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중앙영광교회

三つの祈り

이용규목사, 2009-09-18 18:23:13

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神様は私たちの祈りを待っておられます。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。」(マタイ7:11)とイエス様は自らおっしゃいました。信じる者なら祈りの人にならなくてはいけません。イエス様が祈りなさいと命令なさったからです。神様は祈る人を喜ばれるからです。聖霊様は祈る人をお助けになるからです。私たちは祈りについて語る人ではなく、祈る人にならなくてはいけません。祈りの力は祈りについてよく知る人ではなく、祈る人に現れるからです。
神様の御言葉のように教会を‘強盗の巣’にするのではなく、‘祈りの家’に戻さなくてはいけません。これこそが力ある初代教会の姿でした。

1.        祈りの計画を立てなさい。
 使徒言行録12章によると初代教会に大変な危機が訪れました。イエス様の3代弟子の一人であるヤコブがヘロデ王の剣によって殺されます。その時、ユダヤ人たちはヘロデ王を支持し大いに喜びました。ヘロデ王はそれがユダヤ人の気に入ったのを見てペテロまでを殺そうとペテロを捕えて牢に入れました。ペテロはイエス様の一番弟子であり、初代教会の指導者でした。それこそ、一個人ではなく、教会の存廃にかかわる危機でした。教会の存続が危うい状況の中、信じる者たちは果たして何を行ったのでしょう。何か対策を立てたのでしょうか。ペテロを救うために権力者を訪ねて行ったのでしょうか。それとも自分たちの力に頼って牢を壊す計画を立てたでしょうか。いいえ、違います。初代教会の信者たちは全知全能の神様に祈りを捧げました。自分たちの真の力である神様の力で牢の門を開けようとしました。ですから彼らはひたすら祈り続けました。
「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(使徒言行録12:5)
そうするとペテロを縛っていた鎖が彼の手から落ち、牢の門がひとりで開き、ペテロは無事に救出されました。これは何の力でしょう。それはまさに祈りの力です。教会が熱心に祈る時、鎖が落ちることが起こり、牢の門が開かれることが出来ます。なぜなら私たちが祈る時、神様の御手が働いておられるからです。牢から出たペテロがマルコの家に行くまで教会の人々は祈り続けました。(使徒言行録12:12)
あなたの人生にこのような大いなる危機が訪れた時、あなたはどんな計画を立てるのでしょうか。問題を解決するためにどんな対策を考えますか。聖書は私たちに最高の計画を教えてくれます。それは‘祈りの計画’です。祈りの計画より力があり、効果のある計画はありません。神様もはっきりとおしゃっておられます。
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」(マルコ9:29)
人生でもっとも大事な計画は祈りの計画です。あなたの人生に危機、苦難、問題などがありますか?今こそが‘祈りの計画’を確実に立てなくてはいけない時期です。
少しの間、静かに目を閉じて自分の祈りの計画を立ててみましょう。
‘全知全能の神様、私にこのような問題があります。病気、金銭、家庭、就職、結婚、事業、学業、悪い習慣…などの問題があります。私の救い主であり、私の力である神様に助けを求めます。私は出来ません。しかし、神様には不可能なことはございません。それで私はこのような祈りの計画を立てました。必ず成し遂げますように力と信仰をお与え下さい。今回のこの祈りを通して私の手を縛っていた鎖が落ち、私を閉じ込めていた牢の門が聖なるイエス様の御名によって開かれますように。神様は全知全能なお方です。神様には不可能なことはございません。アーメン。’

