「創造」
御言葉//創世記1:26-28
1. なぜ創造なのか。
我らが住んでいる地球は半径が約6370kmのボールの形をしている。
このものすごい大きさの地球は空中に浮かんでいるが、新幹線の8倍の速度で自転しながら、太陽の周囲を新幹線の500倍の速度で回っている。このすべての力は神秘的だ。人間の力ではとうてい想像を超える力である。また、この速さで地球が回っているにも関わらず、我らがどの不便さも感じずに生きているということは、ものすごい力が地球に様々な形で作用しているからだ。科学がいかに発達したといっても、この力を物理的に説明することができるとしても、このような力を発揮することはできないだろう。なぜならば、この力は超人間的な力だからだ。 超人間的な力でないと、地球の存在は説明できない。
そうすると、人間は誰が創ったのか。
もちろん、「私自身」が創ったのではない。が、両親が創ってもない。もし両親が創ったとしたら、直したい部分がなかっただろう。気になる部分がないかもしれない。なぜならば、両親のお気に入りで創ったからだ。「私」の外貌や性格は自分や両親と関係なく、ある誰かによって創られた。そのため、我らはその力に抵抗できず、生れ付きのまま生きている。
我らが住んでいる地球や我ら自身は、我らが創ったのではない。 超人間的なある力によって創られなかったら、説明できない。この超人間的で絶対的な力こそ「天地の造り主、全能の父なる神」である。この難しい問題を神様は聖書を通して我らに簡単に教えられている。しかし、面白いのは、この事実を簡単に学べる人が少ないということである。なぜならば、神様のお教えは「頭」で学ぶのではなく、「信仰」によって学べるからだ。人々が「創造」を理解できないのは、頭がないことではなく、信仰がないためである。
2. 創造の3つの過程
神様は3つを通して天地を造られた。(創世記1章)
1) 無から有を創造なさる神様
神様は一番初めにこの力を使われた。
天と水を既に創造され、「光あれ。」こうして、光があった。
元々は無かったものを神様が「あれ」と言われたら存在したのだ。信仰の先祖であるアブラハムが信じていた神様が、この創造主の神様である。アブラハムは「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じた。(ローマ 4:17)今日、アブラハムの子孫である我らも同様で、「無から有を創造される神様」を信じなければならない。アブラハムは創造の根源的な力をお持ちである神様を既に信じていた。今日もこの偉大なる神様は我らを通してお働きになることを望まれる。ただ我らの信仰を通して。
2) 混沌から整頓を成し遂げる神様
次に神様のされたことは、天と地、そして海と陸地を分けることであった。
これは厳密に言えば、創造の仕事というよりも、混沌の状態の地球をよく整頓されたことである。これも創造の重要な課程である。すべてが混ぜている混沌の状態では、生命が生きられない。万物は在るべき位置がある。それらが元の場所にいる時こそ価値があり、美しくなる。整理整頓さえよくできても、創造の力は出る。
信仰の人は整理整頓をよくしなければならない。特に、人格がよく整頓された人は大きな仕事ができる。神様の体である教会でも、各信者らが在るべき所をきちんと守ると、創造の美しさと力を証する教会となるだろう。
3) 命を与えられた神様
創造の完成の段階である。天と地を造られ、整頓を通して生物が生きられる環境を造られた後、神様はやっとこの地に生命を存在させた。
神様が命を与えられた時に使われた特別な単語がある。
それは、「種(たね)」と「祝福」という言葉である。(創世記1:11、22,28)
種は植物を創造される時に与えられた言葉であり、祝福は動物と人間を創造される時に与えられた言葉である。
種と祝福はよくみると同語である。この言葉は神様が生物を創造される時にその生物に創造の力を同じく与えられたという意味だ。
