「ノアの過ち」
御言葉//創世記9:18-21
ノアは信仰の英雄であった。
その世代の中で、神に従う無垢な人であった。神様の御心に一番適う者であった。
しかし、今日の本文の御言葉は、このノアにはまったくふさわしくない。どうして、酒を飲んで裸になって寝てしまい、子どもを呪ってろうぜき(?)を働く醜い老いぼれの姿を見せたのだろう。この姿は、今まで持っていたノアのイメージに大きな損失をこうむらせるかもしれまい。それにもかかわらず、神様はなぜこの醜いことを聖書に記録なさったのか。
聖書はノアのために書かれた本ではない。聖書は偉大な人々の伝記ではない。聖書は私たちのための本である。今の私たちを教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするための本である(2テモテ3:16)。 聖書は私たちを完全にさせてくださるために書かれた本である。
ノアを考えると、このような話は抜けたがっただろうが、私たちのためにはとうてい抜くことができなかった。ノアよりもっと弱い私たちが、いかに倒れやすい存在か、よくご存知だったからである。そのため、私たちに鏡として見せ、警告するためには、必ず記録しなければならなかった(1コリント10:11)。神様は過去のノアも愛されたが、今の私たちをもっと愛しておられる。ノアの恥まで明かしながら、私たちを戒めてくださるからだ。すべての聖書は、私たちの眠っている魂を起こしてくれる。
1. ノアの過ち
ノアの過ちは何だったのか。酒を飲んで酔ってしまったことか?これは、肉的に表れた現状に過ぎない。ノアの過ちの本質は他にあった。それが何だろうか。ノアは神様の恵みによって子孫も繁盛し(創9:19)、生活も豊かだった。土地に種を蒔いたが、神様が豊富な実を与えてくださった。そうすると、大事な実を与えてくださった神様にまず「感謝のいけにえ」をささげるのが常識なのに、今日の本文には、ノアが礼拝やいけにえをささげたということばは一度も出ていない。
ノアが致命的な過ちを犯したことを示唆している。箱舟から出たときのように、神様に心を込めたいけにえをささげたら、神様が言及なさらないはずがない。
ノアの本当の過ちは、「収穫に関する感謝の礼拝」がなかったことである。ノアは「収穫感謝礼拝」に失敗した人であった。そのため、彼は自ら恥をかき、罪まで犯してしまう。あなたは収穫感謝礼拝をどういうふうにささげているのか。まず、すべての人生の実を与えてくださった神様に、真心で感謝しなければならない。ノアの過ちをご覧になり、神様はてんで収穫感謝礼拝を法令として宣布なさる。それが、つまりイスラエルの3大節気である。もちろん、他の意味も含まれているが、この3大節気はすべて穀物や果物の収穫期である。そして、初穂の祝福を強くおっしゃった。「それぞれの収穫物の初物をささげ/豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし/搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9-10)
ノアは豊富な実を収穫すると、神様に感謝することは考えず、ぶどう酒を作ることだけ考えた。これは、つまり神様の喜びではなく、自分の喜びだけ考えた仕打ちであった。「どうすれば自分を楽しませるか?」これがつまり堕落の早道である。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:6) 酒酔いは、自分の肉を楽しませる代表的なことである。ノアはこの肉の思いにつかまえてしまったのである。
神様は酒のせいでノアから大変な思いをさせられた。そのためか、聖書には酒に関する警戒が厳しく出ている。
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、」(エフェソ5:18)
「レムエル(ソロモン)よ/王たるものにふさわしくない。酒を飲むことは、王たるものにふさわしくない。強い酒を求めることは/君たるものにふさわしくない。」(箴言31:4)
「酒を見つめるな。」(箴言23:31)
最初は自分が酒を飲むが、後は酒が自分を飲み込んでしまうという。
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)
あなたはぶどうの実を収穫するとき、それでまず自分のためにぶどう酒を作るか?あるいは、その初穂を神様に感謝のいけにえとしてささげるか?あなたもノアの過ちをどうともなく、繰り返しているのではないか。それが、あなたの人生の決定的な過ちであることさえ知らずに。
2. 「実を結ぶとき」を気をつけなさい。
ノアはいつこの大きいな過ちを犯したのか。
お腹が空いているときより、いっぱいになっているときのほうがもっと危ない。お腹がいっぱいになっているときを警戒しなければならない。
