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중앙영광교회

シンフォニーのお祈り

이용규목사, 2007-06-19 01:55:11

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「シンフォニーのお祈り」

御言葉//マタイによる福音書 18:18-20

大切な方をお一人ご紹介したい。
その方は一言でいうと、「愛の巨人」である。
その方は非常に身分の高い方の独り息子だった。その方は死ななければならない罪人を愛したため、その罪人の代わりに死んであげた方である。その方は誰だろう。「イエス様」である。イエス様は愛そのものである。では、イエス様は今、どの程度私たちを愛しておられるか。もちろん、十字架の愛を通して完全な愛をすでに表してくださったけれど、今も私たちの生活の中で続いているその愛を一緒に感じたい。

1.        ボディーガードであるイエス様
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(マタイ18:6)
この御言葉の中に、私たちを愛されているイエス様の心が非常によく入っている。一言でいうと、イエス様は私たちを本当に、ものすごく愛されている。私たちに誰も手を出せないようにしてくださる。ダニエルの3人の友達が燃え盛る炉の中でも髪の毛一本も焦げなかったように(ダニエル3:27)、イエス様は私たちの完全なボディーガードである。
たとえ私たちが卑しいもの(小さなもの)であっても、世の中で無視され、捨てられたものであっても、世の中が全部あきらめたものであっても、イエス様は私たちを変わらず本当に愛されている。
私たちをつまずかせるものは、重さが1トンもする石臼を首に懸けられ、海に沈められた方がいいと言われ、また手や足がつまずかせたらそれを切って捨ててしまったほうがいいとも言われた(8)。この御言葉の焦点は手足を切り捨てなさいという、罪を定めることにあるのではなく、小さいものに対するイエス様の愛にあるということは言うまでもない。言葉通り、イエス様は私たちを本当に、ものすごく愛されているということである。
イエス様のこの愛があるのだから、何が恐ろしいか。この愛は今もあなたをかばっている。
  
2.        父の心を持っておられるイエス様
「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」(13)
たとえ羊が100匹いても1匹を失うと、その羊を捜そうとするのが主人の心である。そして、その失われた羊を再び見つけると、99匹の道を迷っていない羊より、見つけたその羊によってもっと喜ぶのは、主人の当然な心である。私たちに対するイエス様の御心がこれと同様だということだ。もし、愛している息子が3人いるお父さんが、もの中の一人を失ったと考えてみよう。そのお父さんの心はどうだろうか。失われた息子のことで、食べること、寝ることはともかく、彼も病気になりそうになるだろう。これが私たちに対するイエス様の心である。いかに大事な愛だろうか。この愛と比べられる愛がこの世のどこにあるのか。私たちは今日も、この愛をいただいている。誰から?イエス様から。
イエス様の、家を出た子どもを待っているようなこの心は、道を迷った魂を考える私たちの心にならなければならない。それによって、イエス様の弟子としての愛が私たちを通して流れていくだろう。
これがすなわち「伝道者の心」である。伝道者は道を迷った子どもを捜すお父さんの切ない心で、福音を伝えなければならない。自分の子どもを失って1週間が過ぎたある日、沖縄から「あなたの子どもとそっくりの子が見つかった」という連絡があったと考えてみよう。そのとき、あなたは何もなかったようにこう言えるのか。「すみません、今日はちょっと忙しいから、2,3日後時間があったら行ってみますね。」子どもに対する愛があるお父さんなら絶対こういうことは言わないだろう。すべてをやめて借金をしてでもすぐ飛行機に乗って沖縄まで飛んでいくだろう。
では、私たちは伝道に対してどのような態度を見せているか。いろいろな言い訳でずっと後回しをしているのか。神様の立場から見ると、想像できないことである。失われた子どもを捜すことなのに、このことより急いでいて大切なことがどこになるのか。なぜ私たちは伝道にぐずぐずしているのか。
イエス様の心を持っていないからである。「お父さんの心」の愛が干乾びているからだ。
神様の志を得たいのか。(13)
神様の最高の喜びになりたいのか。(14) では、今すぐ失われた羊たちのためにお祈りし、探しに行きなさい。伝道の現場に足を運びなさい。天の神様を微笑ませるだろう。
            
3.        師匠のようなイエス様
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(15)
イエス様は私たちが罪を犯したときに、どうしても私たちを回復させ、生かせることを望まれる。誰かが罪を犯したとき、一人が忠告することと、2,3人が同じことを忠告することと、そのグループの皆が忠告することは、パワーの面でも全然違う。イエス様はどうしても私たちを正しく悟らせ、罪から自由を得て立ち上がることを願われる。イエス様は、決して私たちが罪によって定められ、倒れることを願われる方ではない。なるべく早く回復することを願われる。これが師匠としてのイエス様の愛である。今日も「真にいなさい、正しくいなさい」と忠告なさるイエス様の御声に対して、常に敏感な生活を生きなければならない。ここで覚えておくことは、このときイエス様は周囲の人々を使ってくださるということである。ロバを通してもおっしゃるイエス様が、身近な人を通して御言葉を与えてくださらないはずがない。イエス様がつけてくださった周囲の人々に対して、それを聞く耳を開いておかなければならない。そういう人こそイエス様の愛をいただく資格がある。