種があればその植物は死んでも消えない。種を通して同じ植物がまた出るからだ。これは、神様が創造の時に各々の植物に同一の創造の力を与えられたからだ。よって、人間は不可能であるが、植物は毎年同じ花と実を結ぶ。我らは生物を通して毎日創造の働きを体験しているのだ。それも、創造の時には1個であったが、種によって創造が再現される時には30倍、60倍、100倍の豊富な創造の実が結ばれる。そのため、神様はこれを動物と人間には「祝福」という言葉で表現されたのだ。「神はそれらのもの(彼ら)を祝福して言われた。産めよ、増えよ、地と海に満ちよ」(創世記1:22、28)
言い換えれば、神様が動物や人間を創られる時に彼らの中に同じ「種(しゅ)」を創られる創造の力を「祝福」を通して与えられたということである。神様から直接創造の力を頂いたということより大きな祝福があるのか。神様の代わりに創造の仕事ができるからだ。よって、聖書で一番初めに記録された祝福がこの「創造の祝福」である。
神様は創造の祝福を時に応じて与えられたのではなく、創造の時に既にすべての生物に与えられた。つまり、生まれる時に生物は創造の祝福を頂いている。そのため、魚は海に満ち、鳥は空に満ちる祝福を頂いた。我らも我らの領域に満ちる祝福を頂いた。神様が与えられた生れ付きの才能を、主の御心に適うように使う人には、「創造の祝福」である「満ち」の働きが必ず現れる。
創造の仕事は創世記で終わったのではない。
創造の仕事は世が終わるまで続く。
最初の創造は神様が直接されたが、今日の創造は「神様が被造物に与えられた祝福」によって進行される。祝福の種は続けて神様の創造を証としている。
神様が与えられたこの「創造の祝福」によってこの地は続けて命を保つことができる。そのため、我らは創造主である神様をほめたたえなくてはいられない。創造主の神様だけ我らがこの地でずっと生きられる存在の根拠であるからだ。
我らは創造主ではないが、創造主の仕事を代わりにやっている。神様が与えられた「創造の祝福」が我らの中に流れているためだ。植物が時に応じてきれいな花を咲くのは、神様が種に力を与えたためだ。同じく、我らの中にも必ず人生の花を咲かせる神様の力が流れていることを毎日体験して生きる信仰こそ、創造主の神様を信じる信仰であろう。
この事実をもう一度自分自身に確認させよう。
「花に人間のできないきれいな力を与えられた神様が、神様にとって花より大事な私にそれよりもっと貴重な力を与えられたのでは!」
3. ただ御言葉によって
神様が我らに与えられた祝福は大きく2つに分けられる。
創造の祝福と救いの祝福である。
創造の祝福は神様がすべての被造物に与えられた祝福であり、この地で享受すべき現世的な祝福である。しかし、救いの祝福は信仰によって受け入れる者のみ享受する祝福であり、天国での永遠の命の祝福である。この二つの祝福には神様の無限なる愛がそのまま入っている。
創造の祝福は神様が命を与えられた祝福であり、救いの祝福はその御子の命を与えられた祝福である。
神様は我らに「創造の祝福」を与えられる時に、「神は言われた」と直接おっしゃることによって祝福された。しかし、「救いの祝福」は我らにそれを述べ伝える特権を与えられた。命の福音を伝えるのを、被造物である我らの口に委ねた。
この地での祝福の中の祝福、命を生かせる祝福、天使も憧れる祝福は「伝道」だ。
神様が言われる時に新たな命がこの地に誕生したと同様に、
我らが御言葉を証とする時に、死んでいた命が再び生き返るからだ。
神様は創造の時にはご自分の口を使われたが、救いの時には我らの口を使うことを望まれる。我らが福音の唇を開く度に、命が生き返るようにしてくださった。
これはいかに嬉しく感動であることだろう!我らが口を開く度に、命が生き返るようにしてくださったとは。
「主よ!この唇が福音のラッパになりますように!」
「主よ!福音を述べ伝えることが人生の最高の祝福であることを、毎日悟りますように!」
「地の果てまで神様の福音の証人になりますように!」
御言葉//創世記1:26-28
1. なぜ創造なのか。
我らが住んでいる地球は半径が約6370kmのボールの形をしている。
