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중앙영광교회

成長と私

이용규목사, 2008-11-12 03:06:53

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成長と私

1. 万年赤ん坊信者
世の中の人は一度生まれることで終わるが、信仰の人は二度生まれる。
これを '生まれかわる(born again).'と表現する。肉の誕生を通じて人生が与えられるが、霊の誕生を通じて永遠の生命が与えられる。
ところでここには一つ重要な '神様の法則'がある。神様は決して誕生と同時に完成品をくださらない。キリスト様も赤ん坊に生まれたのであり、大人の姿で生まれたのではない。すべての誕生の後には必ず成長過程がある。この成長過程を通じて人はますます成長するようになっている。

肉身と同様に霊の身も必ず '成長過程'を通じて育つようになる。
ところでここに少しの誤解がある。
第一に、人々はよく肉の成長を霊の成長と間違えているというのだ。それで肉的に成熟した人がキリストを受け入れれば直ちに霊的にも大人になったと思って、教会の仕事をリードしようとするのだ。霊的成熟者をむしろ幼い(世の中の物事が分からない-事実は世の中の物事は分からないことがあるが、霊的物事はよく分かっているにもかかわらず)と思いながら、無視しようとする。

二番目は、年令と成長を同一視する錯覚だ。教会に出る回数が増えれば増えるほど、それに比例して成長の年もとって行くと思うのだ。これに対してリック・ウォレン牧師はこのように語った。'悲しくも幾多のクリスチャンが年は取ったが(grow older)、決して成長しない。(never grow up) 霊的にずっとおむつを当てて、母乳瓶を舐めながら霊的乳児状態にとどまっている。'
年令と成長は関係がないことを端的に指摘している。年だけ取って行くのではなく、霊的に成長しなければならない。

フアンーカルロスオルティスも似たようなことを言った。
'このごろ教会の中には '万年赤ん坊信者'が増えている。数年間説教をきちんと聞いたのに初めの頃(赤ん坊の頃)から何も変わらない信者が少なくない。牧師は昨日も今日も相変らず彼らの一つ一つの面倒を見てあげなければならない。おむつが濡れたのかたまに見なければならないし、ベビーパウダーも塗ってあげなければならないし、牛乳があまり熱くはないのか頬につけて見なければならないし…
今日大部分の教会は軍隊と言うより、かえって新生児にいっぱいになった産婦人科病院のように見える。'
どうしてこんな現象が多くの教会で起きているのか?生まれてはいるが、成長ができないからである。信者を成長させることが教会の急務なのだ。
我らの父なる神様も我らが成長するのを切実に望む。
'God wants us to grow up…like Christ in everything(エフェソの信徒への手紙4: 15-msg)

2. 成熟した人の姿
霊的に完全な人、成熟した人はどんな姿を見せるのか?
第一は、成熟した人は仕えの仕事をよくするようになる。'奉仕の業に適した者とされ' (エフェソの信徒への手紙4: 12) 赤ん坊たちは行く所ごとに問題を引き起こす。しかし成熟した大人は行く所ごとに問題をよく処理する。成熟した人々が多い教会は動き手が多い。

二番目は、成熟した人は常に教会を助けて、教会を立てることにおいて先頭に立つ。'キリストの体を造り上げてゆき' (エフェソの信徒への手紙4: 12) 成熟した人は常に教会を愛して、教会を成長させるのに情熱を抱く。

三番目は、成熟した人はキリストを中心に一つになることにおいて先頭に立つ。'ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、' (エフェソの信徒への手紙4: 13)
成熟した教会の姿は 'キリストを中心に一つになった教会'を現わす。それで聖書は、キリストの身も一つであり、聖霊も一つであり、使命の目標である希望も一つであり、キリストも、神様も、信仰も、洗礼も、全部一つだから、私たちも当然一つにならなければならないと強調している。(エフェソの信徒への手紙4: 4-6) '平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。'(エフェソの信徒への手紙4: 3) 私たちが一つになる秘訣は成熟することだ。霊的に成熟するようになれば、一つになる実は自然に結ばれる。

四番目は、成熟した人は誘惑に負けない。
'こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、'(エフェソの信徒への手紙4: 14)
幼い子供は誘惑にあまりにも負けやすい。キャンディー一つにも負けてしまうのが幼い子供だ。しかし、大人は分別力がある。誘惑に対する分別力が良いほど成熟した人である。世の中は、台風のような、また波のような強い力で私たちをずっと誘惑する。世の中は良いアイディアで、だまされるしかない知恵で私たちを誘惑する。これに陥らないためには成長しなければならない。成熟した人は誘惑の実体が見られるからだ。
成熟した人の真価は誘惑に強いことだ。

