信仰に満たされている人は純金のような良い品性を持っています。
信仰深い人物たちはみんな待つことの大家でした。ダビデも、アブラハムも、ヨセフもそうであり、もちろんイエス様も十字架にかけられる時まで私たちに忍耐深い信仰を見せて下さいました。反面、大きな祝福を約束されても最後まで待つことが出来なかった人たちは結局、大きい失望の池に落ちてしまいました。サウルとユダがそうであり、サラさえもそうでありました。信仰は私たちにいろんな力を与えてくれますが、何よりも忍耐できる大きな力を与えてくれます。特に苦しんでいる時、環境に負けず、我慢して忍耐できる力は神様に対する信仰の力それ以外に他にはありません。神様を信じる人は苦難の時に決して裏切ることなく、最後まで忍耐できる人です。全能な神様は生きておられる方であるためです。
1. ダビデとサウル
聖書を見るとダビデも過失の多い人でした。しかし彼の信仰は神様に認められました。神様は彼を神様の御心にかなう人だとおっしゃいました。ダビデはどんな信仰を持っていたのでしょうか?
‘主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。’(詩40:1)
ダビデの信仰は忍耐の信仰でした。特に彼は苦しみの中でも失望や挫折せず、最後まで神様を待ち望みました。詩編40編を書く時のダビデの状況はあまりにも辛いものでした。‘主よ、わたしは貧しく身を屈めています…わたしの主よ、速やかに来てください。’(詩40:17)‘悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ…わたしは心挫けています。’(詩40:12)‘滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ…’(詩40:2)
このような状況の中でもダビデは神様を待ち望んだと告白しています。一般の人ならこのような状況であれば人生をあきらめるかどん底に落ちるしかなかったでしょう。しかしダビデはかえって反対方向に向かいました。そのような力はどこから出たのでしょうか?それは決して環境から出たのではありません。それは信仰から出る力でした。信仰がなければそのようなことは絶対にありえません。‘信仰がなくてはこのような忍耐は出来ない’信じる人は信仰の力を忍耐で現します。ダビデはどんなに辛い環境であっても挫折することなく、最後まで神様を信じ抜きました。信仰は苦しんでいる時に忍耐の姿で現れるのです。忍耐は苦しみの時に現れる信仰の真の姿です。イエス様も十字架の苦しみから復活の栄光を待ち望み、忍耐しながら待っておられました。‘現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。’(ロマ8:18)
サウル王を殺せる絶好のチャンスが2回もあったのにダビデは自ら手を加えることなく、神様の御手にすべてを託しました。ばかのように待ちました。命の脅威を強く感じましたが、それでも待ち続けました。神様に油を注がれた王を殺すことは神様に喜ばれる方法ではないと思ったからです。おそらくその時、ダビデは神様のテストに合格したことでしょう。
しかしサウルは忍耐のテストに落ちてしまいました。それによってサウルの家は神様に捨てられます。サウルはたった一日も待てない人でした。彼は不安と焦り、不平に捕えられていて自分の手で献げ物をささげる罪を犯してしまいます。サウルは神様の命令に従わず、祭司だけが献げられるいけにえを献げてしまいました。なぜそのような罪を犯してしまったのでしょうか?神様の僕であるサムエルを待てなかったためです。なぜサウルはサムエルを待てなかったでしょうか?信仰がなかったからです。信仰と忍耐は比例します。しかし環境と忍耐は反比例します。私たちは環境の圧迫によって忍耐できず、しまいに大事故を起こします。
‘焼き尽くす献げ物をささげ終えたそのとき、サムエルが到着した。’(サム上13:10)
もう少し我慢すれば良かったのに…
神様を信じる人たちもサウルのように我慢することができず、もう少し待つことができず、自ら福を災いに変えてしまう場合が少なくありません。
2. リベカとサラ
アブラハムが祝福されたのは祈りでもなく、良い行いでもなく、耐え続けたからだと言われています。
‘「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。’(ヘブ6:14,15)
アブラハムは祝福の約束をすぐに頂いたのでしょうか?そうではありません。25年ぶりにやっと頂いたのです。多くの人たちは焦りがちです。自分が考えていた期間中にものことがうまくいかないと直ちに落胆し、あきらめてしまいます。その上に信仰さえすっかり冷めてしまいます。神様を信じる人の中にも待つことができない人が大勢います。
