「苦難に勝つ」
御言葉//ヨブ記1:20-22
1. 苦難に対する間違った見解
1) 信仰生活をちゃんとしているのに、なぜ私にこのような苦難がやってくるのか。
イエスをよく信じると苦難が少なくなるか、なくなるだろうと、人々は考える。
そのため、苦難にあうことを変な目で見る傾向がある。では、信仰の体表選手だとも言えるヨブ、ダビデ、パウロはどうだったのか。彼らには苦難がなかったのか。違う。逆に、彼らには体表的に苦難が多かった。さらに、神様であるイエス様はどうだったのか。十字架の死の苦難まで受けたのではないか。
必ず確かめなければならないことは、イエス様を信じても苦難はやってくる。十字架(苦難)がない人生はない。ただ、十字架を背負っていく姿が違うだけである。喜んで背負っていっているか。あるいは、苦しみながら引きずっていっているか。
信仰の人と世の中の人との差は、苦難が違うということではなく、苦難に対する反応(観点)が違うだけである。世の中の人は苦難が来ると、「もうおしまいだ。」と思い、苦難に自ら降伏し、人生をあきらめようとしている。しかし、信仰の人は違う。最高の喜びとして受け入れ(ヤコブ1:3、マタイ5:12)、苦難のえさになるのではなく、苦難をえさにさせる。
信仰は、苦難を変えてくれるのではなく、苦難に対する反応を変えてくれる。
知恵のある人は、苦難を変えようとしないで、苦難に対する自分の態度を変えようとする。
2) 苦難は自分を滅ばせる?
苦難はあなたを滅ばせたり、盛んにさせたりしない。苦難はただ苦難である。あなたの選択によって、同じ苦難があなたを滅ばせることもでき、盛んにさせることもできる。「苦難の手」ではなく、「あなたの手」によるものである。
「卑しめられたのはわたしのために良いことでした…」(詩119:71)
苦難はその当時は本当に嫌だろう。肉体の苦しみが伴われるからである。
しかし、後から見ると本当に感謝することである。それが逆に成長のエネルギーになり、祝福になるためだ。「万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)。そのため、神様の御前での苦難を「変装された祝福」だとも言うのではないか!
「 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:10)
「 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:12)
3) 苦難はただ罪によって来る?
もちろん、自分の罪によってくる苦難もある。しかし、そうではない場合もものすごく多い。罪だけだと思うと、自分に苦難がやってくる場合、罪責感と無力感に落ちいやすい。そして、他人に苦難がやってくる場合、罪を定め、批判する。
また、苦難は自己管理のミスからも来る。自分の体の世話をしないで無理すると、必ず体に病みつく。体を通して苦難がやってくる。この場合は、百薬も聞かない。適宜に休まなければならない。お金や時間の管理も同じである。この管理がうまく出来なければ、これらが必ず苦しみを与える。悪い習慣も一緒である。その習慣を変える前までは、苦しみは消えない。
上記の二つは罪と愚かさからくる苦難である。これは、自分もその理由を知っている。しかし、次の二つは「自分が全然間違っていないのにくる苦難」である。いわゆる、理解できない苦難である。これは、「正しい人の苦難」だと言えよう。
その第一の苦難は「迫害性苦難」である。この苦難は、イエス様を信じることによってくる苦難である。初代教会の信者の大部分の苦難はこの苦難であった。これは、サタンの邪魔立てである。このとき、私たちが苦難に負けると、サタンの作戦は成功になる。これは、すなわち霊的な戦いの現場である。負けてはいけない。初代教会のパウロと使徒たちの姿がこうだった。彼らは殉教の現場までいって戦った。そのときは、ただ悪魔に反抗しなければならない。退いてはいけない。
「 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)
「 イエス․キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」(使16:18)
