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중앙영광교회

私は神の家族だ

이용규목사, 2009-10-10 17:20:50

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私は神の家族だ

私たちは人生の目的を知らなければなりません。
それでこそ目的に導かれて生きることが出来るからです。人生の目的を知るために「私は誰なのか?」を知ることが重要です。今自分に真摯に質問してみましょう。「私は果たして誰なのか?」世が与える答え、自分の考えが出す答えは、正解のようだが実際は誤答です。神様が聖書を通して知らせてくれる答えが正解です。これを信じることが信仰であり、このとおりに生きることが信仰の力です。それならば聖書では私たちを誰だといっているのでしょうか?

1.驚くべき特権
「御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。」(ヨハネの手紙1,3:1)
神様はあなたが誰であるかをはっきりとおっしゃっています。
「私は神の子どもだ。」「私は神の家族だ。」
人々はこの聖書の真理を信じようとはしません。世の中での自分の姿を見ると資格がないからであり、また全然そのように見えないからです。肝に銘じて下さい。子どもは、なりたいからなるというものではありません。資格があってなるものでもありません。実力や努力でなるものでもありません。子どもになることは、自分と関係無く、与えられたものなのです。私たちが神様の子どもになったという驚くべき祝福は、私たちが優れていて子どもになったということではなく、ただ神様の恵みによって子どもになったということなのです。だから、自分が神様の子どもになった理由を自分に求める者は結局神様の子どもであることを否認するようになります。自分自身に答えがあるのでなく、すべて神様にあるからです。
だから神様ははっきりといわれました。「御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。」(ヨハネの手紙1,3:1)私たちはすべて神の愛によって「神の子」になるのです。もう一度尋ねます。あなたはどのようにして神の子になったのでしょうか?「私は、自分に関係なく、神の恵みによって神の子になりました。」これだけが正解です。自分に焦点を合わせてはいけません。自分の都合に合わせてはいけません。これではうそつきの自分の姿を見せられるだけです。自分をきちんと見出すことは出来ません。自分に焦点を合わせれば、神様が下さった本当の姿がぼやけてしまいます。だから自分が取るに足らない者であると感じ、しきりに弱っていくように感じるのです。神様の愛に焦点を合わせれば「神の子」としての本当の姿が鮮明に現われるようになります。
「世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」(ヨハネの手紙1,3:1)私たちは神様の中でのみ正しく評価されます。世の評価を信じてはいけません。彼らは神様を知らないからです。神様を知らない世はどうして私たちを正しく評価できましょう?私たちの本当の姿は神様の中にだけあります。世の中のみじめな人生を生きるのでなく、ただ神の評価を信じ堂々と生きていかなければなりません。これが信仰の人の姿です。「私は神の家族だ」
私たちは神の愛によってまさに神の家族になったのです。
イエス様が十字架を背負われたのは、私たちを神様の子どもにするためでした。(エフェソの信徒への手紙1:5)だから、受け入れるものには、皆、神様の子どもの権威が与えられます。(ヨハネによる福音書1:12)これはどんなに驚くべき特権でしょうか。おそらく人が享受することができる特権の中で神様の子どもになる特権よりも大きい特権はないでしょう。しかし、多くの人はこの特権を享受できないでいます。自ら進んで無視します。彼らの生き方を見ると「私は神の家族だ」ということを強く否定して生きています。だから彼らの生き方は神の子としての堂々さや、自信感を見出すことができず、世の片隅でへこみ、ため息をつきながら生きています。神様が自分の家族がこのような姿で生きているのをご覧になったら、どんなに心を痛めることでしょう。
猟犬はトラを怖がらないといいます。その理由は簡単です。自分は猟師の犬だからです。どんなに怖いトラでも自分の主人が鉄砲一発を撃てば死んでしまうからです。猟犬にとっては自分が猟師の犬であることが大きな誇りであり、力であることでしょう。だから、猟犬はいつでもトラの前でも堂々としています。猟犬が怖がらないのは、自分の実力のためではなく、主人の犬という身分のためなのです。「うわあ、私たちの主人の犬であるということは本当にすごいことなんだ、トラさえも捕まえることが出来るんだ。」
身分について悟ることには大いなる力があります。信仰は身分を悟ることから始まります。神様の子どもの身分は大いなるものです。世に勝利する力があります。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。」(ヨハネの手紙1,5:4)自分が神様の子どもであることを信じましょう。そして、その信仰によって猟犬のように世に向って走って行きましょう。そうすれば確かにトラを捕まえることが出来ます。
私たちは猟師の猟犬の水準ではない、全能な神様の子です。猟犬が訓練によってそのようになれるように、私たちもこの信仰訓練が必要です。そうすれば、世にどのような怖いトラが来ても逃げないで追いかけることが出来る神様の子どもの権威が回復されます。
神様の家族という身分の意識が確実にある人には、猟犬よりももっと強い自負心、自尊心、自信感が生じます。
「私を強めてくださる方のおかげで、私はすべてが可能です。」(フィリピの信徒への手紙4:13)
神様の子どもの信仰がある人はそれほどに内なる自分が健康なのです。

