私たちは果たしてイエス様についてどれほど知っているのでしょうか?
イエス様についてどれほど正しく分かっているのでしょうか?あなたはクリスチャンとして恥ずかしくありませんか?誰かがイエス様に関して尋ねてくる時、どれほど自信を持ってしかも正確にイエス様について答えられるのでしょうか?
今日はクリスチャンにとって基本的なことでありながらも、核心的な内容であり、福音の中心であるイエス様について洗礼者ヨハネを通じて考えてみましょう。
1. クリスチャンとはどんな人でしょうか?
どんな人がクリスチャンだと言われるのでしょうか?賛美が上手な人、お祈りを上手く奉げる人、毎週の主日に教会に来る人でしょうか?それともお酒を飲んだり、煙草を吸ったりしないで善い行いをたくさんする人でしょうか?悪いことをしない人でしょうか?そうではありません。クリスチャンの本来の姿は‘イエス様を信じる人’です。善い行いをする人ではなく、イエス様とつながっている人がクリスチャンであります。いくら人生の姿が美しいと言ってもイエス様を信じないのならその人は絶対にクリスチャンにはなれません。イエス様を信じる心は世の中の何よりも大切です。それは私たちの霊的な部分を変え、永遠の世界で住む場所を与えてくれるからです。善い人生は決してこのようなことが出来ません。
私たちがイエス様を正しく信じるためにはイエス様はどんな方であるかを正しく知るべきです。
神様はそのために何千年にわたって66冊の厚い聖書を記録して下さいました。聖書はイエス様に関して紹介する本です。神様が自ら書いて下さった本です。私たちは聖書の中からイエス様を見つけ出すことに集中しなければいけません。そうしてこそ聖書の目的を果たすことが出来ます。
イエス様は自ら仰られました。
‘あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。’(ヨハ5:39,40) 聖書を研究することは重要なことです。聖書を通してイエス様に近づくことが出来るためです。しかし、聖書は一生懸命に研究しているのにイエス様のところには来ないで違う方向に向かうとしたらそれほど愚かなことはないでしょう。聖書の研究が重要なのはイエス様に近づいていく良こになるからです。ある人たちは聖書の中から知識や知恵だけを求めるし、ある人たちは慰めだけを求めます。またある人たちは富を得ることを願います。しかし、神様は聖書を通して私たちが得てほしいと望まれる真のものはイエス様であります。イエス様は聖書が私たちに与えてくれる本当の宝です。なぜ聖書を読んでいるのでしょうか?なぜ御言葉を聞くのでしょうか?どうして礼拝を奉げるのでしょうか?その理由は聖書の宝であるイエス様のところに進み出るためです。イエス様のことを感じるためです。イエス様との交わりを持つためです。イエス様を除いては聖書を語ることは出来ません。聖書を自分の観点から見るのではなく、いつも神様の観点から考える人が本当に祝福される人です。
2. 洗礼者ヨハネ
イエス様がこの世にいらっしゃる前の約400年間、神様は何もおっしゃいませんでした。預言者を一人
もお送りになりませんでした。しかし、神様はイエス様が来られる前にエリヤのような力ある預言者をお送りになりました。その方がまさしく洗礼者ヨハネです。
洗礼者ヨハネは真の預言者としてすべての民から尊敬と信頼を受けました。彼がヨルダン川で悔い改めの洗礼を授ける時、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て罪を告白し、洗礼を受けたと言うほどです。(マコ1:5) そして洗礼を授けるのにふさわしくない人たちが出てくる時に洗礼者ヨハネは‘蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。’(ルカ3:7)と言って厳しく叱りましたが、彼らはヨハネの権威に従って洗礼を受けました。その上、人々はヨハネをメシアではないかと心の中で考えました。彼の霊的な力は本当に素晴らしいものでした。王は物理的な力で強圧的に人たちを動かしましたが、ヨハネはそうではありませんでした。ヨハネはすべての民が自ら尊敬心と畏敬心をもって従う指導者でした。
イエス様に洗礼を授けた人物は誰でしょうか?その人はヨハネではありませんか。彼は当時すべての人々とイエス様から認められた神様の偉大なる預言者であり、僕でした。
神様はこのような洗礼者ヨハネにイエス様を紹介させました。そのため、私たちは何の疑いもなく、イエス様をありのまま信じても良いのでしょう。すべての人が信じて従った洗礼者ヨハネが紹介した方なのでそこには何の偽りもあり得ません。
ヨハネから紹介されたイエス様こそが本当のイエス様です。自分で造ったイエス様は捨てなくてはなりません。私たちはヨハネが紹介したイエス様を受け入れるべきでしょう。
ヨハネはイエス様をどのように紹介したのでしょうか?
