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중앙영광교회

私は善い業のために存在する。

이용규목사, 2009-10-24 23:25:07

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私たちは神様の独り子であるイエス様によって救われました。
神様は罪人である私たちを神の子にさせて下さり、罪から完全な自由を与えて下さいました。そして神様は私たちを御国の相続者にさせて下さいました。しかし、気になることが一つあります。神様は私たちを救って下さったのになぜすぐに御国にお連れにならないのでしょうか?なぜ私たちを暗闇の世の中にお置きになるのでしょうか?御国の準備がまだ出来ていないからではありません。救われた私たちがこの世で必ず成し遂げなければならないことがあるからです。私たちは‘行った業’があるために救われたのではなく、‘行うべき業’があるために救われました。
私たちが救われたのは私たちの行いのためではありません。私たちはいくら頑張っても自らの力で誰かを救うことが出来ません。私たちが救われたのは神様の恵みによるのです。従って救いは神様の賜物です。(エフェ2:8,9)神様から救われた私たちはすべき業があります。
その業は何でしょうか?

1.        善い業
‘なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神は前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。’(エフェ2:10)
神様が私たちをお造りになった目的や御救いになった目的は‘善い業’を成し遂げさせるためです。生きている間に多くの善い業を行う人生が価値ある人生であり、目的を果たす人生であります。‘善い業’にはまったく興味もなく、‘自分のこと’ばかりを考えるのは結局、空しい人生になりがちです。一生懸命に頑張ったにもかかわらず残ることは何もありません。そうだとすれば善い業とは何でしょうか?
善い業とは他人を助けること、多くの人に仕えることを意味します。それは言いかえれば仕え、奉仕という言葉で表現出来ます。
イエス様の人生は如何だったでしょうか?イエス様の人生は仕え、そのものでした。あなたの人生はイエス様の人生とどれほど似ているのでしょうか?イエス様は自ら御自分の人生をこのようにおっしゃっています。‘人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。’(マタ20:28)どんなに素晴らしくて、力のある人生でしょう。イエス様は言葉だけではなく、十字架において自ら仕える人生を御証明なさいました。イエス様は私たちの人生が仕える人生になることを望んでおられます。従ってイエス様はこのようにおっしゃっています。‘あなたがたの人生の態度は私と同じでなければならない。人の子はメシアとして来たが、仕えられるためではなく仕えるために来た。わたしの命をあげる、仕えのために来た。’(マタ20:28-英語聖書)
私たちの人生はイエス様の人生に似なければなりません。イエス様の人生は仕えの人生でした。適当に仕えるためではなく、私たちの身代金としてご自分の命を与えて下さいました。


2.        部分の仕え
‘わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから…怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。’(ロマ12:5-11)
教会は神様の体であり、私たちはその体に付いている部分なのです。
まず、肉体の部分について考えてみましょう。体にはそれぞれの部分があります。なぜでしょうか?
神様はどうして私たちに眼をお与えになったでしょうか?飾りとしてなのでしょうか?見た目を美しくさせるためでしょうか?そういうわけではありません。神様が私たちに眼をお与えになったのは、眼だけに出来ることがあるからです。眼をお与えになったのは見ることが出来るためです。足には足の働きがあり、手には手の働きがあります。そして心臓には心臓の働きが、肝臓には肝臓の働きがあります。たとえ、体の一つの部分でもその機能を失った時、私たちの体は病んでいると言えます。健康な体ではなくなります。神様が私たちに体の各部分をお与えになったのはそれぞれの働きがあるためです。体にただついている器官は一つもありません。各器官はそれぞれすべき働きがあります。
私たちは霊的な体である教会の各部分です。そのために私たちにも必ずやらなければいけない業があります。ただその業を行わないでいるだけです。教会で働くことのない聖徒は一人もいません。なぜなら私たちは教会の各部分であるからです。
各部分は自分のために働くのではなく、他の部分のために働きます。体のために働きます。すなわち仕えているのです。奉仕が活発に行われている教会が健康な教会です。体に各部分があるのは互いに仕えるためです。私たちの体の各部分が任された働きを一生懸命にこなす時やそれぞれの機能を正常に発揮する時、私たちの体は健康だと言えます。健康な体は各部分のために一生懸命に頑張ります。もし、心臓が疲れ果てたあげく次のように言うとしたらどんなことが起きるでしょうか?‘あまりにも疲れた。これ以上体のために働けない。1年くらいゆったりとくつろごう。私の仕事は肝臓に任せよう。’
心臓はいくら疲れたとしても休むことは出来ません。心臓はその働きのために存在するからです。心臓が心臓の働きをしないのなら存在する必要はなくなります。そして何より重要なのは、心臓の働きが止まってしまうと体全体が死んでしまいます。リック・ウォレン牧師はこのように言います。‘今日、クリスチャンたちが属している自分たちの教会に仕えないため、多くの教会は死んでいく。’私たちは皆、仕え人です。私たちにはそれぞれの役割があります。私たちは神の体である教会の各部分なのです。
これ以上、見物人として留まっていてはいけません。教会にはあまりにも見物人が多いです。神様は私たち一人一人を仕え人として呼んでおられます。私たちに必要な能力も既に与えられました。客席から立ち上がり、主人公の席に戻りなさい。神様は以前からあなたを主人公としてお選びになりました。神様はどんな人であれ、尊く用いて下さいます。健康でない人、結婚に失敗した人、お年寄り、姦淫した人、せっかちな人…このような人でも皆、神様に用いられました。
しかし、神様に用いられない部類の人がいます。それは‘言い訳をする人’です。私たちは言い訳をしなければ用いられます。いつまでも礼拝者の位置に留まらず、奉仕者の位置に進まなければなりません。これこそが教会の部分である私たちの存在の理由です。
私たちは皆、教会の仕え人です。私たちは教会の各部分であるからです。教会の仕事は誰がすればいいでしょうか?私たち一人一人がしなければなりません。私たちは教会の各部分だからです。天国に行くと神様は必ずお聞きになります。‘お前は教会でどんな仕事をしていたのか?’
‘怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。’(ロマ12:11)
神様は小さな子供に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ずその報いを受けるとおっしゃいました。(マタ10:42)神様は良い業を行う人を必ず覚えて下さいます。