ノアの一番大変なときは、箱舟から出るときだった。そのときは、生活が本当に大変だったであろう。それにも関わらず、ノアは箱舟から下りるなりに、神様のために焼き尽くすささげもので感謝の礼拝をささげた。しかし、今日の本文の出来事が起きたときは、神様から祝福を受けて、不足がないときだった。箱舟の時代には、ぶどう酒どころか、食べるぶどうもなかったが、今はぶどうが多すぎて、ぶどう酒さえ作れたから、その豊かさが想像できるだろう。そのとき、神様にもっと感謝するべきだが、ノアはちょうどそのときに人生の大きな過ちを犯してしまう。
実が結ばれるときを気をつけなければならない。豊かなときを気をつけなければならない。お腹が空いているときより、いっぱいになっているときを気をつけなければならない。人は、大変なときより、成功するときに倒れやすい。
「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(1コリント10:12)
そう。座っているか横になっている人はあまり倒れない。その反面、立っている人はいつ倒れるか分からない。誰か後ろから押してしまうと、すぐ倒れてしまう。そのため、いつも気をつけなければならない。
起きていなければならない。警戒をゆるめてはならない。
ダビデもそうだった。彼が倒れたのは、生死がかかっている戦場ではなく、すべてが豊かで平安な宮殿で起きた。そのとき、性的な強い誘惑に人生が全部抜かれてしまった。
「安全だと思うときが一番危ない。」
放心(心の武装解除)してしまうからだ。。
「危険だと思うときが一番安全である。」
心にすでに完全武装をしているからだ。
世の中の危険な要素よりもっと恐ろしいのは、心の危険な要素である。
強い敵があなたを倒すのではなく、心の放心があなたを倒す。
豊かで平和なときに起きている人が、真に知恵のある人である。
アメリカに行くと、「アーミッシュ村(Amish village)」という特別な村がある。
彼らは、神様の望まれる正しい生活を行うため、自ら文明の利器を断り、自然の生活にこだわる聖なる人々である。
彼らは電気を断る。電気は生活のリズムを壊すからだ。神様が夜を与えてくださったのは寝るためなのに、人間は電気を作って夜を昼に変えてしまった。そのため、人生に休みがなく、混乱してしまう。
そして、彼らの家にはテレビやコンピューターがない。神様は人と人の間に熱い愛の対話と仕えがあるように創造されたが、テレビやコンピューターが家庭に入ったことによって、家族が互いの顔を見ながら愛の対話をすることではなく、皆テレビばかり見ることになった。そのため、家族の対話はどんどんなくなる。そして、何より恐ろしいのは、子どもが親のいうことを聞かなくなってしまったことである。テレビやインターネットで見たものが、彼らの人生のモデルになり、判断基準になってしまう。両親や先生のことばは、人生の判断基準(真理)ではなく、小言に転落してしまう。ハーバード大学の20年間の研究によると、社会での成功指数は、「感性指数」だという。しかし、今日(こんにち)は、人間関係から来る感性指数はほとんどゼロの状態で、機械指数だけ高くなっている。人々がどんどん情を失っている。人間が破壊されている。それで、アーミッシュ村は、文明より自然をより好んでいるのだ。
アーミッシュ村の人々は、自分たちが文明の利器の中に入ると、罪を犯し、破壊されることを知っていた。そのため、もう文明を願っていないのである。少し不便なことはあるかもしれないが、その生活が自分たちを神様の中で守ってくれるからだ。アーミッシュ村の人々のように、罪と堕落から自分を守るためにいつも節制した生活を生きることができるのが、真の幸せを守る生活ではないだろうか。
3. 収穫感謝礼拝の祝福
神様が与えてくださった豊富なぶどうの実で酒を作って飲んだノアはどうなったのか?果たして幸せだったか?その反対である。酒を飲んだ瞬間は、アルコールが与える恍惚としていたかもしれないが、彼はすぐ自分の服を全部脱ぎ、裸を出して寝てしまう恥ずかしいことを自らやってしまう。
自分の楽しみ、快楽を先に求める者は、必ず自ら恥を招く。ノアがその証人である。ノアはいかに恥ずかしかったか、酔いがさめて起きたら、その恥ずかしさを少しでも隠そうとして、罪のない(?)自分の息子まで呪ってしまったのではないか。
しかし、良いことがあるとき、まず神様の喜び、満足を求める人は、決して恥をかかない。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(豊富の祝福)」(マタイ6:33)
「主を信じる者は、だれも失望することがない。」(ローマ10:11)
("Anyone who trusts in him will never be put to shame." NIV)*注
ノアの後半の人生は美しくなかった。
