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중앙영광교회

礼拝と私

이용규목사, 2008-11-29 02:39:35

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礼拝と私

御言葉//ヘブライ人への手紙 13:15

1. 礼拝と私
'人生は礼拝である。'
神様は礼拝を受けるために人生を作った(イザヤ書 43:7)。イエス様も礼拝を受けるために人生を救いになった。(エフェソの信徒への手紙 1: 12) ということで、聖書には礼拜に対する規定が厳しく、詳らかに、そしてたくさん記録されている。安息日、節期礼拝に対する規定もうんざりする(?)位、たくさん強調されている。これは信仰生活で礼拝がいかに重要なのかをよく表しているのである。アブラハム、ノア、ダビデなど信仰の人々は常に礼拝とともにする人生を過ごした。

信仰の人が礼拝を遠ざけるのは、魚が水を遠ざけることと等しい。
礼拝を近付けなければならない。礼拝を愛しなければならない。礼拝が人生そのものになるようにしなければならない。
'自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。'(ローマの信徒への手紙 12:1)
'だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。'(コリントの信徒への手紙一 10:31)
人生が礼拝になるのが聖書的な人生である。
にもかかわらず、礼拝の基本中の基本である、主日礼拜を軽く思う人が少なくない。どうやって‘主日成守‘と言う言葉まで出てきてしまったのか?この言葉はある意味 '主日死守'より厳しい言葉かも知れない。当然守らなければならない主日礼拜なのに '成守'だの '死守'だとかいう言葉が出でこなければならない現実が切ないだけだ。

主日が休む日になったことも、その由来を見れば礼拝のためであった。
ローマ時代にはクリスチャンの殆どが奴隷だった。彼らは平日は熱心に仕事をしたが、主日になれば、お互いに約束でもしたように、皆手を止めて礼拜を捧げるために集まった。彼らはあらゆる迫害を受けながらも主日礼拜を死守したのだ。それで仕方なくてローマ政府は主日を休日に定め、奴隷たちが自由に礼拜を捧げるようにした。
主日は遊びに行く日ではなく、礼拜を捧げる日なのだ。
特に最近のように難しい時にはもっと目覚めて礼拜すべきだ。
'富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。'(歴代誌上 29:12)
万物は神様の手にある。被造物である私たちが先に神様の喜びになれば、万物の回復は時間の問題だ。神様は私たちの礼拝を通じて喜ばれる。だからこそ、もっと目覚めて礼拜に熱心にならなければいけない時だ。
2. 主日の福
主日は '新しい安息日'の恵みと '神様の日'の恵みをすべて受ける日だ。
新しい安息日の恩恵を通じて休む恵みを受けて、神様の日を通じて復活の恵みを受ける。真の休みは、神様のもとに来る時に生じる。それでイエス様も確かにおっしゃった。'疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに來なさい。休ませてあげよう。'(マタイによる福音書 11:28) 私たちが神様に完全に抱かれる時間は礼拝を捧げる時間なのだ。

神様は安息日の福をくださった。
'主は安息日を祝福して、聖別されたのである。'(出エジプト記 20:11)
安息日の福は休みと再充電の福だ。
ところで多くの人が安息日の福をまともに享受することができない。仕事のため、お金のため、勉強のため、試験のため… 安息日の福が強奪されている。本当におかしい事だ。このごろになって重要な試験はどうして日曜日にするのかわからない。

ロシアのある科学者が子犬 4匹を 96時間も寝かさない実験をしたと言う。すると 4匹がすべて死んだ。結論はこれだ。'全然寝かさないことは栄養を全然供給しないより生命にずっと大きい脅威になる。'しかし、どうして高等生物体が眠らなければならないかは明かすことはできなかったと言う。その理由は思ったより簡単だ。造り主である神様がそのように造ったからだ。神様は、休むことを通じて、再充電を通じて、私たちが生きて行けるようにした。休むことは一種の肉的再創造の過程だ。休むことを通じて肉がまた新しくなるようにした。それで十戒では安息日を犯すことを、殺人や偶像崇拝と同じ位恐ろしく扱っている。(出エジプト記20:3-17) 偶像を崇拜すれば死ぬ。また人殺しをすれば死ぬ。同じく、安息日を守らないと、それ自体が死に至る自動ドアなのだ。ということで、主日礼拜は命をかけて守るに値する価値が充分にあるのだ。

言葉を正しくしなければならない。
あなたが主日を守ってあげるのではなく、主日があなたを守ってくれるというのが正しい表現だ。だから主日が来る度に、主日をくださった神様に心より感謝して礼拜を捧げなければならない。あなたが生きるために。