3.タラントンのたとえ
 イエス様はタラントンのたとえを通して私たちの仕えについてよくお教えになります。
 ある人が旅行に出かける時、僕たちを呼んでそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。これは私たちの人生を表現します。私たちは神様から全ての物を頂いた人々です。神様かお与えにならない物は何一つありません。デンマークのことわざにこのような言葉があるそうです。‘今のあなたの姿は神様から与えられた賜物であり、今、あなたが行っていることはあなたが神様に 捧げるあなたのプレゼントです。’私たちの姿は神様から頂いたプレゼントです。私たちも神様にプレゼントを差し上げなければなりません。それは神様のために行う私たちの仕えです。
 神様が私たちにお与えになったタラントンは良く使わなければその価値を失います。5タラントンと2タラントンをもらった人はそれをうまく使いました。その結果、それぞれ倍のタラントンを儲ける祝福を受けました。しかし、タラントンを全く使わず、穴を掘って隠しておいた人はどうなったのでしょうか?その僕は持っていた物までも取り上げられてしまいます。神様は与えられたタラントンを使う人を祝福して下さいます。神様から頂いた才能や賜物は使えば使うほど増え続けます。反面、それを使わなければ減り続けます。
 私たちは神様から頂いた賜物を持って神様の仕事をしなければなりません。まじめに働かなければいけません。神様は‘怠け者’に最悪な評価を下します。‘怠け者の悪い僕だ’ (マタ25:26)
 神様から最高に評価される人は最後まで勤勉に働いた人です。その人は忠実な良い僕です。‘忠実な良い僕だ。よくやった。’(マタ25:23)
 神様は私たちに良い業を行わせるために能力をお与えになりました。怠け者は持っている物まで取り上げられます。タラントンを使わないとそれは取り上げられ、能力のある人に与えられます。
  ‘神様が下さった能力を用いなさい…その能力が働くようにしなさい’
仕事をするなら途中でやめてはいけません。責任感を持って最後までやり遂げなければなりません。これこそが忠実な良い僕の姿です。
しかし、最近の教会には次のような姿が多いそうです。
‘多くの人々が適当に奉仕し、何のためらいや良心の呵責を覚えることなく、ほんの小さな理由で彼らの奉仕を惜しげもなく捨てる。従って毎週、教会では奉仕者たちが準備をしなかったり、欠席したり、連絡もなく来なくて慌ただしく代理を探さなければいけなくなったりすることが一度や二度ではない。’(リック・ウォレン)
神様の体である教会に仕えることがどれほど重要なのかが分からないためです。神様は忠実な僕の姿に大いに喜んでおられます。
私たちは教会のそれぞれの部分です。各部分は必ず、すべき業があります。体の器官は死に至るまでそれぞれの役割を使命として受け入れ、頑張ります。
奉仕には引退がありません。肝臓が疲れたとしても休むことは出来ません。
それぞれの部分の引退というのは言いかえれば死刑宣告に値します。
‘忠実な良い僕だ。よくやった。’この褒め言葉があなたにおいての褒め言葉になりますように祝福します。

4 コメント

이용규목사

2009-10-24 23:25:55

이은미님이 번역해 주셨습니다.
귀한 번역 감사합니다.

