欲望を取るに足りないと思う人たちが多くいます。
欲望をまったく深刻に考えず、さらにそれを楽しむ人までもいます。しかし聖書ははっきりと語っています。‘そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。’(ヤコ1:15) この真理は創世記から、人類の始まりの時から、エバの時から証明された事実です。多くの人々は欲望の縄にかかって死に向かわなければなりませんでした。欲望がどれほど恐ろしい存在なのか、人生にどれほど大きい影響を及ぼすのかその深刻さについてみてみましょう。そしてどうすれば欲望から勝ち抜けることができるのか考えてみましょう。
1. 欲望の正体
欲望は最初にはとてもいい物に見えます。
欲望が満たされれば自分の人生のすべてが満たされるような気がします。欲望はいかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなるように唆します。それにあまりにも気を奪われ、他は何も見えず、何も聞こえません。しかし肝に銘じなければならないことは、欲望が現れる最初の姿は真の姿ではないという事実です。欲望は2回の変身を通してこそやっと実体を現し、最初は巧みに自分の姿を隠します。それだから欲望の最初の姿に騙されてはいけません。欲望はゆっくりと正体を現しますが、最初の変身を通しては罪の姿を現します。そしてもう少し時間が過ぎて完全に成長すると本当の姿である死の姿を現します。結局、欲望の実体は死であるということです。‘そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。’(ヤコ1:15) 欲望の真の姿が死であることを知ったら誰も欲望を愛さないでしょう。絶対に心に抱かないことでしょう。決して楽しまないでしょう。
欲望の奴隷になって生きることは、まるで子供たちが爆弾を持って遊ぶことと同様です。それは大人たちの目から見るとどんでもなく危険なことですからいくらその遊びが楽しくても絶対に子供たちにその遊びをさせません。その遊びは命を失うことにつながるためです。
しかし、なぜ子供たちは爆弾遊びをしているのでしょうか?その理由は簡単です。それは持っている物が爆弾であることを知らないからです。爆弾を良い遊び道具だと考えているためです。もしかしたら爆弾は私たちの良い遊び道具かもしれません。最初は楽しみや満足を与えてくれるかもしれません。しかしその中には私たちの命を奪い取るとてつもない爆発力が隠されてある事実は分からないのです。そういう訳で爆弾を奪われると感謝するどころか腹を立てます。ある人たちは欲望がないと生きる楽しみがないと言います。まことに変な趣味を持っている人たちです。
‘わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。’(ヤコ1:16)
多くのクリスチャンたちが欲望に騙されて生きています。‘この欲望さえ満たされれば私の人生が満たされる’と信じています。しかし、それは誘惑にすぎません。欲望は決して命を与えてくれません。欲望は私たちに死を与える張本人にすぎないのです。それは既にアダムとエバが彼らの人生で証明した事実です。なぜエバは神様の御言葉に従わず、善悪の木の実を取って食べたのでしょうか?それは欲望のためでした。悪魔の誘惑に欲望が現れ、その実が美味しそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していると感じられたからです。貪欲は私たちの口と目を買い入れ、心を買い入れてしまいます。貪欲の奴隷になると目が遠くなり、考えることが出来なくなります。すべてが止まってしまいます。結局はとんでもない過ちを犯す恐れのある段階まで至ります。そして、恐れることなく、神様の命令にさえも逆らうことになってしまいます。
信仰とは欲望に勝つことです。
信仰とは欲望に騙されないことです。
世の中の楽しみに従う人は欲望のために神様の御言葉を捨てます。その結果、罪を犯すことになり、結局は死に引っ張られていきます。それが原罪の姿であり、アダムとエバの姿であります。
しかし、信じる人はそれとは違います。神様の御言葉のために自分の欲を思いきって捨てることが出来ます。それでついに罪と死の誘惑を振り切って善と命の道を歩むようになります。神様の御言葉は私たちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに導いて下さいます。
あなたの人生は如何ですか?
欲望のために御言葉を捨てた人生ですか?それとも御言葉のために欲望をあきらめた人生ですか?欲望のために御言葉を捨てた人は命を捨てた人と同様です。あなたの人生の羊飼いは誰ですか?‘主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。’‘欲望は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。’‘インターネット(TV)は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。’
なぜサウルは神様に捨てられたのでしょうか?それは神様の御言葉を捨てたからです。(サム上15:23)
なぜサウルは神様の御言葉を捨てたのでしょうか?いけにえを献げるという些細な言い訳もありましたが、実際の理由は欲望のためでした。(サム上15:19) サウルは御言葉の代わりに自分の欲望を選びました。その理由で彼は神様に捨てられたのです。
神様の御言葉の隣にはいつも欲望がひそんでいます。御言葉を捨てるように誘惑しています。欲望は自分の肉の声であり、御言葉は神様の御声であります。欲望は堕落した肉の要求であり、御言葉は神様の善なる御心です。欲望に陥ってしまうと神様の御声は聞こえないのです。
欲望は死をもたらします。
‘魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。’(一ペト2:11)‘肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。’(ロマ8:13)私たちが命を得たのはひとえに真理の御言葉からです。
2. 神様の本体
欲望は私たちを騙すことが目的です。最初は欲望さえ満たされれば人生のすべてが満たされるかのように誘惑しますが、結局、戻って来るのは罪と死です。欲望に捕えられて生きる人はいつも騙されている人です。自分の欲望に騙されない人生はある程度の成功のレールに立ち上れます。
