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중앙영광교회

愛で評判のよい教会(1)

이용규목사, 2010-01-30 22:27:12

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噂は驚くべき力を持っています。
昔は口から口へと伝えられる噂が怖かったのですが、最近はインターネットでの噂が最も大きな力を持っているようです。良い噂は良い影響を及ぼしますが、悪い噂は破滅と死までもたらしかねません。教会はイエス様を信じる人々の集まりです。従って教会からは世の中を救う良い噂が立たなければなりません。ところで現実は如何でしょうか。果たして教会は良い噂の震源としての使命をよく背負っていると言えるでしょうか。私たちの教会は如何でしょうか。
すべての教会は神様の教会です。教会は教会らしくなければなりません。それこそが真の教会の回復です。神様の香りを世の中に広げさせなければなりません。その仕事を誰がすべきでしょうか。牧師でしょうか。長老、勧士、執事でしょうか。それとも属会のリーダーたちでしょうか。その仕事は教会の各部分である私たちがすべき仕事です。それなら私たちは何をどのようにしなければならないのでしょうか。どうすれば神様の喜びになる良い教会になることが出来るのでしょうか。

1.        愛の重要性
 聖書によれば世の中には神の子と悪魔の子、2種類の子供がいるそうです。人が神様の子供として生きているのか悪魔の子供として生きているのかをどうすれば分かるでしょうか。その判断基準は何でしょうか。それは愛です。
 ‘神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。’ (一ヨハ3:10,11)
 兄弟を愛することは本当に大切です。私たちが兄弟を愛さなければすでに悪魔に押さえつけられているのです。悪魔の手の内に丸め込まれているのです。悪魔に操られているのです。
 今、自分が神の子として生きているのか、それとも悪魔の子として生きているのかは自分の愛の姿を見れば分かります。
 イエス様を信じる人々の中には兄弟の愛を重要でないと思う人が多くいます。クリスチャンにとってこれほど深刻な問題はありません。聖書ははっきりと言っています。
 ‘兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。’ (一ヨハ3:15)
 どうして殺人が大したことではないのでしょう。命を奪われるのにどうして重要ではないと言えるのでしょう。これは私たちの人生の中で最も深刻な問題です。このような問題はすべて愛さないことから来ると聖書ははっきりと語っています。
 愛に対する戒めを悟らせなければなりません。愛は永遠の命につながります。愛はしてもしなくて 
 も良いことではありません。愛は感情や気分によって変えていいものでもありません。お金や健康は悪魔に奪われることがあっても愛は最後まで守り抜かなければなりません。愛と言う箱の中には人類最高の宝である永遠の命が入っているためです。愛は宝箱です。悪魔は常にこの宝箱を狙っています。兄弟愛はクリスチャンにとって選択項目ではなく、必須項目です。従ってイエス様は私たちに‘新しい掟’という名で互いに愛し合うことを命じられました。
 ‘あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。’ (ヨハ13:34)
 神様が望んでおられるのは私たちが互いに愛し合うことです。
 神様は私たちが愛で満たされることを望んであられます。
 神様は私たちの家庭に愛が満ち溢れることを望んであられます。
 神様は私たちの教会が愛で一つになることを望んであられます。
 それこそがイエス様を信じる者の真の姿であるためです。
 
2.        愛する方法
 私たちの教会が愛で評判になるためにはどうしたら良いのでしょうか。
 まずは神様がおっしゃる愛の本質について知らなければなりません。神様がお教えする愛は世の中の愛とは正反対の愛です。世の中の愛(エロス)は自己中心的な愛ですが、神様の愛(アガペー)は相手中心的な愛です。イエス様は御自分ではなく、私たちのために命をお捨てになりました。(一ヨハ3:16)私たちはイエス様を通してこそ愛を知り、愛を学ぶことが出来ます。世の中の愛はかえって私たちに混乱と疑いをもたらすだけです。(一ヨハ3:16)
 愛は実践しなければなりません。世の富を持ちながら兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば神の愛がそのような者の内にとどまっていないと言います。(一ヨハ3:17) 着る物もなく、その日の食べ物に事欠いている人に温まりなさい、満腹するまで食べなさいと言うだけで体に必要なものを何一つ与えないなら何の役にも立たないと言っています。(ヤコ2:16)
 聖書ははっきりと言っています。‘子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。’ (一ヨハ3:18)
 神様の愛は行う時こそ有益が現れます。
 行いのない愛は死んだ愛です。心の中の愛を相手に伝える時にやっと愛の力は発揮されます。

