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중앙영광교회

神様だけに近く(3)

이용규목사, 2009-01-24 00:47:51

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神様だけに近く(3)

マルコによる福音書 5:25-29

1. 出血の止まらない病気。
ある可哀相な女がいた。
彼女は 12年間も出血の止まらない病気を持って生きた。この病を治してみようと、いろんな苦労をしたが、病気はもっと悪化するだけだった。家族も、友達も、財産もすべて彼女のそばを去った。ここに何の希望が残っているだろうか?人生を呪って死ぬ日だけを待つのがより適切じゃないか?
正しい言葉だ。ところが、ただ条件がある。希望が世の中にあるという前提の下でだけ正解だ。しかしこの前提条件が間違った。世の中の希望は決して世の中にあるのではない。世の中で希望を見つけようとする人は、こんな時には必ず絶望する。聖書は人生の正解だ。聖書は確かに言っている。人生の希望はただ神様しかないと。
'この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。'(テモテへの手紙一 6:17)
'主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。' (イザヤ書 40:31)
'いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。
しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。'(ハバクク書 3:17-18)
神様だけが人生の本当の希望だと信じて生きる人は、どんなことにあっても希望を失わない。神様はいつもいらっしゃるからだ。それでダビデは死亡の陰気な谷間を歩いて行く時にも 'わたしの杯を溢れさせてくださる。' (詩篇 23:5) と言ったのだ。
人生の希望は、ただ神様にある。世の中の条件は全然関係ない。すべて一緒だ。この(世の中の) 誘惑を勝てばこそ、初めて信仰の手が出るようになる。
人々は人生に大きい障害物や妨害物が来れば、それを人生の停止信号だと勘違いする。それで、そこでやめたり、絶望したりする。しかし信仰の人々には、それがまた他の挑戦の大事な機会だ。それで彼らには止まり信号ではなく、神様を向けた新しい出発信号になる。
もしこの女にこのおびただしい苦難がなかったら、どうなっただろうか?果して、彼女が希望の根源になるイエス様を訪ねただろうか?都合が良くて、体が元気ならばもっとよく訪ねることができるようだが、本当にそうだったろうか?むしろその反対だ。おびただしい痛みと苦難が来たから、まさにそれが彼女がイエス様に駆け付けることができた起爆剤になった。彼女に苦難は人生の停止信号ではなく、新しい出発ができる前進信号だった。苦難は私たちを新しい世界へ動くようにする神秘な力だ。驚くべきエネルギー源だ。苦難を無駄使いしてはいけない。世界的な経済危機が、世界中が神様に進む原動力になれるようにしなければならない。苦難に隠されているこの驚くべきエネルギーを、生命の根源になる神様に進むことに切り替えなければならないだろう。
2. キリストの服に手を出す。
出血の止まらない女は、自分の都合も良くなかったが、外部の事情も彼女がイエス様に会うにはほとんど不可能な状況だった。
あの時、イエス様は本当に忙しかった。今の表現にすれば、死んで行く人を生き返すために救急車に乗せて行く状況だったろう。会堂長の 12歳になった娘が、死んで行くからそこに急いで行っているところだった。したがって到底イエス様に要請できる状況ではなかった。そこに多くの群衆がイエス様を囲んでいたから意欲がわかない状況だった。こんな時に、あなたはどうするだろうか?あなたも急を要しているが、イエス様はもっと急を要していたら、そのまま見送って差し上げるのか?'次にまた機会が来る?今日だけがその日なのか?'と言いながら、こっそりとしっぽを巻いてしまうか?違う。神様の前には今日だけがその日なのだ。神様がくださった最高の贈り物は '今日、現在'という贈り物だ。それで英語で贈り物と現在は同じ単語(present)ではないのか!今日を無駄使いして明日があるとは言わないで。愚かな人はいつも明日があると言うが、賢い人は今日に最善をつくす。
イエス様は、イエス様の事情を見てくれる人が好きではない。イエス様はいかに忙しくても、私たちの都合の面倒を見てくれることを願う。私たちがイエス様の都合を見てあげるのではなく、イエス様が私たちの都合を見てくださるためにいらっしゃった。イエス様は、忙しいイエス様の都合を見てあげず、神様に頑固に突進する人が大好きだ。これが真の信仰の姿だからだ。それでイエス様はおっしゃった。'彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。'(マタイによる福音書 11:12)
イエス様は信徒の '襲い'が好きだ。
他人の物を襲うのはおおきな罪だが、神様の国を襲うのは大きな福だ。襲いの精神は、すなわち祝福精神だ。
資格があって、条件ができてからではなく、とにかく神様に突き進むのが、すなわち襲い精神だ。本文のこの女がそうだった。自分の都合を計算して、イエス様の事情を見てくれたら、彼女は決して聖書に記録されることができなかったはずだ。彼女は不可能に見える与件の中でも、群衆をかき分けて入っていって、やっと後から手を伸ばしてイエス様の服に手を出した。とにかくイエス様の服に手さえ出せば、治ると思ったからだ。この精神がすなわち襲い精神だ。
'私はイエス様の恩恵を受けると生きる。私はイエス様の恩恵を受けると回復する。私はイエス様の恩恵を受けると治る。
'
中風病者、シリア・フェニキアの女(マルコによる福音書第7章24節~30節)、目の見えない人たち… 皆が襲い精神が充満したからイエス様に誉められて、治してもらった。神様の恩恵を受けるのを願うか?体面を捨てて襲い精神で熱心に神様を捜しなさい。必ず!必ず!必ず!主の能力があなたに流れるでしょう。出血の止まらない女がその証人だ。
    
