一つがまさに御言葉である。ダビデの人生は契約の箱の人生であった。ダビデは契約の箱のために福を受けた人である。契約の箱のために最善の生き方をした彼を神様は最高に高められた。
神様は今でもおっしゃる。「この律法の書をあなたの口から話すことなく夜も昼も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え成功する。」(ヨシュア記1:8)
2.御言葉に対する実際の態度
昔も今も神様のみ言葉に対する私たちの態度には多くの問題がある。御言葉を真心から求め受け取ることは聖徒には正常な姿であるけれど、この姿は見ることは簡単ではないという傾向が有る。神様の契約の箱がペリシテ人に奪われてから2頭の雌牛の献身でイスラエルに再び戻ってきたが、その当時契約の箱は別に人気がなかった。いや、どの面においても邪魔者に転落してしまったとでもいえようか?世の中で説教は別に良いイメージを持たれているわけではない。「説教するな」という言葉は「小言を言うな」という意味に転落して久しい。ホームページでも御言葉は何となく避けながら、写真や自由掲示板だけを見る人が少なくない。礼拝時間はどうか?交わり・食事時間だけでなく、賛美・祈りの時間までも欠けるところのなかった人が説教時間になると居眠りしたり、おかしなことをする人もいるのではないか?何よりも御言葉を貴く考えなければいけないのにだ。契約の箱がべト・シェメシュに到着した時に、一度に50070名が死んでしまった。だからイスラエルの人々は誰も契約の箱をまつろうとしなかった。彼らは、仕方なく、彼らの中に生きていたギブオンの一門であるキルヤト・エアリムの人々に持っていってくれといった。それでそのときから契約の箱は異民族の一個人の家に置かれるようになった。これこそ捨てられた契約の箱だったのである。これをダビデが再び探して求めてやって来た時神様はどんなにうれしかっただろうか?今あなたの契約の箱はどこに保管されているだろうか?もしかしたら倉庫へほうりこまれているのでなかろうか?またはどこにおいていたかを忘れて生きているのでなかろうか?今私たち全てに至急にしなければならないことは契約の箱を回復する仕事である。その契約の箱を聖殿に置くことである。私たちの体に置くことである。み言葉が肉体になられたイエス様のように、御言葉が生き方の基礎となった弟子たちのようにならなければならない。
3.御言葉の前のダビデ
ダビデは神の箱をどのような姿でお迎えしたか?先に失敗したベド・シェメシュの人々の姿を考えてみよう。契約の箱を受けいれたペルセウスの人々がなぜ突然50070名も死んだのだろう。聖書ではこの理由を正確に述べている。「主はベト・シュメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。主は5万のうち70人の民を打たれた。」(サムエル記上6:19)神様の言葉を受けるときには絶対に見学者の立場で受けてはならない。礼拝のとき、御言葉を読むときでも見学のつもりで受けてはならない。
それでは神様のみ言葉をどのように受けなければならないか?自分の人生の肩に背負わなければならない。「最初のときはあなたたちがいなかったので、私の神、主は私たちを打ち砕かれた。私たちが法に従って主を求めなかったからである。」(歴代誌上15:13)
御言葉は見学の対象ではない。直接自分の人生に結び付けなければならない。最近御言葉を見学する人が多いが、御言葉を直接背負って行く人はめったに無い。イエス様は御言葉をその肉体に背負ってこの地にやってこられた。イエス様の体は御言葉の器であった。まさにこれが聖なるからだのことなのだ。私たちも御言葉を目の保養用とばかり考えず、体に背負わなければならない。聖殿は元来御言葉を置くために存在するのである。私たちの体は霊の聖殿であるために、御言葉を体に負わなければならないのは当然の道理である。そのときに初めてみ言葉の祝福という働きは、(体に)点火され始める。御言葉を必ず人生の肩に背負って歩いて行こうではないか。そのとき御言葉は人生の荷物ではなく、大きな力になるという事実を悟る。契約の箱の前でのダビデの姿はどんなだっただろうか?彼は魂の中ににじみ出る感謝と喜びとで力の限り踊った。(サムエル記下6:14)このときミカルはダビデのこの姿を大変良くないと考えた。
