復活と伝道
御言葉//ヨハネによる福音書21:17-19
1. 復活されたイエス様
キリスト教の代表的な二つの事件は十字架と復活だ。
十字架は神様の絶対的な愛を示す。だから、キリスト教は真の愛の宗教だ。そしてイエス様の復活は神様の絶対能力、真の命を示している。それでキリスト教は真の命の宗教、真の能力の宗教だ。自分自身が死ぬまでして愛を証して、自分自身が復活することで能力を見せてくれる宗教は他にはない。十字架と復活があるのでキリスト教は真の宗教だ。キリスト教以外には救いがないのだ。教会にしか救いがない。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14:6)イエス様が私達の罪の為に死なれて、聖書の通り、三日後に再び生き返られた日が復活祭だ。イエス様の復活の事件は歴史的な本当の事件だ。最低500人以上の確実な証人がいる事件だ。(コリントの信徒への手紙15:6)
イエス様の復活は神様の能力を誇示する為の事件ではない。私達に真の希望を与える為の、私達の為の事件だ。
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリントの信徒への手紙一15:19-20)
初代教会時代で復活を信じた人々は世の中をとても堂々と、元気良く生きていた。
彼らは拷問をされながらもより良い復活の人生を得ようとしてあえて釈放されることを願わなかった。(ヘブライ人への手紙11:35)復活はどんな拷問にも、苦難にも充分に勝てる天の能力であった。
イエス様の復活は私達の人生の復活を保障する神様の約束だ。
復活なさった神様を眺めながら共に叫んでみよう!
「私の人生も必ず復活する!何を疑うのか。イエス様の復活がそれを確実に証明しているのではないか。」
2. 信仰復活
ヨハネによる福音書で復活なさったイエス様が3度、弟子達に現れた。2度までは復活に対する信仰を弟子達に持ってほしかったのである。ここで有名なトマスの不信仰話が出てくる。イエス様はトマスの不信仰をお叱りになった。なぜ信仰がないとおっしゃったのだろう。トマスの不信仰は何だっただろう。トマスの不信仰はイエス様の事を信じなかったわけではない。イエス様は信じるが、復活は信じないという事だ。これがトマスの不信仰の姿だ。そうだ。これは確かに不信仰だ。復活はイエス様がすでに御言葉で予言をされたことである。またイエス様は全能なる神様で、命と復活であるのにイエス様が復活なさった事を信じないのは話にならない。イエス様を信じるなら復活を信じるのは当然の事だ。
イエス様はトマスに親しく現れて手で触ってみたり、手をわき腹に入れてみたりして疑いを晴らして信じろとおっしゃった。そしてイエス様はトマスに手厳しく忠告した。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20:29)
イエス様が大切に思う信仰は見てこそ信じる「現象信仰」でなく、聞くだけでも信じられる「御言葉信仰」だ。
マルコによる福音書でイエス様が弟子達に信仰の無いことを叱ったのも、復活の証人の話を信じなかったからだ。(マルコによる福音書16:14)
怒られて信じるのではなく、先に信じて褒めてもらおう。
復活なさったイエス様は今も私達の信仰が復活される事をお望みになる。
イエス様の死と共に死んだ弟子達の信仰の復活をお望みになったように、死亡に勝って復活なさった神様の能力を信じる復活の信仰が私達の中に復活する事を切実にお望みになる。
「私はイエス様の復活を聖書を通して確かに信じます。」
3. 使命復活
イエス様は弟子達に3度目、再び現われた。この事件がヨハネによる福音書の最終章(21章)を全部占めている。それほど重要な為であろう。
2回現れて弟子達の信仰を復活させて下さった。復活の信仰がないと人々は世の中に対し、恐れてしまう。それでイエス様の弟子達も最初は皆家にひきこもった。怯えて出かけもせずに部屋の中にひきこもった。世の中が怖くて外へ出られなかったからだ。しかし、彼らの中で復活の信仰が回復すると共に恐れは消えた。復活の光がある所から恐れの闇は逃げることになっている。彼らはようやく外に出てきた。
ところで、イエス様が再び彼らに会わないといけない重要な理由が一つ出てきた。