3. 娘よ、あなたの信仰が自身を救った。
出血の止まらない女がイエス様の服に手を出した後、イエス様がその女を捜した。
'誰が私の服に手を出したか?'
もちろん、幾多の人がイエス様の服だけではなく、身に触れた。多くの群れがイエス様を囲んで押したからだ。
イエス様はどうしてこの女を群衆の中で探したんだろうか?不正な女が敢えて神様の息子の玉体に汚い手を出したと叱ろうとそうだったろうか?違う。この女がとても大事で万人の前で彼女を知らせるためだ。それでは彼女の偉さが何だろう?環境を超えて神様の服に手を出したことだ。言い換えれば、神様を近付けることだ。いかなる難しさが塞いでいても、それを越えてどうしても神様に近く進もうとする心だ。彼女がイエス様の服に手を出すことは、彼女には神様を近付ける最善の姿だった。それを通じてイエス様から力が彼女に流れた。
力を受けたいか?力の根源になる神様を近付けなさい。事情がとても難しくて神様の前に進みにくいか?それではこの女のように後から神様の服でも触りなさい。それだけでも神様の能力はあなたに流れて行く。イエス様は、神様を近付けることがどんなに大きい祝福であり、能力であるのかを出血の止まらない女を通じて知らせてくれた。人々はそれをそのまま信じて従った。それで次の章でも同じ奇蹟が数えきれないほど起きる。
' 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。‘(マルコによる福音書 6:56)
今日も奇蹟は起きる。神様を近付ける者等に!
イエス様は出血の止まらない女をこんなに誉めて祝福なさった。
'イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 '(マルコによる福音書 5:34)
イエス様は彼女の信仰を大きく誉めた。彼女の信仰が彼女を救ったと言った。そうだ。彼女の信仰を通じて、イエス様の能力が流れこんで来たからだ。イエス様に誉められるに値する信仰だ。それでは、その信仰の具体的な姿は何だろう?簡単だ。後からイエス様の服に手を出した信仰が全部だった。信仰はほかではない。神様を近付けることだ。信仰があるか?あるほど神様を近付けなさい。神様と深い付き合いを分ちなさい。あなたの人生が今神様から遠くなっているか?これは確かに信仰の問題だ。神様から遠くなればなるほど人生は寒くなって、大変になる。
大変だから遠くなるのではなく、近付けるから大変なことが遠くなる。信仰は神様を近付けることだ。神様があなたを '愛する私の娘よ!愛する私の息子よ!'と呼ぶように神様を近付ける人生になることを祝福する。
身も神様に近く!
心も神様に近く!
そうすれば
あなたの中には神様の能力が流れてあふれ、
あなたの人生は神様を微笑ませる人生になるでしょう。


4 コメント

이용규목사

2009-01-24 00:48:24

황후연 형제님이 수고하셨습니다.
늘 감사합니다.

中森千草

2009-01-24 05:39:25

病気になると、心も弱くなり、信仰も弱くなる。
私は、体が丈夫なほうではないので共感することができ、この女性によって信仰を教わり、力も頂きました。
神様は、私がもっと神様に近ずくために今の環境をお与えになったと思います。
世の中の雑音を無視して、私は神様だけを信じ求め、近ずいていきます。
神様に近ずく環境にしてくださったことに感謝と、どのようにして私を用いてくださるか、神様に期待します。

