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중앙영광교회

私は使命を帯びた人である

이용규목사, 2009-10-31 22:13:10

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私たちはミッション(使命)を帯びた人たちです。
神様は私たちに命を救うようにミッションを与えて下さいました。使命を帯びた人はその使命を全うするのが任務であり、存在の理由でもあります。私たちに与えられたミッションを成し遂げる時、神様の栄光となり、また喜びとなります。職務放棄や職務離脱する人は決して神様の喜びにはなれません。
今日は神様を喜ばせることの中で感謝と伝道について分かち合ってみましょう。

1.        真の感謝
教会では毎年、神様に収穫感謝祭の礼拝を捧げます。
 収穫感謝祭は教会の行事の中でもっとも豊かであり、大切な行事の一つです。
それは1年間の感謝をもって神様に捧げる礼拝であるためです。
 神様の子供である私たちが神様に差し上げる一番のプレゼントは感謝です。
私たちは神様からさまざまな恩恵を被った人です。‘ささぐるものすべては きみが手よりいでたり ささげまつらん ゆだねまつらん いまわが身をながてに’(賛美歌356) 神様は私たちをこの世に送って下さり、この世での必要な物をすべてお与えになり、また私たちに天国の相続権を与えて下さいました。‘すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。’(ロマ11:36) これより大いなる恵みがあるのでしょうか?私たちは神様の恵みによって造られ、生かされ、また天国に行きます。神様の恵みを除いて私たちの人生を説明することは出来ません。
そうであるなら恩恵を被った人はどんな人生を生きるべきでしょうか?
感謝する人生を生きなければなりません。‘どんなことにも感謝しなさい。’(一テサ5:18) 人生そのものが恵みなのですべてのことに感謝するのは当然なことです。
視野の広い人は常に感謝しますが、目の前の人生しか考えない人は感謝どころか不満ばかりをこぼします。
神様は私たちを通して真の感謝、中身のある感謝をお受けになることを望んでおられます。真の感謝とはどんな感謝でしょうか?感謝にも真の感謝があり、空っぽの感謝があります。
一つ目は‘心からの感謝です。’心のこもった感謝が真の感謝であります。心がこもっていない感謝の祈り、感謝の賛美、感謝の捧げ物、感謝の礼拝とは形式はありますが、内容はないのです。そうであるため中身のない感謝です。空っぽの感謝なのです。もし、あなたが中身の入っていないプレゼントをもらったとしたらどんな気分でしょう。祈り、賛美、捧げ物、礼拝は器にすぎません。私たちはその器に必ず心をこめなければなりません。心が中身なのです。器だけを差し上げる失敗を犯してはなりません。神様は外見(器)をご覧になるのではなく、心(中身)をご覧になる方であることを忘れてはいけません。礼拝は見世物ではありません。感謝も見世物ではありません。感謝は神様に私たちの心を差し上げることです。
ルカ17章に10人の重い皮膚病を患っている人の話があります。彼らはイエス様の御言葉に従って祭司に体を見せに行く途中で清くされます。従う者には必ず奇跡が起きます。その時、他の人は戻ってこなかったのですが、サマリア人(外国人)一人だけがイエス様のところに戻って来ました。なぜでしょうか?イエス様の恵みに感謝を捧げるためでした。彼は戻って来てイエス様の足もとにひれ伏して感謝したと書かれてあります。彼はただ戻って来て自分の心から湧き出る感謝をイエス様に告白しただけです。イエス様は彼の感謝する心を大いに喜ばれました。イエス様はこのような感謝こそ神様を賛美する行為であり、信仰の表現だとおっしゃいました。どうすれば神様に栄光を捧げることが出来るでしょうか?栄光は感謝をもって捧げることが出来ます。感謝が満ちあふれる教会が栄光に満ちた教会であります。どうすれば私たちの信仰を表現出来るでしょうか?神様に心のこもった感謝を捧げれば良いのです。感謝が満ちあふれる教会が信仰の良い教会であります。感謝する人にイエス様はこのようにはっきりとおっしゃることでしょう。‘あなたの信仰があなたを救った。’(ルカ17:19) いやいやながらする感謝や強いてする感謝は心がこもっていない空っぽの感謝であり、喜んで準備する感謝は心に満ちた感謝であります。
神様に感謝する時は常に自分の心を省みなくてはなりません。心のこもった感謝の祈り、感謝の捧げ物、感謝の礼拝、これこそが真の中身のある感謝なのです。
二つ目は‘荒れ野での感謝’です。
人々は何の問題もない時は信仰がなくても感謝することが出来ますが、厳しい状況に陥った時は信仰がなければ絶対に感謝することが出来ません。荒れ野でのイスラエルの民を覚えなさい。彼らが乳と蜜の流れる土地に入れなかったのは武器がなかったからでも、食べ物がなかったからでもありません。感謝することが出来なかったからです。彼らは荒れ野で神様に不満をこぼし、不平を述べ立てました。彼らは神様を信じるのではなく、自分たちの環境を信じたのです。荒れ野での感謝は信仰の現れであり、不平は不信仰の現れです。神様は彼らに完全な計画をお持ちになり、エジプトから救い出し、荒れ野を通してカナンに導いておられましたが、彼らはほんの少しの苦しみに耐えられず、神様に不平を述べ立てたのでした。不平は不信の化身であり、感謝は信仰の化身であります。
環境が良い時の感謝は誰にでも出来ます。しかし、厳しい環境の中での感謝は誰にでも出来ることではありません。厳しい環境での感謝はひとえに信仰のある人に出来ます。このような感謝は環境から来るものではなく、神様から来るものだからです。今、あなたは荒れ野の道を歩いていますか?そうであるなら今こそが感謝することが出来る絶好のチャンスです。あなたの信仰を感謝する心で表現できる祝福された機会です。荒れ野にいる人にならないで神様の僕になりなさい。不平の奴隷にならないで感謝の主人になりなさい。神様は私たちが感謝するのを待っておられます。‘荒れ野での感謝’はもっとも中身のある感謝です。

