信仰の人はイエス様を信じ従う人です。
そのためイエス様が尊いと思うものを尊いと考え、イエス様が重要だと思うものを重要に思う人です。イエス様を信じる人はイエス様と価値観が同じ人です。それならば果たしてどうなりますか?本当にイエス様が重要思うことを私たちも生き方の中に重要に思っていますか?重要な事を命と同じ位守ろうとしていますか?でなければイエス様が重要に思うこととあなたが重要に思うことは全然違う別個のものでありませんか?
それならばイエス様がとても重要に思うことは何でしょうか?お金か?名誉か、権力か、対面か、学力ですか?
1.イエス様が最も重要に思うこと
イエス様のお答えが素晴らしいという評判を聞き、パリサイ人達が集まりました。その中の一人の律法学者がイエス様を試みようと質問をしました。その質問内容が、律法の中で最も重要なのは何ですか?というものでした。そのときイエス様はためらうことなくすぐに答えられました。イエス様が最も重要に思う神様のお言葉は「愛」でした。愛がすなわち全部の律法と預言者の綱領であると宣言されました。イエス様はこの愛を実践されるためにこの地にいらしゃいました。イエス様はこの愛の力がどんなに偉大かを証しするためにいらしゃいました。イエス様はこの愛を完成するために十字架を背負いました。私達がイエス様の弟子なったことは結局この愛を証しするためでした。信じる人には愛はあってもそのくらいのもの、なくてもそのくらいのものではありません。愛は信じる人の存在、存在自体です。愛が欠けたイエス様を想像することができないごとく、愛に欠けたクリスチャンを想像することはできません。
イエス様は愛を二つの種類に表現しておられます。
まず罪をあがなうための愛です。これは神様を愛することです。神様は霊であられるために私たちは霊と真理で神様に愛を表現しなければなりません。だからイエス様は「あなたの心を尽くして命(精神、魂)を尽くし、心(考え)を尽くし神を愛せよ」と言われます。信じる人は自分の中のすべてを神様に差し出し神様を愛さなければなりません。これが正常です。神様を愛し、礼拝するときに心は違うところにある人ではありません。10分の1は神様を愛し、10分の9は世俗を愛すると言う姿ではありません。全ての心で神様を愛することです。神様を愛するが2番目に愛することではありません。自分の妻を愛するのに「愛しているけどあなたは二番目に愛している。一番目の愛は高校の同期の○○だよ。あなたもわかるだろ?」どうしてこれが愛といえるでしょうか?
愛するのか?しないのか?が問題ではない。神様をどのように愛するか?が重要です。心を尽くし、魂を尽くし、精神をつくし愛が神様の方に向いていることがまさに愛の姿でしょう。
二番目の愛は隣の人への愛です。だからこれは「心」を尽くしてということでなく、「自分の心」と同じように愛することです。これは人に対する愛です。神様に対する愛が罪の購いの愛ならば、人に対する愛は、隣人への愛です。実際に表現される愛です。イエス様はこの二つの愛を区分することなく、二つとも同じように大切だと言われました。「二番目もこれと同じに(二番目も一番目と同じに重要です)」と明らかにしました。一つの体には外見と中を区別することは不可能で、肢体が一つになっています。愛はこれと同じです。神様の愛と隣人の愛を区別してはいけないと言うことです。このことが一つと言うことです。この二つの愛が良く均衡が取れているときに愛は健康な愛であり、美しい愛であり,力ある愛です。私達には神様の愛と人の愛と二つとも重要な愛です。神様は愛ですが、人は愛し合わないことは間違った愛だと気付かなければならないでしょう。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽りものです。目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(ヨハネの手紙一4:20,21)
2.肢体意識と兄弟意識
私たちは隣人を愛しなければなりません。これは非常に大きい戒律の一つです。それなら隣人をどのように愛さなければなりませんか?イエス様はこの愛の具体的な姿を教えてくださいました。「自分の体のように隣人を愛しなさい。」
なぜ隣人を自分の体のように愛しなさいと言われるのでしょうか?世の中の代表が兄弟愛ですか?自分の兄弟のように愛することは出来ないではありませんか?