田辺高幸

2009-01-24 09:58:49

正直言うと、非常に毎日が悔い改めの日なのである。使役訓練を受けている人間の中で、最も悔い改めの多い人ではないかと思う。朝起きて、空を見上げたとしよう。何気ないことだが、素晴らしい一日をお与えになった神様に対して感謝して、今日の頑張ろうと思う。そして一日が終えると神様がお与えになった一日を一生懸命に自分なりに出来たと思う。が、その反面、そんな一日をお与えになられた神様のことを常に考えて、この日にすること全てを礼拝だと思ってしたかというとそうではない自分がいたりする。そうなると悔い改めをしてしまう。小さなことでもできなかったことに対して、悔い改めをしてしまう。人のことを悪く言ったりして、それに対し、そんなことは神様はお望みではないはずだ、と思い、そうなると悔い改めをしてしまう。それが毎日繰り返されている。
僕が神様に対して、本当に望むことを言いなさいと言われたら、答えは一つだ。僕を清い人としてください。それだけである。昔は、ただ自由に勝手気ままに、好きに生きれればいいと思っていた。それが聖書と出会い、僕の考えは変わった。この書に書かれている通りに生きたいとただそう思うようになった。
そうなるには素直に言えば時間は掛かった。とにかく毎日聖書を読み続けた。そして僕は聖書で初めて神様に出会った。ヨハネによる福音書1章1節にある「初めに言があった、言は神と共にあった。言は神であった。」の言葉の通りに、聖書の言葉に僕は初めて神様の姿を見た。そして、その神様が僕に言われていることは、正しく生きなさいということなのではないかと思った。そしてそんなメッセージも確かに聞いた。仕事に行く途中の間に歩きながら、マタイによる福音書5章14節「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」という箇所を読んでいるときのそれを聞いた。それから、僕はそうなろうと思った。
今は聖書は、僕にとって欠かせないものとして存在している。テモテへの手紙二3章16節には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と書かれているが、正しく、僕にとって聖書は、僕を教え、僕を戒め、僕の誤りを正し、僕に義に導く訓練をするうえに有益なものになっている。だから自然と悔い改めが増えてしまう。しかしこれで僕はまた一つ神様に、清い人になるためにたった1ミリかもしれないが前進させていただいている。
僕が神様を追い求めるのは、とにかくそんなことがあるからだし、だからこそ悔い改めをする機会が増えても神様の近くにいたいと努力をしている。とにかくしがみついている。この方に触れられれば僕は清くなれる。だからそうしている。今日も思い起こすと悔い改めることがあった。それもぼくにとっては素晴らしい恵みだ。成長することができる。これはまた明日もそうなのだろう。それでいい。たった一歩だけどコツコツと歩いて、神様の望まれる人になろうと思う。そのためにもこれからもしつこいぐらいに神様だけに近く、の気持ちをいつも持とう。

古郡武志

2009-01-29 17:07:25

出血の止まらない女は、健康も財産も失う危機の中にあってイエス様を求めた。

一般的にこのような危機を迎えたとき、人間はどう対応するか?

最近、韓国では不況が深刻なため占いの店が急増しているという新聞記事を目にしたことがある。
私自身は占いを利用したことはないが、なるほど、不安を感じたときには予言的なものに目が向くことがないとはいえない。例えば、大地震がいつどこで起こるかというような内容の本があれば、つい書店でその本を手にとって見てしまう。
ただ、実にうさんくさく、そのような予言はほとんど当たったためしはないし、いや当たったと称していても、後付でかなり難しい解釈のもと当たったと強弁していることに過ぎない。いやいや、落ち着いて冷静な気持ちになれば、うさんくささは一目瞭然なのだが、不安にかられているときは人間というものはそのようなことは見えないものだ。
 一方、会社や政府などあてにならず、頼れるのは自分しかないと自分を高めるために勉強などに励むということもある、もちろん、このこと自体は決して悪いことではないのではあるが、私たちの生命を最終的に担保するものではないということを頭に入れておかなくてはいけないだろう。
 そうすると、危機を迎えて手を伸ばすものは、3つに分類することができるのではないか?①神様、②自分、③その他占い、予言など神様でも自分でもないもの
 経済危機の寒風吹きすさむ今、②や③が本当に多くなっているのがこの世の現実であるが、②や③はいつか目が覚めたときに虚構であることに気付く。そして、何より恐ろしいものは、自分のすがってきたものが虚構であることに気付いたときの絶望感である。
 私たちの使命は、②や③ではなく、一人でも世の中の人が①に手をのばすようにすることであるが、そのためには、私たちが危機にあって揺るがずたじろがずに、出血の止まらないような女のように神様に手をのばさなければならない。
 そうしたときに、世の人が「何故あの人はあんなに強いのか?」と思い、信仰というものに多くの人が手をのばしてくれる。
 そういう存在になれるように努力しなければならないと思う。

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