このものすごい大きさの地球は空中に浮かんでいるが、新幹線の8倍の速度で自転しながら、太陽の周囲を新幹線の500倍の速度で回っている。このすべての力は神秘的だ。人間の力ではとうてい想像を超える力である。また、この速さで地球が回っているにも関わらず、我らがどの不便さも感じずに生きているということは、ものすごい力が地球に様々な形で作用しているからだ。科学がいかに発達したといっても、この力を物理的に説明することができるとしても、このような力を発揮することはできないだろう。なぜならば、この力は超人間的な力だからだ。 超人間的な力でないと、地球の存在は説明できない。
そうすると、人間は誰が創ったのか。
もちろん、「私自身」が創ったのではない。が、両親が創ってもない。もし両親が創ったとしたら、直したい部分がなかっただろう。気になる部分がないかもしれない。なぜならば、両親のお気に入りで創ったからだ。「私」の外貌や性格は自分や両親と関係なく、ある誰かによって創られた。そのため、我らはその力に抵抗できず、生れ付きのまま生きている。
我らが住んでいる地球や我ら自身は、我らが創ったのではない。 超人間的なある力によって創られなかったら、説明できない。この超人間的で絶対的な力こそ「天地の造り主、全能の父なる神」である。この難しい問題を神様は聖書を通して我らに簡単に教えられている。しかし、面白いのは、この事実を簡単に学べる人が少ないということである。なぜならば、神様のお教えは「頭」で学ぶのではなく、「信仰」によって学べるからだ。人々が「創造」を理解できないのは、頭がないことではなく、信仰がないためである。
2. 創造の3つの過程
神様は3つを通して天地を造られた。(創世記1章)
1) 無から有を創造なさる神様
神様は一番初めにこの力を使われた。
天と水を既に創造され、「光あれ。」こうして、光があった。
元々は無かったものを神様が「あれ」と言われたら存在したのだ。信仰の先祖であるアブラハムが信じていた神様が、この創造主の神様である。アブラハムは「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じた。(ローマ 4:17)今日、アブラハムの子孫である我らも同様で、「無から有を創造される神様」を信じなければならない。アブラハムは創造の根源的な力をお持ちである神様を既に信じていた。今日もこの偉大なる神様は我らを通してお働きになることを望まれる。ただ我らの信仰を通して。
2) 混沌から整頓を成し遂げる神様
次に神様のされたことは、天と地、そして海と陸地を分けることであった。
これは厳密に言えば、創造の仕事というよりも、混沌の状態の地球をよく整頓されたことである。これも創造の重要な課程である。すべてが混ぜている混沌の状態では、生命が生きられない。万物は在るべき位置がある。それらが元の場所にいる時こそ価値があり、美しくなる。整理整頓さえよくできても、創造の力は出る。
信仰の人は整理整頓をよくしなければならない。特に、人格がよく整頓された人は大きな仕事ができる。神様の体である教会でも、各信者らが在るべき所をきちんと守ると、創造の美しさと力を証する教会となるだろう。
3) 命を与えられた神様
創造の完成の段階である。天と地を造られ、整頓を通して生物が生きられる環境を造られた後、神様はやっとこの地に生命を存在させた。
神様が命を与えられた時に使われた特別な単語がある。
それは、「種(たね)」と「祝福」という言葉である。(創世記1:11、22,28)
種は植物を創造される時に与えられた言葉であり、祝福は動物と人間を創造される時に与えられた言葉である。
種と祝福はよくみると同語である。この言葉は神様が生物を創造される時にその生物に創造の力を同じく与えられたという意味だ。
