最高の道
御言葉//コリント13:13
1. 最高の道
世の中にはいろんな道がある。
狭こ、広こ、山道、平らな道、舗装された道、アスファルトの道、,路地道、高速道路・・・
このように私の人生にはいろんな道がある。高速道路のような良こもあるし、砂漠の砂の上を走らないといけない大変な道もある。
聖書は私たちに最高の道を教えてくれる本である。
「これからわたしが最高の道をあなたがたに見せましょう。」(コリント12:31)
神様が仰っている人生の最高の道は果たしてどんな道でしょう。
「それゆえ信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る、その中で最も大いなるものは愛である。」(コリント13:13)
神様が創っておかれた人生の最高の道は他ではない、「愛の道」である。
この道は悔いが残らなこであり、無念も残らなこであり、未練も残らなこであり、充満感で終える道である。
ところが、人々はこの最高の道を決して最高の道だと思わない。その道の力を信じていない。それでいつも違う道をうろうろする。私たちの日常生活で最も多く価値を切り捨てられているのが愛ではないかと思う。それで急用が起きると、一番最初に犠牲になるのが即ち、愛である。愛を人生の優先順位第1位に位置づけしないといけない。その道が即ち、人生最高の道を歩んでいく姿、そのものだからである。
ある人が重病にかかってしまい死ぬことになった。
死ぬ前に最後に是非やりたい事を考えてみた。やる事があまりにも多かった。それで彼は減らしに減らした。最後に残ったものが一つあったけれど、それはほかではなく、「許し」だったそうだ。死ぬ前に私たちが是非やるべき事の一つ、それが許しという事実は即ち、愛が人生の優先順位の一番ということを示している。許しは愛せない人を愛する最後の段階である。死の前で人々が最も後悔することはもっと愛せなかった事である。「私が何故、その時もっと愛してあげなかっただろう!」死ぬ時に最も悔いが多い人は愛に対する未練が多い人である。クリスチャンは愛に対する未練を残してはいけない。その道は簡単である。思う存分愛を注いで天国に行けば良い。
神様は愛の価値を人間最高の宝物として評価しておられる。
神様が聖霊様を通じて私たちに下さったプレゼントがコリント一の12章に記されている。
知恵の御言葉、知識の御言葉、異言が話せる賜物、病気を治す賜物、奇跡を起こす力・・本当に珠玉のようなプレゼントである。しかしこのような良い賜物も愛がなければ何の意味も、有益もないと仰った。そしてこれらの賜物は時期になると全て無くなるが、無くならずにいつもあるものが三つある。それが信仰、希望、愛と仰った。この3つの中で最も大いなるものは愛である。愛は神様が世の中に下さった最も貴き宝物である。
2. 美しい愛の物語
世の中には数多くの物語がある。
しかし愛ほど感動的な話はない。愛ほど美しい物語もない。
「煉炭道」に載っている実話を一つ分かち合いたいと思う。
夕方頃、ある女の子が2人の弟と妹を連れて食堂に入ってきた。
弟と妹はジャージャーメンを食べると言った。姉はジャージャーメンを二つ注文した。
妹が聞いた。「お姉ちゃんはなんで食べないの」
「昼食でもたれたみたい。何も食べられないよ」
また7歳の弟が聞いた。
「お姉ちゃん、それでも食べて~これ本当に美味しいよ」
「お姉ちゃんは今お腹の調子が悪いから食べられないの。今日はあなたの誕生日だからいっぱい食べて。」
そして姉は弟の手を握ってくれた。
隣のテーブルにはある家族が仲良く外食をしていた。
それを見た妹が羨ましがりながら言った。
「お姉ちゃん、私たちにもママとパパがいたらどれほどよかったのかな、ああいう風に一緒に夕食も食べて」
分別のない弟と妹の話に姉の心は張り裂けそうになってきた。
しばらく後で厨房からお店の叔母さんが出てきた。子供たちに声をかけた。
「あなた、もしかしてめぐみちゃんじゃないの。めぐみちゃんだよね。」
「はい、そうですけど。どなたですか。」
「あなたのお母さんの友達だよ。幸子おばさん。」
「同じ町に住んでいたのよ。あなたがまだ幼かったから覚えてないようね。」
妹を見ながら叔母さんは話し続けた。
「まことも大きくなったね。あの時はうまく歩けなかったのに。」
やっと子供たちの顔に微笑みがこぼれた。
「叔母さんが美味しいもの作ってあげるね。ちょっと待っててね。」
叔母さんはジャージャーメン3つと酢豚一つを彼らに作ってくれた。
「ばいばい。ジャージャーメンが食べたかったらいつでもおいで。分かった。」
暗こを慌しく歩いていく子供たちの後姿が軒先のつららのように苦しく見えた。
ホールにいた旦那が聞いた。
「誰の子供たちなの。俺はいくら考えても記憶にないけど。」
「実は私も知らない子供たちだわ。両親がいない子供たちだと言ってむやみに食べ物をあげると子供たちが傷つくかもしれないじゃない。それでお母さんの友たちだと言ったら子供たちがまた来れると思って。」