田辺高幸

2009-10-25 00:23:18

僕たちは神様の独り子である主の十字架刑に寄より、原罪を赦され救われました。しかしまだ浮き世に暮らしています。すぐに天国という訳ではありません。その理由はなんだろうかと考えると、神様は僕らに、成し遂げてほしいことがあるからこそ、この世に残しています。それは非常に守らなければならないことです。相手は神様です。万物創造の主ですから、そんな方がそんな使命を下さったのですから、非常に光栄なことです。だけど、それを忘れて自分のことだけ考えている自分がいます。非常に反省しなくてはなりません。

神様が望む使命とは、他人を助け、他人のために尽くして、そして仕えることです。それは4つの福音書で、主はそのお手本を見せています。神様は、僕らにそうなるようにと主を送られたのです。それを一つ一つ小さくてもいいから行っていかなければ行けないと思います。これが神様の求める僕らにしてほしい善い業なのです。

教会とは単なる建物ではありません。キリストという一つの体のことです。体にはそれぞれの役割があります。これが働くことで体は正常に働きます。だから、やれることで奉仕をしないといけないと思います。しかし、勘違いでするのはしてはならないことです。心臓は心臓の役割しか果たせません。これが他の働きをしようとしても当然無理が出てきます。自分のふさわしい能力で働くことが大切だと思います。それで、僕は朝の賛美チームを辞めて、日本語版のホームページを作っていることもありマルチメディアチームに入ることにしました。絵を描いたり、写真を撮ったり、ホームページを作ったりは、僕にとって普段行っていることであり、それは才能あるかないかは別として、一つの賜物だと思うから、そうすることにしました。これでお役に立てたら、適切な判断をしたと神様もお喜びになられると思っています。

朝の賛美チームを辞めたことは悪いことなのでしょう。しかし、自分を活かすにはそれしか考えられませんでした。僕は音楽を聴くのは好きだけど、音楽の専門家でもありません。だから正直言って練習不足で満足に賛美を唄うことは出来ませんでした。あのまま続けていたら、教会そのものに来なくなる可能性もありました。その点、ホームページは下手かもしれませんが、それでお金を稼いで暮らしています。本当のところ、最初はホームページは嫌いでしたけど、世の中を渡り歩くことにより、ホームページ関連の仕事をするようになっていました。それは神様のお導きだったと思っています。だから、その流れに従って奉仕を変えることにしました。日本人の宗教法人のアレルギーは凄いものがあります。そのなかで、人を導こうとホームページを作るのですから大変な作業になるでしょう。だけど神様が僕にホームページを作る仕事をさせてくれたのだから、これで神様に奉仕したいと思いましたので、ただ頑張る、それだけです。

ただ言えるのは自分は今、一番好きな奉仕を頂いたということです。好きなことは自然と行っていますし、辞めることはないし、喜びがあります。僕にこんなプレゼントをしてくださった神様に対してお礼申し上げます。感謝を持ってさせて頂きます。

中森千草

2009-10-26 03:46:45

神様からのメッセージを聞いたとき、心が痛かった。
それは、弱くなってしまった体を理由に奉仕していなかったからです。
神様の子どもとして、また、果たすべきことのために、
環境を変える決心をしました。
まずは、体の回復に努めます。



古郡武志

2009-11-25 08:46:27

今ささやかながら日本語賛美チームと通・翻訳チームで奉仕をしている。

主日礼拝のときにわたしたちの歌声を聴いて微笑んでくれる人の表情を見るとき…
あるいは私が翻訳した文章が教会のホームページに掲載され、誰かから「良かった」と言われるときは、とても嬉しいのである。
この「嬉しい」という気持ちはどう考えればいいのか?

たしかに主日の日本語賛美も翻訳を聴衆なり読み手がいて、比較的人の反応を感じやすい種類の奉仕であるのだが、どちらかというと目立つ方の奉仕である。
本当は、目立つものであろうと目立たないものであろうと、ともに教会という体の大切な部分である奉仕の重要性に相違はないはずである。
このことがわからないと自分自身がちゃんとした奉仕はできないのではないか?
人からほめられて感じる喜びは一歩間違うと「傲慢」に変化してしまう恐れがあるのだと思う。自分がほめられたいためにやっているのか?そしてついつい自分のやっている奉仕が特別なものとも思ってしまうのではないか?
どの奉仕にも特別なものなんてない。
神様の喜びを考えて黙々とやるべきものなのだと思う。

この前の主日に教会でトイレを利用した。
いつもと変わらずきれいに清掃され快適なトイレである。
便器に汚れなどは少しもこびりついていない。
これは当たり前なのか?いやそうではない。
ちょっと掃除をさぼれば、トイレなどあっという間に汚れてしまうのだ。
誰かが一生懸命ブラシとぞうきんを用いて身をかがめて拭き清めてくれているのだ。
もしかしたら、その人は少し腰が痛いのを無理して掃除をしてくれているのかもしれない。
そういえば、心地よい香りが漂っているのも、誰かが芳香剤を欠かさないように買ってきてくれているのだろうか?
あ、トイレで見かける御言葉のプレートは誰が作ってくれたのだろうか?すごくセンスがいいデザインなので、目を止め御言葉を意識させてくれる。
何気なく利用したトイレ一つをとっても、そこには私たちが思いも至らず、感謝の言葉さえかけたことのない幾多の奉仕が詰まっているのである。
目に見えない奉仕に思いを寄せ、感謝ができるようにならない限り、自分の奉仕も成長しないのではないかと思う。
誰かが一生懸命拭き清め、きれいに輝いている白い便器の表面。
便器といっても、そこには高貴な奉仕というダイヤモンド級の輝きがある。
「名前も知らず恥ずかしいですが、いつもトイレを掃除して下さっている方本当にありがとうございます。私もあなたを見習って部分の働きをちゃんとできるように頑張りたいと思います。」

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