世の中には様々な仕事があります。私たちがその仕事を全て成し遂げることは不可能です。
私たちは自分の選択によってただ一部の仕事をするのみです。人生の決算は自分が選んで行った仕事の総合計によって換算されます。
多くの仕事の中には自分の喜びになる仕事もあれば神様の喜びになる仕事もあります。信仰の人はいつも神様に喜んで頂くことを真っ先に考える人です。‘わたしたちはこのように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。’ (一テサ2:4)
神様に喜んで頂くことは何でしょうか?聖書の新約と旧約の中で神様が褒めて下さる美しいこととは何でしょうか?それは他でもない伝道のことです。神様自ら紹介なさる人生の最高の仕事について見てみましょう。
1.美しい足よ
‘良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか’ (ロマ10:15)
私たちの体にはいろいろな部分があります。その中で一番働いている部分は足なのです。足は常に体を支え、常に靴の中に閉じ込められ、臭いにも耐えなければなりません。健康のためにジョギングをしたり、散歩をしたりする時も他の部分は健康を回復しますが、足は疲れる一方です。また良いスタイルのために履くハイヒールはさらに足を疲れさせます。前回のオリンピックの時、ある記者がキム・ヨナ選手の足を撮影しました。ところがキム・ヨナ選手の足は化粧して綺麗になった顔とはあまりにも対照的でした。彼女の足は真っ青にあざができた傷だらけの足でした。そのように何にも言わず、苦痛に耐え切った足がキム・ヨナ選手を受賞台に立たせたのです。
神様は足の苦労をよく御存じだったので手や口ではない足を褒めて下さいました。
‘良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか’ (ロマ10:15)
人は見えるものだけを知りますが、神様は見えないものでもよく存じておられます。人は見えるものだけで判断しますが、神様は見えないものに細心の注意を払っておられます。人は見えるものだけにたくさん興味を持ちますが、神様は見えないものをもっと尊いものとして評価なさいます。私たちは誰にも注目されず、誰にも認められないようなことがあっても失望してはいけません。たとえ社長や牧師先生に認めてもらえなくても、先生に認めてもらえなくても神様はその時こそ私たちの足の苦労を綿密に見ておられます。人という障害物がないため、神様はよくご覧になれます。 ‘わたしはその時、あなたの隠されていた足を見た。あなたの足がどれほど美しいのかその時、わたしは見た。’
神様にとってどんな足が美しい足なのでしょうか?それは良い知らせを伝える者の足です。(ロマ10:15)
その足とはすなわち福音を宣べ伝える足、イエス様の愛を伝える足、伝道をする足なのです。神様がお認めになる最高の足は他でもないパウロのように福音を宣べ伝える足です。なぜならその足は命を伝える足であり、人を救う足だからです。伝道は人に被害を与えることではありません。伝道は人に命の贈り物を与えることなのです。人に与えることの出来る最高の贈り物は伝道です。なぜなら伝道は命の贈り物を人にただで与えるためです。
オズワルドは‘最上の神様に私の最善を捧げます’と言いました。神様に捧げる最善とはほかならない伝道なのです。私たちは伝道を通して神様に命のいけにえを奉げることが出来るのです。
2. 救いの6段階
‘御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。’ (ロマ10:12,13)
救いには6つの段階があります。
主の名を呼び求めれば救われますが、呼び求めるためには信仰が必要です。信仰を持つためには聞くことが必要であり、聞くためには伝える人が必要となります。そして伝えるためには神様に遣わされなければなりません。結局、遣わされた者が福音を伝えることによって、それを聞いた人が信仰を持つようになり、信仰をもって主の名を呼び求める時に救いの御恵みが与えられるのです。救いの奇跡は世の中に遣わされた人たちを通して起るのです。それでは遣わされた人たちとは誰を指しているのでしょうか?それは復活なさったイエス様の至上命令にはっきりと示されています。
至上命令は2つの質問に対する答えをイエス様自らが御教えになった部分でもあります。
