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중앙영광교회

教会と私

이용규목사, 2008-10-09 19:48:00

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教会と私

御言葉//ローマの信徒への手紙12:5

1.        私は教会をどんな目で見ているか?
'私'と'教会'とは、どんな関係であろう?
私の人生において教会はどんな存在であろう?教会は私にどんな意味を与えてくれるであろう?
ある人にとっては、とても'面倒臭い存在'として、まるで屠殺場に引かれて行く羊のような気持ちで、やむを得ず出席だけする所であることもある。また、ある人にとっては'何の意味もない存在'として、都合によって、気が向いたら来るけど、気が向かなかったら何気なくサボっても別に構わない所であることもあるはずである。またある人にとっては、'すごく大事な存在'として、自分の人生の何とも変えられない所であることもあるはずである。
信頼の人にとって命のように重要な価値観があるが、それは物質観でも、結婚観でもない、まさに教会観である。。'教会をどんな目で見ているか?というのが、その人の信仰だけでなく、人生を左右するからである。他人の言う教会観は意味がない。自分が心から信じながら行う教会観のみが、まさに生きている教会観である。
教会観は私たちが作り上げるのではなく、神様から与えていただくものである。教会は神様の教会であり、神様が立ててくださったものだからである。
それでは神様がおっしゃっている教会観は何であろう?それが分からないと、教会観を正しく定立することができない。聖書的な教会観は、祝福された人生の根源である。この教会観を一つの文でよく表現してくれた御言葉が、まさに今日の本文の御言葉である。
'わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。'(ローマの信徒への手紙12:5)
私は部分(器官)であり、教会は部分が付いていなければならない体である。。
教会は、部分である私の体である。部分がいくら偉いとしても、能力があるとしても体から離れては生きられない。あなたの体は教会であるということを分からなければならない。教会を離れた信徒は、体から切られて行った部分のようである。そこで生きられないだけでなく、存在価値も無くなってしまう。
教会をどんな目で見なければならないか?
'教会は私の体である。' これが教会観の正解である。
信徒は教会を自分の身のように大事に思い、愛し、献身しなければならない。それがまさに自分を一番大事に思い、愛し、献身する道である。教会はまさに自分の身だからである。
  
2.        私はどんな家柄の子孫か?
神様が私たちに与えてくださった人生の二番目の目的は、'神様の家族として生きることである。これは確かに驚くべき特権であり、祝福である。
'しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。'(ヨハネによる福音書1:12)
神様は私たちに明確に、'神の子'の特権を与えてくださった。ところが、多くのクリスチャンがこの驚くべき権勢を自らあきらめ、孤児の人生を生きている。クリスチャンの中にこのような霊的な孤児があまりにも多い。霊的な家庭である教会を、自ら出てしまったからである。いくら良い家柄で生まれたとしても自ら家出をしてしまうと、その家からの幸いを満喫することができない。信仰の人は、教会で自ら晦ましたり家出したりする愚かさを犯してはいけない。自ら幸いを捨てる行為だからである。
世の中には4種類の家族がいる。
第一は、平家である。すなわち、平凡な家柄の家族である。
第二は、名家である。名門の家族である。経済、政治など世の中の各分野に名門家がある。ただ名門家の家族だという理由だけで、すでに数多くの特権が与えられる。名誉、物質、結婚などの驚くべき特権が自然に付与される。彼らの選択だからというよりは、名家の家族として生まれたから与えられる、ある面では運命的な特権である。
第三は、王家である。王の家族である。英語で表現すれば、ロイヤルファミリーである。この家族は革命が起きて王が変わらない限り、何百年以上、王の子孫としての権勢を子々孫々享受するようになる。
ところで、ロイヤルファミリーとは比べられない驚くべき家柄がある。それはまさに‘神家’である。神の家柄の家族である。言い換えれば、'神様の家族'という意味である。これが誰の話であるか?まさに私たちである。私たちは名門家の息子でも王の息子でもない、神さまの息子である。万軍の王である神様の息子である。この身分は、この地で終わるのではなく、永遠に維持される。イエス様はっきりおっしゃった。‘わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。’(ルカによる福音書22:29)
私たちはどれほど感激的な人物なのか分からない。世の中の王族とは比べられない一番偉い人々である。
自らこのように一回告白して見よう。‘私が神さまの息子だったな!''私が万軍の王である神様の息子だったな!’
どんなに力強い人でも、あなたのこの身分を変えることはできない。革命が起きても絶対変わらない。神様があなたを‘神の子’に決めておいたからである。祝福された運命だからである。受け入れなさい。享受しなさい。証しなさい。これが‘神の子’になった私たちがやるべきことである。
      