最後に、テスト性(訓練性)苦難がある。ヨブやヤコブの信徒への手紙が代表的である。このときは、特に言葉に気をつけながら忍耐するのが一番良い。ふいごの火の中に入れられた陶磁器のように、最後まで忍耐(途中割れないで)する者だけ、真の作品になれる。
「 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブ1:12)
あなたは今どんな理由で苦難にあっているのか。
病ごと処方が違うように、苦難ごと解決の方法が違うということを必ず覚えて、実践しなければならないだろう。
罪によって苦難にあっているか。悔い改めなさい。罪の問題は神様のみ解決できるからである。
「 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの手紙一1:9)
管理のミスで苦難にあっているか。すぐ間違っていることを直しなさい。これは、自分だけ解決できる問題である。非常に無理をしたら少し休み、お金を変なところに浪費していたら、お金を節約しながら正しく使いなさい。悪い習慣によって苦しみが来たら、すぐ習慣を変えなさい。変えなければ、苦難は絶対無くならない。これは、神様もどうすることができない。人生には思ったよりこのような苦難が多い。大部分の大きな病は、間違った生活の習慣からくる「生活習慣病」だという事実を通しても分かる。
迫害生苦難にあっているか。喜びなさい。あなたは神様の兵士として今霊的な戦場にいることを覚えてほしい。そして、イエス様の御名の武器を持ちなさい。イエス様の御名によって、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔が退く。
テスト性(訓練生)苦難にあっているか。他の方法はない。最後まで忍耐しなさい。
命の冠があなたを待っている。
2. ヨブが苦難に勝った秘訣
ヨブは罪や過ちがあって苦難を受けたのではない。ヨブは神様が認められた、当時最高の正しい人であった。よって、ヨブの苦難は「正しい人の苦難」であった。ヨブが受けた苦難をまず調べてみよう。あなたが今受けている苦難と比べていただきたい。
1) 3大の苦難
ヨブは私たちの人生の3大の苦難を一気に経験した人である。
最初の苦難は、やはり金の苦難である。ヨブは東の国一番の富豪であった。羊が七千匹、牛が千頭もいた。しかし、このすべての財産が一日でなくなった。実に丸裸になってしまった。百万年が入っている財布をなくしても大変だが、全財産をなくした苦しみはいかに大きかっただろうか。大企業の会長も自殺をすることをみれば、少しは分かるだろう。
二番目の苦難は、子ども(家族)の問題である。ヨブは息子が7名、娘が3名いた。彼らが一日で、みな大風によって家が倒れ、全員死んでしまった。
三番目の苦難は、健康の問題である。頭のてっぴんから足の裏まで、ひどい皮膚病で苦しんだ。顔にこぶ1個できても辛いのに、体全身にハンセン病よりひどい皮膚病になってしまったから、この苦難をどうやって耐えられただろう。
ヨブは一日で財産、家族、健康が全部無くなった。
あなたなら、こういうときどうやって反応しただろうか
ヨブはどうやって反応したか。
ヨブは世間が驚く反応を見せる。彼は口から絶対罪を犯さなかった。苦難を受けるときは、何より口を重くしなければならない。口が倒れると、苦難に倒れてしまう。ヨブは苦難の誘惑からも自分の口を守っただけでなく、その口で神様の御名を高め、賛美した。そして、彼の妻が口で「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(ヨブ2:9)と誘惑したときも、 「お前まで愚かなことを言うのか」(10)と言いつつ、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」とした。(10)
口は人生の扉である。この扉を通して災いが入ってきたり、祝福が入ってきたりする。特に、苦難のときに口が罪や災いに開きやすいということを忘れてはならない。
2) ヨブの勝利の秘訣
ヨブはどうやってこの3大の苦難に勝てたのか。その力は果たしてどこから来たのか。私たちもこのような勝利の人になれるのか。これに対する答えは、ヨブの言葉によく出ている。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)
