村の宝
日本で信仰のない人にまで多くの感動を与えた詩人がいます。水野源三さんです。彼は小学校4年生のとき、赤痢(せきり)による小児脳性麻痺を患ってからすべての行動の自由を失ってしまいました。手足を動かせないことだけではなく、話もできなかったので、意思伝達がほとんど不可能でした。外部とのコミュニケーション手段としては、まばたきをするのが精いっぱいでした。そんな彼に明かりが訪れました。宮尾牧師先生からもらった聖書を通して水野さんは、イエス様に出会ったのです。
彼は主からの驚くべき恵みと愛を詩を通して世の中に伝えました。日本の50音符を母が指で探っていくと、まばたきを通して自分の意思を伝え、一文字一文字を母が書いて一遍の時が完成されたのです。
ある人が水野源三に会うために、その村を訪問しました。彼のところを尋ねると近所の人は、丁重に教えながら“水野源三さんは、この町の宝です。”と話したそうです。この宝が彼の詩を介して、今も世の中に光を放っています。彼の詩を読む人は心に潜んでいた闇が遠ざかっていくからです。
三浦綾子さんは彼の詩をすべて日本の人々が読んでもらいたいと、心から切に願いました。そして、水野さんを通して素晴らしい真理を学んだと、次のように述べました。
“人は立ち上がることができなくても、手を動けなくても、息をすることの他は一切、他人の助けを受けなければならなくても、自分の意思を伝える口がなくても、「この村の宝です」という評価を頂ける存在になれることを水野源三さんは教えてくれた。”
水野さんは詩の中でこのように告白しました。
「泣かないでください」
母を失った私のために
泣かないでください
もう泣かないでください
心の中は
不思議なくらいに
静かなのです
キリストが
私と共に
おられるからでしょうか
近所の人達がなぜ水野さんを「宝」だとたとえたのか理解ができます。
彼の心には、真の宝なるイエス様が一緒におられたからです。この信仰のため水野さんは、自分の手と足、口になってくださった母が亡くなりましたが、それ故に傷心したのではなく、自分と常に一緒におられるイエス様によって平安な心を歌うことができたのです。肉の母がいないよりも霊の主が共におられることが彼には完全な力であることを証しているわけです。
手足も口も失い、ほぼすべての健康を失い、母まで失いましたが、イエス様を得られたことが、彼には本当の喜びであり、力であり、望みになったのです。彼の人生で真の宝はひたすらイエス様でした。あなたは今、どんな宝を探しているのでしょうか?あなたの内におられるイエス様ただ一人で満足できていないでしょうか?
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。(コリント人への手紙Ⅰ 4:7)」
1 コメント
中森千草
2017-04-03 08:38:11
ですが、空より高い天の国から私達を
見守って下さっているイメージが、
私には大きいです。
どの様な信仰をすれば、イエス様に近づけるのか…
理解していても、実践がなければクリスチャンではありませんね。
ひとつひとつから始めていきます。