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。(ヨハネによる福音書21:3)
深刻な問題がここにあった。弟子達に恐れは無くなったが、彼らは人生の目的を失くしてしまった。彼らは何をするべきか分からなかった。それで彼らはイエス様に出合う前の状態に戻ってしまった。イエス様が人を釣る漁師に変えて下さったのに彼らは再び魚を釣る漁師に戻ってしまった。イエス様からの使命を失ってしまったのだ。イエス様はこの使命を再び復活させることをお望みになった。それで先に、夜通し魚一匹も釣れなかった彼らに船が満杯になるほどの大漁の福を与え、また彼らを腹いっぱいに食べさせた後、静かにペトロを呼び出した。
イエス様はペトロに3回も同じ質問をお尋ねになった。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」’
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか 」
人は同じ質問を3回もされると深刻になる。1回聞くのと3回聞くのは効果が全く違う。三顧の礼という四字熟語もあるではないか。もしイエス様が1回だけお聞きになったら恐らくペテロはまた躓いただろう。3回を通じて神様は強く確約させた。
では、イエス様はペトロに何の確約を貰いたがったのだろうか。
ペトロが本当に自分を愛しているか、確認する為であったか。違う。
イエス様は「愛の確認」が目的ではなかった。ポイントは「私の羊を飼いなさい(ヨハネによる福音書21:16)」だった。
ペトロが本当に誰よりイエス様を愛しているならばそれに相応しい人生を過ごさないといけない。それは自分の魚を釣るのではなく、神様の羊を飼うことだ。イエス様の目的は「愛の確認」でなく、「使命の確信」だった。イエス様は使命を復活させることをお望みになった。使命を失うと何も出来ない。ただ人生を浮き草のように彷徨って終わってしまう。
4つの福音書で復活なさったイエス様は弟子達に一様に使命を悟らせて下さる。
マタイによる福音書では「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28:19)とおっしゃり、,
マルコによる福音書では「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコによる福音書16:15-16)とおっしゃり,
ルカによる福音書では「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカによる福音書24:47-48)とおっしゃった。
全ての福音書の最終的な結論は、福音の証人、即ち、イエス様の証人になることだということが分かる。復活されたイエス様は弟子達が証人の使命を復活させることをお望みになった。
イエス様は天国に昇りながらこういう話をされた。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカによる福音書24:49)
高い所からの力は聖霊を意味する。聖霊を受けるとどうなるか。地の果てまでイエス様の証人になる。(使途言行録1:8) 聖霊は証人の人生の能力であるからだ。
復活されたイエス様は弟子達の使命を回復させる為にお尋ねになった。
福音を地の果てまで伝える事、伝道の使命は復活なさったイエス様が信徒達に与えてくれた使命中の使命だ。
伝道はイエス様の復活を世の中の復活に変える偉大な力だ。神様の復活を伝えることでそれを受けた人に復活の命が広まるからだ。復活の命を伝える事は決して被害を与えるのではない。彼らを生かす事なので彼らにやってあげる最も大きい仕えの行為だ。
復活なさった神様が貴方に何とおっしゃっているか。
神様の声に耳を傾けてみよう。そして「私に従いなさい」とおっしゃった神様のお言葉の通り、復活なさった神様に付いて行こう。世の中の海を彷徨わず。
神様の復活は即ち、私の復活だ。
私の信仰の復活と私の使命の復活が即ち、私にとって神様の復活だ。
私にこの復活がなかったら私達は復活なさったイエス様を再び墓の中に追い込むことになる。神様は私を復活させる為に復活なさった。
一緒に神様の復活の力で再び復活の翼を広げよう。
御言葉//ヨハネによる福音書21:17-19
1. 復活されたイエス様
キリスト教の代表的な二つの事件は十字架と復活だ。