ヨハネから紹介されたイエス様をそのまま信じ、受け入れる人には神様の子供になる特権が与えられるでしょう。
3. ヨハネが紹介したイエス様
ヨハネは3つの観点からイエス様を紹介しました。
ヨハネは自分とイエス様を比較しながらイエス様を紹介しています。世の中の人々はヨハネをメシアのように高く評価しました。しかし、ヨハネはイエス様と比べてみれば、自分がどれほどみすぼらしくて地位の低い存在であるかを言ってイエス様の偉大さを教えました。イエス様はまさしく天のような方であることを良く教えてくれます。
1) 私の主
‘ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」’(ヨハ1:23,マコ1:3)
洗礼者ヨハネは旧約聖書の預言の御言葉を証拠として用いました。イエス様が旧約聖書の中で約束されたメシア、来る主であることを証言しています。そしてイエス様と比べれば自分はイエス様の道をならす人、すなわち僕に過ぎず、イエス様は白馬に乗っていらっしゃる王であり、主であるとヨハネは言っています。この比喩はイエス様がどれほど尊くて偉大な方であるかをよく表現しています。洗礼者ヨハネが僕であり、イエス様が主であるならば私たちがイエス様にどのように仕えるべきなのかはとても明白です。主よりもっと価値のある存在がいるとすればその方はイエス様であることに違いはありません。イエス様はあなたにとってどんな方でしょうか?真の信仰をもって‘イエス様は私の主でいらっしゃいます。’という信仰告白があなたの中から流れ出ているのでしょうか?洗礼者ヨハネは大勢の人がイエス様のところに行くのを見て‘あの方は栄え、わたしは衰えねばならない’(ヨハ3:30)と言いました。なぜでしょうか?彼は単なる道をならす人であるため、道をよくならしたのであれば主人公が通れるように道からどくのは当然なことです。自分がならした道を王が通り過ぎる時、ただ口から感謝が出るのです。‘主イエス様、急いでいらして下さい!’イエス様がどんな方であるかを知る時、私は道をならすことだけでも幸せになれます。王様の道をならす人は幸いであるからです。
2) 力のある方
‘彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。」’(マコ1:7)
洗礼者ヨハネは自分の力をイエス様に比べると自分はイエス様の履物のひもさえも解けないと言いました。イエス様の力がどれほど偉大なのかを良く語っています。
イエス様は誠に力のあるお方です。世の中のどんな権力もイエス様に立ち向かうことは出来ません。悪魔や病気だけではなく、罪と死もイエス様の前ではどうすることも出来ません。イエス様の人生は力そのものでした。イエス様はいらっしゃるところどころで奇跡を起こされました。どんな人でもイエス様に出会うと奇跡の主人公になりました。重い皮膚病を患っている人の皮膚病が清くなり、中風の人の中風がいやされ、寝ていた自分の床を担いで家に帰り、汚れた霊に取りつかれた人から悪霊が出て行き、正気に戻りました。イエス様は天と地の一切の権能を授かった方でいらっしゃいます。(マタ28:18)
イエス様の力は御言葉から出ています。そのため、ヨハネによる福音書ではイエス様は‘御言葉’で表現されます。‘初めに言があった。言は神と共にあった。’(ヨハ1:1)‘言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。’(ヨハ1:14)
イエス様のお言葉の前では汚れた霊も病気もいつもイエス様に従いました。
ある日、百人隊長が自分の僕が患っている中風をいやされますようにお願をしました。
‘主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。’(マタ8:8) 百人隊長はイエス様に対して正しい信仰を持っていました。彼はイエス様の御言葉そのものが力であることを分かっていました。すべてのことがイエス様の言われる通りになることを信じました。これこそが真の信仰であります。
‘はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。’(マタ8:10)と百人隊長はイエス様にとても褒められました。御言葉を無視してはなりません。御言葉を無視することはイエス様を無視することになります。御言葉はすなわちイエス様です。イエス様の御言葉には偽りの言葉などはありません。御言葉そのものが力です。イエス様は病気を治す時や悪霊を追い出される時に他のものをお使いになったのではなく、ただ御言葉を宣布されただけです。‘黙れ。この人から出て行け。’‘よろしい。清くなれ。’‘わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。’
イエス様は御自分を紹介なさる時に‘天国はここにある’(マコ1:15-英語聖書)とおっしゃいました。そのため、イエス様が行かれる所には天国が広がっていき、暗闇の勢力は退いていきました。イエス様は真の命であり、真の光でおられます。(ヨハ1:4,9) そのためにイエス様の行かれる所には死が退き、命の光が輝くのです。イエス様に出会った人たちは天国を経験しました。病気で苦しめられていた人は病気から癒され、悪霊に取りつかられていた人は自由になり、貧しい人には福音が宣べ伝えられました。
