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중앙영광교회

弟子の道

이용규목사, 2011-04-01 17:08:43

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弟子の道

イエス様は、これと思う人々を呼び寄せられ、12人を任命しました。
この人々を、私たちは12弟子と呼びます。彼らは、おそらく今の信仰の人々のモデルで、憧れの対象かもしれません。彼らは、イエス様から直接訓練を受けた最初で最後の弟子だからです。
イエス様はなぜ彼らを呼ばれたのでしょうか。一部の弟子たちの考えのように、上席に座らせるためでしょうか。ご自分の右腕にするためでしょうか。いいえ。イエス様は3つの事のために彼らを呼ばれました。今のクリスチャンは、どの事よりこの3つの事に専門にならなければなりません。弟子の使命は、昨日も、今日も、永遠に同一だからです。
私たちはイエス様の弟子として何をすべきでしょうか。イエス様は私たちが何をすることを願われるのでしょうか。
本当のクリスチャンは、自分がやりたいことだけをする人ではなく、主が命じられたことを一生懸命する人です。

1.「共に」
「彼らを自分のそばに置くため」
人生は、誰と共にいるかが大切です。世の中の立派な人と共にいることも大きな祝福ですが、イエス様と共にいることは、人生最高の祝福です。多くの人々は、この祝福の大事さが分からなくて、「共にいる」ことの祝福がありません。逆に、ある人は面倒で大変だと思う場合もあります。イエスを信じる人の一番大きな祝福は、主が共におられる祝福です。
「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア1:5)
そうです。モーセと共におられた神様、ヨシュアと共におられた神様が、今あなたと共におられます。
イエス様が弟子たちを呼ばれた第1の目的は、彼らと共におられるためです。
イエス様は私たちと共におられることを、切に願われます。共にする祝福を与えようとしています。私たちと交わりをすることを願われます。愛の交わりです。日常生活でいつも、共におられることを願います。神様を締め出して、自分たちだけいることを神様は喜ばれません。私たちが世の友となることを本当に嫌います。どのくらいかというと、このような人を「不貞のやから(韓国訳、英訳では、「姦淫した女性」)」だと比喩しました。
「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。」(ヤコブ書4:4、口語約)
フランク・ルーバック(FRANK LAUBACH)は、「神様も、私たち皆の愛を切に待っておられる」と言いました。
神様は、私たちと愛の対話を話したいと願っておられます。神様がすべての獣とすべての鳥を造り、アダムに名前をつけさせながらずっと対話をしたように、神様は今も私たちと話をすることを願われます。
神様は、言葉で話ができない時は、苦難で揺らすこともあります。お腹がいっぱいになった時より、お腹が空いた時のほうが、神様の御声はより鮮明に聞こえてきます。お腹がいっぱいだと、霊の耳がうまく聞こえない場合が多いです。信仰の人々は、苦難が来た時に外的な災難だけに焦点を当ててはいけません。すべての苦難の中では、神様が話そうとするメッセージがあります。このメッセージを見逃すと、苦難は苦しみで終わるかもしれませんが、神様の御声を聞くと、苦難は必ず祝福に変わります。
「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」
(詩篇119:71)
苦難は、神様の御声の拡声器です。苦難の時は、不思議ほど主の御声がよく聞こえます。これが、苦難の時に頂く最高の祝福です。
ある宣教団体で長い経験から学んだ、百万ドルの価値のある問いを紹介します。
「神様、今この状況から私に何を教えようとしていますか。」です。
何かがあった時には、神様の御心が何だろう、神様が何を話そうとしているか、聞くべきです。習慣の中で一番大切な習慣は、神様に聞く習慣です。神様にはよく聞くほどいいです。神様は私たちと話をしたがるからです。
イエス様が聖霊様を私たちに送ってくださった目的が何か、知っていますか。私たちと共におられるためです。それも、初めから私たちの中に留まるすることを願ったからです。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の辯護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる...この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
(ヨハネによる福音書14:16,17)
主はこのように私たちと共におられることを喜ばれますが、果たして私たちはどうでしょうか。神様と交わりをすることが、もしかして大変で負担だと思っていませんか。
イエス様は、必ず再び来られます。聖書は、世の終わりについて300回も言及しています。
「 「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)
しかし、なぜイエス様が再び来られるか、知っていますか。これも、私たちと共におられるためです。
最初、イエス様は肉で一時的に限定された所で信仰の人々と共におられました。その後、聖霊によってすべての信じる者と一生共におられます。そして、最後には直接来られ、私たちを連れて行き、永遠に共におられます。
「 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に复活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(テサロニケ一4:16,17)
信仰の人々は、主と共におられる人生が何より大事です。どこで何をしても、いつも主に聞きながら対話をする生活、お祈りと御言葉で交わりをする生活こそ、霊的に起きている人生であり、生きている人生、力のある人生です。信仰の人々は、これをいつも人生の第一にすべきです。