信仰の表現方法は大きく二つに分けられます。‘信仰の祈り’と‘信仰の忍耐’です。あなたには真の信仰があるのでしょうか?そうであるならそれに値する信仰の祈りを捧げなさい。本当にあなたには真の信仰があるのでしょうか?そうであるなら信仰を持って待ち続けなさい。それこそがあなたが信仰を持っている証拠になります。神様はご自分を待ち望む人は祝福されるとおっしゃいました。(イザ30:18)‘待ち望む人の福’を信じる信仰こそが真の祈福信仰であります。そのような信仰は決して環境に屈しません。どんなことがあっても変質することはありません。最後まで神様を待ち続けます。そしてアブラハムのような約束を必ず頂きます。
しかしサラは夫であったアブラハムとは違いました。
彼女も最初は一生懸命に待ちました。しかし神様に約束を頂いてから10年が過ぎると忍耐の限界に達しました。彼女はそれ以上待ち切れず、夫に女奴隷であったハガルに入らせ、子供を生ませました。待つことのできない人は神様の御業の妨げになり、人間的な方法を使います。これは彼女にとってどれほど苦しみの種になったのかを聖書はよく語ってくれます。(創16:4,5)その事件はサラにだけではなく今日も世界平和を脅かす大きな火花になっています。エバが我慢できず、善悪の実を取って食べた罪のようにサラが忍耐できなくて起きた事件の被害を今、私たちも直・間接的に感じています。しかしリベカはサラとは対照的な人でした。リベカは結婚して20年が過ぎても子供を授かることができませんでした。それにもかかわらず彼女は20年を何の不満も言わず、待ち続けました。神様は彼女に双子を産む祝福をお与えになり、彼女はイスラエル12枝派の先祖になります。サラもラケルもレアも待ち切れず、自分の女奴隷を夫の側女にさせましたが、リベカは最後まで人間的な方法を使いませんでした。ひたすら命の主人である神様だけを待ち続けました。そのお陰でリベカの家は穏やかでした。おそらくアブラハム、イサク、ヤコブこの三つの家庭の中で一番幸せな家庭であったに違いありません。リベカのお陰でイサクだけが妻が一人でした。イサクはそのお陰で一番長生きをしたかもしれません。待つことのできる女性が美しい女性であります。待つことのできる人が賢い人であります。待つことのできる信仰が祝福される信仰であります。
3. 越権行為禁止
ヨセフも代表的な待ち人でした。
ヨセフもリベカのように20年の間、待ち続けました。20年は神様の歴史の臨界点なのかもしれません。ヨセフは17才の時、兄たちによってエジプトに奴隷として売られ、奴隷として10年間を過ごし、3年間監獄に入れられ、さらにエジプトの総理になって7年間を待ち続けます。そしてやっと37才の時に兄たちと家族たちに会えます。その20年間の間、ヨセフはひたすら神様だけを思いながら信仰の道を走り続けました。彼は神様から与えられた夢が必ず神様によって叶えられると信じ、奴隷生活も監獄での生活もずっと我慢して待ち続けたのです。彼は‘夢は必ず叶えられる’と信じました。その信仰が何をするにも情熱を持って生きられる力を彼に与えてくれました。夢を叶えたヨセフは総理の位置にあったにもかかわらず自分を売った兄たちに復讐をしようと思いませんでした。一般の人ならば復讐のチャンスを逃さず、権力を振り回したに違いありません。彼はダビデのように悪に善を持って勝ちぬいた人でした。彼は徹底的に神様を思いながら生きる人でした。兄たちに売られたことは気にせず、神様が命を救うために自分を兄たちより先にエジプトに遣わしただけだと言いながらみんなを赦しました。(創45:5)自分の観点からみると復讐心の奴隷になりますが、神様の観点から事件をみれば救いの使徒になります。事件そのものが重要ではなく、観点がもっと重要です。観点を変えないと人生も変わりません。偉大な観点から偉大な人物が生まれます。
ヨセフは恐れている兄たちに‘わたしが神に代わることができましょうか。’(創50:19)という有名な言葉を言います。信じる人々の中には神様の代わりになろうとする人が多くいます。その人は我慢できず、神様の先頭に立とうとする人です。それは神様の権利を脅かす行為になります。そのような行為は深刻な不信行為です。誰がそのような行為をするのでしょうか?それは神様を待ち切れずに先にやらかす人です。神様は仰せられます。‘沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。’(詩37:7)
待ち切れなかったサウルとサラは私たちに良い見本になります。
私が何かをするより神様の時を待ち望むことが偉大な従順の姿であります。
ヨセフが20年を待った時、神様はヨセフの兄たちをヨセフの前に跪かせます。苦難に勝ち抜く武器は忍耐です。特に敵を打つことは神様の御手にあることを決して忘れてはいけません。神様が私たちに与えて下さった武器はもっぱら‘善’であります。
‘悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。’(ロマ12:21)