五番目は、成熟した人は口も成熟している。'むしろ、愛に根ざして真理を語り、' (エフェソの信徒への手紙4: 15) 私たちの身体で一番早くて軽い器官が口である。それで口が一番早く誘惑に反応する。成熟した人の口には二つの財宝がある。それは愛と真理だ。真理だけあれば傷つけやすくて、愛だけあれば成長を阻みやすい。
私たちの成長のモデルはキリストだ。'あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。' (エフェソの信徒への手紙4: 15)
成長はすべての面でキリストのようになって行くことである。キリストとの差が大きいほど成長が足りないのだ。成長はキリストとの差を狭めて行く過程である。考えの違いを狭めて、行動の差を狭めて行くのだ。
'キリストと似て行くことを願います。心より…'(賛美歌 463)
  
3. 成長の道
それではどうすれば成長することができるか?
神様は私たちにどんな成長の道を開いてくださっただろうか?
'そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 '(エフェソの信徒への手紙4: 11,12)
神様が牧師を教会にくださったのは信者のためである。信者がなければ牧師は存在理由を無くしてしまう。それでは信者の何のために牧師を立てただろうか?信者を完全にさせるためである。完全にさせるということは成長させるという意味だ。'信者を完全にさせる。'という言葉は英語聖書では 'to train Christians'(信者を訓練するため)と表現されている。人の成長は訓練を通じて成り立つ。それで神様は先に使徒と預言者を通じて訓練教材である新約と旧約の聖書を準備してくださったし、福音を伝える者を通じてキリストを受け入れるようになさって、牧師を通じて具体的な訓練をさせるようにした。
神様が聖書と牧師をくださったことは、信者が訓練を通じて完全な人として成熟するようになるためである。
そしてテモテにもこのようにおっしゃった。
'わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。'(テモテへの手紙一 4:13)
牧師は信者をキリストのように完全な人になるよう訓練させなければならない使命がある。そうすると信者は一つになって奉仕の仕事をするようになって、教会を立てて、誘惑に負けないで、キリストに至るまで成長するようになるでしょう。
聖書で言う成長の秘密は御言葉と牧師にある。
御言葉を大事に思い、牧師を尊敬しなければならない。あなたの成長がここから出るからだ。弟子訓練を満足できるよう、よく受けるために一番重要なのが、リーダーを信じて、愛し、祈ってくれることだという。リーダーとの関係が崩れれば成長は難しくなる。神様はリーダーを通じてあなたの成長を管理するからだ。
'指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。
この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。
彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。
そうでないと、あなたがたに益となりません。'(ヘブライ人への手紙 13:17)
成長は従順を食べて育つ。
御言葉とリーダーに順従する人には必ず成長の贈り物が保障される。
神様はあなたを成長させようと御言葉とリーダーをくださった。
この贈り物を逃さずに、自分のものとして受け取りなさい。従順の手で!!!

4 コメント

이용규목사

2008-11-12 03:07:44

황후연 형제님이 은혜롭게
잘 번역해 주셨습니다.
감사합니다.

中森千草

2008-11-12 06:09:10

神様は私に聖書をプレゼントしてくださり、御言葉が私の支えになったきっかけは、中央栄光教会で弟子訓練を受け、何より牧師先生のすばらしい導きでした。
聖書を楽しく読むことができるようになったのは、弟子訓練がきっかけであり、少し怖かった旧約を恐れることなく読むことができるようになりました。
リーダーを信頼し、尊敬することが、自分の成長になることも体験しました。
神様がわたしの成長のために中央栄光教会に招いてくださり、そして、大きな変化となった弟子訓練を与えてくださいました。
訓練で学んだことを、これからもっと行動に移していきたいと思っています。