神様は真正な愛の姿について言われました。「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙12:15)
このみ言葉の実践は実に難しいです。泣くものと共に泣くことはできるけれど、楽しんでいるものと楽しむことは実の兄弟同士であろうと難しいものです。他人の幸福が自分の不幸をもっと惨めにし、他人の成功が自分の失敗をもっと惨めにさせ、他人の笑い声が自分の傷みをもっとひどいものにしさせます。どうすれば楽しんでいるものと共に楽しむことが出来ますか?どうすれば他人の幸福を自分の幸福にそっくりそのまますることが出来木、他人の喜びを自分の喜びにすることが出来るでしょうか?イエス様はこの技を教えてくださいました。一つの体になればいいのです。真正な愛を分かち合うためには「一つの体の意識」「肢体意識」が必ずなければなりません。「兄弟意識」だけでは絶対にいけません。聖書を詳しく調べてください。兄弟間の猜疑、嫉妬、競争意識がどんなに多いでしょうか?人類初期の殺人事件が何でしょうか?兄のカインが弟のアベルを嫉妬して殺した事件ではありませんか?ヨセフが誰の手で奴隷として売られて行きましたか?兄弟の手ではありませんでしたか?ヤコブが誰をだまして誰がヤコブを殺そうとしましたか?兄のエサウでした。ラケルは誰を嫉妬して自分の女奴隷ビルハを夫の寝床に送りましたか?姉のレアではありませんでしたか?ラケルは女奴隷ビルハを通して第二の息子が生まれたとき、「姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」(創世記30:8)とまで言いました。兄弟意識は実に危険です。恐ろしい競争意識を生じさせるからです。そして競争意識はおのずと猜疑、嫉妬、憎しみの副産物を生み出します。
しかし「一つの体意識」「肢体意識」は違います。その人を自分の体の一部分だと思えば絶対に競争意識は生まれません。俗に夫婦は一つの腹を持つと言います。「一つの腹意識」です。一緒の腹を持ち運命を共にすると言うことです。しかし不平や恨み、憎しみを持ちえます。そのために腹が違っていたら骨が折れます。子供の列に入り、邪魔して中間で降りることも出来ずどんなに苦痛なことでしょうか?だから聖書では夫婦は一つの腹になると言う言葉は使っていません。代わりに「一つの体」と言っています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)夫婦にとっては一つの体意識は絶対に重要です。夫婦は二つの体ではなく「二つの肢体一つの体」です。このときに運命を共にすると言うことでなく、感情を一緒にすることを意味します。笑う者と共に笑い、泣く者と共に泣くことになります。肢体は絶対に分離することが出来ません。全てのものを共有することになります。痛みも喜びもすべて共有します。先週感冒にかかり、非常に苦しかったです。声も出なく、早天祈祷会の時も説教が出来ない時がありました。或る日は昼夜咳が止まらず、寝ることが出来ませんでした。横になることが出来ずに座りながら夜を明かしました。勿論祈りながらと言うことです。水を飲みながら少しは良くなるかと水を飲み、のどに塩を塗り、薬を飲むこともし、、、しかし咳は止みませんでした。ところで不思議なことが起こりました。私の横で妻は良く寝ていたのは事実です。なぜでしょうか?それは一つの体ではないからです。私も他の所は痛くありませんでした。のどだけ咳が出るときだけつらかったのです。それなら当然手や足は平安に休むけれど、休むことが出来ず同じく昼夜病み続けました。なぜでしょうか?同じ体についている肢体であるからです。肢体は自然に体の痛みを一緒に分け合うのです。一つの体だからです。
万一有名なサッカー選手がワールドカップで7ゴールを決めて、MVPに選ばれたとします。ところで試合中に手が失敗してペナルティキックを許し痛みが生じました。それならば授賞式には足だけが良いですか?手は気を落としうなだれてしまうでしょうか?自分と同じものはなくしてしまった言うことでしょうか?絶対にそうではありません。賞をもらうときに誰が受けますか?足が受けますか、いいえ、手が受けます。握手は同じく手がし、手がつらいときは手がつらいのです。手が一番役割をします。足が上手にするように手も上手にします、同じ一つの体だからです。間違いなく一緒に喜ばずにはおられません、同じ体だからです。喜ばないのはむしろ異常です。
「肢体意識」「一つの体意識」は実に重要です。意識を変えなければなりません。隣人を愛するためには考えを変えなければなりません。隣人を自分の体の一部と考えなければなりません。このようなときにあふれるばかりに愛が流れるでしょう。だから神様は「隣人を自分の体のように愛しなさい」と言われたのです。