彼は収穫感謝礼拝に失敗した。豊かなときに倒れてしまった。
そのため、彼の後半の350年の人生は、ただ2行で幕を下ろしてしまった。
「ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
ノアは九百五十歳になって、死んだ。」(創9:28,29)
他の記録はない。
平和なとき神様を考えることより、自分を先に考えがちである。
神様の喜びより、自分の喜びに関心がもっとある。
熟したぶどうを見て、神様にささげることより、酒を作ることを先に考えてしまう。
これが、つまりノアが過った姿であった。
あなたはどうするか。
神様が与えてくださった今年の初穂であなたのために酒を作るか。あるいは、神様に感謝のいけにえとしてささげたいか。選択があなたの人生の運命を決める。
今年の収穫感謝礼拝は、自分の喜びでなく、ただそのお方の喜びのために完全にささげる天国の宴になることを祈る。
*注:英語(ローマ10:11)は、日本語の聖書に「恥」ということばが出ていなかったので訳者が入れておきました。韓国語と英語版では、恥(shame)と訳されています。
御言葉//創世記9:18-21
ノアは信仰の英雄であった。
その世代の中で、神に従う無垢な人であった。神様の御心に一番適う者であった。
しかし、今日の本文の御言葉は、このノアにはまったくふさわしくない。どうして、酒を飲んで裸になって寝てしまい、子どもを呪ってろうぜき(?)を働く醜い老いぼれの姿を見せたのだろう。この姿は、今まで持っていたノアのイメージに大きな損失をこうむらせるかもしれまい。それにもかかわらず、神様はなぜこの醜いことを聖書に記録なさったのか。
聖書はノアのために書かれた本ではない。聖書は偉大な人々の伝記ではない。聖書は私たちのための本である。今の私たちを教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするための本である(2テモテ3:16)。 聖書は私たちを完全にさせてくださるために書かれた本である。
ノアを考えると、このような話は抜けたがっただろうが、私たちのためにはとうてい抜くことができなかった。ノアよりもっと弱い私たちが、いかに倒れやすい存在か、よくご存知だったからである。そのため、私たちに鏡として見せ、警告するためには、必ず記録しなければならなかった(1コリント10:11)。神様は過去のノアも愛されたが、今の私たちをもっと愛しておられる。ノアの恥まで明かしながら、私たちを戒めてくださるからだ。すべての聖書は、私たちの眠っている魂を起こしてくれる。
1. ノアの過ち
ノアの過ちは何だったのか。酒を飲んで酔ってしまったことか?これは、肉的に表れた現状に過ぎない。ノアの過ちの本質は他にあった。それが何だろうか。ノアは神様の恵みによって子孫も繁盛し(創9:19)、生活も豊かだった。土地に種を蒔いたが、神様が豊富な実を与えてくださった。そうすると、大事な実を与えてくださった神様にまず「感謝のいけにえ」をささげるのが常識なのに、今日の本文には、ノアが礼拝やいけにえをささげたということばは一度も出ていない。
ノアが致命的な過ちを犯したことを示唆している。箱舟から出たときのように、神様に心を込めたいけにえをささげたら、神様が言及なさらないはずがない。
ノアの本当の過ちは、「収穫に関する感謝の礼拝」がなかったことである。ノアは「収穫感謝礼拝」に失敗した人であった。そのため、彼は自ら恥をかき、罪まで犯してしまう。あなたは収穫感謝礼拝をどういうふうにささげているのか。まず、すべての人生の実を与えてくださった神様に、真心で感謝しなければならない。ノアの過ちをご覧になり、神様はてんで収穫感謝礼拝を法令として宣布なさる。それが、つまりイスラエルの3大節気である。もちろん、他の意味も含まれているが、この3大節気はすべて穀物や果物の収穫期である。そして、初穂の祝福を強くおっしゃった。「それぞれの収穫物の初物をささげ/豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし/搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9-10)
ノアは豊富な実を収穫すると、神様に感謝することは考えず、ぶどう酒を作ることだけ考えた。これは、つまり神様の喜びではなく、自分の喜びだけ考えた仕打ちであった。「どうすれば自分を楽しませるか?」これがつまり堕落の早道である。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:6) 酒酔いは、自分の肉を楽しませる代表的なことである。ノアはこの肉の思いにつかまえてしまったのである。
神様は酒のせいでノアから大変な思いをさせられた。そのためか、聖書には酒に関する警戒が厳しく出ている。