古郡武志

2008-11-12 11:30:48

 典型的なこどもの姿として思い浮ぶのは、古いイメージかもしれないが、玩具売り場の前で欲しいおもちゃをみつけて「これ買って」とお父さんやお母さんに向かってバタバタ泣き叫ぶ姿であろうか…こどもの頭にあるのはただ一つそのおもちゃを所有したいという自分の欲望を満たすことである。つまり、「自分を喜ばす」ことがすべてを支配するテーマである。
 しかし、おとなは「自分を喜ばす」ことを第一に考える態度・姿勢から脱却しなければならない。
 「自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした。」(ローマの信徒への手紙15章1~3節)とみことばにある。自分のことより人を優先して考える姿がおとなの目指す道なのだろう。
 口で言うのは簡単ではあるが、これほど困難なことはない。私は、まず人を差し置いても自分の名誉・生活の安定・心の平安・幸せを手にしたいと思ってしまう。この性質を脱して、キリストのような姿になるのは本当に難しいことだ。特に大人はいろいろ言葉を巧みに操ってもとどのつまり自分の喜びが一番大事というケースが多い。
 例えば、みんなでお寿司を食べているときに、大好きなウニの軍艦巻きが1個残っているとする。もし、おとなだったら、「どなたか召し上がりたい人いませんか?」と声をかけてみて、手を挙げた人に残った1個を差し上げるだろう。しかし、僕はそのように声をかけてしまうのをためらってしまうのではないか?誰も手を挙げなければよいが、もし誰かが手を挙げたら、ウニを食べるチャンスを失ってしまう。
 おそらく私の心理状態は、「自分がそのウニを食べたい」というものだろう。しかし、ここがずるいところで「じゃあ僕が最後の1個を」と言ってしまうといかにもがっついているかのような印象を与えてしまうので、ためらわれる。そして、誰かが「いや、古郡さん、
誰も食べないみたいなので、もしよかったら・・・」と声を出すのを待って、「そうか。しかたないねえ。残すのももったいないしねえ。」というのが理想的なシナリオであろう。こうすれば、がっついている印象を与えることなくして、ウニの軍艦巻きを食することができるのである。単純におもちゃ売り場で手足をばたつかせて自分の喜びを追い求めるのは「こども」の姿であり、深謀遠慮をめぐらし、いろいろ巧みに言葉を操りながらも結局は自分の喜びを目指しているのが「おとなの皮をかぶった子どもの姿」ではなかろうか?
 まだ私も「おとなの皮をかぶった子どもの姿」かもしれないが、この教会で神様のため人のために時間を使えるようになってきたのは嬉しいことだと思う。成熟した人は常に教会を助けて、教会を立てることにおいて先頭に立つという。
 奉仕をやめて他の事に時間を使いたくなることもある、遅くまで熟睡を満喫したくなることもある、さらには何らかの理由で教会から逃げたしたくなることがあるかもしれない。しかし、大人とは「泣き言」を言わないものだ。神様の喜びのためにこれらの心を叩きのめし、ねじふせたい。与えられた務めを全うし、責任を果たし、約束を守り、公約を実行できるかっこいい僕になりたいものだ。(あ、別にかっこよくなくてもいいか?)

田辺高幸

2008-11-15 09:14:40

会社で困ったことが起こった。水曜日の午後だった。これからはこの曜日はノー残業デーにしようということになり、そのつもりで仕事をしていた。その時、いきなり東京地方裁判所の人が現れた。話を聞くと、会社が家賃を滞納しており、大家が強制執行の訴えを起こしたという。当然、会社は家賃を払わないという契約不履行なので敗訴となり、現に働いている場所は仮押さえ物件となってしまった。
こういう事態になったが、冷静でいれた。自分もチーフなのでみんなを動揺させてはならないので、なだめて仕事をしてもらった。これが昔の僕だったらどうだろう。焦ってしまっていただろう。
これは明らかに成長である。その原動力となったのは聖書であり、牧師の教育であり、そして訓練だったと思う。辛い時、僕はやはり主の教えを教えてくださった存在の言葉が思い浮かぶ、先生の言葉であったり、訓練で学んだことであったり、訓練で鍛えられたことであったりである。
これは非常に感謝だ。今週は箴言をよく使役訓練の宿題とは別に、読んでいた。そこに書かれた知恵が僕を救ってくれた。弟子訓練日誌に書いてくださった先生の言葉も助けとなった。そして何より仕事も礼拝のつもりでやるという訓練の話が自分を真面目に仕事をさせてくれた。
何より主は神の右に座っていて、僕らのために執り成してくださっているのだ。安心して仕事に励もうと思う。そうすればいつか僕に救いが与えれると信じています。そんな気持ちにさせてくれた訓練のリーダーである先生、聖書、そして主にありがとうございますとお礼を言いたいと思います。主よ、本当に感謝します。これからもがんばります。どうかこれからもよろしくお願い致します。

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