4.        シンフォニーのお祈りの祝福を与えてくださったイエス様
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(19)
最後に、イエス様の無条件的な愛、完全な愛がここにある。
力にも能力にもできないことも、これさえあれば解決される。
これが何だろう。すなわち、お祈りである。お祈りは、イエス様が与えてくださった最高のプレゼントであり、完璧なプレゼントである。しかし、人々はこのプレゼントをうまく使用しない。その価値と能力さえきちんと把握できない人がいかに多いだろうか。よって、ダンスの中におきっぱなしにしてほこりだらけにさせている人も少なくない。神様がご覧になって、いかに心を痛まれることだろうか。

1)        お祈りの勝利
ジョージ・ミュラー(George Muller)はこのような真理を宣布した。
「この地上にはだった一つの種類の貧困だけ存在する。
それは、お祈りの貧困だ。」
彼はこの言葉を、自分の人生から立派に証明してみせた。
ジョージ・ミュラーは2000名の孤児を食べさせた。朴ボヨン牧師先生が18名の孤児の面倒を見ているのと比べたら、その数字が推測できるだろう。2000名だといっても、ものすごい生活費用がかかる。ジョージ・ミュラーはお金はなかった。しかし、彼は決して貧困ではなかった。誰よりもお祈りが豊かだったからである。彼はお祈りによっていつも豊富な人生を生きた。お祈りの富者は金の富者よりはるかに富者である。そう。世の中に他の貧困はない。ただお祈りの貧困があるだけだ。お祈りが豊富なところにはどの貧困も近づかない。
人生の貧困が来たか。何よりまずあなたのお祈りの倉庫を点検してみなさい。
リンカン大統領は、南北戦争は「お祈りの勝利」だといった。
南軍にはロバート・リーのような名将がいたが、北軍にはそのような将軍がいなかった。リンカン大統領は北軍に名将がいなかったことに対して、逆に感謝した。それによってもっと熱心に神様にお祈りすることができたからである。その結果、南軍にはアメリカ最高のリー将軍がいたけれど、北軍には全能なる神様がおられた。結局、南軍のリー将軍と、北軍の神様との戦いという対陣表に変わった。お祈りがそうさせたのである。今あなたの人生の対陣表はどうか。神様をあなたの側の将軍として受け入れなさい。その道(方法)はただお祈りしかない。
「主よ!私の人生の勝利は、ただお祈りの勝利になりますように!」

2)        シンフォニーのお祈り
「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」(19)
お祈りの中で、特に能力のあるお祈りがある。もちろん質的に正しい人のお祈り、信仰のお祈りも非常に強い力がある。しかし、真に能力のあるお祈りは、「シンフォニーのお祈り」である。一人より二人がましで、二人よりは三人がまし(三つよりの糸の力)のように、お祈りも一人でするお祈りより多数の人が一緒にするお祈りはものすごい力を持っている。これは単なる算術的な効果を表すのではない。お祈りは1+1=2ではなく、1+1=11, 1+1+1=111以上の爆発的な力を出す。よって、イエス様も一緒にお祈りしなさいと言われた。一緒にお祈りすると、どんなことでもかなえられると約束なさった。(19)その体表的な例が旧約ではモーセのお祈りである。アマレクとの戦いでモーセは一人で祈りに行かなかった。アロンとフルと一緒に行った。そして、イエス様もゲツセマネという所で最後のお祈りをしに行かれたときも御一人ではなかった。ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた。それで、彼らは不可能を可能にした人物になった。
それよりもっと驚く団体祈りの歴史がある。ニネベの民の祈りである。神様を信じないで極度に堕落したニネベを、神様は滅亡させようと決められた。しかし、驚くことが起こった。ニネベが滅亡せずに再び立ち上がったのだ。その力の源が何だっただろうか。全国民の心を合わせたお祈りだった。彼らは人だけでなく、家畜にさえも粗布をまとわせ、悔い改めのお祈りをさせた。ここに神様は大きく感動され、彼らに災いをくだすのをやめられた。神様は多数の人が一緒にお祈りをすることを好かれる。
しかし、ここに大事なことがある。「心を一つにして」お祈りしなければならない。心が一つにならなければならない。
「心を一つにして」ということばはギリシャ語で「シンフォネオ」である。この言葉は「シンフォニー」の語源である。シンフォニー、つまり交響曲のように、多数の人が心を一つにして一つの美しい作品で神様にささげるお祈りが、「心を一つにしたお祈り」、つまり「シンフォニーのお祈り」である。シンフォニーのお祈りは完全に一つになったお祈りの歌を作ることである。不協和音は騒音に過ぎない。神様はこのようなことは喜ばない。多数の人が集まって祈るけれど、シンフォニー(交響曲)のように祈らなければならない。この祈りこそ、人間が神様にささげられる一番美しい演奏であり、神様が一番喜ばれる祈りであり、神様が一番感動なさることである。「シンフォニーのお祈り」は愛のイエス様が私たちに与えてくださった、最高に祝福されて力のあるプレゼントである。私たちはこのプレゼントでよく演奏しなければならない。そうすると、神様は喜ばれ、私たちは幸せになる。
神様の愛を完全に受けたいのか。では、今すぐ夫婦と家族と友達と一緒に「シンフォニーのお祈り」を演奏してみさない。あなたの魂に驚くことが起きると思う。一人で祈りこととは比べられない、知らない隠された大いなることが起きるだろう。
一緒に次の祈りでシンフォニーのお祈りを始めてみよう。
「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、(ケア)
あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。(伝道)
どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、(癒し)
しるしと不思議な業が行われるようにしてください。(助け)」
(使徒4:29,30)      

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