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、」(エフェソ5:18)
「レムエル(ソロモン)よ/王たるものにふさわしくない。酒を飲むことは、王たるものにふさわしくない。強い酒を求めることは/君たるものにふさわしくない。」(箴言31:4)
「酒を見つめるな。」(箴言23:31)
最初は自分が酒を飲むが、後は酒が自分を飲み込んでしまうという。
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)
あなたはぶどうの実を収穫するとき、それでまず自分のためにぶどう酒を作るか?あるいは、その初穂を神様に感謝のいけにえとしてささげるか?あなたもノアの過ちをどうともなく、繰り返しているのではないか。それが、あなたの人生の決定的な過ちであることさえ知らずに。
2. 「実を結ぶとき」を気をつけなさい。
ノアはいつこの大きいな過ちを犯したのか。
お腹が空いているときより、いっぱいになっているときのほうがもっと危ない。お腹がいっぱいになっているときを警戒しなければならない。
ノアの一番大変なときは、箱舟から出るときだった。そのときは、生活が本当に大変だったであろう。それにも関わらず、ノアは箱舟から下りるなりに、神様のために焼き尽くすささげもので感謝の礼拝をささげた。しかし、今日の本文の出来事が起きたときは、神様から祝福を受けて、不足がないときだった。箱舟の時代には、ぶどう酒どころか、食べるぶどうもなかったが、今はぶどうが多すぎて、ぶどう酒さえ作れたから、その豊かさが想像できるだろう。そのとき、神様にもっと感謝するべきだが、ノアはちょうどそのときに人生の大きな過ちを犯してしまう。
実が結ばれるときを気をつけなければならない。豊かなときを気をつけなければならない。お腹が空いているときより、いっぱいになっているときを気をつけなければならない。人は、大変なときより、成功するときに倒れやすい。
「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(1コリント10:12)
そう。座っているか横になっている人はあまり倒れない。その反面、立っている人はいつ倒れるか分からない。誰か後ろから押してしまうと、すぐ倒れてしまう。そのため、いつも気をつけなければならない。
起きていなければならない。警戒をゆるめてはならない。
ダビデもそうだった。彼が倒れたのは、生死がかかっている戦場ではなく、すべてが豊かで平安な宮殿で起きた。そのとき、性的な強い誘惑に人生が全部抜かれてしまった。
「安全だと思うときが一番危ない。」
放心(心の武装解除)してしまうからだ。。
「危険だと思うときが一番安全である。」
心にすでに完全武装をしているからだ。
世の中の危険な要素よりもっと恐ろしいのは、心の危険な要素である。
強い敵があなたを倒すのではなく、心の放心があなたを倒す。
豊かで平和なときに起きている人が、真に知恵のある人である。
アメリカに行くと、「アーミッシュ村(Amish village)」という特別な村がある。
彼らは、神様の望まれる正しい生活を行うため、自ら文明の利器を断り、自然の生活にこだわる聖なる人々である。
彼らは電気を断る。電気は生活のリズムを壊すからだ。神様が夜を与えてくださったのは寝るためなのに、人間は電気を作って夜を昼に変えてしまった。そのため、人生に休みがなく、混乱してしまう。
そして、彼らの家にはテレビやコンピューターがない。神様は人と人の間に熱い愛の対話と仕えがあるように創造されたが、テレビやコンピューターが家庭に入ったことによって、家族が互いの顔を見ながら愛の対話をすることではなく、皆テレビばかり見ることになった。そのため、家族の対話はどんどんなくなる。そして、何より恐ろしいのは、子どもが親のいうことを聞かなくなってしまったことである。テレビやインターネットで見たものが、彼らの人生のモデルになり、判断基準になってしまう。両親や先生のことばは、人生の判断基準(真理)ではなく、小言に転落してしまう。ハーバード大学の20年間の研究によると、社会での成功指数は、「感性指数」だという。しかし、今日(こんにち)は、人間関係から来る感性指数はほとんどゼロの状態で、機械指数だけ高くなっている。人々がどんどん情を失っている。人間が破壊されている。それで、アーミッシュ村は、文明より自然をより好んでいるのだ。
アーミッシュ村の人々は、自分たちが文明の利器の中に入ると、罪を犯し、破壊されることを知っていた。そのため、もう文明を願っていないのである。少し不便なことはあるかもしれないが、その生活が自分たちを神様の中で守ってくれるからだ。アーミッシュ村の人々のように、罪と堕落から自分を守るためにいつも節制した生活を生きることができるのが、真の幸せを守る生活ではないだろうか。