2.能力の使命
我らが神様の家族として生まれたならば、必ずしなければならない仕事が一つあります。それはお互いに愛することです。家族が美しいのは愛があるからです。家族に力があるのは愛があるからです。愛がない家族はもはや家族ではありません。われらは神の家族として愛を分かち合いながら生きなければなりません。これがまさに神が私たちに与えた人生の重要な目的です。
だからイエス様は新しい掟を下さいました。
「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したようにあなた方も互に愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)
「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私達も兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネの手紙1,3:16)
「愛を追い求めなさい」(コリントの信徒への手紙1,14:1)
人生を最も美しく、豊かに使う方法はイエス様のように兄弟を愛しながら生きることです。後になって最も多くの後悔をする人は愛することが出来なかった人です。
「主よ!私が生きている間、後悔することなく熱心に愛することが出来ますように!」
肉の家族の愛は家庭という現場を通して成し遂げられます。それならば、霊の家族の愛は何処で成し遂げられますか?もちろん霊の家庭で成し遂げられます。霊の家庭はどこでしょうか。教会です。教会は、すなわち神様の家族であるといいました。(テモテの手紙1,3:15)神様は、この地にただ二つの器官だけを作って下さいました。家庭と教会です。この二つを作った目的は同一です。愛の実践現場として作られました。人々は肉の家庭は貴く考えても、肝心の大事な霊の家族である教会は無視したりします。信仰の人たちにとって教会ほど重要な器官はありません。教会は神の家族が生きていく家庭です。家庭がなければ家族が愛を分かち合うことが出来ないように、教会がない人は、神の愛を分かち合うことが出来ません。教会がなければ、人は家族のない人と同じです。だから孤児と同じような生き方をするようになるということなのです。聖書は教会の重要性についてこのように言います。「私たちも数は多いが、キリストに結ばれてひとつの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ローマ12:5) この御言葉は、教会を離れた人は体がない器官と同じだということを意味します。体から切り離された手、足を想像してみましょう。これほど残酷で惨めな姿はないでしょう。教会を離れた聖徒の姿がこの切られた手と同じなのです。魚が水から出て生きられないのと同じように、聖徒も教会を離れて生きることは出来ません。
教会は誰が建てられましたか?イエス様です。(マタイによる福音書16:18)
イエス様は教会のために何をされましたか?ご自分の命を下さいました。(エフェソの手紙5:25)
あなたは教会をどのように考えますか?もしかして家庭はこの上なくすばらしいものだと考えつつ、教会には無関心で生きているのではありませんか?イエス様は家庭には命を下さらなかったけれども教会のためには命を惜しみませんでした。
教会観を回復しなければなりません。「教会を家庭のように、教会員を家族のように」
神様の家族の愛は教会を通して流れていくからです。
「神様の愛」が人生の一番目の目的であれば、二番目の目的は「教会の愛」です。
「神様の愛」を通して神様の恵みに応答し、「教会の愛」を通して神様の愛を世の人々に伝えなければなりません。
「傍受教会員」になってはいけません。傍観者の立場で受動的に教会へ通う教会員になってはいけないということです。あなたは教会の家族であり、教会の肢体(器官)です。あなたが傍観者の信仰生活をするとき、教会は障害を感じるようになります。神様の愛があなたの場所で詰まる事があり得るのです。
「傍受教会員」は水が漏れないように自分を守るため、神様の恵みの生命の水が彼には入ってくることもなく、彼から出ていくこともありません。体は教会の共同体の中にいても、実際は共同体の外にいる人です。いつも群衆の中で孤独を感じている人、洪水の中であせるような生き方に自ら固執している人ではないでしょうか?
教会は霊的な家庭で、教会員は霊的な家族です。
教会と一つになっている人は神様の愛を完全に享受する人です。
教会はあなたにとってどのような存在ですか?
人生の二番目の目的は教会を通してのみ成し遂げられるのです。

4 コメント

이용규목사

2009-10-10 17:21:54

이번에는 안마상이 번역해 주셨습니다.
늘 감사드립니다.