信仰深い人物たちはみんな待つことの大家でした。ダビデも、アブラハムも、ヨセフもそうであり、もちろんイエス様も十字架にかけられる時まで私たちに忍耐深い信仰を見せて下さいました。反面、大きな祝福を約束されても最後まで待つことが出来なかった人たちは結局、大きい失望の池に落ちてしまいました。サウルとユダがそうであり、サラさえもそうでありました。信仰は私たちにいろんな力を与えてくれますが、何よりも忍耐できる大きな力を与えてくれます。特に苦しんでいる時、環境に負けず、我慢して忍耐できる力は神様に対する信仰の力それ以外に他にはありません。神様を信じる人は苦難の時に決して裏切ることなく、最後まで忍耐できる人です。全能な神様は生きておられる方であるためです。
1. ダビデとサウル
聖書を見るとダビデも過失の多い人でした。しかし彼の信仰は神様に認められました。神様は彼を神様の御心にかなう人だとおっしゃいました。ダビデはどんな信仰を持っていたのでしょうか?
‘主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。’(詩40:1)
ダビデの信仰は忍耐の信仰でした。特に彼は苦しみの中でも失望や挫折せず、最後まで神様を待ち望みました。詩編40編を書く時のダビデの状況はあまりにも辛いものでした。‘主よ、わたしは貧しく身を屈めています…わたしの主よ、速やかに来てください。’(詩40:17)‘悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ…わたしは心挫けています。’(詩40:12)‘滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ…’(詩40:2)
このような状況の中でもダビデは神様を待ち望んだと告白しています。一般の人ならこのような状況であれば人生をあきらめるかどん底に落ちるしかなかったでしょう。しかしダビデはかえって反対方向に向かいました。そのような力はどこから出たのでしょうか?それは決して環境から出たのではありません。それは信仰から出る力でした。信仰がなければそのようなことは絶対にありえません。‘信仰がなくてはこのような忍耐は出来ない’信じる人は信仰の力を忍耐で現します。ダビデはどんなに辛い環境であっても挫折することなく、最後まで神様を信じ抜きました。信仰は苦しんでいる時に忍耐の姿で現れるのです。忍耐は苦しみの時に現れる信仰の真の姿です。イエス様も十字架の苦しみから復活の栄光を待ち望み、忍耐しながら待っておられました。‘現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。’(ロマ8:18)
サウル王を殺せる絶好のチャンスが2回もあったのにダビデは自ら手を加えることなく、神様の御手にすべてを託しました。ばかのように待ちました。命の脅威を強く感じましたが、それでも待ち続けました。神様に油を注がれた王を殺すことは神様に喜ばれる方法ではないと思ったからです。おそらくその時、ダビデは神様のテストに合格したことでしょう。
しかしサウルは忍耐のテストに落ちてしまいました。それによってサウルの家は神様に捨てられます。サウルはたった一日も待てない人でした。彼は不安と焦り、不平に捕えられていて自分の手で献げ物をささげる罪を犯してしまいます。サウルは神様の命令に従わず、祭司だけが献げられるいけにえを献げてしまいました。なぜそのような罪を犯してしまったのでしょうか?神様の僕であるサムエルを待てなかったためです。なぜサウルはサムエルを待てなかったでしょうか?信仰がなかったからです。信仰と忍耐は比例します。しかし環境と忍耐は反比例します。私たちは環境の圧迫によって忍耐できず、しまいに大事故を起こします。
‘焼き尽くす献げ物をささげ終えたそのとき、サムエルが到着した。’(サム上13:10)
もう少し我慢すれば良かったのに…
神様を信じる人たちもサウルのように我慢することができず、もう少し待つことができず、自ら福を災いに変えてしまう場合が少なくありません。
2. リベカとサラ
アブラハムが祝福されたのは祈りでもなく、良い行いでもなく、耐え続けたからだと言われています。
‘「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。’(ヘブ6:14,15)
アブラハムは祝福の約束をすぐに頂いたのでしょうか?そうではありません。25年ぶりにやっと頂いたのです。多くの人たちは焦りがちです。自分が考えていた期間中にものことがうまくいかないと直ちに落胆し、あきらめてしまいます。その上に信仰さえすっかり冷めてしまいます。神様を信じる人の中にも待つことができない人が大勢います。