3. 主日礼拝
安息日の真の意味は、何もしないのではなく、礼拜を通じた休みと充満を神様からもらうのだ。
'六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。'(レビ記 23:3)
主日は世の中の事を下ろして、聖なる集まり、すなわち礼拝を捧げる日だ。
旧約では創造主である神様に礼拜を捧げたが、新約では救世主である神様に礼拜を差し上げる。それで、イエス様が救いの使役を完成して復活した日が主日になったのだ。
私たちはイェス様の恩恵のため、神様に常に礼拜を捧げなければならない。
'だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。'(ヘブライ人への手紙13:15)
イエス様を思えば、礼拜を捧げざるを得ない。なぜなら、その方から受けた恩恵が私たちをそっとしておかないからだ。イエス様は私を自分の血潮で聖くするために、城門の外で十字架の苦難を代わりに受けたからだ。(ヘブライ人への手紙 13:12) イエス様は、私がすべてのものを持つようにするために、自分のすべてのものを、命までも捨てたからだ。
恩恵を知る人は、その恩恵に感謝しなければならない。

礼拜は神様の恩恵に応える行為だ。
主日礼拝は神様の恩恵に毎週応える時間だ。恩恵を返す道は、恩恵に応えることだ。恩恵を受けたら必ず口で感謝のお返しをしなければならない。だから礼拝は唇の実だ。神様は恩恵によく応える人々を非常に喜ぶ。そんな者等を求めていらっしゃる。神様は礼拝をよく捧げる者を求めていらっしゃる。(ヨハネによる福音書 4:23)
あなたのために流してくださった 'キリストの血'は、あなたが神様に毎週礼拝を捧げなければならない十分な理由だ。これに対してリック・ウォレンはこのように述べた。
'もし神様があなたに他のことは一つもやってくださらなかったとしても、イエス様が十字架であなたのためにやってくださったことだけでも、その方はあなたの残った生涯の間、賛美を受けるに値する方だ。神様の息子があなたのために死んだ。これがあなたが礼拝を捧げる最大の理由なのだ。'

あなたが礼拝を捧げる本当の理由は何か?
今は神様に礼拝する気分ではないか?感謝する気持ちではないか?ほめたたえる気持ちではないか?絶対にそうではない。あなたが礼拝する理由は他の条件のためではなく、ただキリストの血のためだ。イェス様があなたのために流してくださった聖血のため、あなたは礼拜を捧げなければならない。やっと一月暮らす月給を受けるため、朝から夜まで会社のためにそれほど献身しながらも、あなたにすべてのものを与えて下さった神様に、一週間にやっと一度出て礼拜を差し上げることにそんなにけち臭くしたり、恩着せがましくしたり、言い訳をしたりしてよいのか?人としてありえない事だ。
他のものは知らずとも、主日礼拜だけはきちんと捧げなければならない。

4. 礼拜への準備ができた者
それではどうすれば主日礼拜をきちんと捧げることができるか?
礼拜への準備ができた者にならなければならない。準備した分、恩恵は満たされる。
私たちは礼拝の観衆ではない、選手である。翌日重要な試合があるのに、夜おそくまでお酒を飲んで遊んで翌日朝寝坊して試合場所に遅れた人がどうやってゴールを決めることができるだろうか?そんな人はボールが来るのを自ら避ける。時間だけ潰して、席だけ占める情けない選手だ。御言葉のボールが飛んで来た時、正しく素敵なゴールを決められる人は、礼拝のために前日からよく準備をした人だ。お祈りと御言葉でよく準備して、なによりも土曜日は早く寝なければならない。夜おそくまで TVやインターネット、無駄話に夢中になっていれば、これは霊的に世の中に酔った人だ。土曜日は主日礼拜のために一時間以上祈るのを薦める。そしてサタンの攻撃を退けなければならない。サタンは土曜日になれば、あなたの周り人々を通じて、あなたの主日の財宝倉庫を掠奪しようとけんかをうる。サタンの活動が一番旺盛な時は、土曜日と主日の朝だ。主日の天国の祝宴に出られなくするためだ。喧嘩してはいけない。夫婦けんか、家族の間の喧嘩、友達の間の争いは絶対禁止だ。喧嘩して来てから、恵みを受ける人はいない。けんかはサタンの高度の計略だ。どんな事があっても土曜日と主日は喧嘩するな。その背後には徹底的にサタンの操縦がある。どうしても争わなければならないのであれば、主日礼拜後に延ばしなさい。そうすれば、争う事が自ら消えるでしょう。
信者が一番覚めていなければならない時は土曜日と主日だ。なぜなら、主日礼拝があるからだ。
'身を慎んで、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと捜し回っています。(ペトロの手紙一 5: 8)
土曜日と主日午前はサタンのえじきにならないように特別に気を付けなければならない。