一つ目は ‘イエス様はどんな方なのか?’という質問に対する答えです。イエス様は神様なのです。なぜならイエス様は天と地の全ての権能の持ち主であるためです。その神様が私たちと一緒におられるのです。二つ目は ‘私は誰なのか?’という質問に対する答えです。私たちは世の中で神様に選ばれた神様の子供(民)なのです。そのため、私たちは ‘礼拝者’という身分を持つようになるのです。 ‘神の栄光をたたえることになるのです。’ (エフェ1:14) 救われた者である私たちが神様に捧げることが出来るものは礼拝以外に何があるのでしょうか。礼拝とは神様に私の心を、私の魂を、私の誠意を奉げる時間なのです。礼拝の主な目的は御恵みを頂くことではなく、すでに頂いた御恵みに対して感謝の気持ちを表すことなのです。 ‘告白をいけにえとしてささげる人はわたしを栄光に輝かすであろう。’ (詩50:23) 信じる人は真の礼拝者になるべきです。そして私たちはイエス様に遣わされたイエス様の弟子なのです。 ‘行ってわたしの弟子にしなさい。’ (マタ28:19) ‘全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。’ (マコ16:15) 私たちは福音を宣べ伝えるために遣わされた人たちです。すなわち私たちは皆、宣教師なのです。私たちはこの身分を忘れてはいけません。私たちは皆、福音を宣べ伝えるために世の中に遣わされた者であります。神様は宣教という愚かな手段によって人たちを救って下さいます。(一コリ1:21) 福音は信じる者すべてに救いをもたらす神様の力なのです。(ロマ1:16) 私たちはただ神様の道具になって福音を宣べ伝えることさえすれば良いのです。‘主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。’という一言を聞いて家族の皆が救われる奇跡が起こり、‘イエス様を信じれば罪は赦されます。’という言葉を聞いて神様を信じるようになった人もいます。私たちは皆、宣教師なのです。今回の伝道期間において信徒の皆さんが一人以上の人に福音を宣べ伝える喜びを味わえるように祝福します。
‘聞いたことのない方を、どうして信じられよう。’ (ロマ10:14)
‘信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。’ (ロマ10:17)
なぜ人々の信仰は成長しないのでしょうか?教会に通い始め10年が過ぎても10年前と変わらない行動をしているのはなぜでしょうか?その理由は神様の御言葉を読まないからです。平日には一回も御言葉に触れず、主日になると聖書の上に積もった塵をフ-と吹き払って、教会に来ます。
(フ-タク信徒) そして遅刻することもしばしばあり、礼拝の時間になると他のことに気を取られ、説教には集中できません。このような人の信仰が成長するということは奇跡ではなく詐欺なのです。御言葉は信仰の糧なので定期的に読まなければなりません。そうでないと信仰は成長することはできません。
‘わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。…その豊かさを楽しむであろう。’ (イザ55:2) ‘耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。’ (イザ55:3)
信仰の成長を望んでいますか?その秘法はただ一つしかありません。御言葉を読み続けなさい。毎日、毎週、御言葉を呼んでみなさい。それでも信仰が成長しないのであればそれこそが奇跡の中での奇跡です。御言葉を聞き入れるということには聞くこと、読むこと、勉強すること、暗記すること、実践することが含まれています。異端もこの真理をよく知っています。彼らは聖書の勉強を通して集中的に彼らの教理を教えるため、人たちはおかしくなります。そのような聖書の勉強を通して人を神様として信じることも出来るのに真の神様であるイエス様を神様として私の救い主として信じることは当然なことでしょう。
信仰の成長を望んでいますか?規則的に御言葉を読み続けなさい。目覚ましい信仰の成長があなたを待っているのでしょう。
そしてその信仰をもって神様の御名を呼び求めなさい。‘主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。’ (ロマ10:13) 人は自分の信仰以上の祈りは出来ないのです。自分が信じている程度の祈りが出来るのです。信仰をもって奉げる祈りは奇跡を起こす力があります。信仰の祈りは救いの実を結びます。
イエス様ははっきりと約束なさいました。
‘信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。’ (マタ21:22)
3. 伝道と愛
伝道を上手にするためには神様に対する愛と人に対する愛が必要です。愛は伝道をするための原動力なのです。パウロは伝道の人でした。伝道のために生き、伝道のために死んだ人でした。彼は愛を実践する人でした。パウロは神様を自分の命よりも愛しました。そのため彼は次のように告白しています。