信仰の表現方法は大きく二つに分けられます。‘信仰の祈り’と‘信仰の忍耐’です。あなたには真の信仰があるのでしょうか?そうであるならそれに値する信仰の祈りを捧げなさい。本当にあなたには真の信仰があるのでしょうか?そうであるなら信仰を持って待ち続けなさい。それこそがあなたが信仰を持っている証拠になります。神様はご自分を待ち望む人は祝福されるとおっしゃいました。(イザ30:18)‘待ち望む人の福’を信じる信仰こそが真の祈福信仰であります。そのような信仰は決して環境に屈しません。どんなことがあっても変質することはありません。最後まで神様を待ち続けます。そしてアブラハムのような約束を必ず頂きます。
しかしサラは夫であったアブラハムとは違いました。
彼女も最初は一生懸命に待ちました。しかし神様に約束を頂いてから10年が過ぎると忍耐の限界に達しました。彼女はそれ以上待ち切れず、夫に女奴隷であったハガルに入らせ、子供を生ませました。待つことのできない人は神様の御業の妨げになり、人間的な方法を使います。これは彼女にとってどれほど苦しみの種になったのかを聖書はよく語ってくれます。(創16:4,5)その事件はサラにだけではなく今日も世界平和を脅かす大きな火花になっています。エバが我慢できず、善悪の実を取って食べた罪のようにサラが忍耐できなくて起きた事件の被害を今、私たちも直・間接的に感じています。しかしリベカはサラとは対照的な人でした。リベカは結婚して20年が過ぎても子供を授かることができませんでした。それにもかかわらず彼女は20年を何の不満も言わず、待ち続けました。神様は彼女に双子を産む祝福をお与えになり、彼女はイスラエル12枝派の先祖になります。サラもラケルもレアも待ち切れず、自分の女奴隷を夫の側女にさせましたが、リベカは最後まで人間的な方法を使いませんでした。ひたすら命の主人である神様だけを待ち続けました。そのお陰でリベカの家は穏やかでした。おそらくアブラハム、イサク、ヤコブこの三つの家庭の中で一番幸せな家庭であったに違いありません。リベカのお陰でイサクだけが妻が一人でした。イサクはそのお陰で一番長生きをしたかもしれません。待つことのできる女性が美しい女性であります。待つことのできる人が賢い人であります。待つことのできる信仰が祝福される信仰であります。
3. 越権行為禁止
ヨセフも代表的な待ち人でした。
ヨセフもリベカのように20年の間、待ち続けました。20年は神様の歴史の臨界点なのかもしれません。ヨセフは17才の時、兄たちによってエジプトに奴隷として売られ、奴隷として10年間を過ごし、3年間監獄に入れられ、さらにエジプトの総理になって7年間を待ち続けます。そしてやっと37才の時に兄たちと家族たちに会えます。その20年間の間、ヨセフはひたすら神様だけを思いながら信仰の道を走り続けました。彼は神様から与えられた夢が必ず神様によって叶えられると信じ、奴隷生活も監獄での生活もずっと我慢して待ち続けたのです。彼は‘夢は必ず叶えられる’と信じました。その信仰が何をするにも情熱を持って生きられる力を彼に与えてくれました。夢を叶えたヨセフは総理の位置にあったにもかかわらず自分を売った兄たちに復讐をしようと思いませんでした。一般の人ならば復讐のチャンスを逃さず、権力を振り回したに違いありません。彼はダビデのように悪に善を持って勝ちぬいた人でした。彼は徹底的に神様を思いながら生きる人でした。兄たちに売られたことは気にせず、神様が命を救うために自分を兄たちより先にエジプトに遣わしただけだと言いながらみんなを赦しました。(創45:5)自分の観点からみると復讐心の奴隷になりますが、神様の観点から事件をみれば救いの使徒になります。事件そのものが重要ではなく、観点がもっと重要です。観点を変えないと人生も変わりません。偉大な観点から偉大な人物が生まれます。
ヨセフは恐れている兄たちに‘わたしが神に代わることができましょうか。’(創50:19)という有名な言葉を言います。信じる人々の中には神様の代わりになろうとする人が多くいます。その人は我慢できず、神様の先頭に立とうとする人です。それは神様の権利を脅かす行為になります。そのような行為は深刻な不信行為です。誰がそのような行為をするのでしょうか?それは神様を待ち切れずに先にやらかす人です。神様は仰せられます。‘沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。’(詩37:7)
待ち切れなかったサウルとサラは私たちに良い見本になります。
私が何かをするより神様の時を待ち望むことが偉大な従順の姿であります。
ヨセフが20年を待った時、神様はヨセフの兄たちをヨセフの前に跪かせます。苦難に勝ち抜く武器は忍耐です。特に敵を打つことは神様の御手にあることを決して忘れてはいけません。神様が私たちに与えて下さった武器はもっぱら‘善’であります。
‘悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。’(ロマ12:21)
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4 コメント
이용규목사
2009-11-19 19:05:33
이은미 자매님이 번역을 해 주셨습니다.