十人の娘の比喩で、準備した者等は一緒に婚姻の宴会に入って、準備しない者等は宴に参加することができなかったと言った。(マタイによる福音書 25:10-12) 礼拜の時に門が閉まって外に震えて立っている者になってはいけない。神様の宴に参加してご自由に食べて飲まなければならない。そうするためには必ず準備をしなければならない。土曜日の準備は言うまでもなく、主日は礼拜 30分前には到着し、できれば前の席に座って、お祈りと賛美でよく準備しなければならない。ロックフェラーはいつも礼拝を捧げる30分前に来て前の席に座り、礼拜を捧げ、御言葉を聴くことに誰よりも努力する人だった。
礼拜の成功はすなわち人生の成功の踏み石だ。
よく用意した礼拜は、よく用意した人生の保証小切手だ。
'この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。'(マタイによる福音書 15:8,9)
‘主は言われた。この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。 
彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ。‘(イザヤ書 29:13)
'礼拜が生きると人生が生き、準備が生きると礼拜が生きる。'

5 コメント

이용규목사

2008-11-29 02:40:13

황후연 형제님의 은혜로운 번역입니다.
늘 감사합니다.

中森千草

2008-11-29 05:43:47

クリスチャンの幼稚園に通っていて日曜学校が一番楽しく、弟と手をつないでスキップしながら教会に通っていたことを強く記憶しています。
どうしてかはよく分かりませんが、幼稚園より日曜学校が楽しかったのです。
神様は私たちの一番の安らぎ、そして疲れた心と体を癒し力を与えてくださる所が教会であること、そして何より私たちの喜び、幸せは主日礼拝によっていただけるように、造られたように感じます。
神様が造られたことに対して忠実になり、礼拝を成功させたいです。そして祈りをもって準備に力をいれていきます。

田辺高幸

2008-11-29 11:03:25

会社の方は、裁判が始まったようで静観するのみの状態である。正直言うと、職を変えるのは非常に嫌だし、面倒だし、何より今の仕事には面白さを感じているので、会社にはしっかりした状態になってほしいと祈っている。神様が今、僕に与えてくれる仕事は今の会社の仕事であるのだから、それを行いたいと思っている。そしてそれを礼拝として勤めたいと思っている。
だが最悪な場合、職を変えるとなると、僕にはどうしても一つの条件が出てくる。それは必ず日曜日が休みでなければならないということだ。主日なのだ。どうして仕事をしていいのか?そう思ってしまうから、間違いなくその日に仕事をすれと言われれば迷いなくその会社は辞めるしかなくなる。僕にとって、それだけ日曜日は重要な日となった。
今後もその考えは変わらないのは間違いがない。主日こそ大切な日なのだから、大切にしたい。僕にとってこれこそ一番大切な日、それは日曜日なのである。

古郡武志

2008-11-29 11:11:31

「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」

鋭い言葉である。
すべてはお見通しとはこのことである。
大切な主日も、朝、賛美の練習時刻に遅れてはいけないと慌てて朝食もとらずに電車に駆け込むことからスタートしてしまうことが多いが、そんな慌しさの中で、私の頭の中には、いろいろな雑念がよぎってしまっている。
「ああ、朝食食べてなかったから、お腹すいた。何か食べてくればよかった。でも、属会のときにおにぎりがでるから、助かるよ」
「あ。しまった、使役訓練の暗唱ができてなかった。」
「あ、今日、誕生日だからケーキがあるかも…モンブランがいいなあ。」
「いいネタが思いついたけど、すべっちゃうだろうなあ…」
一瞬でも心によぎったものを全部書いていったら、尽きることはないだろう。

何故このような雑念が思い浮かぶのかといえば、口で「神様を愛し、神様の喜びのために」と言いながらも、礼拝に自分の喜びのために参席するという思考・感覚から脱却できていないからだと思われる。

しかし、そんな偽善をそのままにしておかずに警告して下さった神様に感謝したい。

私たちのために鞭打たれ、侮辱され、血を流され、苦しまれ、命まで捧げられたイエス様の歩まれた道を考え、雑念をすて、「神様の喜びのために」という思いが心の全領域を支配するようにきちんと準備して礼拝を送りたいと思う。

御言葉は、食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさいと教えてくれている。教会で、賛美曲を歌うときも、説教を聴くときも、人と話
すときも、食べるときも、すべて神の栄光のために行うということである。さらには、うけるにしろ、すべるにしろ、属会でネタを披露することですら、兄弟姉妹の心を明るくすることを通して、神の栄光を現すために行うのである。(心を寒くしてたら、ごめんなさい)

冒頭の御言葉がこう変わりますように
「古郡君は心からわたしを敬っているし、その心はわたしと密着している」

厳しい御言葉をありがとうございます。

木下 

2008-11-30 06:44:00

神様の恩恵によって、現在の状況に満足して心に感謝の気持ちを持つことができます。また、心に安らぎと充足感を与えてくださいます。この感謝の気持ちを持って、少しでも日常生活で出会う人々にやさしさと親切な気持ちで接することが出来るのはとても幸せなことだと思います。また、自分の力では不可能と思われることでも神様なら必ずできると信じて神様に心の思いを伝えるとき心が軽くなり、新たな力が湧いてきます。主日の礼拝においても、神様への感謝の気持ちを持って参席していきたいと思います。

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