3.        私のいるべきところはどこか?
ところで思ったより多くの神様の家族たちが、群れを離れた羊のように、家族のいない子供のように、身から切られた指のように惨めな人生を過ごしているという事実を、分かっているか?
神様の家族なのに、なぜこんな惨めな人生を生きて行かなければならないか?答えは簡単である。群れから離れたから道を失った羊になったわけであり、家族を離れたから孤児になったわけである。身から離れたから切られた指のようになったわけである。
離れてはいけない。いるべきところにいるべきである。そうしないと、幸いを享受することができない。魚は水を離れてはいけないし、羊は群れを離れてはいけない。信徒は神様の体から離れてはいけない。それがすべてである。離れないでよく付いていることが一番の幸いである。ここで神様のおっしゃっている体は‘教会’である。
'あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。'(コリントの信徒への手紙12:27-28)
'教会はキリストの体であり、'(エフェソの信徒への手紙1:23)
'わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。'(ローマの信徒への手紙12:5)
私たちはキリストの体の部分である。
それでは、私が付いていなければならない体はどこか?学校か?それとも職場か?そうでない。部分としての私の身は、まさに教会である。教会は私の体である。体より大事なのはない。信徒にとって一番大事な所は教会である。教会には、信徒の存在理由と生死問題がかかっている。体から離れた部分は生きることができないからである。神様は教会を通じて自分の息子を守ってくださり、教会を通じて満たしてくださる。また教会を通じて使命をくださり、教会を通じて人生の意味を付与してくださる。
'魚が水から離れては生きられないように、信徒は教会から離れては生きていられない。'
'部分が体を離れて生きられないように、 教会から離れては生きていられない。'
私は部分であり、教会は体である。
信徒は、必ず教会に繋がれなければならない。教会の一部分にならなければならない。それだけが正常な'神の子'の姿であり、能力のある '神の子'の姿である。
'私たちは、各自神様の体である教会で、私たちの機能と存在意味を捜さなければならない。
切られた指や足指になったら、私たちに何の価値があるか?'(ローマの信徒への手紙12:4-5;Msg)
霊的に今私の姿はどうなのか?
切られた指か?それともやっと付いている傷だらけ指か?それともよく付いている能力の指か?
礼拜をささげて帰るだけで満足する信徒ばかりの教会には、希望がない。
元気な教会、力強い教会には、ただの出席信徒でなく、部分が多い。
教会の仕事に対していつも‘傍’観者の立場で‘受’動的な姿を見せる、いわば‘傍受’信徒になってはいけない。'フータック'信徒の姿も同じである。[フータック信徒 : 日曜日教会来る時にほこりの積もった聖書を口で'フ-'と吹き、残りのほこりを手で振って来る(これをタックという)信徒]
部分の多い教会が、希望のある教会である。
'出席信徒'でない、'部分信徒'にならなければならない。
何故ならば、私たちの本の姿は、教会の部分(器官)だからである。
'私がどうすれば教会に部分のように付いていることができるか?'
'私がどうすれば教会と部分のように一つになれるか?'
'私がどうすれば教会を私の体のように愛することができるか?'
'魚が水から離れては生きられないように、信徒は教会から離れては生きていられない。'
'部分が体を離れて生きられないように、 教会から離れては生きていられない。'

4 コメント

이용규목사

2008-10-09 19:48:51

바쁜 중에 이 진애 자매님이
번역을 해 주었습니다.

