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중앙영광교회

信仰を完全にするには

이용규목사, 2009-11-07 22:10:03

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クリスチャンにとって信仰ほど重要なものはありません。
信仰がなければ神様を喜ばせることはできません。(ヘブライ人への手紙11:6)信仰も成長します。初歩的な信仰から大人の信仰に成長します。わたしたちは初歩的な救いの信仰の段階から成熟した能力の信仰に育つことを願わなければならないのです。それこそ子供の信仰から大人の信仰に進むことです。「これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」(テモテへの手紙一4:15)
それならば信仰を完全にするにはどのようにすればよいのでしょうか?アブラハムはどのようにして信仰の完成を果たしたのでしょうか?

1.        行いは信仰の魂である
アブラハムは信仰の代名詞です。彼は信仰の父という称号をもっていて、神の友とさえ呼ばれました。彼は神様の驚くべき喜びでした。何故なのでしょうか?彼の信仰が完成されたものだったからです。彼の信仰がどのようにして完全になったのでしょうか?「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」(ヤコブの手紙2:22)異なる方法があるわけではありません。信仰は行いによって完全になります。信仰は行いによって成長します。信仰は行いによって完成されます。
神様がアブラハムにイサクを捧げものとするように言われたとき、アブラハムが神様にどのように答えれば、彼の信仰が完成品となり得たのでしょうか?「神様、今更何をそんなことをしろとおっしゃるのですか?神様は私がしなくとも神様を崇める私の心をご存じではないですか?」このような答えではアブラハムの信仰は完成品にはなり得なかったでしょう。彼がイサクを捧げものとする信仰の行動をとらなかったなら、彼は決して神の友にも信仰の父にもなり得なかったでしょう。信仰は行動によって表現され、信仰は行動によって成長します。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。」(ヤコブの手紙2:21)
復活されたイエス様が一番弟子のペトロの前に現れ、3回も「お前はわたしを愛しているか」と尋ねられ、本当に主を愛しているなら「私の羊を飼いなさい」とおっしゃられました。本当に愛しているのなら、それに見合う行動がなければならないということなのです。行いのない信仰、行いのない愛は不渡り手形に過ぎません。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネの手紙一3:18)
サタンも神様をよく知っています。ともすれば人間よりも神様をよく知っています。イエス様が通り過ぎるとき、そこに住む人々よりもサタンが先にイエス様をよく見ていたのではないでしょうか?サタンも神様を信じて恐れるといいます。(ヤコブの手紙2:19)サタンの信仰は偽りの信仰です。サタンの信仰においては神様をよく知ってはいますが、行いのない信仰です。行いのない信仰は何の役にも立ちません。「知る」信仰から「行う」信仰に成長しなければなりません。頭の信仰から手の信仰に変わらなければなりません。これが本当の信仰の成長なのです。
「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」(ヤコブの手紙2:26)
行いは信仰において本当に重要なものです。行いはまさに信仰の魂です。体を備えた信仰ではなく、本当の魂が込められた信仰が生きている信仰です。信仰が生きて働くためには行いという魂を失わないようにしなければなりません。
「行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコブの手紙1:25)
御言葉通りに行う人は福を受けます。御言葉通りに行う人は幸せになります。御言葉通りに行う人は完全になります。神様は「行い」という箱にものすごい贈り物を入れて下さいました。行いの宝箱を行いで開く人にのみこの贈り物は与えられるのです。(マタイによる
福音書7:24)
行う人には福が訪れますが、行わない人には絵に描いた餅に過ぎません。あるにはあるようでも、決して自身を満たすことはないのです。恵みに飢えている人は、行わないからなのです。行わない人には恵みが絵に描いた餅なのですが、行う人には恵みが実際の餅なの
です。御言葉の見物人になるのではなく、御言葉の選手になり現場で熱心に走らなければなりません。そうしてこそゴールを入れることができるのです。見物人がゴールを入れる方法など決してないという事実を覚えておかねばならないのです。