旦那が言った。
「子供たちの名前まで覚えていたから本当に知っている子供たちだと思ったよ。」
「厨房で子供たちが話すことを聞いて彼らの名前と事情が分かったわ。」
「今日、弟の誕生日だったらしいわ。自分は食べたくても我慢して弟と妹の世話をしている姿があまりにも何故か痛ましく思えて」
妹と弟に対するお姉さんの小さな配慮、両親のいない子供たちに対する食堂の叔母さんの小さい配慮がこれを読んでいる私たちにとても貴き感動を与えてくれる。これが愛の力ではないかと思う。
3. 愛の源
「煉炭道」には義理のお父さんの愛によって幼い時に実の父親から負わされた傷が癒される物語がある。自分はぼろぼろになった手袋をはめているのに、娘の為に新しい手袋を買ってくれたり、残業している娘の為にカルビスープを出前してくれたり、娘に浮気すると誤解されながらも娘の結婚費用を稼ぐ為に食堂の厨房でバイトもする義理のお父さんの深い愛に気づいた娘は、一度もお父さんと呼ばなかった義理のお父さんに許しの手紙を書く。
「お父さん、今までわがままいってごめんなさい。お父さん、愛してる。」
人を生かす力は「愛」である。人を変える力も愛である。愛より偉大な力はない。神様が世の中を死から救い出した力も「愛」であった。
「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びない永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
信仰というのは神様のその愛の力を受け入れることである。
愛は世の中を生かした力である。愛は人を生かせる力である。死んでいく人に愛より良い薬はない。
ところで、愛は聞くのは簡単だが、行動に移すのは簡単ではない。
聖書ははっきり語っている。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合う。」 (ヨハネの手紙一3:18)
愛は行動である。行動のない愛は死んでいる愛である。(ヨハネの手紙一4:8-9、テモテ二1:7)神様は十字架を通してその愛を見せてくださって、聖霊様を通して私たちも愛の実を結べるようにしてくださった。それで聖霊様の最初の実がほかではない、愛であるわけだ。(ガラテヤ5:22) 愛の実は聖霊を通して結ばれる。したがって私が愛の証人になる為には徹底して聖霊に頼らないといけない。愛の実は私が結ぶものではなくて聖霊様が結んでくれる聖霊の実であるからだ。
人を変える変化の源は愛である。それでは愛の源は何なのか。聖霊様である。
人はまず親の手で変化を受け入れ、次は師匠の手で変化を受け入れ、最後は聖霊様の手によって確実な変化を体験するようになる。パウロのドラマチックな変化がこの変化である。聖霊様は愛の手で私たちの人生を変える。
愛は感情の表現ではなく、意志の表現である。感情的に表現すると進行中の愛も壊れやすいけれど、感情に負けずに意思的に表現すると壊れた愛も回復される。
愛は利己心の表現でなくて利他心の表現である。愛は自分の器を満たす為の行動ではなくて他人の器を満たす行動である。利己的な愛は愛を言い訳にした恐ろしい暴君に急変する可能性もある。
愛は未来の表現でなく現在の表現である。次にやろうという未来型は生命力を失った愛である。生命力のある愛は今すぐ行う現在形の愛である。今現在、私の範囲で出来る素朴な愛が最も美しくて力のある愛である。ジャージャーメン一杯でも良い。手袋一足でも良い。それが世の中を変える聖霊様の力である。
あなたは本当に主の弟子なのか。弟子の明確な色を表してみよう。それは愛の色である。
「互いに愛し合うならそれによってあなたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」(ヨハネ13:35)
主の御名によって悪霊を追い出すより、もっと貴いものが愛であることを忘れないようにしよう。
今、あなたが歩んでいる人生の道はどんな道でしょうか。
御言葉//コリント13:13
1. 最高の道
世の中にはいろんな道がある。
狭こ、広こ、山道、平らな道、舗装された道、アスファルトの道、,路地道、高速道路・・・
このように私の人生にはいろんな道がある。高速道路のような良こもあるし、砂漠の砂の上を走らないといけない大変な道もある。
聖書は私たちに最高の道を教えてくれる本である。
「これからわたしが最高の道をあなたがたに見せましょう。」(コリント12:31)
神様が仰っている人生の最高の道は果たしてどんな道でしょう。
「それゆえ信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る、その中で最も大いなるものは愛である。」(コリント13:13)
神様が創っておかれた人生の最高の道は他ではない、「愛の道」である。