2.        私に与えられたミッション
神様は救われた聖徒たちが捧げる感謝を大いに喜ばれます。
ところでこれに劣ることなく、神様を喜ばせることがもう一つあります。
それは他でもなく、見失われた子供たちが戻って来ることです。
‘言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。’(ルカ15:7)
リック・ウォレン牧師のお父さんも牧師でいらっしゃいました。彼は田舎にある教会の牧師として海外に150余りの教会を建てました。彼は死ぬ直前、リク・ウォレン牧師に‘イエス様のために一人でも多くの魂を救いなさい。’と遺言を残しました。彼は100回もこの言葉を言いながら息子の頭に手を置いて祈り、天国に行きました。リック・ウォレン牧師はお父さんの遺言に感動を受け、魂を救うことを自分の人生の目標にしているそうです。そういうリック・ウォレン牧師は神様によって世界的に用いられています。神様はご自分の喜びになろうとしている人を必ず用いて下さいます。
神様の最大な関心事は何でしょうか?
それはご自分の手によって造られた人たちが戻って来ることです。神様は見失った子供たちを今も切に探し回っておられます。‘あなたかたの中に、百匹の羊をもっている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。’(ルカ15:4)
十字架がこれを証明しています。
神様が十字架をお立てになったのは見失った子供たちを救うためでした。十字架は救いの灯台です。神様は見失った子供たちを探すためご自分のすべてをお出しになりました。一人子であるイエス様までを私たちのところにお送りになりました。その現場がまさしく十字架であります。神様はあらゆる犠牲をお払いになりました。なぜでしょうか?それほど見失った子供たちを探すことが重要であるためです。ある牧師先生の証です。その牧師先生が教会の皆とお出かけになった時、一人の娘を見失ってしまいました。日が暮れるまで一生懸命に探し回りましたが、娘を見つけることが出来ませんでした。その時、誰かが言い出しました。‘牧師先生、あなたの傍にはまだ二人の娘さんがいるじゃないですか。二人の娘で満足なさって見失った娘はお忘れになって下さい。もう深夜になったのでお戻りになりましょう。’その時、このように応える父親がいるのでしょうか?‘あなたの言葉通りです。私にはまだ二人の娘がいるのです。そうしましょう。見失った娘はこの時点できれいに忘れることにします。さあ、食事でもしに行きましょう。’皆さん、このようなことが可能でしょうか?絶対にありえません。他の人々はみんな戻っても父親は娘を見つけ出すまで探すでしょう。これがほかならない父親の心であり、神様の御心であります。神様は今も見失った子供たちを探し回っておられます。いくら夜が更けても十字架のともし火をお持ちになり、隅々まで探し回っておられます。‘いざかえれや いそぎかえれや つみとがいかにおもくとも 主はわがおも荷を 置いたまえり 夜ごとに戸を開け こころいため まよえるわが子を ばねむらずに待ちぬ’(賛美歌317)
神様は私たちがそのことの手足になることを望んでおられます。
イエス様は働かれた3年間の間で3回もこのことについておっしゃっています。最初は12弟子たちを訓練させ直接、派遣されました。(マタ10:5) 弟子たちは世に遣わされるため、造られるのです。2回目は十字架にかけられる前、神様に最後の祈りを捧げる時に語られました。(ヨハ17:18) 3回目は復活なさったイエス様が弟子たちに重ねて言われた御言葉の中にあります。(ヨハ20:21) イエス様は私たちを続けて世に遣わすとおっしゃっています。なぜでしょうか?その目的はどこにあるのでしょうか?神様がイエス様をこの世にお遣わしになった目的は私たちがこの世に遣わされた目的と同じであるようです。‘父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。’(ヨハ20:21) その目的は当然、魂の救いです。福音を述べ伝えることです。伝道することです。
ここでの遣わしとはミッションという言葉と同義語です。私たちは遣わされた人です。私たちはミッションを頂いた人です。ミッションを頂いた人をMISSIONARY(宣教師)と言います。私たちはみな宣教師です。宣教地は自分に与えられた生活の場です。見失った子供が戻って来ることを待ち望む父の心になって私たちは与えられたミッションを成し遂げなければなりません。それこそが神様から与えられたミッションであるためです。
認めようが認めまいがあなたが宣教師であることは変わらぬ事実です。あなたは神様から使命を頂いたからです。今まであなたのお陰で天国に行けるようになった人は何人くらいでしょうか?あなたのお陰で天国に行ける人が多くなることを祝福します。ミッション(使命)を忘れないように祝福します。