自分は手ぶらで来たということである。何も持ってきたものがないということである。元々、自分のものは一つもないということである。自分がもっているのは、すべて神様が与えられた。それですべてが神様のものである。神様のものをしばらく管理していただけである。よって、神様が後でそれを戻そうとしら、なぜ苦しむのか。ある良い人がいいマンションを2年間無料で貸してくれて返してくださいといったら、苦しんでいいか。逆に、この2年間ただで使うようにしてくれたことに感謝しながら、喜んで返すのが礼儀ではないか。元々、自分のものではないから、当たり前である。
人生がなぜ苦しいか。神様のものを自分のものだと我を張って生きていくからである。
ヨブはすべてを全部失ったが、苦しくなかった。神様のものを神様のものとして正しく認めたからである。財産も神様のもの、子どもも神様のもの、健康も神様のものであることを信じていた。
「私の人生は神様のものであり、神様は私の人生の主人だ。」
「元々、私のものはない、すべてが神様のものだ。」
神様が主人だというこの「主権信仰」が、ヨブを耐えられない苦難から勝利させて力だった。すべてを自分のものだと考える人は、苦難にあったときすぐ挫折してしまう。自分のものを失い、奪われ、損になったと思うからである。しかし、神様のものだと信じている人は、主人に返すと思うから、たとえ全部を失っても大丈夫である。それが元々自分の本来の姿からである。
人生を楽に過ごしたいのか。
人生を自由に過ごしたいのか。
人生を幸せに過ごしたいのか。
すると、今すぐあなたが奪っていたすべての所有権を神様に返しなさい。これが、ヨブの人生の力の秘訣であり、祝福の秘訣だった。
苦難のときにヨブが見せた反応を学ぼうとしないで、苦難の前にヨブが持っていた「主権信仰」を学びなさい。そうすれば、能力の反応はそのまま出るだろう。
御言葉//ヨブ記1:20-22
1. 苦難に対する間違った見解
1) 信仰生活をちゃんとしているのに、なぜ私にこのような苦難がやってくるのか。
イエスをよく信じると苦難が少なくなるか、なくなるだろうと、人々は考える。
そのため、苦難にあうことを変な目で見る傾向がある。では、信仰の体表選手だとも言えるヨブ、ダビデ、パウロはどうだったのか。彼らには苦難がなかったのか。違う。逆に、彼らには体表的に苦難が多かった。さらに、神様であるイエス様はどうだったのか。十字架の死の苦難まで受けたのではないか。
必ず確かめなければならないことは、イエス様を信じても苦難はやってくる。十字架(苦難)がない人生はない。ただ、十字架を背負っていく姿が違うだけである。喜んで背負っていっているか。あるいは、苦しみながら引きずっていっているか。
信仰の人と世の中の人との差は、苦難が違うということではなく、苦難に対する反応(観点)が違うだけである。世の中の人は苦難が来ると、「もうおしまいだ。」と思い、苦難に自ら降伏し、人生をあきらめようとしている。しかし、信仰の人は違う。最高の喜びとして受け入れ(ヤコブ1:3、マタイ5:12)、苦難のえさになるのではなく、苦難をえさにさせる。
信仰は、苦難を変えてくれるのではなく、苦難に対する反応を変えてくれる。
知恵のある人は、苦難を変えようとしないで、苦難に対する自分の態度を変えようとする。
2) 苦難は自分を滅ばせる?
苦難はあなたを滅ばせたり、盛んにさせたりしない。苦難はただ苦難である。あなたの選択によって、同じ苦難があなたを滅ばせることもでき、盛んにさせることもできる。「苦難の手」ではなく、「あなたの手」によるものである。
「卑しめられたのはわたしのために良いことでした…」(詩119:71)
苦難はその当時は本当に嫌だろう。肉体の苦しみが伴われるからである。
しかし、後から見ると本当に感謝することである。それが逆に成長のエネルギーになり、祝福になるためだ。「万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)。そのため、神様の御前での苦難を「変装された祝福」だとも言うのではないか!
「 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:10)
「 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:12)
3) 苦難はただ罪によって来る?