十字架は神様の絶対的な愛を示す。だから、キリスト教は真の愛の宗教だ。そしてイエス様の復活は神様の絶対能力、真の命を示している。それでキリスト教は真の命の宗教、真の能力の宗教だ。自分自身が死ぬまでして愛を証して、自分自身が復活することで能力を見せてくれる宗教は他にはない。十字架と復活があるのでキリスト教は真の宗教だ。キリスト教以外には救いがないのだ。教会にしか救いがない。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14:6)イエス様が私達の罪の為に死なれて、聖書の通り、三日後に再び生き返られた日が復活祭だ。イエス様の復活の事件は歴史的な本当の事件だ。最低500人以上の確実な証人がいる事件だ。(コリントの信徒への手紙15:6)
イエス様の復活は神様の能力を誇示する為の事件ではない。私達に真の希望を与える為の、私達の為の事件だ。
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリントの信徒への手紙一15:19-20)
初代教会時代で復活を信じた人々は世の中をとても堂々と、元気良く生きていた。
彼らは拷問をされながらもより良い復活の人生を得ようとしてあえて釈放されることを願わなかった。(ヘブライ人への手紙11:35)復活はどんな拷問にも、苦難にも充分に勝てる天の能力であった。
イエス様の復活は私達の人生の復活を保障する神様の約束だ。
復活なさった神様を眺めながら共に叫んでみよう!
「私の人生も必ず復活する!何を疑うのか。イエス様の復活がそれを確実に証明しているのではないか。」
2. 信仰復活
ヨハネによる福音書で復活なさったイエス様が3度、弟子達に現れた。2度までは復活に対する信仰を弟子達に持ってほしかったのである。ここで有名なトマスの不信仰話が出てくる。イエス様はトマスの不信仰をお叱りになった。なぜ信仰がないとおっしゃったのだろう。トマスの不信仰は何だっただろう。トマスの不信仰はイエス様の事を信じなかったわけではない。イエス様は信じるが、復活は信じないという事だ。これがトマスの不信仰の姿だ。そうだ。これは確かに不信仰だ。復活はイエス様がすでに御言葉で予言をされたことである。またイエス様は全能なる神様で、命と復活であるのにイエス様が復活なさった事を信じないのは話にならない。イエス様を信じるなら復活を信じるのは当然の事だ。
イエス様はトマスに親しく現れて手で触ってみたり、手をわき腹に入れてみたりして疑いを晴らして信じろとおっしゃった。そしてイエス様はトマスに手厳しく忠告した。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20:29)
イエス様が大切に思う信仰は見てこそ信じる「現象信仰」でなく、聞くだけでも信じられる「御言葉信仰」だ。
マルコによる福音書でイエス様が弟子達に信仰の無いことを叱ったのも、復活の証人の話を信じなかったからだ。(マルコによる福音書16:14)
怒られて信じるのではなく、先に信じて褒めてもらおう。
復活なさったイエス様は今も私達の信仰が復活される事をお望みになる。
イエス様の死と共に死んだ弟子達の信仰の復活をお望みになったように、死亡に勝って復活なさった神様の能力を信じる復活の信仰が私達の中に復活する事を切実にお望みになる。
「私はイエス様の復活を聖書を通して確かに信じます。」
3. 使命復活
イエス様は弟子達に3度目、再び現われた。この事件がヨハネによる福音書の最終章(21章)を全部占めている。それほど重要な為であろう。
2回現れて弟子達の信仰を復活させて下さった。復活の信仰がないと人々は世の中に対し、恐れてしまう。それでイエス様の弟子達も最初は皆家にひきこもった。怯えて出かけもせずに部屋の中にひきこもった。世の中が怖くて外へ出られなかったからだ。しかし、彼らの中で復活の信仰が回復すると共に恐れは消えた。復活の光がある所から恐れの闇は逃げることになっている。彼らはようやく外に出てきた。
ところで、イエス様が再び彼らに会わないといけない重要な理由が一つ出てきた。
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。(ヨハネによる福音書21:3)