2. 「宣教(伝道)と権能」
「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」
(マルコ3:14,15)
弟子のなすべき第一の事は、主と交わりをすることで、第二の事は伝道、第三は霊的な権能を使用することです。
イエス様が最初弟子たちを呼ばれる時に、どうやって呼ばれたのですか。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)と言われました。
伝道はいかに祝福されたことでしょう。魚をとる漁師を、人間をとる漁師に変えることだからです。魚1匹をとると、1食の食事しかなりませんが、一人を伝道すると、その人に永遠な命を与えるものすごいことになります。死にそうになっている人を、有名な医師が一時的に(長くても一生)生かせることもすばらしいのに、伝道で永遠の命を与えることはいかに偉大なことでしょう。
イエス様はほかに70人を任命しました。二人ずつ福音を述べ伝えるために行かせました。その時も、今も、伝道する人は足りなかったです。そのため、「収穫のために働き手を送ってください」とお祈りするようにと、イエス様が自ら先におっしゃいました。私たちは常にこのお祈りを休んではいけません。特に、日本は収穫のための働き手が足りないためです。
「主よ!ここに収穫のために働き手を送ってください!」
「主よ!ここに収穫のために働き手を送ってください!」
「主よ!ここに収穫のために働き手を送ってください!」
七十人が伝道に行って、喜んで帰って来てこう言いました。
「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(ルカ10:17)
本当に驚くことです。世のどの武器でも悪霊を屈服させることはできません。悪霊は銃も、爆弾も、地震も怖がりません。しかし、悪霊がすぐ屈服する武器があります。悪霊は霊的な存在だから、霊的な武器が必要です。霊的な武器は神様から頂かなければなりません。そのため、イエス様は弟子たちに悪霊を追い出す権能を与えました。それが何か知っていますか。「イエス様の御名」です。「イエス様の血」です。イエス様は、私たちが思う存分この武器を使う権利を与えました。パウロが悪霊を追い出したのも「イエス様の御名」であり、ペトロが足の不自由な人を癒したのも「イエス様の御名」であり、七十人の弟子たちが悪霊を屈服させたのも、「イエス様の御名」でした。初代教会の時に、祭司長たちが禁止令を出したのも、「イエス様の御名」でした。私たちのすべてのお祈りも、「イエス様の御名」によってささげます。このように、「イエス様の御名」には力があります。世のどの力でも、イエス様の御名を対敵できません。しかし、問題は今のクリスチャンたちがイエス様の御名を大切に思わないことです。逆に、自分の名前がもっと力があると信じるかもしれません。それで、イエス様の御名をあまり使いません。祈りの終わりにやっと残って、わずかに余喘を保つ信者もいます。真の信仰の人は、イエス様の御名を最高の力で、武器にします。そして、よく使います。そのような人には、当然、神様の御働きが現れます。
信仰で堂々とイエス様の御名を宣言してください。悪霊に向かって、宣言してください。
「イエス・キリストの御名によって命じる。悪霊は私の心から静まれ!」
「イエス・キリストの御名によって命じる。悪霊はあの人から出て行け!」
「イエス・キリストの御名によって命じる。悪霊はこの場から出て行け!」

「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコボ4:7)
信仰の人が離れるのではありません。悪霊を逃げ出すようにするべきです。イエス様の御名で!これが信仰の人の権能であり、祝福です。
弟子たちの興奮した報告に、イエス様は本当に大事で大切な事が何かを教えてくれました。
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20))
悪霊が服従することは、この地での最高の勝利です。弟子たちの立場から見ると、本当に大きいな喜びで、感激です。しかし、イエス様はそうではありませんでした。本当に喜ぶ事は他にあったからです。それは、天国で私たちの名前が書き記されていることです。永遠な命を得たことです。天国の民になったのです。この地での勝利も大切ですが、一人の魂が救われることは、どんなこととも換えられない永遠な喜びです。よのどの大きな勝利より、魂が救われることが、主の立場からだと本当に喜ぶことです。
パウロは、私たちを福音の祭司長だと言いました。そのため、最高の祭司は伝道で、最高の供え物は救われた魂です。
「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」(ローマ15:16)
伝道より良いことはありません。伝道より嬉しいことはありません。伝道より価値のあることはありません。私たちを通して、一人の魂が永遠の命を得ることよりいきがいのあることはありません。

