クリスチャンであれば誰でも一つの願いを持っています。
それはイエス様のようになることです。‘悪魔に似ている’と言われることがひどい屈辱であるように‘イエス様に似ている’と言われるほど良い褒め言葉はないでしょう。霊的に成熟した人はイエス様に良く似ていると言われます。このような人をイエス様は御自分の弟子であると仰られました。私たちがイエス様の弟子になるためにはまず、イエス様の人生を知るべきです。群衆に仰られた御言葉の中にイエス様の人生の3つの姿が良く表現されています。その姿を弟子の道を歩んでいる私たちにオーバーラップしてみる時間を持ちましょう。
1. 群衆と弟子
イエス様がいらっしゃる所にはいつも大勢の群衆が後を追いました。ある日、イエス様は群衆を振り向いて真の弟子の道についてお教えになりました。イエス様は群衆の中から弟子を見つけることを望んでおられました。イエス様は御自分と共に働く弟子たちが必要でした。群衆は弟子とは違います。群衆は救いの対象にはなりましたが、一緒に働くパートナーにはなれませんでした。群衆は病気を治してもらい、パンをもらって食べる、助けが必要な弱い人たちですが、弟子はイエス様と共に群衆を助けられる強い人たちでした。群衆は自己中心で献身の心を持っていません。利益がないと離れてしまうのが群衆の心理です。しかし、弟子たちはそれとは違います。彼らは神様を中心に考え、献身する心が強いです。そのため、彼らは利益ではなく、使命に従って行動します。大勢の群衆が世の中を変えるのではなく、少数の弟子たちが世の中を変えて来ました。
それではどうすれば群衆ではなく、弟子になれるのでしょうか?
弟子訓練を受ければ自動的に弟子になれるのでしょうか?絶対にそんなことはありえません。訓練を受けていない人より少しばかり可能性は高くなりますが、必ずしも弟子になれるのではありません。そんなことは私たちの周りでも簡単に確認することが出来ます。卒業証書やコースなどが人を目的地まで案内してくれるのではありません。訓練のための訓練は空しいです。その訓練はかえって時間の浪費につながるかもしれません。訓練の専門家であるデニ・レマンはこのように言っています。‘私たちの周りにはとても良い訓練を受けたにもかかわらず、敬虔な弟子の姿とはまったく違う人たちがいます。’
訓練は道具にすぎません。訓練の目的は真の弟子になることであることを忘れてはいけません。
どうすればイエス様の弟子になれるのでしょうか?
イエス様は自ら弟子になるための3つの道を仰せられました。神様が‘わたしの弟子ではありえない’と仰せられた3つの障害物と誘惑に勝ち抜く時こそ弟子の道が開かれます。イエス様の人生はこの3つの誘惑から自由であった人生でした。そのためイエス様は堂々と、そしてとても強い口調で群衆に弟子の道を宣布することが出来ました。私たちがそれほど似たかったイエス様の3つの人生の姿についてこれから考えてみましょう。
2. イエス様の3つの人生
1) 家族を憎む人生
‘もし、だれかわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。’(ルカ14:26)
イエス様は実際に少しの間、両親と兄弟のもとを離れ、ご自分の命さえも十字架にお捨てになりました。それはなぜでしょうか?1つ目の理由は神様を愛したからであり、2つ目の理由は家族を愛したためであります。弟子になる最初の条件は自分の家族と命を憎まなければならないということです。見方によってはとても冷たい御言葉のようですが、本当は愛に満ち溢れた御言葉です。表面を見れば家族を憎みなさいという御言葉のように聞こえるかもしれませんが、裏面を見れば家族を真心で愛する方法を教えてくれる御言葉です。
この御言葉は両親と兄弟を憎みなさいという意味ではありません。イエス様は聖書で両親と兄弟を愛しなさいと口を酸っぱくしておっしゃっています。(マタ22:39、ヨハ13:34)
聖書には‘「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽りの者’(一ヨハ4:20)であると書かれています。その言葉を言いかえれば‘心を尽くして神様を愛しなさい’という意味です。イエス様は自ら仰せられた偉大な掟の一番目の掟を100%守っていらっしゃることをよく知らせています。イエス様は形だけではなく、心、精神、思い、力を尽くして神様を愛しておられました。
真の愛の流れについて聖書は私たちに正確に教えてくれます。