3.母の愛
息子を軍隊に送った或る奥様(ユ・ジョンオク)の話です。初面接に行って、愛する息子が新米兵隊なので非常につらい姿に見えました。新米兵が、毎朝練兵場を走って上官に報告した後に朝御飯を食べました。この息子は喘息のために特に朝走るのがとてもつらいことでした。母は心臓が止まりそうな痛みを抑えながら息子に協力して善を起こしてくださる神様を信じなさいと慰め帰りました。そして自分も毎朝早天祈祷をしてから息子の走る時間に小学校の運動場を走りました。これは息子と一緒に痛みを分かつ母の愛です。一ヵ月後に息子から手紙が来ました。「お母さん、今日こそ神様の祝福が試練と言う仮面をつけてよってきたことを悟りました。今まで練兵場を走りながら時には腹が立ち自分で自尊心を傷つけ、この日も直ちに死んでしまおうかと考えました。ところで今日完全軍隊練習をして駆けっこをしながら、ワンワン泣いてしまいました。この間駆けっこをするまでは喘息で息が詰まって走ることが出来ず倒れてたのに、今日は全然なんでもなく、軽く完走することが出来ました。神様はこの上官を通して私の持病の喘息をすっかり治してくださいました。お母さん!私は明日から自ら進んで走ります。お母さんにこの喜びをわかってもらわなければ!」
愛の結実は忍耐を通して結ばれます。愛の初めも終わりも全て忍耐です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてをしのび、すべてを信じ、全てを望み、全てに耐える。」(コリントの信徒への手紙一13:4-7)
愛の道は平坦ではありません。必ず善の果実を結んで下さいます。子供と一緒に痛みを共にした母の愛を神様はわかってくださったのです。母の胸の引き裂かれるような痛みを理解できないかもしれません。けれど神様はわかっていました。神様は母の涙、愛の祈祷、愛の駆けっこを受け留めました。神様は母の愛で喘息の治癒と言う結実をしてくださいました。神様は私達がこの愛の道路になることを願っておられます。
そのためイエス様が尊いと思うものを尊いと考え、イエス様が重要だと思うものを重要に思う人です。イエス様を信じる人はイエス様と価値観が同じ人です。それならば果たしてどうなりますか?本当にイエス様が重要思うことを私たちも生き方の中に重要に思っていますか?重要な事を命と同じ位守ろうとしていますか?でなければイエス様が重要に思うこととあなたが重要に思うことは全然違う別個のものでありませんか?
それならばイエス様がとても重要に思うことは何でしょうか?お金か?名誉か、権力か、対面か、学力ですか?
1.イエス様が最も重要に思うこと
イエス様のお答えが素晴らしいという評判を聞き、パリサイ人達が集まりました。その中の一人の律法学者がイエス様を試みようと質問をしました。その質問内容が、律法の中で最も重要なのは何ですか?というものでした。そのときイエス様はためらうことなくすぐに答えられました。イエス様が最も重要に思う神様のお言葉は「愛」でした。愛がすなわち全部の律法と預言者の綱領であると宣言されました。イエス様はこの愛を実践されるためにこの地にいらしゃいました。イエス様はこの愛の力がどんなに偉大かを証しするためにいらしゃいました。イエス様はこの愛を完成するために十字架を背負いました。私達がイエス様の弟子なったことは結局この愛を証しするためでした。信じる人には愛はあってもそのくらいのもの、なくてもそのくらいのものではありません。愛は信じる人の存在、存在自体です。愛が欠けたイエス様を想像することができないごとく、愛に欠けたクリスチャンを想像することはできません。
イエス様は愛を二つの種類に表現しておられます。
まず罪をあがなうための愛です。これは神様を愛することです。神様は霊であられるために私たちは霊と真理で神様に愛を表現しなければなりません。だからイエス様は「あなたの心を尽くして命(精神、魂)を尽くし、心(考え)を尽くし神を愛せよ」と言われます。信じる人は自分の中のすべてを神様に差し出し神様を愛さなければなりません。これが正常です。神様を愛し、礼拝するときに心は違うところにある人ではありません。10分の1は神様を愛し、10分の9は世俗を愛すると言う姿ではありません。全ての心で神様を愛することです。神様を愛するが2番目に愛することではありません。自分の妻を愛するのに「愛しているけどあなたは二番目に愛している。一番目の愛は高校の同期の○○だよ。あなたもわかるだろ?」どうしてこれが愛といえるでしょうか?