私たちはイエス様の弟子たちです。弟子は3つの道を必ず歩んでいくべきです。
「いつも神様と交わりをすること、命の福音を述べ伝えること、イエス様の御名を信仰で使うこと」です。この3つが健康な信者、健康な弟子の姿です。

3 コメント

中森千草

2011-04-01 23:23:29

神様の弟子としての姿を現すことが出来ているのか?
世の中で起こっている事柄によって、私の心は間違った方向に進んではいないか?
自分の信仰を確かめながら、1つ1つの問題を解決して前へと歩いています。
神様が共にいてくださっているから、私は立ち止まることなく前に進めているのだと思います。
今までの人生の中で味わったことのない状況の中にいますが、神様に問いかけることが増え、
神様を意識すること、神様に対する恐れをより強くしていただいています。
どんな状況にあっても、神様を見上げるようにしてくださり、感謝しています。

古郡武志

2011-04-03 08:42:03

日本は、想像を絶する苦難の中にいます。
「神様この状況から私に何を教えようとしているのでしょうか?」
この問いがまさに生きてくる時代であると思います。
被災者救援のために被災地にかけつける多くの人々の姿を通して
「隣人を愛しなさい」というイエス様の御言葉を思い、
全ての財産を失いながらも明日に向かって歩き出す若者の姿を見
ながら、「死をうちやぶって復活されたイエス様」の姿を思い出し
ました。
 状況にうろたえることなく、神様が教えようとされていることを思い
ながら堂々と歩んでいきたい。

中森千草

2011-04-11 20:51:39

気仙沼を訪ねて
                                                   2011年4月7日

テレビから流れる映像そのままの光景でした。
実際に被災地に入って感じたことは、震災前に本当にここに街があって、人々の生活があったのかと疑ってしまうほどひどい状態であり、言葉が出てこなくてただ呆然と辺りを見ていました。
何十年も昔からあったように見えたのですが、泥で茶色くなったぼろぼろの車が川にあったり、家がひっくりかえって隣の家の屋根にのっていたり、気仙沼はもれた油に火が移り火事の被害もあったのですが、その炎によって大きな船が真っ黒に焦げていたり・・・・・
行く所々があまりにも悲惨な状況なので言葉で表現するには限界があり、ふさわしい言葉がないというのが本音ですが、津波が残した傷跡は計り知れないほど大きかったです。

海岸近くの地域では、津波によっていろんな種類の貝が所々にあり、辺りは磯の香りが充満していました。そして、立ち止まってよく見てみると、割れた食器や梅干を作っていたのでしょう、たくさんの梅干がまとまってあったり、結婚式や旅行の時に写したアルバムが木にひかかっていたり、その場所で亡くなった人へのお線香と花束があったり、ゲーム、雑誌、会社関係の書類などが散乱しており、人々が生活をしていた証が数々ありました。
一瞬にして穏やかな街や人々の生活が津波にのまれ、これからどのように復興されていくのか全く想像ができませんが、すべては神様からだと信じています。神様のご計画、御心が分かるのはまだまだ先になると思いますが、祈りをもってこれからも見守っていきたいと思います。

今回被災地を訪れ、被災者の方たちにお会いして感じたことは、人はそれぞれ悩みや問題を抱えており、私もその一人ですが、悩んで、落ち込んで、立ち止まったりしていた時間は必要だったのかと・・・
被災者の方々は多くの大切なものを失いましたが、すでに前へ前へと歩いています。
残されたものの中で唯一すぐに始められることが、希望を持って未来に向かって生きること。
大きな借金を背負っていたり、職場を失ったりしている中でも立ち止まることなく、確実に前へと進んでおり、その姿は頼もしく逆に私が励まされました。
私たちが被災地に入る本来の目的とは違うかもしれませんが、いま問題に直面していて、心が重く、心の行き場の無い方が最優先に被災地に行かれることを願います。
被災地に行ったからといって問題は解決しませんが、問題に対しての視点が変わり、今までの自分ではなく、希望を持った新しい自分を発見することができると思います。
何に焦点を当てたらいいのか?本当に価値あるものが何であるかを考えさせられる貴重な時間となったのは確かです。テレビには映らなかった大切なことを肌で感じることができ、たくさんの学びがありました。
短い時間ではありましたが、今回被災地のひとつである気仙沼に招いてくださった神様に、深く感謝します。       
                                                    
  中森千草

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