4 コメント

이용규목사

2009-10-31 22:14:04

이은미 자매님이 번역해 주셨습니다.
귀한 섬김에 감사합니다.

田辺高幸

2009-11-01 03:01:45

正直言うと、むかついたことがあったりする。しかし、暫く立つと、そのことによっていい方向に向かって行くことがある。そんな時、非常に感謝するのだ。これは、実は神様が僕を正しい方向に進ませるために、そういうことを起こさせて成長させてくださった、と思う。
感謝は大切だ。それを持てば不満はなくなり穏やかになれる。そんな風に生きられるから、やはりいつも心に置いておかなければいけないと思う。
神様は、感謝をすることを喜ばれ、それをプレゼントのように思ってくださるという。だけど、実はそれは、神様から頂いた僕へのプレゼントなのだと思う。感謝することで幸せになれるのだから、そう思う。そのプレゼントに対して僕は本当に感謝したい。
最後に、わざわざ日本人のために翻訳をしてくださったイ・ウンミ姉妹に感謝します。これからもよろしくお願いします。素晴らしい訳をありがとうございます。

中森千草

2009-11-01 03:55:43

使役訓練の時に、伝道を仕事にしたいと強く思いました。
訓練が終わり半年たった今、夢が現実となりました。
頂いた会社の名前で伝道できます。
神様を伝えるにあたって基本である、十字架・愛をモチーフとした
商品制作に入りました。
作品を売ることは大事ですが、何より神様を伝えることのほうが
私には大事であり、クリスチャンとして生きたいというのが私の望みです。
この作業を始めるにあたって、神様は知恵を与えてくださいました。
うれしいです。幸せです。
このような環境を与えてくださったこと、そして、協力してくれる人々との出会いに、
深く感謝します。

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。 ルカ19:10


古郡武志

2009-11-26 17:19:22

ミッション(使命)という言葉は意外にも日本人がよく使っている言葉である。

ミッション系大学とかミッションスクールとかいうのであるが、要はキリスト教系の学校のことをさすのである。明治維新直後の欧米諸教会の伝道局(ミッションボード)がキリスト教の感化を目的に設立したことから発生した呼称「ミッションスクール」「ミッション系」が現在でも残存しており、キリスト教系の学校のことを「ミッションスクール」とか「ミッション系」と称するのが一般的である。

私自身はこのような学校に通ったことは一度もないのであるが、いわゆる「ミッション系大学」に通っていた先輩の母校校内にある教会で開かれた結婚式に参席したときに大学構内に教会(よく「チャペル」という)があることを知ったし、また、同じく「ミッション系大学」に通っていた先輩は大学で聖書の授業があったと言っていた。

大学構内に礼拝所があることも聖書を学ぶ時間があることもそれはそれで貴重なことなのかもしれない。しかし、振り返って見ると、学校校内にある教会で礼拝を捧げて感動した
という話や聖書の授業で御言葉のすばらしさを知って信仰するようになったという話はついぞ聞いたことはなかった。

礼拝施設や授業というのはおそらく器・形に過ぎないのであるし、「ミッションスクール」
というのもイメージがいい学校という文脈で語られている。もともとミッションという言葉が何を意味しているかも知っている人もそう多くはあまりいない。

建物や授業で伝道ができるわけでもあるまい。
ミッションスクールが伝道の目的のための学校であったとすれば、私にとってそれは何だったのだろうか。
建物でも授業でもあるまい。
これまで出会ってきたクリスチャンの姿がミッションスクールなのであろう。
真摯に祈りながら、まわりの人との関係を大切に一生懸命に努力する。
いろいろな苦難に対しても堂々と対応する。
こんな人たちの姿は美しい。
「信仰は弱い人がすることだ」という話を聞いたことがあるが、本当に強い人たちではないかと思った。
そんな人たちに出会っているうちにいつの間にか教会に通うようになっていた。
私はまだまだ自分が出会ってきた人たちの姿とはほど遠いが、建物や授業でも果たすことのできない「ミッション」を自分の姿を通して遂行できるようになりたいと思う。

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