「今日のイスラエル王はご立派でした。家臣のはしための前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげも無く裸になるように」(サムエル記下6:20)それこそ、すべての醜態や恥さらしを演じたということである。ミカルはダビデのこの姿を恥ずかしく考えた。彼女は人々の前でのダビデの姿だけを考えたのであった。しかしダビデは違っていた。
彼は神様の前での自分の姿はどんなに美しいかと考えた。だから彼はこのように応えた。
「私はもっと卑しめられ、自分の目にも低いものとなるだろう。」(サムエル記下6:22)
人の前での私の姿よりも大事なのは神様の前での私の姿である。信仰の人はいつも神様の前での自分の姿に神経を使う。ミカルは人の前でのダビデの姿のために王として対面を守るように言った。世間への対面よりも重要なことは神様の喜びになることである。世間では高い地位にいればいるほど御言葉の前ではより頭を下げることが良い。御言葉の前でもっとも大きい障害物は、対面である。世間の中での自分の高い姿によって神様の前で頭を下げることが出来なくなってしまう。「私が王であるが、王の対面がある。私が社長であるが、社長の対面がある。私が教授であるが、教授の対面がある。私が○○であるが、○○の対面がある。」
人の前で対面を重視する人は神様の前では絶対に高い点数を受けることは出来ない。首のギブスを全部とらなければならない。神様の前では王も、社長も、教授も無い。ただ聖徒のみがいるだけである。世間の職位を神様の前に持っていくような馬鹿なことをしないようにしなければならない。父の前では息子、娘しかいない。だから。神様の前での最高の姿は幼い子どもになることなのだ。契約の箱の前でのダビデの姿がまさにこの姿である。ダビデは幼い子どものように純粋に御言葉を受けた。今御言葉の前に立つあなたの姿はどうだろうか?ダビデの形?(謙遜型) ミカルの形?(体面型)サウルの形?(無視型)
最近神様はあなたの姿を見られて何と言われているだろうか?
御言葉の前での自分の姿を回復しなければならないときである。
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2009-05-18 | 814 |
3 コメント
이용규목사
2009-08-10 02:25:29
감사합니다.
中森千草
2009-08-10 04:59:25
そう考えたら、聖書を読む姿勢は変わるでしょう。
そして、御言葉はどのように用いたらいいのかと思った瞬間、生き方が変化するだろう。
神様にとっていい子どもになることが、私の生きる目的です。
ですから、人間だから・・・・・
という言い訳はなくしていきます。
古郡武志
2009-11-19 08:09:28
神様は美しい若者であったイケメンのサウルではなく、サムエルを選ばれた。
まあ、ともかくほっとする。主が心によって見る方でよかった。
わたしも腹部の脂肪が沈着してから久しくたち、イケメンという基準で選別されれば、落選することは必至である。
ところで、そんな自分自身が心によって見ているのであろうか?
と言われるとはなはだ心もとない。
「どんな女性がいいの?」と聞かれると
「おだやかで心やすまる人がいいな」と答えているものの、
無意識に自分の目はかわいい女の子を追っていたりする。
「結局何だかんだ言って外見しかみてないようね」と言われると
「所詮男ってそんなものだよね」と自嘲気味に弁解をする。
心によって見られるときに選ばれる人間でありたい。
そのためにも自分が心によって見る人間でありたい。
心によって見るためには何か大事かを知らなければいけない。
その答えが御言葉である。
ともかく私に沈着するものは、脂肪から御言葉にバトンタッチする必要がある。
皮肉なことに腹部の脂肪はなかなかとれないというのに、ちょっと油断すると御言葉はすぐに心から離れてしまう。
ダビデの生き方を見習って、御言葉が私の心にこびりついてどんなに落とそうとしても絶対に落ちず、御言葉が心のまわりに分厚く沈着した人になりたい。