もちろん、自分の罪によってくる苦難もある。しかし、そうではない場合もものすごく多い。罪だけだと思うと、自分に苦難がやってくる場合、罪責感と無力感に落ちいやすい。そして、他人に苦難がやってくる場合、罪を定め、批判する。
また、苦難は自己管理のミスからも来る。自分の体の世話をしないで無理すると、必ず体に病みつく。体を通して苦難がやってくる。この場合は、百薬も聞かない。適宜に休まなければならない。お金や時間の管理も同じである。この管理がうまく出来なければ、これらが必ず苦しみを与える。悪い習慣も一緒である。その習慣を変える前までは、苦しみは消えない。
上記の二つは罪と愚かさからくる苦難である。これは、自分もその理由を知っている。しかし、次の二つは「自分が全然間違っていないのにくる苦難」である。いわゆる、理解できない苦難である。これは、「正しい人の苦難」だと言えよう。
その第一の苦難は「迫害性苦難」である。この苦難は、イエス様を信じることによってくる苦難である。初代教会の信者の大部分の苦難はこの苦難であった。これは、サタンの邪魔立てである。このとき、私たちが苦難に負けると、サタンの作戦は成功になる。これは、すなわち霊的な戦いの現場である。負けてはいけない。初代教会のパウロと使徒たちの姿がこうだった。彼らは殉教の現場までいって戦った。そのときは、ただ悪魔に反抗しなければならない。退いてはいけない。
「 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)
「 イエス․キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」(使16:18)
最後に、テスト性(訓練性)苦難がある。ヨブやヤコブの信徒への手紙が代表的である。このときは、特に言葉に気をつけながら忍耐するのが一番良い。ふいごの火の中に入れられた陶磁器のように、最後まで忍耐(途中割れないで)する者だけ、真の作品になれる。
「 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブ1:12)
あなたは今どんな理由で苦難にあっているのか。
病ごと処方が違うように、苦難ごと解決の方法が違うということを必ず覚えて、実践しなければならないだろう。
罪によって苦難にあっているか。悔い改めなさい。罪の問題は神様のみ解決できるからである。
「 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの手紙一1:9)
管理のミスで苦難にあっているか。すぐ間違っていることを直しなさい。これは、自分だけ解決できる問題である。非常に無理をしたら少し休み、お金を変なところに浪費していたら、お金を節約しながら正しく使いなさい。悪い習慣によって苦しみが来たら、すぐ習慣を変えなさい。変えなければ、苦難は絶対無くならない。これは、神様もどうすることができない。人生には思ったよりこのような苦難が多い。大部分の大きな病は、間違った生活の習慣からくる「生活習慣病」だという事実を通しても分かる。
迫害生苦難にあっているか。喜びなさい。あなたは神様の兵士として今霊的な戦場にいることを覚えてほしい。そして、イエス様の御名の武器を持ちなさい。イエス様の御名によって、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔が退く。
テスト性(訓練生)苦難にあっているか。他の方法はない。最後まで忍耐しなさい。
命の冠があなたを待っている。
2. ヨブが苦難に勝った秘訣
ヨブは罪や過ちがあって苦難を受けたのではない。ヨブは神様が認められた、当時最高の正しい人であった。よって、ヨブの苦難は「正しい人の苦難」であった。ヨブが受けた苦難をまず調べてみよう。あなたが今受けている苦難と比べていただきたい。
1) 3大の苦難
ヨブは私たちの人生の3大の苦難を一気に経験した人である。
最初の苦難は、やはり金の苦難である。ヨブは東の国一番の富豪であった。羊が七千匹、牛が千頭もいた。しかし、このすべての財産が一日でなくなった。実に丸裸になってしまった。百万年が入っている財布をなくしても大変だが、全財産をなくした苦しみはいかに大きかっただろうか。大企業の会長も自殺をすることをみれば、少しは分かるだろう。