‘イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。’(一ヨハ3:16)
完全な愛は神様から与えられます。私たちは神様の祝福の通路です。弟子たちは神様の愛の電線です。その電線を通して天国からの愛の電流が世の中に流れる時、世の中は神様の愛に感電され、生き返るのです。
神様を愛する人が家族をもっと愛するのでしょうか?それとも神様を愛さない人が家族をもっと愛するのでしょうか?それは当然、神様を愛する人です。その理由は神様を愛さない人はどんなに努力しても自分の中にある表面的な愛(感情、肉体、利益に捕えた)しか表現することが出来ませんが、神様を本当に愛する人は神様の十字架の愛が彼を通して流れ出て、彼の手が伸びるすべての所を神様の極端な愛で感電させることが出来るからです。神様の愛のボルトは世の中の愛のボルトとは比較になりません。
神様を愛する人は神様の愛を他のところに流しますが、神様を愛さない人は世の中の制限された愛に満足します。
イエス様の人生は御自分の家族や命にとらわれた人生ではありませんでした。神様を愛することや神様の御心を叶えることが家族によって邪魔をされることはありませんでした。ある日、イエス様の母と兄弟たちがイエス様を訪ねて来た時、周りに坐っている人々を見回して‘神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。’(マコ3:35)とおっしゃいました。しかし、イエス様は御自分の家族を非常に愛しました。イエス様は十字架にかけられ、死んでいく時にも弟子たちに母を頼むほどご自分の母を愛したのです。愛の表現の方法が世の中の方法とは違っていたのです。イエス様は神様の中でご自分の家族や命を愛したわけです。それが心を尽くして愛することが出来る秘訣であったためです。それでイエス様が天国にあげられた後にイエス様の母は聖母マリアになり、兄弟たちは初代教会の柱になりました。
主にあって家族と自分の命を憎む人生が本当に家族と命を愛する人生であります。
2) 十字架を背負った人生
‘自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。’
(ルカ14:27) イエス様と言えば、教会と言えば真っ先に頭に浮かぶのは何でしょうか?それは十字架です。十字架がない教会はありません。十字架は教会の存在の理由です。イエス様はなぜこの世にいらしたのでしょうか?それは十字架を背負われるためです。イエス様は十字架を背負われることによってこの世での仕事を成し遂げられました。
十字架は罪を償う場所であります。凶悪な罪を犯したために処刑されるところです。
しかし、世の中の十字架とイエス様の十字架は違うものです。世の中の十字架は自分の罪のために背負いますが、イエス様の十字架は他人の罪を償うための十字架です。弟子の十字架はイエス様の十字架と同じ十字架です。他人のために背負う十字架であります。ひょっとすると自分とはまったく関係のない悔しい十字架なのかもしれません。神様は弟子たちに十字架を一つずつお与えになりました。イエス様が十字架を背負うことによって世の中が救われたように私たちが自分の十字架を背負うことによって他人が救われます。神様は私たちにお与えになった十字架を通して働かれます。十字架が大きいほど神様の奇跡も大きく現れます。
あなたの十字架が重く感じられますか?
あなたの十字架をイエス様の十字架と比較してみて下さい。イエス様の十字架は世の罪の重さでした。(ヨハ1:29) つまり世の中のすべての人の罪を取り除かれたのです。では、あなたの十字架の重さはどれくらいでしょうか?一人の罪、二人の罪、それとも10人の罪の重さでしょうか?しかし、イエス様の十字架とあなたの十字架は比べ物になりません。そのため、私たちは自分の十字架について自慢したり、大げさに言ったりしてはいけません。私たちの十字架はイエス様の十字架に比べればとてもみすぼらしい物です。感謝と賛美をもって背負って行かなければなりません。
これだけは覚えて下さい。‘自分の十字架’は事実上、自分の十字架ではなく‘他人の十字架’なのです。
神様はイエス様の弟子である私たちにも十字架を一つずつお与えになりました。厳密に言うと‘他人の十字架’です。自分とはまったく関係のない重荷、苦難、悩みの十字架です。今、あなたが背負っている十字架は何でしょうか?