種があればその植物は死んでも消えない。種を通して同じ植物がまた出るからだ。これは、神様が創造の時に各々の植物に同一の創造の力を与えられたからだ。よって、人間は不可能であるが、植物は毎年同じ花と実を結ぶ。我らは生物を通して毎日創造の働きを体験しているのだ。それも、創造の時には1個であったが、種によって創造が再現される時には30倍、60倍、100倍の豊富な創造の実が結ばれる。そのため、神様はこれを動物と人間には「祝福」という言葉で表現されたのだ。「神はそれらのもの(彼ら)を祝福して言われた。産めよ、増えよ、地と海に満ちよ」(創世記1:22、28)
言い換えれば、神様が動物や人間を創られる時に彼らの中に同じ「種(しゅ)」を創られる創造の力を「祝福」を通して与えられたということである。神様から直接創造の力を頂いたということより大きな祝福があるのか。神様の代わりに創造の仕事ができるからだ。よって、聖書で一番初めに記録された祝福がこの「創造の祝福」である。
神様は創造の祝福を時に応じて与えられたのではなく、創造の時に既にすべての生物に与えられた。つまり、生まれる時に生物は創造の祝福を頂いている。そのため、魚は海に満ち、鳥は空に満ちる祝福を頂いた。我らも我らの領域に満ちる祝福を頂いた。神様が与えられた生れ付きの才能を、主の御心に適うように使う人には、「創造の祝福」である「満ち」の働きが必ず現れる。
創造の仕事は創世記で終わったのではない。
創造の仕事は世が終わるまで続く。
最初の創造は神様が直接されたが、今日の創造は「神様が被造物に与えられた祝福」によって進行される。祝福の種は続けて神様の創造を証としている。
神様が与えられたこの「創造の祝福」によってこの地は続けて命を保つことができる。そのため、我らは創造主である神様をほめたたえなくてはいられない。創造主の神様だけ我らがこの地でずっと生きられる存在の根拠であるからだ。
我らは創造主ではないが、創造主の仕事を代わりにやっている。神様が与えられた「創造の祝福」が我らの中に流れているためだ。植物が時に応じてきれいな花を咲くのは、神様が種に力を与えたためだ。同じく、我らの中にも必ず人生の花を咲かせる神様の力が流れていることを毎日体験して生きる信仰こそ、創造主の神様を信じる信仰であろう。
この事実をもう一度自分自身に確認させよう。
「花に人間のできないきれいな力を与えられた神様が、神様にとって花より大事な私にそれよりもっと貴重な力を与えられたのでは!」
3. ただ御言葉によって
神様が我らに与えられた祝福は大きく2つに分けられる。
創造の祝福と救いの祝福である。
創造の祝福は神様がすべての被造物に与えられた祝福であり、この地で享受すべき現世的な祝福である。しかし、救いの祝福は信仰によって受け入れる者のみ享受する祝福であり、天国での永遠の命の祝福である。この二つの祝福には神様の無限なる愛がそのまま入っている。
創造の祝福は神様が命を与えられた祝福であり、救いの祝福はその御子の命を与えられた祝福である。
神様は我らに「創造の祝福」を与えられる時に、「神は言われた」と直接おっしゃることによって祝福された。しかし、「救いの祝福」は我らにそれを述べ伝える特権を与えられた。命の福音を伝えるのを、被造物である我らの口に委ねた。
この地での祝福の中の祝福、命を生かせる祝福、天使も憧れる祝福は「伝道」だ。
神様が言われる時に新たな命がこの地に誕生したと同様に、
我らが御言葉を証とする時に、死んでいた命が再び生き返るからだ。
神様は創造の時にはご自分の口を使われたが、救いの時には我らの口を使うことを望まれる。我らが福音の唇を開く度に、命が生き返るようにしてくださった。
これはいかに嬉しく感動であることだろう!我らが口を開く度に、命が生き返るようにしてくださったとは。
「主よ!この唇が福音のラッパになりますように!」
「主よ!福音を述べ伝えることが人生の最高の祝福であることを、毎日悟りますように!」
「地の果てまで神様の福音の証人になりますように!」
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1 コメント
木下
2006-01-20 04:18:39
日本人の私にとってもたいへんわかりやすく自然な言葉で書かれていると感じます。