3.愛の実践項目
愛はどのようにして表現すれば良いのでしょうか。
愛と言う言葉の意味はとても広すぎます。具体的に行うことは少し負担に感じられます。神様はコリントの信徒への手紙一13章を通して愛の9つの姿についてお教えになります。今日は愛の9つ実践項目の中で3つの項目について見てみましょう。
1)        忍耐
 ‘愛は忍耐強い。’ (一コリ13:4)
 愛の一つ目の姿は忍耐です。愛に満たされている人はどんな場面に遭っても耐えることが出来ます。
 それこそがイエス様の十字架の愛と同様な姿です。
 イエス様は私たちを愛したため、十字架で死ぬまで耐えておられました。もし、イエス様が我慢せず十
 字架からお降りになったとしたら私たちは救われることが出来なかったでしょう。
この愛の姿を英語聖書では‘NEVER GIVE UP’という表現を用いています。イエス様は最後まで諦めること 
をお選びになりませんでした。イエス様を十字架にかけた張本人である私たちを最後まで諦めません 
でした。赦すことの出来ない私たちを、敵である私たちを最後まで諦めませんでした。なぜでしょうか。
イエス様は私たちを愛しておられるからです。親が自分の子供を愛して最後まで子供を諦めないように神様は絶対に私たちをお捨てになりません。この神様の愛の力が私たちの中に流れているのです。従って神様の愛を受け継いだ私たちは人を諦めてはいけません。たとえ相手が敵であるとしても諦めてはいけないのです。愛をもって耐え続けなければなりません。それがイエス様の十字架の愛の表現です。イエス様は十字架の上でお亡くなりになる時、このように愛を表現なさいました。‘父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。’ (ルカ23:34)
人々によって十字架で息を引き取られながらも彼らを赦して下さるように祈っておられるイエス様の姿は私たちが見せなければならない一つ目の愛の姿です。
‘神様あの人の罪をお赦し下さい。自分が犯した罪を知らないのです。’
誰かに屈辱を受けたのでしょうか。誰かに悪口を言われたのでしょうか。誰かによって被害を被ったのでしょうか。誰かに傷つけられたのでしょうか。誰かがあなたを軽蔑したのでしょうか。誰かに不当な扱いを受けたのでしょうか。このようなことは当然耐えかたいことだと思います。その時はイエス様の十字架を思い出して下さい。十字架の苦しみにあなたの苦しみをオーバーラップさせてみて下さい。あなたもイエス様の愛を表現することが出来ます。あなたの中にはイエス様の十字架の血潮が流れているためです。あなたには何も出来ませんが、神様の愛は何でも出来るのです。
それこそが信仰の姿であります。
愛を知る人は敵に恨みを抱き、復讐を計画する人ではなく、イエス様が最後まで耐え続けながら私たちを救って下さったようにひたすら人を赦し、最後まで諦めずに人を救おうとする人です。
愛の一つ目の表現方法はイエス様のように相手のために忍耐強く我慢してあげることです。

2)        親切
 ‘愛は情け深い。’ (一コリ13:4)
 情け深いということは親切であるという意味です。情け深いという言葉を英語聖書ではkindで表現しています。愛に満たされている人は人々に親切に接します。親切のもっと実際的な意味は自分より相手に気を配るとのことです。(care more for others than for self-the message) 乗る人のためにエレベーターのドアを開け、少し待つこと、次に入る人のためにトイレットペーパーを用意すること等も最も大切な親切の姿です。少しばかり自分の犠牲を払うことになるかもしれませんが、他人のために喜んで仕えることこそが愛の現しです。
 十字架の愛は親切の愛でもあります。イエス様は御自分のために十字架を背負われたのではなく、私たちを救うために十字架の苦しみに遭われました。愛に満たされている人は自ら良い行いを見つけ出しますが、愛を知らない人は眼の前にある良い行いにも見ないふりをしながら通り過ぎます。イエス様はわざわざ天国からこの世に来られ、愛の十字架を探し出して自ら背負われました。
3)        寛大
‘愛はねたまない。’ (一コリ13:4)
人の不幸の中で最もひどい不幸は‘比較不幸’です。
不便なことなく暮らしていた人でも自分がもっていない物をもっている人を見ると急にやきもちをやき、心の中で不幸の炎が燃え上がります。このような堕落した本性に捕えられてはいけません。嫉妬は愛するのをさえぎる大きな壁です。
カインはなぜ兄弟であるアベルを殺したのでしょうか。聖書はその答えを正確に言っています。‘なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。’ (一ヨハ3:12) アベルは悪いことを行っていません。アベルは神様に喜ばれるほど本当に良い人でした。しかし、アベルはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか。その理由は比較されたためです。カインは自分より優れているアベルを見て急にねたみを抱いたのです。このねたみがアベルを殺したわけです。愛を知る人は他人と自分を比較しません。他人のことで自ら不幸を招きません。愛に満たされている人は自分が持っていないことに不満を言わず、自分が持っている物に常に感謝しながら暮らします。
相手に対するねたみを捨てるだけで人に良い愛の表現が出来るのです。
周りの人に良いことがある時、共に喜び、祝ってあげる寛大な心がまさしく愛の心であります。
イエス様もヨハネも絶対に妬まなかったのです。
嫉妬したり妬んだりせず、自分が持っていない物をほしがらないことが愛に満たされている人の姿です。

‘神様、愛の力で忍耐できるようにさせて下さい!’
‘神様、愛の力で親切になれるようにさせて下さい!’
‘神様、愛の力で寛大になれるようにさせて下さい!’

1 コメント

中森千草

2010-02-17 05:50:46

親切にされたとき、そこに愛を感じ、
愛の深さをみたときのことを、思い出しました。
たくさんのクリスチャンの方たちとの出会いによって
教わった、そして見ることができた愛。
これからは、相手に感じてもらえるように、
行動に移していきます。

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