あなたが背負っている十字架のために辛いでしょうか?神様はその十字架を通じて働くことを望んでおられます。それはどんでもない救いの働きです。人類の救いの歴史はただ‘イエス様の十字架’を通して成し遂げられたことを忘れてはいけません。
‘現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。’(ロマ8:18)
3) ご自分のすべての所有物をすべてお捨てになった人生
‘自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。’(ルカ14:33) ある日、イエス様が道を進んでおられる時に‘あなたがおいでになる所なら、とこへでも従って参ります’と言う人がいました。その時、イエス様は御自分のことを次のようにおっしゃいました。‘狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。’(ルカ9:58)
‘わたしはホームレスなのだ’とイエス様は言われました。
弟子は貧しい生活をしなければいけないということではありません。イエス様がこの世の中に来られたのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためであります。(ヨハ10:10) この御言葉は財産の誘惑に負けてしまい、財産が神様に仕えることの邪魔になってはいけないという意味です。
‘あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。’(マタ6:24)
財産に気をとられる人は神様を失います。富に仕える人がイエス様の弟子になれないことは当然のことです。神様より富を愛してはいけません。そうするとあなたはイエス様の弟子ではなく、富の奴隷になってしまいます。
神様が尊いでしょうか?それとも富が尊いでしょうか?神様の御手に力があるのでしょうか?それとも富に力があるのでしょうか?神様が富の中にあるでしょうか?それとも富が神様の御手の中にあるのでしょうか?
‘不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。’(一テモ6:17)
家族や苦難、富に気をとられなければ、良い弟子になる道が開かれるとイエス様ははっきりと仰られます。
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3 コメント
이용규목사
2009-12-06 01:11:48
후루고오리상의 감수입니다.
늘 감사합니다.
中森千草
2009-12-06 05:05:30
イエス様に近づきたいと思いながらも、背負うべき十字架を自ら背負ってはいなかった。
今、心にひかかっていることがある。
どうしても納得がいかないし、受け止めることができないでいる。
自分の人生のためにも忘れたほうがいいとは思っていますが・・・・・
この先、そのことに関しては、忘れることはないでしょう。
でも、イエス様がなされたように、私も行っていこうという考えを持てば、
この問題は解決できると思います。
問題を見るのではなく、イエス様のお働きを見ていこう。
そして、神様に認められる弟子を目指していこうって思いました。
古郡武志
2009-12-06 06:11:37
そんな人間の醜い本性は、ビジネスの現場でもよく見ることのできる光景である。
何か失敗すると、他の部署のせいだの、システムが悪いだの・・・
僕もそんな言い訳をしたことがある。
自分が言い訳をしておきながら言いにくいのであるが、やっぱり第三者の立場で聞くと極めて聞き苦しい。
すぱっと「私の判断が○○の点で間違っていました。今度から同じ過ちを繰り返さないようにします」と言えば済むのではないか?
そんな光景を見ながら、イエス様のことを考えた。
全人類の罪を引き受け、一身に十字架を背負われた。
しかも一言の弁明もされずに…
自分の犯した罪さえも引き受けられない人間であれば、「僕じゃない!」とありったけの力を振り絞って叫ぶだろう。
「悪いのはあいつです」と力を振り絞って叫ぶだろう。
人の罪をかぶってあげることなんて到底考えることのできないことである。
イエス様は人間の形でこの地に現われた。
なすりつけられた罪に対する悔しさ・無念そういった感情は全く無かったのだろうか?
神様だから何ということもなかったのか?
いや、そうではなかったと思う。
ゲッセマネでのイエス様の血の滲む祈りを思うとき、汚名を着せられる屈辱は相当な苦しみであったはずだ。
しかし、イエス様は、祈りながら、御言葉は成し遂げられなければならないという思いで想像を絶する屈辱を耐え忍ばれた。しかも、何の言い訳もせずに…
弟子になるとはどういうことか?
そういう十字架の重みを知り、イエス様が味わった苦痛の一部にでもあずかることではないだろうか?
12月に入り、クリスマスケーキが販売されるシーズンになった。
そういえば、私が幼少の頃に食べたクリスマスケーキの上にはマジパンで作ったサンタクロースとチョコレートで造った家が置かれていたが、十字架は置かれていなかった。
今年もクリスマスケーキを食べることになるのだろうか?
もし、そんな機会があったら、心の中でケーキの上に十字架をそっと置き、感謝をしたい。