イエス様は天国を紹介なさっただけではなく、天国を自らお見せになりました。私たちの人生を覆っている暗闇をイエス様の御力で追い出し、私たちの人生にも天国が広がっていくことをイエス様は望んでおられます。それこそがイエス様がこの世に来られた目的であり、福音であるためです。
3) 聖霊で洗礼をお授けになる方
‘わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。’(マコ1:8)
ヨハネは水で悔い改めの洗礼を授けるだけですが、イエス様は聖霊で力のある洗礼をお授けになるということです。イエス様は私たちの力を回復させて下さるだけではなく、力を私たちにお与えになる方です。イエス様がお与えになる力とはすなわち聖霊様です。
‘わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる…この霊があなたがたの内にいるからである。’(ヨハ14:16,17)
‘わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川になって流れ出るようになる。’(ヨハ7:38)
‘あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける…また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。’(使1:8)
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4 コメント
이용규목사
2009-12-12 21:02:28
수고하셨습니다. 감사합니다.
中森千草
2009-12-13 01:10:25
神様とつながっており、神様との関係がいいのだと思います。
人それぞれ、いろんな状況によって聖書を手に取ると思います。
出来事に対してということもありますが、原点に戻ることができる。
すべては神様から。
だから、神様をもっと知りたくて神様のほうに近づいていく。
この信仰を大事にしていきたい。
田辺高幸
2009-12-13 06:47:40
新約聖書には、このことが多く書かれています。だから、僕はこう断言しているのです。正しい行いをすることよりも、最初は3つの存在が一つの神として存在していることを信じることを知ることかが大切でしょう。それを知るには聖書を読むしかありません。
僕の聖書はボロボロで、汚いと言われたことがあります。しかし、僕は天の父、御子、聖霊が一つの神であることを知るためにそうなった結果です。どんなに汚らしくても、僕にとって大切なものです。人が何を言おうが、関係ない話です。神様が、僕にそうなるようにさせたことだから誇りに思ってます。埃だらけ本だけと僕にとって、主に出会うことができた本だから、そう思っていますし、読めなくなるまで、この本をいつも読んで、神の御言葉に出会って成長したいと思い、毎日持って歩いています。
古郡武志
2009-12-13 06:52:59
そんなヨハネでも「かかんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言う他なかった。
神の偉大な力の前に謙虚であることの大切さ、あるいはヨハネをしてそう言わしめたイエス様の力を感じさせる洗礼者ヨハネの言葉である。
私は、再びこの洗礼者ヨハネの言葉で別の観点からイエス様の力を感じた。
ヨハネは「かかんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言ったが、逆にイエス様
はかかんで人のために何かをしたことがなかったか?
イエス様は、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭いたのであるから、もちろんこのときにはイエス様は足を洗うためにかがんでいたのである。
通常であれば、かがんで足を洗うというのは奴隷がしていた行為であるから、人間的な観点で言えば、「弱さ」を象徴する行為であるのかもしれない。
しかし、「人に仕える」という目的のためには、自分の地位や体面やプライドなどは関係なく、ただ純粋に相手のことを考えて行うという点において、「強さ」を象徴する行為に他ならない。地位や体面やプライドを捨てるというのは人間にとっては極めて難しいことである。
洗礼者ヨハネが「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」といったイエス様ご自身がかがんで弟子の足を洗っていた。
洗礼者ヨハネに習ってイエス様を「まことに力のある方」と認めるならば、見ているだけではだめだ。少しでも真似るようにしないと、力はわたしたちには身につかない。
本当に「まことに力のある方」の力を生活で生かす道は何なのかをきちんと考えていきたい。