中森千草
2009-11-20 02:33:56
言い続けてくれていました。
体調が優れず、諦める力の方が強くなっていて、捨ててしまったものがあります。
メッセージを聞いて、慌てて拾いましたが.....
神様の御心にかなった人物の信仰を、いろんな場面から見ることができ、
弱くなっていた私の心も回復できたと思います。
信仰と忍耐。
このふたつの相互関係もよく分かりました。
神様が、母を通してサインをくださっていたことにも気づきました。
何より、礼拝を捧げられたことに感謝しています。
田辺高幸
2009-11-22 06:18:29
古郡武志
2009-12-01 09:01:56
「君の心の庭に忍耐を植えよ、その根は苦くともその実は甘い」
素晴らしい言葉だとは思うが、この短い言葉の中に大きな真理が隠されているのではないかと思う。
たまたま私は今日スポーツジムに行ってルームランナーの上で走っていた。
人によって走る目的は様々であるが、やせたいという思いで一生懸命走っている人もいるだろう。さてやせるという目的を考えたときに走るということはどうなのだろうか?
短期的な視点で考えたときにやせるためにはちょっと走るだけではだめで、ある程度体に負荷がかかっている状態(つまり苦しい状態)を一定時間続けないと体内の脂肪が燃焼しないのだという。つまり少なくともちょっと疲れたから休むというのじゃだめなのである。
ある程度長期的に見たらどうなのだろうか?
もちろん1回ルームランナーで走ればやせられるかというと全くそんなことはなくて、ある程度の期間規則的に続けなくてはならない。しかも、さらに重要なことは規則的に走れば順調に脂肪が減り続けるかというとそんなことはなく、停滞期が襲ってきて、その停滞期を乗り切らないと脂肪は減っていかないという。
おそらく、多くの人が運動による体重減少を期待しつつも挫折するのは、この停滞期を乗り切れないということに原因があるのだろう。
つまりいくら運動をしても体重が減った実感がなく、太鼓腹がなくなった自分の姿(つまりこれが「甘い実」である)など想像もできないし、全く現実的なものとも思えないのである。
さて、もう一つ待つ姿として頭に思い浮かぶ姿もある。
それは日本の国民食であるラーメン店で並ぶ姿である。
有名な店では長蛇の列ができているが、「何で待てるのか?」と考えると答えは明らかなのである。
口コミやガイドブックで頭の中にラーメンのイメージがあり、しかも時間の差があれ、待てば必ず食べることができる。イメージもはっきりしていて、しかもすぐ手に届き、とても現実的である。だからダイエットをすぐあきらめる日本人でもラーメンを並んで待つことができる。これは身近な場面であるが、「甘い実」がすぐ手に届くものと考えられているということである。
ダビデ・アブラハム・ヨセフの実、そしてイエス様の大きな甘い実…
神様が御言葉を通して示してくれた実例を通して私たちも甘い実をいきいきと頭に思い描き、甘い実を確信しなければならない。
しかし、「脂肪」というやつは、度重なる運動・ダイエットの攻撃にさらされながらも、お腹にしがみつきなかなかお腹から離れようとしない。
こいつは憎い奴ではあるが、忍耐力だけは超一流である。
悔しいけど見習わなくてはいけないかな…?