‘しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。’ (使20:24)
パウロは自分の同胞を自分の命より愛しました。パウロは深い悲しみと心の中に絶え間ない痛みがあると言いました。それはなぜでしょうか?その悲しみや痛みはパウロの個人の問題のためではなく、イスラエルの民がイエス様を信じないことから来る悲しみと痛みでした。パウロは本当に自分の同胞を愛しました。そのため、彼は次のように言いました。‘キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。’ (ロマ9:3) このような同胞に対する尊い愛がパウロにとって疲れることなく、福音を宣べ伝えることができる力になったのです。
伝道は完全な愛の表現方法です。伝道には神様に対する愛、人に対する愛が全て入っています。世の中で表現できる最高の愛は伝道なのです。信じない人を本当に愛していますか?そうであればためらってはいけません。次のように愛を表現しなさい。 ‘主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。’
私たちは自分の選択によってただ一部の仕事をするのみです。人生の決算は自分が選んで行った仕事の総合計によって換算されます。
多くの仕事の中には自分の喜びになる仕事もあれば神様の喜びになる仕事もあります。信仰の人はいつも神様に喜んで頂くことを真っ先に考える人です。‘わたしたちはこのように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。’ (一テサ2:4)
神様に喜んで頂くことは何でしょうか?聖書の新約と旧約の中で神様が褒めて下さる美しいこととは何でしょうか?それは他でもない伝道のことです。神様自ら紹介なさる人生の最高の仕事について見てみましょう。
1.美しい足よ
‘良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか’ (ロマ10:15)
私たちの体にはいろいろな部分があります。その中で一番働いている部分は足なのです。足は常に体を支え、常に靴の中に閉じ込められ、臭いにも耐えなければなりません。健康のためにジョギングをしたり、散歩をしたりする時も他の部分は健康を回復しますが、足は疲れる一方です。また良いスタイルのために履くハイヒールはさらに足を疲れさせます。前回のオリンピックの時、ある記者がキム・ヨナ選手の足を撮影しました。ところがキム・ヨナ選手の足は化粧して綺麗になった顔とはあまりにも対照的でした。彼女の足は真っ青にあざができた傷だらけの足でした。そのように何にも言わず、苦痛に耐え切った足がキム・ヨナ選手を受賞台に立たせたのです。
神様は足の苦労をよく御存じだったので手や口ではない足を褒めて下さいました。
‘良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか’ (ロマ10:15)
人は見えるものだけを知りますが、神様は見えないものでもよく存じておられます。人は見えるものだけで判断しますが、神様は見えないものに細心の注意を払っておられます。人は見えるものだけにたくさん興味を持ちますが、神様は見えないものをもっと尊いものとして評価なさいます。私たちは誰にも注目されず、誰にも認められないようなことがあっても失望してはいけません。たとえ社長や牧師先生に認めてもらえなくても、先生に認めてもらえなくても神様はその時こそ私たちの足の苦労を綿密に見ておられます。人という障害物がないため、神様はよくご覧になれます。 ‘わたしはその時、あなたの隠されていた足を見た。あなたの足がどれほど美しいのかその時、わたしは見た。’
神様にとってどんな足が美しい足なのでしょうか?それは良い知らせを伝える者の足です。(ロマ10:15)
その足とはすなわち福音を宣べ伝える足、イエス様の愛を伝える足、伝道をする足なのです。神様がお認めになる最高の足は他でもないパウロのように福音を宣べ伝える足です。なぜならその足は命を伝える足であり、人を救う足だからです。伝道は人に被害を与えることではありません。伝道は人に命の贈り物を与えることなのです。人に与えることの出来る最高の贈り物は伝道です。なぜなら伝道は命の贈り物を人にただで与えるためです。
オズワルドは‘最上の神様に私の最善を捧げます’と言いました。神様に捧げる最善とはほかならない伝道なのです。私たちは伝道を通して神様に命のいけにえを奉げることが出来るのです。
2. 救いの6段階
‘御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。’ (ロマ10:12,13)
救いには6つの段階があります。