深刻な問題がここにあった。弟子達に恐れは無くなったが、彼らは人生の目的を失くしてしまった。彼らは何をするべきか分からなかった。それで彼らはイエス様に出合う前の状態に戻ってしまった。イエス様が人を釣る漁師に変えて下さったのに彼らは再び魚を釣る漁師に戻ってしまった。イエス様からの使命を失ってしまったのだ。イエス様はこの使命を再び復活させることをお望みになった。それで先に、夜通し魚一匹も釣れなかった彼らに船が満杯になるほどの大漁の福を与え、また彼らを腹いっぱいに食べさせた後、静かにペトロを呼び出した。
イエス様はペトロに3回も同じ質問をお尋ねになった。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」’
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか 」
人は同じ質問を3回もされると深刻になる。1回聞くのと3回聞くのは効果が全く違う。三顧の礼という四字熟語もあるではないか。もしイエス様が1回だけお聞きになったら恐らくペテロはまた躓いただろう。3回を通じて神様は強く確約させた。
では、イエス様はペトロに何の確約を貰いたがったのだろうか。
ペトロが本当に自分を愛しているか、確認する為であったか。違う。
イエス様は「愛の確認」が目的ではなかった。ポイントは「私の羊を飼いなさい(ヨハネによる福音書21:16)」だった。
ペトロが本当に誰よりイエス様を愛しているならばそれに相応しい人生を過ごさないといけない。それは自分の魚を釣るのではなく、神様の羊を飼うことだ。イエス様の目的は「愛の確認」でなく、「使命の確信」だった。イエス様は使命を復活させることをお望みになった。使命を失うと何も出来ない。ただ人生を浮き草のように彷徨って終わってしまう。
4つの福音書で復活なさったイエス様は弟子達に一様に使命を悟らせて下さる。
マタイによる福音書では「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28:19)とおっしゃり、,
マルコによる福音書では「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコによる福音書16:15-16)とおっしゃり,
ルカによる福音書では「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカによる福音書24:47-48)とおっしゃった。
全ての福音書の最終的な結論は、福音の証人、即ち、イエス様の証人になることだということが分かる。復活されたイエス様は弟子達が証人の使命を復活させることをお望みになった。
イエス様は天国に昇りながらこういう話をされた。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカによる福音書24:49)
高い所からの力は聖霊を意味する。聖霊を受けるとどうなるか。地の果てまでイエス様の証人になる。(使途言行録1:8) 聖霊は証人の人生の能力であるからだ。
復活されたイエス様は弟子達の使命を回復させる為にお尋ねになった。
福音を地の果てまで伝える事、伝道の使命は復活なさったイエス様が信徒達に与えてくれた使命中の使命だ。
伝道はイエス様の復活を世の中の復活に変える偉大な力だ。神様の復活を伝えることでそれを受けた人に復活の命が広まるからだ。復活の命を伝える事は決して被害を与えるのではない。彼らを生かす事なので彼らにやってあげる最も大きい仕えの行為だ。
復活なさった神様が貴方に何とおっしゃっているか。
神様の声に耳を傾けてみよう。そして「私に従いなさい」とおっしゃった神様のお言葉の通り、復活なさった神様に付いて行こう。世の中の海を彷徨わず。
神様の復活は即ち、私の復活だ。
私の信仰の復活と私の使命の復活が即ち、私にとって神様の復活だ。
私にこの復活がなかったら私達は復活なさったイエス様を再び墓の中に追い込むことになる。神様は私を復活させる為に復活なさった。
一緒に神様の復活の力で再び復活の翼を広げよう。
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2004-02-09 | 1731 |
4 コメント
이용규목사
2009-04-16 17:59:27
감사합니다.