愛するのか?しないのか?が問題ではない。神様をどのように愛するか?が重要です。心を尽くし、魂を尽くし、精神をつくし愛が神様の方に向いていることがまさに愛の姿でしょう。
二番目の愛は隣の人への愛です。だからこれは「心」を尽くしてということでなく、「自分の心」と同じように愛することです。これは人に対する愛です。神様に対する愛が罪の購いの愛ならば、人に対する愛は、隣人への愛です。実際に表現される愛です。イエス様はこの二つの愛を区分することなく、二つとも同じように大切だと言われました。「二番目もこれと同じに(二番目も一番目と同じに重要です)」と明らかにしました。一つの体には外見と中を区別することは不可能で、肢体が一つになっています。愛はこれと同じです。神様の愛と隣人の愛を区別してはいけないと言うことです。このことが一つと言うことです。この二つの愛が良く均衡が取れているときに愛は健康な愛であり、美しい愛であり,力ある愛です。私達には神様の愛と人の愛と二つとも重要な愛です。神様は愛ですが、人は愛し合わないことは間違った愛だと気付かなければならないでしょう。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽りものです。目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(ヨハネの手紙一4:20,21)
2.肢体意識と兄弟意識
私たちは隣人を愛しなければなりません。これは非常に大きい戒律の一つです。それなら隣人をどのように愛さなければなりませんか?イエス様はこの愛の具体的な姿を教えてくださいました。「自分の体のように隣人を愛しなさい。」
なぜ隣人を自分の体のように愛しなさいと言われるのでしょうか?世の中の代表が兄弟愛ですか?自分の兄弟のように愛することは出来ないではありませんか?
神様は真正な愛の姿について言われました。「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙12:15)
このみ言葉の実践は実に難しいです。泣くものと共に泣くことはできるけれど、楽しんでいるものと楽しむことは実の兄弟同士であろうと難しいものです。他人の幸福が自分の不幸をもっと惨めにし、他人の成功が自分の失敗をもっと惨めにさせ、他人の笑い声が自分の傷みをもっとひどいものにしさせます。どうすれば楽しんでいるものと共に楽しむことが出来ますか?どうすれば他人の幸福を自分の幸福にそっくりそのまますることが出来木、他人の喜びを自分の喜びにすることが出来るでしょうか?イエス様はこの技を教えてくださいました。一つの体になればいいのです。真正な愛を分かち合うためには「一つの体の意識」「肢体意識」が必ずなければなりません。「兄弟意識」だけでは絶対にいけません。聖書を詳しく調べてください。兄弟間の猜疑、嫉妬、競争意識がどんなに多いでしょうか?人類初期の殺人事件が何でしょうか?兄のカインが弟のアベルを嫉妬して殺した事件ではありませんか?ヨセフが誰の手で奴隷として売られて行きましたか?兄弟の手ではありませんでしたか?ヤコブが誰をだまして誰がヤコブを殺そうとしましたか?兄のエサウでした。ラケルは誰を嫉妬して自分の女奴隷ビルハを夫の寝床に送りましたか?姉のレアではありませんでしたか?ラケルは女奴隷ビルハを通して第二の息子が生まれたとき、「姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」(創世記30:8)とまで言いました。兄弟意識は実に危険です。恐ろしい競争意識を生じさせるからです。そして競争意識はおのずと猜疑、嫉妬、憎しみの副産物を生み出します。
しかし「一つの体意識」「肢体意識」は違います。その人を自分の体の一部分だと思えば絶対に競争意識は生まれません。俗に夫婦は一つの腹を持つと言います。「一つの腹意識」です。一緒の腹を持ち運命を共にすると言うことです。しかし不平や恨み、憎しみを持ちえます。そのために腹が違っていたら骨が折れます。子供の列に入り、邪魔して中間で降りることも出来ずどんなに苦痛なことでしょうか?だから聖書では夫婦は一つの腹になると言う言葉は使っていません。代わりに「一つの体」と言っています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)夫婦にとっては一つの体意識は絶対に重要です。夫婦は二つの体ではなく「二つの肢体一つの体」です。このときに運命を共にすると言うことでなく、感情を一緒にすることを意味します。笑う者と共に笑い、泣く者と共に泣くことになります。肢体は絶対に分離することが出来ません。全てのものを共有することになります。痛みも喜びもすべて共有します。先週感冒にかかり、非常に苦しかったです。