中森千草

2009-10-11 02:37:18

神様の子どもである特権
考えてみたらたくさんあり、というかすべてにおいて勝利の道なのだと。。。
もっと自覚して、立ち向かっていいと思いました。
イスラエル人のようにしるしを世の人々に見せなくても、
私たちは神様から選ばれた特別な子どもであることを見せることはできるし、
神様の子どもであるから強く生きられるということをもっと現していきたい。
神様が私を子どもとしてくださった恵みは何より大きく、何よりも幸せなこと。
この恵みが、私にとって幸せのスタートとなりました。


田辺高幸

2009-10-11 04:00:38

「私は、自分に関係なく、神の恵みによって神の子になりました。」
リアリティのある言葉だと思います。全く自分の意志で神様の子どもになったわけではなく、知らない間に神様の子どもになっていました。これは、神様が僕を神のこどもにしてくれたからだと思います。神様と無縁の世界にいた人だから本当に思います。
イエス・キリストを知らない人はほとんどいないと思います。そんな方の十字架刑が、僕らを神様の子どもにしてくれるためだとしたら本当に嬉しいことです。だとしたらこれに対して堂々としていなければいけないと思います。神様はこの世を創造された方です。だから怖いものが一つもない。自分の作った物に恐れるわけがありません。そんな神様の子どもなのだから、親を見倣ってしっかりと人生を送らないといけないと思います。そうでなければ、十字架で死なれた主に申し訳が立たないと思います。それは、かなりの僕自身かなりの気の弱い人だから、なおそう思います。
そうなるには、やはり信じる気持ちを常に心に置くことだと思います。自分が神様の子どもである、それを常に心に持てば怖いものはなくなるはずです。信じるということが薄くなるから怖くなるんでしょう。気の弱い僕は、その点で反省しないといけないと思います。
そして主が言われた愛し合うことも忘れてはいけないと思います。人に対し怒ることは多くあるのが本当のところです。しかし、そんな時に聖書の主の御言葉を読むと、そんな自分が情けなくなります。そして、怒りをなくすように努めています。それには時間が掛かる時もあります。だけど、弟子である僕が、主の御言葉を守らないのはおかしな話です。だから愛そうとします。
それがなされた時、僕は苦しみから解放されます。やはり神様が作った人類を、愛することは当たり前のことなんだ、と思うからです。やはり憎しみの中から何も生まれません。愛し合ってこそ、人間は前に進めます。人と人との関係から何かが生まれると思います。それを生むのはやはり愛し合うことなんだと思います。人はやはり、人に対して怒りを持ってしまいます。怒りという人の心を知っているからこそ、主は愛し合いなさいと言われたんだと思います。だから、それを守るように心に主のその御言葉を忘れないで生きたいと僕は思っています。

古郡武志

2009-11-23 08:59:48

「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです」(テモテへの手紙一3:15)

「神(かみ)の家族」について述べているこの御言葉に接すると私の頭の中に対義語として思い浮かぶ言葉がある。それは、何かというと「紙(かみ)の家族」である。

世の中には、相続その他財産をめぐる問題で家族でありながらも熾烈な争いを繰り広げることがある。
  最近もあるご高齢の男性の財産管理をめぐって親子(母親と息子)が激烈な争いを繰り広げていた。もちろん大きな財産を手中にすれば、自分の生活は経済的にも安定的なものになるだろう。財産を欲しがる気持ちも私はよくわかるつもりである。
 もちろん、当事者にしてみれば、第三者が外から見てもはかりしれないいろいろな事情があるのであろうし、各々相手方が自分の義務も果たさずに権利ばかり主張しているという正義感に基づく想いもあるのかもしれない。
  しかし、やはり、お腹を痛めて産み育て、育てられた間柄である母子の間においてもそのような争いになってしまうのかという一抹の寂寥感を禁じ得ないのである。
 外から自分に転がり込んでくる財産はやはり必要なのか?「お母さん、お気の済むようにして下さい。」と一言言うことはできないのだろうか?こんな批評は、財産を目の前にしていない第三者だから言えることなのだろうか?
  もはや金の分捕り合戦に堕してしまった家族には「愛」と呼べるような紐帯など何も存在しない。そこにあるのは、戸籍・住民票等の行政上の紙の上での関係でしかない。
 これは、「神の家族」と究極の対義語である「紙の家族」に他ならない。いかにも寂しい言葉である…

  教会は、「神の家族」であると言われる。
  しかし、そこに愛がなければいけない。
  人間同士であれば、好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
  心ない一言で傷つけられることもあるし、面倒くさい事態に直面することもある。
  人間関係が波風立たず順調であり続けることないのである。
  そんな事態に直面したときに人間関係を捨て去るのか?
  歯をくいしばって踏ん張るのか?そこが分岐点なのだろう。
  波風が立ったときに人間関係を捨て去るのであれば、おそらくこれからも人間関係を捨て去り続ける人生になるのではないか?
  ちょっと油断すれば、教会だって、登録されている信徒の集まりに過ぎない「紙の家族」になる可能性もあるのだと思う。
  仮に僕にもしそういう苦しい事態が発生したときに踏ん張る力があるのかわからない。
  しかし、どんなことがあろうとも、大切な「神様の子ども」との関係である。
  そんな大切な存在との関係のためにも踏ん張ることが必要なのだと思う。  

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