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중앙영광교회

ペットほどにでも

멀티선교팀, 2017-12-27 08:26:58

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ペットほどにでも



ソンヒョンボ牧師先生の本にこのような話があります。
'新しい信者の家で属会集いがあったため、牧師先生が訪問しました。ところが、隣の部屋でワンちゃんの音が聞こえてきました。牧師先生が新しい信者の方に聞きました。‘黄先生、仮の話ですが1泊2日でどこかに出かけようとすると、まず最初に何を考えますか?’
‘そりゃ、もちろんワンちゃんのご飯ですね。’
‘そしたら、どこかに行って遅くなったら、まず最初に何を考えますか?’
新しい信者はまた、正直に答えました。
‘ワンちゃんを先に思います。’
‘それなら、黄先生の人生はワンちゃんが中心ではないでしょうか?’
‘神様を信じて洗礼を受けたら、神様を中心に生きなければならないですが
黄先生は神様をワンちゃんほどにでもお仕えできたのでしょうか?ワンちゃんへの関心のように、神様にも関心を持ったことがありましたか?’
‘そういうわけにはいきませんでした。’
‘イエス様が黄先生のために十字架で亡くなったという事実を信じるのにどうしてどこへ行ってもワンチャンのご飯だけを思いながらいきるのでしょうか?黄先生の心にイエス様がおられますでしょうか?’
ワンチャンのためならシャンプーもやってあげ、服も着させ、爪の手入れもやってあげるのにどうしてイエス様から頼まれた福音を述べ伝え証人になりなさいという掟を守らないのか全く理解できないとソン牧師は問いただしました。
信仰の人は「その心がキリストの家」である人なんです。イエス様がその心におられるのは、もちろんイエス様が心の主人になった人です。このような人はどこへ行こうが、何をしようが常にイエス様が先に思いつくのが当然のことでもあります。
ところが、イエス様を信じる人たちの中でも、一日中イエス様のことを一度も考えずに生きる人たちが少なくありません。イエス様に対する関心がさほどありません。ただ、世間のことだけに関心が集中しているから、考えが世間のもののみで満ち溢れ出ています。
ラオディキアにある教会は、イエス様をはじめから扉の外へ追い出してしまいました。そのためイエス様は彼らの思いの外にいるお方になってしまいました。イエス様はラオディキアにある教会に心から捨てられたお方になったのです。そして、彼らの思いの中にはイエス様がおられませんでした。
イエス様を心のご主人様として仕えると必ず思考の主人におられるはずです。思いの中にイエスがいないのであればその人はラオディキア教会と違いがありません。あなたはイエス様をあなたの主人として受け入れたのでしょうか?
そうならば、あなたは一日にどれくらいイエス様を想っているのでしょうか?もしかして家で飼っているワンチャンくらいでもイエス様を想っていないのでしょうか?
人は愛するほど想います。想いを見れば愛の対象が分かります。イエスの愛をイエスの想いで表現する人こそ本当のイエスの人であります。

「1.さて、あなたがたは、キリストと共に复活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2.上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。(コロサイ人への手紙3:1~2)」

1 コメント

中森千草

2017-12-27 09:08:47

命のあるものに対して、関心を持つのは。。。
あると思うし、あるでしょう。
クリスチャンの方々がよく表現されますが、
生きておられる神様。
イエス・キリストです。
心が引き締まる思いがしたこの思いを
忘れないでいこう。

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