中森千草

2008-10-10 02:26:51

教会に通い始めたころは、教会に対する考えが軽く、体も弱く体調を崩しており よく主日礼拝を休んでいました。
大事だとか、重要とかそういった思いはなく、教会が私の体であることさえ考えたことはなかったです。
でも、早天礼拝に参加するようになってから、どんなに体調が悪くても教会に行く時間には目が覚め、神様が教会に行く姿を見ておられ、とても喜ばれておられるのを感じ、
それから教会に対する考えが変わりました。
教会につながっていてこそ神様は私を用いてくださいますし、教会と離れてしまえば、私の生きている意味はないと思うまでになっています。

古郡武志

2008-10-11 10:33:47

「教会」とは何でしょうか?
 信仰に入る前の私にとって教会とは、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂やドイツのケルン大聖堂のような有名な美しい建築物を意味していた。
そしてあるきっかけでとりあえず行ってみるかと軽い気持ちで通い始めた教会・・・
何故私が今まで通い続けることになったのでしょうか?
とても「面倒臭い存在」・・・うんその気持ちよくわかります。
休日の昼間から温泉に入って生ビールを飲むととても気持ちいいのです。
教会に行って心を洗い清めるよりも、昼間から硫黄成分の入った温泉の湯で体を洗い清めたい。
はたまた、郊外のゴルフコースに行きナイスショットを飛ばしたい、その後はクラブハウスで生ビールを飲むのが実に気持ちいいのです。
世の中には教会に行くことより楽しく自分に喜びを与えられることが一杯あります。
飲むことや食べることが大好きで怠け者な私が、休日の楽しみを放り出して何故に教会に通い続けることができたのか、不思議でしょうがありませんし、理論的に説明しようもないことだとは思います。
私にとって教会は「生きることの意味」を考えるきっかけを与えてくれる場所でした。「人生を導く目的」や「愛」について真面目に語られる場所は他にあるのでしょうか?教会の外で交わされる会話は、「今どんなビジネスをやれば儲かるか?」「キャリアアップして年収を上げる術は?」「安くておいしい居酒屋は?」「あの人はここがだめだ」とかです。これらの会話をしているときはそれなりに心が満たされているような気持ちになります。やっぱり収入上げたいし、おいしいものが好きだし、人の悪いところに陰口をたたきたくもなります。でも、それらは、心からの渇望に応える話しではありませんでした。「生の目的」とか「愛」とか人間の根幹にかかわる話しを分かち合える仲間がいるところ、だからこそ私が心魅かれいまだ教会に通い続けているのだと思います。
 「自分のこの命は与えられたものであり、自分で生み出したものではない。もし与えられたものとすれば、この命をどう使わなければいけないか?」教会は命であり、命を与えてくれるところであり、命を考えさせてくれるところでした。
 「教会は私の体である」この言葉はすでに信仰生活の短い私に対しあまりにも明確に示されていることでした。
 教会は、建築芸術でもなく、結婚式場でもなく、命であり、私たちの体そのものです。
教会の命の恵みをより多くの日本人とともに味わいたいと思いますし、そのために祈らなければいけないと思います。

田辺高幸

2008-10-12 03:58:48

私と教会の関係は、切っても切れないもの。聖書に書かれている体の一部。そんな風になっている。正直言って、僕が住む所からは遠くて、朝も早く起きなければならなく、当然、行くのにお金も掛かる。だけど、やはり僕は教会に足を運んでいる。僕が教会の一部であるように、実は教会が僕の体の一部でもある。体の一部が機能しなくなれば当然死ぬように、僕も教会が無ければ死ぬ。しかも生きながら死んでいるという悲惨な状態になる。だから僕は通っている。当然行くのは、創造主である神様に賛美捧げるのもあります。

神様の子供になったこと。それはとてつもなく凄いことだ。創造主は、当然全支配者である。そんな存在の子供になれたのは、喜びである。それに誇りを持ちたいと思っている。特権だからだ。

人が苦しいのは居場所がないことだと思う。路頭に迷うこと。とても辛い。僕には今、それがある。教会だ。そこに僕はいつもいるから安心していられる。だから大切にしたいと思っています。僕にとっての教会は、そういうところだ。だから僕は今後も教会とのお付き合いは永遠になると思います。

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