欲望と正反対な物があります。それは神様の御言葉です。欲望は死をもたらしますが、御言葉は命を与えてくれます。欲望は騙しますが、御言葉が真理です。御言葉は決して人を騙すことはありません。神様は誠に誠実な方であるからです。聖書の中では神様を‘光の御父’という言葉で表現しています。光の前では騙すことや隠れることは出来ません。神様には3つの物がないと言います。その一つ目は偽りであり、二つ目は二重性、三つ目は移り変わりです。(ヤコ1:17-英語聖書)このような神様が与えて下さる御言葉に嘘はありえません。ですから私たちは御言葉を100%信じなければなりません。御言葉を疑わず、欲望を疑わなければなりません。
欲望の目的は私たちを騙すことです。そういう訳で欲望は私たちに罪と死の実だけを与えます。良い贈り物、完全な賜物はみな神様から来るのです。(ヤコ1:17)絶対に欲望から来る物ではありません。欲望から来るのは死だけです。欲望が私たちを誘惑する目的は死をもたらすことです。
欲望に騙されないで神様を信じなければなりません。悪魔は今も御言葉を捨て、欲望に従いなさいと強く誘惑します。欲望に従うことは有益であり、満足できる結果になると言います。神様の御言葉を信じ、従うことは愚かなことであり、意気地がないことであり、損害を被ることであると誘惑します。悪魔はエバに善悪の木の実を食べれば神様のようになると誘惑しました。エバは悪魔の言葉に騙されてしまいました。それが人類の原罪の始まりです。肉的な詐欺よりもっと恐ろしいことは霊的な詐欺です。肉的な詐欺は財産を少ししか失いませんが、霊的な詐欺は命を完全に奪われてしまいます。悪魔は詐欺師であります。私たちを騙して命を奪おうとしています。その誘惑の窓口である欲望に気を捕えてはいけません。
‘むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。’(ヤコ1:14-15)
3. 満足の源
人々はよく満足の源を欲望だと錯覚します。ダビデはバト・シェバが水を浴びている場面を除き見た後性欲に犯され、欲望に従いますが、決して満足することは出来ませんでした。満足どころかその事件のため彼の家には殺人が絶えませんでした。サウルもアカンも分捕りの物を少し隠して自分の物にすると幸せになれると思いましたが、それが捨てられる原因になり、死をもたらす原因になりました。アダムとエバ、アナニアとサフィラは欲望が私たちに幸せをもたらすのではなく、不幸や死をもたらすということをよく証明してくれました。
結論は簡単です。
欲望は死をもたらし、神様は命を与えて下さいます。
食欲は体に死をもたらし、性欲は家庭に死をもたらし、物欲は人生に死をもたらします。しかし、神様の御言葉は私たちに命を与え、良い贈り物、完全な賜物を与えて下さいます。
そうであるとすればこれからあなたは欲望に導かれる人生を送りたいのでしょうか?それとも御言葉に導かれる人生を送りたいのでしょうか?
‘あなたのほかにわたしの幸いはありません。’(詩16:2)
‘どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。’(ルカ12:15)
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4 コメント
이용규목사
2009-11-27 18:38:29
후루고오리상이 감수해 주셨습니다. 감사합니다.
中森千草
2009-11-28 03:04:12
このために生きている人がほとんどだと思う。
欲望の先にあるのが達成感であったり、成功だと考えている人も・・・・・
善悪の紙一重にあって、気を付けなければならないと思いました。
神様のためではなく、自分のために生きようとするから欲がでてしまい、
自分にとって有利なことを考えてしまうのだろう。
自分はそうあってはならない。
御言葉から離れない生活をすること。
心得ていきます。
이 은미
2009-11-28 22:53:37
今回は翻訳をしながら私に残った人生が神様の御言葉に導かれる人生であるように頑張ろうと思いました。私の考え方を変え、希望を与えて下さる神様に感謝致します。
古郡武志
2009-12-02 08:33:47
何故人間は欲望の泥沼に嵌るのであろうか?
それは、忍耐の後に来る甘い実を認識できないのと同じように欲望の後に来る死を認識できないからであろうか?
どうも欲望の恐ろしさとはそんなことでは語り尽くせないものだと思う。
たばこを吸う人はたばこが体に悪いことを知っている。
たばこを吸う人の肺がんの罹患率がたばこを吸わない人より高いことを知っている。
でも吸うのである。
不倫に溺れる人は不倫がばれたらどうなるかを知っているはずだ。
家庭も崩壊し、全てを失う可能性があることをしっている。
でも不倫をするのである。
欲望の後に来る死をたとえ認識していても、そんな認識など欲望の甘美な渦の中にはまり込んでしまえば吹き込んでしまうのである。
この欲望の凄まじい力に対する表現として、陳腐な言葉だが「わかっちゃいるけどやめられない」という言葉がある。
どうしたら「わかっちゃいるけどやめられない」を「わかっているのでやめました」に変えることができるのか?
欲望の甘美な渦を目の前にしてびくともしない「欲望の後に来る死」に対する認識を持つ事ができるのか?
こうすればいいですなどと軽々に答えを言うことができるような問題ではないと思う。
「信仰とは欲望に勝つことです。信仰とは欲望に騙されないことです。」
この言葉はこう理解もできる。
信仰とは見えないものを信じ、見通す力である。
従って、未だ自分の前にはなく、目に見えない「欲望の後に来るべき死」も見通すことができる。だから、欲望というペンで書かれた天国への招待状も一度ページをめぐれば地獄への招待状であることを知っており、欲望の甘美な調べを聞いても心は微動だにしない。
欲望に従って御言葉を捨てることはすなわち神様に捨てられるということである。
神様に捨てられるということは命を失うということである。
肉体の死によっても終わらないはずの命を失う。
これはまさに最後のとどめとしか言いようがない。
この最後のとどめを受けてもなお欲望に走るのか?
欲望に陥りそうになったときに心の中で大声で自分自身に叫んでみることにしよう。
「おまえは死にたいのか!」
欲望の後に来る死の恐ろしさを知る者でありたい。