2.        3つの祈り
 祈りは3つに分けることが出来ます。求める祈り、宣布の祈り、満たされる祈りです。この祈りが分かる時、私たちは祈りにおいて自由になり、時に合う祈りを捧げることが出来ます。
1)        求める祈り
 求める祈りは一般的に私たちがよく行う祈りです。神様に自分の必要や助けを求める祈りです。人々はしばしば誤解します。自分自身の必要のために祈ることは自己中心的なエゴの祈りだと言います。絶対に違います。神様は私たちの必要を満たして下さる方です。神様は私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませて下さる方です。(テモテⅠ6:17)
イエス様も必要な糧のために祈りなさいとおっしゃいました。(主の祈り)
ヒゼキヤが病気になって死にかかっていた時、彼は神様に熱心に祈りました。顔を壁に向けて大声で泣きながら神様に祈りました。このような祈りが求めの祈りです。神様の御心を動かす祈りです。神様の御計画を芯から変えられる祈りです。神様はヒゼキヤの祈りのために彼は大いなる御恵みを受けます。
「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし」(イザヤ38:5)
困っている時、試練が与えられた時、祈りを捧げましょう。神様が祈りのチャンスをお与えになるからです。
「苦難の日、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩編50:15)苦難は私たちを祈らせ、祈りは神様に栄光を帰します。
ヤベツは苦難に遭った時、神様に祈りを捧げました。
「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」(歴代誌上4:10)
神様は彼の願ったことをかなえられました。神様は今もあなたを助けようとしておられます。あなたの祈りを待っておられます。祈りは信仰の表現です。
2)        宣布の祈り
 信じる者は十字架の兵士です。兵士たちには必ず武器が与えられます。その武器は彼らの力になります。神様は霊の兵士たちである私たちに霊の武器をお与えになりました。私たちはこの霊の武器を持って悪魔に立ち向かわなければいけません。
「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)
まず、神様は罪を赦す能力のある血を下さいました。イエス様の血はすべての罪から私たちを清めます。(ヨハネⅠ1:7)ですのでイエス様の血による賛美は能力ある賛美であり、イエス様の血による祈りは能力ある祈りです。
2つ目は主の御言葉です。神様の御言葉は能力があります。聖書は神様の御言葉を‘聖霊様の剣’で表現しています。御言葉こそが驚くべき武器であります。
「神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(へブライ4:12)従ってこの御言葉を口に出して宣言すれば、その瞬間、御言葉は鋭い剣で出ていきます。(黙示録1:16)なので、御言葉が宣布されるところでは病が立ち去り、悪魔が逃げ出します。悪魔にテストを受ける時、イエス様が使っておられた武器は御言葉しかありませんでした。チョ・ヨンギ牧師先生、ジョエル・オスティ-ン牧師先生のお母様が病気になって死にかかった時、癒されるために行ったことはただ聖書の御言葉を口に出したことだけです。御言葉はすなわち聖霊様の剣です。あなたの口から御言葉が出ることを悪魔は恐れます。信徒はいつも御言葉から離れてはいけません。昔の信仰の先輩たちは御言葉を読む時、いつも声を出して読みました。私たちの口は発射台です。私たちの口から御言葉が宣布される度に悪魔は怯えています。唇の力は御言葉の力です。
3つ目はイエス様の御名です。初代教会で最初に使用禁止令が下されました。それは‘イエス様の御名’です。なぜでしょうか?イエスの御名によって足のなえた人が立ち、数多くの不思議なわざが起こったためです。なので祭司たちと管理者たちはイエスの御名によって話すことも教えることも頑なに禁じるように命令しました。しかし、初代教会の聖徒たちはこのように祈りました。
「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議なわざが行われるようにして下さい。」(使徒言行録4:30)ところで今日は如何でしょうか?
2000年前の使用禁止令は未だに残っているようです。人々はイエスの御名によって宣布することをぎごちなさそうにしたり、恥ずかしく思ったり、怖がったりします。イエスの御名の力を取り戻さなければなりません。ペテロ、パウロの能力は‘イエスの御名’から出たのではないでしょうか?(使徒3:6、使徒16:18)イエス様はイエスの御名の力を弟子たちに実習させました。そうするとイエスの御名を口に出すだけで悪霊たちは直ちに服従しました。(ルカ10:17)そしてイエス様は天に昇られる前に命令されました。
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、…病人に手を置けば治る。」(マルコ16:17、18)そして以下のようにおっしゃいます。
「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)

3)満たされる祈り
これは神様との深い交わりの祈りです。この祈りを通して私たちの内なる人が神様のもので満たされます。この祈りは静かな祈りであり、ゆったりとした祈りであり、魂と精神が神様に集中する祈りです。そして深い呼吸の祈りでもあります。黙想の祈り、観想の祈りがこの範疇に当たります。詩編の多くの祈りはこの祈りです。
「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」(詩編62:2)
イエス様もこの祈りをよく捧げました。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)イエス様は神様と静かに深い交わりを通して自分が満たされる時間を持ちました。それこそが世の中で勝利を収める能力であるからです。イエス様がお教えになった祈りの内容も満たしの祈りの要素が多いのです。
「御国が来ますように。御心が天で行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)
「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)
神様の国と義は神様ご自身です。神様で満たされればロレンス兄弟のようにどんなことを行っても大変ではなく、嬉しいのです。内なる人が神様のもので満たされればいつも勝利者になります。神様は光です。神様の光が私の中に満たされると暗闇は絶対に近づくことが出来ません。しかし、私たちの中に光がないと暗闇は押し寄せてきます。イエス様の御名によって追い払ってもその瞬間だけです。ですから神様(光)で満たされた人生が重要であります。イエス様のゲツセマネの祈りは求めの祈りと満たしの祈りが同時に入っています。十字架の死の前に立たされたイエス様はこのように祈られました。(マルコ14:36)
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけて下さい。」イエス様はまず切なる助けの祈りを捧げました。その後、
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました。この祈りは神様の御心を求める満たしの祈りです。イエス様は満たしの祈りの応えを受け、神様の能力に頼り、十字架を堂々と背負って行かれます。真の祈りの答えは苦難の解決ではなく、苦難の十字架を堂々と背負って行く力を貰うことです。その時にようやく復活と救いの奇跡が起こります。神の満ちあふれる豊かさに皆さんがみたされますように祝福します。(エフェソ3:19)