2.        神様の祈りの応え
ソロモンは心を尽してエルサレムの聖殿を建築しました。7年ぶりに聖殿を完成したソロモンは、天に向かい、手をあげ、神様に奉献の祈りを捧げました。「そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(列王記上8:29-30)
神様はソロモンのこの祈りに応えるためにギブオンに続いて、2回目でソロモンに姿を現わされました。神様はこのように応えられました。
「もしあなたが、父ダビデが歩んだように、無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法を守るなら、あなたの父ダビデに、『イスラエルの王座につく者が断たれることはない』と約束したとおり、わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる。もしあなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ去り、わたしが授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、わたしは与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。」(列王記上9:4-7)
神様の祈りの応えは簡単なものでした。御言葉通りに行えば福を受け、行わなければ呪ういが臨むということなのです。祈りをどれだけよくするかよりもどんな人生を送っているかが祈りの応えの秘訣なのです。正しい人生がまさに祈りの応えの道なのです。
こんな言葉があります。「韓国の教会に危機が来ました。教会がないとか教会に通う人が少ないとかいうのではなく、神様の御言葉に従う人がいないからなのです。」行いがないことについて警鐘を鳴らしています。いったい私たちはこの警告に無関心でいられるでしょうか?信仰の体はあるのに信仰の魂がない時代、信仰の姿があるのに信仰の力を喪失した時代、教会が世の中の光とならなければならないのにそうなることができない時代に生きているのではないでしょうか?
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書5:16)
信仰の魂に再び行いの火をともさなければいけない時なのです。

3.        5つの質問に対する答え
私たちは創造主ではなく、被造物です。神様によって作られた存在です。私たちがどんなものを作ってもその目的があるように、神様が私たちを作られたのには、必ず神様の目的があります。人生の目的は、神様のその目的に従って生きることです。自身の目的ではなく、神様が与えられた目的に従って生きる人生が浪費しない人生です。聖書はその目的についてきちんと語ってくれています。私たちはその目的を悟るために40日を駆け抜けて来ました。私たちは5つの目的を知りました。この40日間が目的を知ることで終わったのなら、これほど空しいことはないでしょう。私たちは目的を知るためではなく、目的通りに生きるために駆け抜けてきたのです。もうその人生を生きなければいけない時なのです。
神様が与えられた目的通りに生きるために5つの目的の質問を毎日毎瞬間することは目的を失わないようにするのに役に立つものと信じます。
1)        どうすれば神様の喜ぶになることができるか?礼拝
2)        どうすればお互いに仲良く過ごすことができるか?交わり
3)        イエス様であれば、どうされただろうか?成長
4)        主の体である教会において肢体としてどんな役割を果たすことができるだろうか?奉仕
5)        誰にどのようにイエス様について話してあげられるだろうか?伝道
目的が導く人生は、この5つの質問に対して毎日答えを書いて行く人生です。知ることが重要なのではなく、そのように生きることが重要なのです。神様は5つの目的について偉大な献身をあなたに期待しています。
あなたの人生の目的は何ですか?以下の目的宣言文を心を込めて読み上げてみましょう。「私の人生の目的は偉大な掟(マタイによる福音書22:37-40)と偉大な命令(マタイによる福音書28:19-20)に対する偉大な献身を通して偉大なクリスチャンになることである。」
ダビデが偉大な人物になったのは、彼が神様の目的のために人生を歩んだからです。(David served God’s purpose in his generation 使徒言行録13:36)
神様は5つの目的を学んでみなさいと言われるのではなく、そのとおりに生きているのかをお尋ねになられます。
行いのない信仰は死んだ信仰です。
目的が導く人生は神様の目的に従順する人生であり、御言葉通りに行う人生です。あなたは本当に目的が導く人生を今歩んでいますか?
ダビデが行ったように心を尽して行っていますか?
行いは信仰の魂です。生きている信仰は行いを通してのみ証明されます。
行いを積めば積むほど信仰は完全になります。信仰は行いを通して成長します。

4 コメント

이용규목사

2009-11-07 22:11:10

후루고오리상이 번역해 주셨습니다.
늘 책임감을 가지고 챙겨 주셔서 감사합니다.