中森千草
2009-04-17 06:46:41
復活を通してのメッセージは、使命を果たしなさいということでしょう。
使命:真の神であるイエス・キリストを伝えること
イースターの日には世界中が騒ぎ、メディアの進歩により世界が近くなった昨今。
イエス・キリストを伝えやすくなっているこの環境を大いに用いたいと思っています。
田辺高幸
2009-04-19 09:01:35
復活は間違いなくあった。それは弟子たちのその後の生き方を見れば分かる。彼らは主が十字架にかけられた時にとった行動は逃げることだった。怖くて逃げたのである。言葉を変えれば彼らは腰抜けだった。それがある時期から、原始キリスト教団としてエルサレムで活動を開始する。それはかなり危険行為だ。国家転覆罪で逮捕され殺された者の弟子である以上、周りに危険集団として警視されていたはずだ。これを恐れないで彼らは主はキリストであると公言し、堂々と教えを宣布したのである。これは非常に非可解な行為だ。弱かった彼らに、それを行わせる出来事が起きたとしか思えない。それはやはり復活が行われ、彼らを弱い者から強い者へと変えたのだとしか思われないのだ。でなければやはり説明がつかない。
主の復活は生き返りのことだったのだろうか。生き返ったのであれば、その後はまた死ぬことだけのことだ。主は生き返ったのではない。永遠の命の復活を遂げたのだ。それが腰抜けだった弟子たちを、命がけの活動に駆り立てたのだろう。生前主に会うことのなかったパウロを、命がけの伝導の旅へと旅立たせたのだろう。多くの宣教師が世界をまたにかけて福音を伝える活動へ向かわせたのだろう。主の復活を見た、聞いた、信じた人は、永遠の命を確信して宣べ伝えた。そしてそれがキリスト教を世界的な宗教にした。
キリスト教は主の復活で始まった。主は復活したことで永遠の命を皆に伝えた。だからこそ主は、これらを伝えよと命じた。永遠の命は存在する。それをどう伝えていくのか、我々の課題なのだろう。人々が復活を単なる生き返りと思い、まるで超常現象のように感じることを、どう適切に信じてもらえるか、永遠の命とは何かを正しく伝えていかなければならないだろう。人それぞれだから、手段はいろいろある。この中で、神がふさわしいと思ってくれる方法で伝えたい、と思う。
古郡武志
2009-04-19 16:06:07
聞けば、新入社員研修の企画で通りすがりの人に声をかけて、名刺交換をしなければならないという。営業の訓練の一環であろうか?
私は、立ち話を一頻りした後、「渡したいものがある」と言って、伝道用紙を渡した。
彼は最初けげんな顔をしていたが、笑顔で「いいじゃないですか、クリスチャン、かっこいいですね」と言ってくれた。
彼の台詞に嬉しくなった。
おそらく、研修の一環で名刺交換した相手の機嫌を損ねたくないということもあるのだろう。本心というよりもリップサービスなのかもしれない。
それをわかってもなおうれしいということである。
彼が伝道用紙をもらって教会に来るようになるかどうかはわからない。
しかし、イエス・キリストを救い主と信じる人々がたしかにこの「日本」という地にもいて、福音を宣べ伝えているということを知らしめ、たまたま研修で出会った人の中にそういう人がいたという事実を彼の人生の一場面に刻むことができれば、そのことを通じて神様がお働きになられる種を植えられたという感じがするのである。
やはり、冷たい反応はされたくないし、けげんな顔もされたくない。
たしかに伝道用紙を渡した後の何秒かは、重たくて苦しい時間であったが、最後には喜びに変わった。この短い時間の中でも、ささやかな復活体験をすることができたように思う。
イエス様の復活は、私の復活である。
私の復活とは、「口のきけない者」から「日本の復活のために種を植えられる人」になるということであろうか?
私を復活させるために復活された神様の愛に応えるためには、私に復活がなければならない。
復活できるように頑張ります。