声も出なく、早天祈祷会の時も説教が出来ない時がありました。或る日は昼夜咳が止まらず、寝ることが出来ませんでした。横になることが出来ずに座りながら夜を明かしました。勿論祈りながらと言うことです。水を飲みながら少しは良くなるかと水を飲み、のどに塩を塗り、薬を飲むこともし、、、しかし咳は止みませんでした。ところで不思議なことが起こりました。私の横で妻は良く寝ていたのは事実です。なぜでしょうか?それは一つの体ではないからです。私も他の所は痛くありませんでした。のどだけ咳が出るときだけつらかったのです。それなら当然手や足は平安に休むけれど、休むことが出来ず同じく昼夜病み続けました。なぜでしょうか?同じ体についている肢体であるからです。肢体は自然に体の痛みを一緒に分け合うのです。一つの体だからです。
万一有名なサッカー選手がワールドカップで7ゴールを決めて、MVPに選ばれたとします。ところで試合中に手が失敗してペナルティキックを許し痛みが生じました。それならば授賞式には足だけが良いですか?手は気を落としうなだれてしまうでしょうか?自分と同じものはなくしてしまった言うことでしょうか?絶対にそうではありません。賞をもらうときに誰が受けますか?足が受けますか、いいえ、手が受けます。握手は同じく手がし、手がつらいときは手がつらいのです。手が一番役割をします。足が上手にするように手も上手にします、同じ一つの体だからです。間違いなく一緒に喜ばずにはおられません、同じ体だからです。喜ばないのはむしろ異常です。
「肢体意識」「一つの体意識」は実に重要です。意識を変えなければなりません。隣人を愛するためには考えを変えなければなりません。隣人を自分の体の一部と考えなければなりません。このようなときにあふれるばかりに愛が流れるでしょう。だから神様は「隣人を自分の体のように愛しなさい」と言われたのです。
3.母の愛
息子を軍隊に送った或る奥様(ユ・ジョンオク)の話です。初面接に行って、愛する息子が新米兵隊なので非常につらい姿に見えました。新米兵が、毎朝練兵場を走って上官に報告した後に朝御飯を食べました。この息子は喘息のために特に朝走るのがとてもつらいことでした。母は心臓が止まりそうな痛みを抑えながら息子に協力して善を起こしてくださる神様を信じなさいと慰め帰りました。そして自分も毎朝早天祈祷をしてから息子の走る時間に小学校の運動場を走りました。これは息子と一緒に痛みを分かつ母の愛です。一ヵ月後に息子から手紙が来ました。「お母さん、今日こそ神様の祝福が試練と言う仮面をつけてよってきたことを悟りました。今まで練兵場を走りながら時には腹が立ち自分で自尊心を傷つけ、この日も直ちに死んでしまおうかと考えました。ところで今日完全軍隊練習をして駆けっこをしながら、ワンワン泣いてしまいました。この間駆けっこをするまでは喘息で息が詰まって走ることが出来ず倒れてたのに、今日は全然なんでもなく、軽く完走することが出来ました。神様はこの上官を通して私の持病の喘息をすっかり治してくださいました。お母さん!私は明日から自ら進んで走ります。お母さんにこの喜びをわかってもらわなければ!」
愛の結実は忍耐を通して結ばれます。愛の初めも終わりも全て忍耐です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてをしのび、すべてを信じ、全てを望み、全てに耐える。」(コリントの信徒への手紙一13:4-7)
愛の道は平坦ではありません。必ず善の果実を結んで下さいます。子供と一緒に痛みを共にした母の愛を神様はわかってくださったのです。母の胸の引き裂かれるような痛みを理解できないかもしれません。けれど神様はわかっていました。神様は母の涙、愛の祈祷、愛の駆けっこを受け留めました。神様は母の愛で喘息の治癒と言う結実をしてくださいました。神様は私達がこの愛の道路になることを願っておられます。
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한 몸 이룬 교회1 |
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제자의 길8 |
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1 コメント
中森千草
2011-03-04 03:05:10
愛することが困難な人々を、あらゆる形で私に与えてくださっています。
神様の求められる愛をどうしたら行えるのかと思いつつ、時間が解決してくれるのを
待っている部分がありました。
素直になれないところがあり、避けてしまったり、逃げたり、それでいて歩み寄らなければと
考えたり.....
神様からメッセージを頂いた今、自分が変わらなければいけないと思いました。
私の中にある悪い部分を、1つずつ消去していきたいと思います。