3. 収穫感謝礼拝の祝福
神様が与えてくださった豊富なぶどうの実で酒を作って飲んだノアはどうなったのか?果たして幸せだったか?その反対である。酒を飲んだ瞬間は、アルコールが与える恍惚としていたかもしれないが、彼はすぐ自分の服を全部脱ぎ、裸を出して寝てしまう恥ずかしいことを自らやってしまう。
自分の楽しみ、快楽を先に求める者は、必ず自ら恥を招く。ノアがその証人である。ノアはいかに恥ずかしかったか、酔いがさめて起きたら、その恥ずかしさを少しでも隠そうとして、罪のない(?)自分の息子まで呪ってしまったのではないか。
しかし、良いことがあるとき、まず神様の喜び、満足を求める人は、決して恥をかかない。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(豊富の祝福)」(マタイ6:33)
「主を信じる者は、だれも失望することがない。」(ローマ10:11)
("Anyone who trusts in him will never be put to shame." NIV)*注
ノアの後半の人生は美しくなかった。
彼は収穫感謝礼拝に失敗した。豊かなときに倒れてしまった。
そのため、彼の後半の350年の人生は、ただ2行で幕を下ろしてしまった。
「ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
ノアは九百五十歳になって、死んだ。」(創9:28,29)
他の記録はない。
平和なとき神様を考えることより、自分を先に考えがちである。
神様の喜びより、自分の喜びに関心がもっとある。
熟したぶどうを見て、神様にささげることより、酒を作ることを先に考えてしまう。
これが、つまりノアが過った姿であった。
あなたはどうするか。
神様が与えてくださった今年の初穂であなたのために酒を作るか。あるいは、神様に感謝のいけにえとしてささげたいか。選択があなたの人生の運命を決める。
今年の収穫感謝礼拝は、自分の喜びでなく、ただそのお方の喜びのために完全にささげる天国の宴になることを祈る。
*注:英語(ローマ10:11)は、日本語の聖書に「恥」ということばが出ていなかったので訳者が入れておきました。韓国語と英語版では、恥(shame)と訳されています。
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Status | 番号 | タイトル | 投稿者 | 日付 | 閲覧数 |
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기도에 대한 3대 主言(2003.9.21)23 |
2003-09-23 | 907 | ||
18 |
어떤 유산을 받고 싶은가?(2003.9.7)24 |
2003-09-08 | 934 | ||
17 |
과거의 저주를 끊으라(2003.8.31)26 |
2003-09-01 | 962 | ||
16 |
뽕나무와 말씀(2003.8.24)22 |
2003-08-25 | 900 | ||
15 |
탈선하지 말라(2003.8.17) [설명사진첨가]23 |
2003-08-19 | 932 | ||
14 |
하나님의 나라(2003.8.10)16 |
2003-08-11 | 808 | ||
13 |
진흙과 토기장이 (2003.7.27)26 |
2003-07-28 | 1172 | ||
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온전한 가지(2003.7.20)22 |
2003-07-21 | 865 | ||
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변화의 천재가 되라(2003.7.13)27 |
2003-07-14 | 1051 | ||
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감사하는 자가 되어라 (2003.7.6)32 |
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마이너스 인생을 살아라(2003.6.29)35 |
2003-06-30 | 1220 | ||
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지혜있는 자같이 살아라(2003.6.22)30 |
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선물을 받아라(2003.6.8)30 |
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2003-06-03 | 1127 | ||