二番目の苦難は、子ども(家族)の問題である。ヨブは息子が7名、娘が3名いた。彼らが一日で、みな大風によって家が倒れ、全員死んでしまった。
三番目の苦難は、健康の問題である。頭のてっぴんから足の裏まで、ひどい皮膚病で苦しんだ。顔にこぶ1個できても辛いのに、体全身にハンセン病よりひどい皮膚病になってしまったから、この苦難をどうやって耐えられただろう。
ヨブは一日で財産、家族、健康が全部無くなった。
あなたなら、こういうときどうやって反応しただろうか
ヨブはどうやって反応したか。
ヨブは世間が驚く反応を見せる。彼は口から絶対罪を犯さなかった。苦難を受けるときは、何より口を重くしなければならない。口が倒れると、苦難に倒れてしまう。ヨブは苦難の誘惑からも自分の口を守っただけでなく、その口で神様の御名を高め、賛美した。そして、彼の妻が口で「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(ヨブ2:9)と誘惑したときも、 「お前まで愚かなことを言うのか」(10)と言いつつ、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」とした。(10)
口は人生の扉である。この扉を通して災いが入ってきたり、祝福が入ってきたりする。特に、苦難のときに口が罪や災いに開きやすいということを忘れてはならない。
2) ヨブの勝利の秘訣
ヨブはどうやってこの3大の苦難に勝てたのか。その力は果たしてどこから来たのか。私たちもこのような勝利の人になれるのか。これに対する答えは、ヨブの言葉によく出ている。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)
自分は手ぶらで来たということである。何も持ってきたものがないということである。元々、自分のものは一つもないということである。自分がもっているのは、すべて神様が与えられた。それですべてが神様のものである。神様のものをしばらく管理していただけである。よって、神様が後でそれを戻そうとしら、なぜ苦しむのか。ある良い人がいいマンションを2年間無料で貸してくれて返してくださいといったら、苦しんでいいか。逆に、この2年間ただで使うようにしてくれたことに感謝しながら、喜んで返すのが礼儀ではないか。元々、自分のものではないから、当たり前である。
人生がなぜ苦しいか。神様のものを自分のものだと我を張って生きていくからである。
ヨブはすべてを全部失ったが、苦しくなかった。神様のものを神様のものとして正しく認めたからである。財産も神様のもの、子どもも神様のもの、健康も神様のものであることを信じていた。
「私の人生は神様のものであり、神様は私の人生の主人だ。」
「元々、私のものはない、すべてが神様のものだ。」
神様が主人だというこの「主権信仰」が、ヨブを耐えられない苦難から勝利させて力だった。すべてを自分のものだと考える人は、苦難にあったときすぐ挫折してしまう。自分のものを失い、奪われ、損になったと思うからである。しかし、神様のものだと信じている人は、主人に返すと思うから、たとえ全部を失っても大丈夫である。それが元々自分の本来の姿からである。
人生を楽に過ごしたいのか。
人生を自由に過ごしたいのか。
人生を幸せに過ごしたいのか。
すると、今すぐあなたが奪っていたすべての所有権を神様に返しなさい。これが、ヨブの人生の力の秘訣であり、祝福の秘訣だった。
苦難のときにヨブが見せた反応を学ぼうとしないで、苦難の前にヨブが持っていた「主権信仰」を学びなさい。そうすれば、能力の反応はそのまま出るだろう。
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3 コメント
박유진
2007-06-12 01:04:23
安間チョウコ
2007-06-14 00:16:52
저는 일본사람에서 일본번역이 붙고 있지면 더 좋습니다.
이제부터 기대 하겠습니다.
木下
2007-06-15 07:10:08
苦難の時、口を重くすることの大切さを感じました。自分の思い通りにならないとき、自分自身や環境に対して不満の言葉や気持ちを持たないようにすることを心がけて生きたいです。
すべて私の持っているものは神様が与えてくださっているものであり、環境もすべて神様が私にとって益となるようにしてくださっていることを忘れないようにしたいです。