田辺高幸

2009-11-08 07:08:12

神様は目に見えません。だから信じるしかその存在を知ることは出来ません。目に見える物は、ただ単に物質的にあるから、見えるのです。しかし、これは信じるには繫がりません。目にあるから、事実だという風に思うだけです。信仰とは、そういうことだと思います。目に見えない存在だからこそ、信じてその存在を知ることだと思います。
今は物質社会です。世の中には物がたくさんあって、それを基準に生きている。それが全てだと思ってしまいます。だから多くの人は神様を知ることができません。
聖書の原文には、神様という単語には風という意味が含まれているそうです。風は見えません。しかし人は風を知っています。ならば多くの人は、それが分かるのだから、同じように神様を知ることはできると思います(だから、聖書には神様は、自分のことを「いる」と言わないで「ある」と言っています。風はいるとは言いません。風はあるからです。そのことでも、神様は目に見えないということが分かります)。それには、信じることで知っている者が動くしかありません。
それにはいろんな方法があります。人はそれぞれタイプが異なるから、方法論も異なるのは当たり前です。それを頭に入れて、神様を知ってもらうように動きたいと思います。自分には、ある奉仕でそれを出来ることが出来ます。正直、日本の宗教に対する警戒心は凄いですが、そんな山を動かしたいと思います。聖書の言葉に書いてあるとおり、それをしたいから、頑張ろうと思います、

中森千草

2009-11-08 07:23:18

この先は何も分かりませんが、確信があります。
私がいま歩き始めた道は、人々の目からは無謀かもしれない。
しかし、不安な心とか心配事がありません。
神様を信じているから。
そして、神様のために生きることが本当の幸せだってことを
知っているからです。
神様は、私が行動するのを心待ちにされていたと思います。
その時がきました。


古郡武志

2009-11-28 08:36:26

行いは信仰の魂である

「行い」の重要性を聞きながら、ある言葉を思い起こす。
それは「社内評論家」という言葉である。
この言葉で呼ばれる人はめっぽう評判が悪い
「あの人いつも口ではえらそうなことを言うんだけど…」
「いつも人の批判・悪口ばかり言ってるけど…」
…に来る言葉とは何かと言うと「自分では何もしない」である。
口ばかり動いて手足がまったく動いてない人のことである。
はっきり言ってこんな人と一緒に仕事はしたくない。
テンションが下がる一方である。
人の批判・悪口ばかり言っている人間…「別にそんなに不満がある組織にしがみつかないで結構ですから、とっとと他に移ったらどうですか?」と言いたくなる。

しかし、「社内評論家」と呼ばれる人が増えるのにも理由があるのではないか?
「硬直した権威主義的な組織で若手の意見など聞いてもらえもしない。言っても無駄だ」
「みんな自分の属している部署の利益にしか目が向いていないので、誰も俺についてくるはずもない」
実行力のない「社内評論家」本人の責任に帰する向きもあろうが、必ずしもそれだけとはいえない。
若手のいうことなど何にも聞いてもらえないというあきらめ、そして様々なしがらみの中で所詮自分では何もできないという非力感・絶望感、そんなものを感じさせる組織の構造そのものの中に「社内評論家」を生み出す原因を見出すこともできるのだ。

さて、ここで信仰の世界と「社内評論家」というテーマで考えてみたい。
自分の言うことなど何も聞いてもらえないとあきらめる必要はあるか?
そんな必要はない。
神様は、心を込めて祈れば、私たちの祈りを必ずお聞き届け下さる。
ワンマン社長に無視されたり、異論を握りつぶされる可能性を心配する必要もない。
自分では何もできないという非力感・絶望感を感じる必要があるのか?
信仰によって全能の神を味方につけているので、非力感・絶望感などありえるはずがない。本来あふれでて来るのはできないことはないという自信のはずである。
「社内評論家」を生みだす組織論的な原因は信仰の世界には皆無である。
たしかに声を聞き届けて下さる方がいる。そして私たちはしがらみに負ける非力な存在ではなく、本当に強くてたくましいはずである。
素晴らしい環境にいることを忘れてしまうから評論家が増えてしまうのだ。

信仰の評論家ではなく、信仰の選手であらねばならないと思う。

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