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예수님의 우선순위16 |
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주님이 주시는 마음22 |
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버리는 것이 사는 것이다(2003년 5월 18일)24 |
2003-05-22 | 1324 |
7 コメント
田辺高幸
2007-10-24 16:34:42
豊かになるというのはいいことの反面、とても怖いものである。というのも豊かになればなるほど、人は大切なものを忘れてしまう。ノアは農夫だったので、豊作になればなるほど自分の利益ばかりに目をとめて、神様への従順を忘れてしまった。神様の恵みで獲れたブドウを捧げる前に、ブドウ酒を作り、そしてそれに飲まれてしまった。恥をさらし、これを見た子供を呪ってしまった。ノアにはもう神様がいなくなってしまったのである。
これは自分らにも当てはまる事。僕がお祈りをしてて危惧するのは、今僕は困っているからお祈りをしているが、豊かになったとき忘れてしまうのではないかということだ。これが一番怖い。
神様あっての自分ということを忘れないでこれからもお祈りをしたい。これが基本。豊かさなった時には、これは誰のおかげでなったのかを振り返るようにしたい。ノアの話を聞いて思った事だった。
中森千草
2007-10-25 06:10:24
古郡武志
2007-10-25 08:17:20
先週まで「従順の模範」であったノアに関する記録が、このような形で終わりを見せたことに驚かざるを得なかった。信仰の道を踏み外して滅びの道を歩む人間、感謝を忘れて快楽にふける人間、理想の信仰者からはほど遠い人間たちの姿が多数出てくるのであるが、神様が私たちを愛しているからこそ、そのような人間の姿もあまねく描いて下さったというのが、忘れがちな視点であった。
私が聖書を読むときは、理想的なイエス様の御言葉や行動に心を奪われて、聖書が鏡として見せて下さった悪い例にはどうやらあまり心を留めていなかったようである。
実際は「明日はわが身」という認識で気をつけて読まなければならないのだが、どうも自分は関係ないと思っていたのだろうか?
たしかに聖書通読で私は「ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた」ノアの姿を知っていたはずだが、何とも思わなかった。おそらく、一生懸命ぶどう栽培
を行ったのだから、少しくらい酔っ払っても当然ではないか」と思っていたのかもしれないが、果たして自分がちゃんと読んでいたのか不安に感じられたのである。
「私たちを教え、戒め、誤りを正してくれる」御言葉をどの登場人物からも教訓を得るという態度で真剣に学び、そして御言葉を心から愛するという姿勢できちんと読みたいと思う。
2.「あなたもノアの過ちをどうともなく、繰り返しているのではないか?それが、あなたの人生の決定的な過ちであることさえ知らずに」
学生時代は、意識がなくなるまで飲み、恥をかいたこともあるが、もうさすがに今はそのようなこともない。ノアのように全裸になって、人を呪うこともない。しかし、人生の決定的な過ちというのは一度に大きなインパクトをもって押し寄せるのではなく、日々の積み重ねにおいても発生し得るものだと思う。
例えば、酒を飲んで自宅に帰ってくるともう眠たくなり、今日神様が下さった祝福に対する感謝の祈りは明日でよいとなってしまう。「感謝自体はしないわけではないのだから明日まとめてすればよいのではないか?」と先延ばしを正当化し、終局的には感謝自体しなくなっていく。「日々の積み重ね」は良い方向に作用すれば良いが、悪い方向に作用すると「人生の決定的な過ち」になっていくと思う。
3.「人は、大変なときより、成功するときに倒れやすい」
この言葉を聞くと思い出す言葉がある。それは、「苦しいときの神頼み」という言葉である。「苦しいときに助けを求めてくるだけで、少し自分が順調になれば、連絡の一つもよこさない」人間を愛して、助けることができるか?難しいだろう。神様との関係も同じことはいえないか?
順調な境遇のときに祈らなくなるという話をよく聞く。しかし、神様との関係は「苦しいときの神頼み」であってはならず、苦しいときも順調なときも神様を心に置き、感謝の念を忘れないことで神様とも良い関係を築けるのだと思う。恋愛成就等の願望を実現したいときに、願望リストを突きつけるだけの利己的な状態を脱して、いつでも感謝の念を忘れずに、信仰生活を歩んでいけるようにならなければと思う。
安間チョウコ
2007-10-26 05:20:57
ノアの飲酒
酒は悪いだろうか?