この道は悔いが残らなこであり、無念も残らなこであり、未練も残らなこであり、充満感で終える道である。
ところが、人々はこの最高の道を決して最高の道だと思わない。その道の力を信じていない。それでいつも違う道をうろうろする。私たちの日常生活で最も多く価値を切り捨てられているのが愛ではないかと思う。それで急用が起きると、一番最初に犠牲になるのが即ち、愛である。愛を人生の優先順位第1位に位置づけしないといけない。その道が即ち、人生最高の道を歩んでいく姿、そのものだからである。
ある人が重病にかかってしまい死ぬことになった。
死ぬ前に最後に是非やりたい事を考えてみた。やる事があまりにも多かった。それで彼は減らしに減らした。最後に残ったものが一つあったけれど、それはほかではなく、「許し」だったそうだ。死ぬ前に私たちが是非やるべき事の一つ、それが許しという事実は即ち、愛が人生の優先順位の一番ということを示している。許しは愛せない人を愛する最後の段階である。死の前で人々が最も後悔することはもっと愛せなかった事である。「私が何故、その時もっと愛してあげなかっただろう!」死ぬ時に最も悔いが多い人は愛に対する未練が多い人である。クリスチャンは愛に対する未練を残してはいけない。その道は簡単である。思う存分愛を注いで天国に行けば良い。
神様は愛の価値を人間最高の宝物として評価しておられる。
神様が聖霊様を通じて私たちに下さったプレゼントがコリント一の12章に記されている。
知恵の御言葉、知識の御言葉、異言が話せる賜物、病気を治す賜物、奇跡を起こす力・・本当に珠玉のようなプレゼントである。しかしこのような良い賜物も愛がなければ何の意味も、有益もないと仰った。そしてこれらの賜物は時期になると全て無くなるが、無くならずにいつもあるものが三つある。それが信仰、希望、愛と仰った。この3つの中で最も大いなるものは愛である。愛は神様が世の中に下さった最も貴き宝物である。
2. 美しい愛の物語
世の中には数多くの物語がある。
しかし愛ほど感動的な話はない。愛ほど美しい物語もない。
「煉炭道」に載っている実話を一つ分かち合いたいと思う。
夕方頃、ある女の子が2人の弟と妹を連れて食堂に入ってきた。
弟と妹はジャージャーメンを食べると言った。姉はジャージャーメンを二つ注文した。
妹が聞いた。「お姉ちゃんはなんで食べないの」
「昼食でもたれたみたい。何も食べられないよ」
また7歳の弟が聞いた。
「お姉ちゃん、それでも食べて~これ本当に美味しいよ」
「お姉ちゃんは今お腹の調子が悪いから食べられないの。今日はあなたの誕生日だからいっぱい食べて。」
そして姉は弟の手を握ってくれた。
隣のテーブルにはある家族が仲良く外食をしていた。
それを見た妹が羨ましがりながら言った。
「お姉ちゃん、私たちにもママとパパがいたらどれほどよかったのかな、ああいう風に一緒に夕食も食べて」
分別のない弟と妹の話に姉の心は張り裂けそうになってきた。
しばらく後で厨房からお店の叔母さんが出てきた。子供たちに声をかけた。
「あなた、もしかしてめぐみちゃんじゃないの。めぐみちゃんだよね。」
「はい、そうですけど。どなたですか。」
「あなたのお母さんの友達だよ。幸子おばさん。」
「同じ町に住んでいたのよ。あなたがまだ幼かったから覚えてないようね。」
妹を見ながら叔母さんは話し続けた。
「まことも大きくなったね。あの時はうまく歩けなかったのに。」
やっと子供たちの顔に微笑みがこぼれた。
「叔母さんが美味しいもの作ってあげるね。ちょっと待っててね。」
叔母さんはジャージャーメン3つと酢豚一つを彼らに作ってくれた。
「ばいばい。ジャージャーメンが食べたかったらいつでもおいで。分かった。」
暗こを慌しく歩いていく子供たちの後姿が軒先のつららのように苦しく見えた。
ホールにいた旦那が聞いた。
「誰の子供たちなの。俺はいくら考えても記憶にないけど。」
「実は私も知らない子供たちだわ。両親がいない子供たちだと言ってむやみに食べ物をあげると子供たちが傷つくかもしれないじゃない。それでお母さんの友たちだと言ったら子供たちがまた来れると思って。」
旦那が言った。
「子供たちの名前まで覚えていたから本当に知っている子供たちだと思ったよ。」
「厨房で子供たちが話すことを聞いて彼らの名前と事情が分かったわ。」
「今日、弟の誕生日だったらしいわ。自分は食べたくても我慢して弟と妹の世話をしている姿があまりにも何故か痛ましく思えて」
妹と弟に対するお姉さんの小さな配慮、両親のいない子供たちに対する食堂の叔母さんの小さい配慮がこれを読んでいる私たちにとても貴き感動を与えてくれる。これが愛の力ではないかと思う。
3. 愛の源
「煉炭道」には義理のお父さんの愛によって幼い時に実の父親から負わされた傷が癒される物語がある。自分はぼろぼろになった手袋をはめているのに、娘の為に新しい手袋を買ってくれたり、残業している娘の為にカルビスープを出前してくれたり、娘に浮気すると誤解されながらも娘の結婚費用を稼ぐ為に食堂の厨房でバイトもする義理のお父さんの深い愛に気づいた娘は、一度もお父さんと呼ばなかった義理のお父さんに許しの手紙を書く。
