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중앙영광교회

命のパン

이용규목사, 2011-03-13 03:29:11

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イエス様は天からこの地上に来られました。
神様の独り子であるイエス様がなぜこの地上に来られたのでしょうか。天国と比べたら、この地上はまさに馬屋のようなところでしょうが、なぜこのみすぼらしいところに来られたのでしょうか。この地上でよい衣服をまとい、よい食べ物を食べるわけではなく、最も苦しい十字架まで背負わなければならなかったのに、なぜ来られたのでしょうか。
イエス様がこの地上に来られた目的は、果たして何だったのでしょうか。
イエス様は、この地上で非常に忙しく過ごされました。お食事を取る時間さえないほど忙しかったです。今の現代人も皆忙しいと言われています。朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる人も多いです。多くの現代人はビジネスや仕事、勉強、あるいはお金のために暇なく忙しいかもしれません。しかし、イエス様の忙しさはそのようなことにありませんでした。イエス様は、この地上に来られた目的のために、全力を尽くした人生を過ごされました。
イエス様のその目的は何でしょうか。

1. イエス様の目的
イエス様がこの地上に来られた目的は、これです。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」(ヨハネによる福音書6:38)
イエス様は、自分の意思を行うために来られたわけではありません。個人的な目的のためではありません。イエス様がこの地上に来られた目的は、神様の御心を行うためでした。イエス様は自分をお遣わしになった神様の御心を成し遂げるためにこの地上に来られました。イエス様はこの仕事のために、全人生と命までささげました。イエス様のなされた事は、偉大なことです。個人的な欲求のためではなく、神様の御心を行ったためです。
「夜明け型クリスチャン」という本を書いたムン・ボンジュ大使は、国の大使の身分であるものの、それより大事な神様の国の大使の身分であるということをいつも忘れませんでした。彼は、どこに行っても神様の御心を行うようにしました。彼は、ニュージーランドの大臣の前でも堂々とこう言いました。「私は大使ではなく、一人のクリスチャンとしてこの場に来ました。」そうです。国の代理人より神様の代理人としての使命がもっと大事です。あなたはどうですか。ある大事な場所に行く時、世の派手な職務で行くほうを誇りますか。あるいは、神様の子どもとして、クリスチャンとしていくほうを誇りますか。
イエス様は天国に行かれる前にはっきりと私たちに言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネによる福音書20:21)
私たちもイエス様のように神様が遣わした者たちです。ただ、イエス様は最初に遣わされただけで、私たちはその次に続いて遣わされている者たちです。イエス様の使命がつまり今の私たちの使命であることを悟らなければなりません。また、それを行うべきです。神様は霊です。そのため、神様には手と足がありません。神様は、聖霊が宿っている私たちを、神様の手足としてお遣わしになります。人生が人生らしくなるためには、私たちが神様の手と足になって、神様の御心を行ってゆけばいいです。
それでは、神様の御心は何でしょうか。神様はイエス様がどの仕事をすることを願われたのでしょうか。
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり」(ヨハネによる福音書6:40)
神様の御心は簡単です。魂を救うことです。人々がイエス様を信じ、永遠の命を得ることが神様の御心です。伝道が神様の御心です。イエス様がなぜこの地上に来られたのでしょうか。神様の息子がなぜあんなにひどい苦難を受けたのでしょうか。ただひとつの目的のためです。私たちに命を与えるためです。永遠な命を与えるために、イエス様は直接この地上まで来られ、十字架を背負いました。
「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネによる福音書10:10)
  
2. イエス様の自己紹介
皆様は自分をどうやって紹介したいですか。
なるべく、かっこよく素敵な紹介をしたくありませんか。イエス様はご自分をどのように紹介したのでしょうか。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書6:35)
イエス様はご自分をパンだと言われました。私たちの文化でいうと、ご飯です。「私はご飯だ」と言われたのです。ご飯やパンは人々の主食です。私たちはこれを食べて生きられます。食べないと死にます。イエス様は人々が豊富に食べるように直接ご飯(パン)で来られたのです。なので、イエス様がこの地上で一番最初に寝かせられたところも、飼い葉桶だったのです。イエス様はこのパンを直接裂いて与えるために十字架に上られました。
これが十字架の愛です。十字架を通してイエス様のパンを食べる人は、必ず永遠の命を得ます。決して渇くことも、飢えることもありません。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(ヨハネによる福音書 6:53)
イエス様は、パンはパンなんだけど、命のパンとして来られました。パンの中に命というあんこを持っておられるのです。
それでは、どうすればこの大事なパンをもらって食べることができるのでしょうか。
世の中にある薬には、高い薬もあります。いかにいい薬でも、その薬を飲んで生きられると言われても、薬代が100億円だとすれば、ほとんどの人は買って飲めません。高すぎるからです。命のパンをお金で換算するといくらでしょうか。聖書はこういいます。
「 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。 魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。」(詩 49:7-9)
そのため、一度食べると永遠の命を得るこの命のパンの値段は、最小6兆円は過ぎると思います。なぜならば、世界最高のお金持ちであるカルロス・スリムの財産がこの程度だからです。もちろん、カルロスもこのお金で命のパンを買えません。パン代が彼の財産よりもっとも高いからです。
それでは、この命のパンをどうやって買えるのでしょうか。
人間の力では買えないので、恵みで与えられるためにイエス様が天国から持って来られました。命のパンはただ恵みで受けられます。お金で買うのではなく、信仰で得ます。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネによる福音書 6:47)
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソの信徒への手紙 2:8)
ところで、とても気の毒なことは、多くの人々が信じることができないことです。イエス様の時代でもそうでした。彼らは、イエス様を見ても信じませんでした。(ヨハネによる福音書 6:36)それに、イエス様の弟子の中でも多くの人々がイエス様を離れました。(ヨハネによる福音書 6:66)彼らは、肉のパン(パン五つと魚二匹の出来事)をあげる時には多く集まってきたのに(ヨハネによる福音書 6:36)、本当のパンである永遠のパンをあげようとすると、離れてしまいました。しかも、今日(こんにち)はどうでしょうか。イエスを信じて肉のことがよくなることには関心が多いけれど、霊のことに対しては心が離れていませんか。肉の救いには集まってくるけれど、霊の救いには空です。医学大学には志願者が多いものの、神学大学は人気がないのは偶然でしょうか。
霊のことに対する信仰がある時に、私たちは永遠の命のパンを食べることができ、その魂は決して飢えることなく、渇くこともありません。
「主よ!霊の豊かな恵みを私たちにお与えください!」

3. すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい
イエス様は私たちに命を与えられるために、この地上に来られました。
食べさせ、生かせるためにパンの姿で来られました。なるべく大勢の人々に命を与えるために、十字架にまで高く上げられ、命のパンであるご自分を裂いてあげました。そのイエス様が私たちに頼まれました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコによる福音書16:15)
主の御心通りなら、私たちは折が良くても悪くても福音を宣べ伝えるべきです。伝道すべきです。これがイエス様の目的であり、信仰の人の目的だからです。
今の私たちの姿を見て、イエス様はどう思われるのでしょうか。よくやっていると褒められるのでしょうか。あるいは、あれは違うんだけど…と心配なさるのではないでしょうか。
ユ・ジョンオク奥様のお母様のお話をお聞かせしたいと思います。
いきなり母親が交通事故で入院しているということを聞いて、病院に行った娘に、このお母さんは喜びいっぱいの笑顔で、「神様に感謝します!感謝します!」と言いました。交通事故にあったけれど、本当に神様に感謝できたのは、伝道する絶好のチャンスを得たからです。魂を救う大事な機会に比べたら、交通事故で少し怪我をしたのは、逆に感謝のことに過ぎないということです。
話はこうでした。
ある人が83歳のこのおばあさんをひき逃げしました。
おばあさんは痛くて倒れているにも関わらず、ひき逃げの車の番号を覚えました。復讐するためでも、告発するためでも、補償金をもらうためでもありませんでした。理由はほかにありました。その人を伝道するためでした。ひき逃げの車の運転手と彼の妻がおばあさんを尋ねて、土下座して自分の過ちを謝りました。その時、おばあさんはもちろん喜んで許してあげました。運転手の夫婦はとてもありがたく、どうすればこの恩を返せるかと聞くと、おばあさんは「私と一緒に教会に行こう」と伝道しました。もちろん、運転手の夫婦は快く約束しました。おばあさんは、今は彼の車で教会に行けるようになりました。おばあさんは自分の交通事故が感謝である理由を娘にこう話しました。
「私はいかに伝道をしようとしても、年をとって伝道ができない。誰も、このおばあさんの話に耳を貸してくれないの。それに、私のように年をとってると、若者にちょっと声をかけるのはとても難しいわ。だから、神様がその若者が私をひき逃げするようにして、私の話をきちんと聞くようにしてくださったのよ。私がどんな力があって彼を土下座させて、謝らせるの。それに教会まではなおさらだよな。一人の魂を救うためにイエス様は十字架で死ぬまでなさったのに、私は足を切られたわけでもなく、車の事故一回で二人も伝道したから、これが神様の恵みではないの。」
おばあさんは伝道のために交通事故も感謝したのですが、パウロは福音を宣べ伝えることのためなら、自分の命すら決して惜しいとは思わないと言いました。(使徒行伝20:24)
あなたは伝道のためにどの犠牲を喜んでやってみましたか。
「主よ!主のこの命の運動、命を生かすことが、この教会にも、この地にも炎のように燃え上がりますように!命の炎が燃え上がりますように!日本でこの炎がきっと見られますように!」

1 コメント

中森千草

2011-03-13 05:43:19

2011年3月11日 東日本 巨大地震 
大きな傷を負った。
この状況の中、多くの言葉が記されたり口にされたのですが、それは「祈る」でした。
誰もが求めている方向は天であり、神様である。
しかし、どうしたらいいのか分からないのが現状である。
そこで神様と出会える手段として、手と足となるのは、クリスチャンである私たちである。
苦しみを受けている人々の心の行き場がない中、一人ひとりが出来ることを行うことである。
金銭や物資は生命をつなぐためにとても必要ですが、苦しみが癒され、永遠の命をいただけることを知ることができたら、どれほどの喜びになるだろうか。
今出来ること、今だからこそ出来ること、行っていきたい。

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