4 コメント

이용규목사

2009-09-18 18:24:30

이은미 자매님이 번역하고 후루고오리상이 감수해 주셨습니다.
감사합니다.

中森千草

2009-09-19 06:32:53

祈りによってどれだけ助けられ、支えられて生きてこられただろう。
祈らなければ与えられないことを経験しました。
心の中での想いさえも神様に届きました。
神様との通信であるこの祈りは、続けることによっていろんなドラマが生まれるでしょう。
いい作品にめぐり合うためにもっともっと祈ります。


田辺高幸

2009-09-19 18:14:57

教会の兄弟とこんな話をしました。リップル(日本語ではカキコですネ)とかでも、詩篇のダビデのように素直な気持ちで書きたいネ。他の教会の人と話しました。ダビデのように神様と親友のようになりたいネ。今、自分のブログで詩篇を知ってもらいたく、ピックアップして書いてますが、ダビデの神様に対する真っすぐさに心を打たれ、そうでありたいと、知ってもらおうとしている人がそう思いました。これから日本語の説教の翻訳がまた始まります。ダビデのように神様に対して本心で書きたいと思います。

今回は3つの祈りがテーマですが、確かに祈りは大切です。例えば問題があったとします。人間だけで解決できることはあります。しかし限界もあります。そんな時に神様に祈ります。すると問題という門が叩かれ、開かれます。祈りにはこれだけの力があります。

僕が最近主の御言葉でとても印象になったものがありました。

「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、どのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコによる福音書11章23節から24節より抜粋)

僕はこれを信じて毎日生きてます。

ただ祈りが、単なる他力本願のためであったり、貪欲さのためであったり、ファリサイ派のように形式とおりだけのものであったりしないように肝に銘じます。ダビデが書いた詩篇のような気持ちでありたいと思います。神様との関係を証明するものとして祈りをしたいと思います、

古郡武志

2009-11-20 08:30:25

何の勉強もせずに試験当日を迎えてしまった人が「神様、今日の試験に合格させて下さい」と祈るのであれば、どうなのだろうか?
もちろん、神様はこんなことは一蹴されるのだろう。
神様は、自分に都合よく利益を受けるために利用する存在ではない。
家内安全、学業成就、縁結び…神社に行くといろいろ神様から受けられる利益が掲げてある。それらを見るたびに思う。
祈るということは、一歩間違うと自分に都合よく神様を利用する行為に堕してしまうのではないかと…
神様を差し置いて自分の力を信じるのではないが、しかし神様の働きを黙って待ち望むというようなことを神様は決してお望みではないはずだ。
祈りを通して神様の心を知り、その心に従って歩もうとするところに神様は働かれる。

ゲッセマネの祈りの中でイエス様の祈りは「この杯をわたしから取りのけて下さい」ということから「御心に適うことが行われますように」というものに変化した。
黙って待つのではなく、自分の苦しみという万難を排して十字架を背負う決意をされたのである。
説教の中で「答えは苦難の解決ではなく、苦難の十字架を堂々と背負って行く力を貰うことです。」というところが私に大きな悟りを与えてくれた。
祈りは決して待つことなのではない。神の意に従って行動しようとすることそのものなのだと・・・

ある人が言っていた。
「祈りなんか弱い人間のすることだよ。」
これに対しては
「いやいや、そんなことはない。祈りは最も強い人間がすることであり、最も積極的な行動なんだよ。」と自信をもって言いたい。
祈りについて迷い、祈りのあるべき姿を見失ったときはゲッセマネの祈りを考えるようにしたい。

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