「お父さん、今までわがままいってごめんなさい。お父さん、愛してる。」
人を生かす力は「愛」である。人を変える力も愛である。愛より偉大な力はない。神様が世の中を死から救い出した力も「愛」であった。
「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びない永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
信仰というのは神様のその愛の力を受け入れることである。
愛は世の中を生かした力である。愛は人を生かせる力である。死んでいく人に愛より良い薬はない。
ところで、愛は聞くのは簡単だが、行動に移すのは簡単ではない。
聖書ははっきり語っている。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合う。」 (ヨハネの手紙一3:18)
愛は行動である。行動のない愛は死んでいる愛である。(ヨハネの手紙一4:8-9、テモテ二1:7)神様は十字架を通してその愛を見せてくださって、聖霊様を通して私たちも愛の実を結べるようにしてくださった。それで聖霊様の最初の実がほかではない、愛であるわけだ。(ガラテヤ5:22) 愛の実は聖霊を通して結ばれる。したがって私が愛の証人になる為には徹底して聖霊に頼らないといけない。愛の実は私が結ぶものではなくて聖霊様が結んでくれる聖霊の実であるからだ。
人を変える変化の源は愛である。それでは愛の源は何なのか。聖霊様である。
人はまず親の手で変化を受け入れ、次は師匠の手で変化を受け入れ、最後は聖霊様の手によって確実な変化を体験するようになる。パウロのドラマチックな変化がこの変化である。聖霊様は愛の手で私たちの人生を変える。
愛は感情の表現ではなく、意志の表現である。感情的に表現すると進行中の愛も壊れやすいけれど、感情に負けずに意思的に表現すると壊れた愛も回復される。
愛は利己心の表現でなくて利他心の表現である。愛は自分の器を満たす為の行動ではなくて他人の器を満たす行動である。利己的な愛は愛を言い訳にした恐ろしい暴君に急変する可能性もある。
愛は未来の表現でなく現在の表現である。次にやろうという未来型は生命力を失った愛である。生命力のある愛は今すぐ行う現在形の愛である。今現在、私の範囲で出来る素朴な愛が最も美しくて力のある愛である。ジャージャーメン一杯でも良い。手袋一足でも良い。それが世の中を変える聖霊様の力である。
あなたは本当に主の弟子なのか。弟子の明確な色を表してみよう。それは愛の色である。
「互いに愛し合うならそれによってあなたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」(ヨハネ13:35)
主の御名によって悪霊を追い出すより、もっと貴いものが愛であることを忘れないようにしよう。
今、あなたが歩んでいる人生の道はどんな道でしょうか。
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부활의 증인되자8 |
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주 예수 그리스도의 십자가4 |
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인내를 온전히 이루라10 |
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2005-02-15 | 401 | ||
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누군가에게 복수하고 싶을 때(2004.2.8)13 |
2004-02-09 | 1732 |
3 コメント
이용규목사
2009-05-28 18:25:11
은혜로운 번역 감사합니다.
中森千草
2009-06-02 06:19:39
自分が少し悪い人になりかけそうな時、イエス・キリストの愛を思い浮かべる。
そして、心を改め、悔い改めの祈りをする。
イエス・キリストの愛を考えるたびに、自分の悪い部分が減っていき、神様の愛を見ることによって、私の人格が正されていくように思います。
愛のある行動を自然に行えるように、そして、細やかなことにももっと目を止めていきたい。
自分が出来ることから始めていき、その心をいつまでも忘れないようにしようって思いました。
古郡武志
2009-06-06 17:19:37
行動によって愛を示したイエス・キリストの姿に学び、仮想愛から脱し、本当の愛の道を歩んでいきたい。