イエス様もブドー酒は飲まれたではないか。(マタイ26-29)
タバコは体に良くないと思うが、酒は少しなら動脈硬化の予防になるとも言われている。
しかし度を越すと悪に陥ることが多い。過飲酒で酩酊状態に陥り、トラになったり、無意識の暴力沙汰、飲酒運転等など、人の心を狂わせることが多い。
ノアもその一人だ。酒に酔うことで神への従順を忘れてしまった。神を身近においていつも神と対話し、従順していたのに、過度の飲酒により、神から遠ざかり、自己弁解をしたりして悪を犯した気持ちから回復が出来ず、平常心で神に向かえなくなっている。
私もこのことは心しておかなければと思う。私も今までは睡眠剤代わりにブドー酒を飲んでいた。
酩酊状態位にならないと眠れないということは危険なこととわかっていた。人は悪癖を一つや二つ持つ。私の不眠も一つの悪癖だ。悪癖の克服は信仰を持っているから可能であるはずだ。
これからはお酒を飲まないことを誓います。
平穏なときに悪魔が住み込むというのも本当だと思います。だから神の武具で身を固めていたいと思います。
津田浩史
2007-10-26 09:17:37
確かに洪水は、ノアの家族を残して人類が全滅した、文字通りの大惨事です。その中をノアは船に乗って必死に生き延びたのですから、生きていることが奇跡であり、それだけで最高の感謝を捧げたくなったのかもしれません。
幸いにも私は(おそらく普通の人はみな)ノアほどの危機に遭遇したことはありません。しかし、思い返してみると苦しいときには自分から神様に祈りをささげ、自分や家族が生きて一緒にいられることだけでもありがたい、と自然に感謝する気持ちになります。しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがあるように、楽になってふと気が緩むと、「何で毎日こんなにやらなきゃいけないのか」「少し休みたい」という不満や怠け心が出てくるのを感じます。
おそらく、ノアを初めユダヤの民もそうだったのではないでしょうか。神様が嘆きお怒りになる通り、いくら神様が奇跡を起こして苦難から民を救っても、時が過ぎると安寧の中で不満を持ち、怠け、ひどい時には神様に背を向けて勝手に偶像を崇め始めるというていたらくです。今までは聖書を読むたび「なぜこの人たちは何度言われても道を踏み外すのだろう」とあきれていましたが、今回の説教について考えてみると、まさにこれが私を初め多くの人が陥る落とし穴だとわかりました。
「気が緩んで不満や怠け心が起き、楽なほうへと流れていった結果、最後には信仰まで壊れて自分自身がだめになってしまう」ことの恐ろしさを、聖書が教える戒めとしてしっかり受け止め、これからの自分の生活に活かしていきたいと思います。
藤田弘量
2007-10-26 10:03:21
私の身近ににもたくさんいます。 お酒で、異性トラブルで、金銭トラブルで・・・・
神様に従順で立派な信仰を続けていたノアでさえ祝福の実りの中で撃沈してしまったのですね・・・・
私はお酒がとっても強いようです。 いくら飲んでも顔が赤くなるだけで心が乱れた事がないので好い事だと思っていました。 しかし、家族と別れてから膨大な量を飲むようになりました。寂しさや憎しみを一瞬だけでも忘れることができたからです。 親しい友人たちは私のためにお酒を飲ませてくれました。みんな心優しい善良な人たちです。「元気出して、楽しく飲もうぜ!」落ち込んでいる私を救おうとしてくれました。
しかし、憎しみはお酒を飲めば飲むほどかえって増幅していきました。
身の破滅を免れたのは私が順風ではなく、すでに壊滅的な生活環境だったからだと思います。 人が人を救い出すのはとっても難しく、まず不可能だと思います。
私を救い出してくれたのは神様でした。 教会に導かれた祝福に心から感謝しています。 私にとって問題なのは現在なのかもしれません。 神様の祝福をたくさん受け心が潤っています。順風な生活を取り戻しつつあります。会社で責任ある仕事を任されるようになりました。仕事の忙しさを理由に感謝のお祈りを怠ってはいないか?
収穫感謝祭を迎え、自らを見つめ直したいと思います。
木下
2007-10-28 15:52:45
神様は、私たちを深く愛しておられ、どのように人生を歩むべきかを聖書を通して教えてくださることに感謝します。神様に忠実に従っていたノアでさえ、最後には、神様から豊かな祝福を与えられたことによって失敗をしてしまいました。説教の中で、以前、礼拝は始まりも大事であるが、終わりはさらに大事であると言われたことを思い出しました。従って、最後の祝福のお祈りはとても大切であることを教えていただいた記憶が残っています。人生の最後、物事の最後がとても大切であることを感じました。