主の名を呼び求めれば救われますが、呼び求めるためには信仰が必要です。信仰を持つためには聞くことが必要であり、聞くためには伝える人が必要となります。そして伝えるためには神様に遣わされなければなりません。結局、遣わされた者が福音を伝えることによって、それを聞いた人が信仰を持つようになり、信仰をもって主の名を呼び求める時に救いの御恵みが与えられるのです。救いの奇跡は世の中に遣わされた人たちを通して起るのです。それでは遣わされた人たちとは誰を指しているのでしょうか?それは復活なさったイエス様の至上命令にはっきりと示されています。
至上命令は2つの質問に対する答えをイエス様自らが御教えになった部分でもあります。
一つ目は ‘イエス様はどんな方なのか?’という質問に対する答えです。イエス様は神様なのです。なぜならイエス様は天と地の全ての権能の持ち主であるためです。その神様が私たちと一緒におられるのです。二つ目は ‘私は誰なのか?’という質問に対する答えです。私たちは世の中で神様に選ばれた神様の子供(民)なのです。そのため、私たちは ‘礼拝者’という身分を持つようになるのです。 ‘神の栄光をたたえることになるのです。’ (エフェ1:14) 救われた者である私たちが神様に捧げることが出来るものは礼拝以外に何があるのでしょうか。礼拝とは神様に私の心を、私の魂を、私の誠意を奉げる時間なのです。礼拝の主な目的は御恵みを頂くことではなく、すでに頂いた御恵みに対して感謝の気持ちを表すことなのです。 ‘告白をいけにえとしてささげる人はわたしを栄光に輝かすであろう。’ (詩50:23) 信じる人は真の礼拝者になるべきです。そして私たちはイエス様に遣わされたイエス様の弟子なのです。 ‘行ってわたしの弟子にしなさい。’ (マタ28:19) ‘全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。’ (マコ16:15) 私たちは福音を宣べ伝えるために遣わされた人たちです。すなわち私たちは皆、宣教師なのです。私たちはこの身分を忘れてはいけません。私たちは皆、福音を宣べ伝えるために世の中に遣わされた者であります。神様は宣教という愚かな手段によって人たちを救って下さいます。(一コリ1:21) 福音は信じる者すべてに救いをもたらす神様の力なのです。(ロマ1:16) 私たちはただ神様の道具になって福音を宣べ伝えることさえすれば良いのです。‘主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。’という一言を聞いて家族の皆が救われる奇跡が起こり、‘イエス様を信じれば罪は赦されます。’という言葉を聞いて神様を信じるようになった人もいます。私たちは皆、宣教師なのです。今回の伝道期間において信徒の皆さんが一人以上の人に福音を宣べ伝える喜びを味わえるように祝福します。
‘聞いたことのない方を、どうして信じられよう。’ (ロマ10:14)
‘信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。’ (ロマ10:17)
なぜ人々の信仰は成長しないのでしょうか?教会に通い始め10年が過ぎても10年前と変わらない行動をしているのはなぜでしょうか?その理由は神様の御言葉を読まないからです。平日には一回も御言葉に触れず、主日になると聖書の上に積もった塵をフ-と吹き払って、教会に来ます。
(フ-タク信徒) そして遅刻することもしばしばあり、礼拝の時間になると他のことに気を取られ、説教には集中できません。このような人の信仰が成長するということは奇跡ではなく詐欺なのです。御言葉は信仰の糧なので定期的に読まなければなりません。そうでないと信仰は成長することはできません。
‘わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。…その豊かさを楽しむであろう。’ (イザ55:2) ‘耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。’ (イザ55:3)
信仰の成長を望んでいますか?その秘法はただ一つしかありません。御言葉を読み続けなさい。毎日、毎週、御言葉を呼んでみなさい。それでも信仰が成長しないのであればそれこそが奇跡の中での奇跡です。御言葉を聞き入れるということには聞くこと、読むこと、勉強すること、暗記すること、実践することが含まれています。異端もこの真理をよく知っています。彼らは聖書の勉強を通して集中的に彼らの教理を教えるため、人たちはおかしくなります。そのような聖書の勉強を通して人を神様として信じることも出来るのに真の神様であるイエス様を神様として私の救い主として信じることは当然なことでしょう。
信仰の成長を望んでいますか?規則的に御言葉を読み続けなさい。目覚ましい信仰の成長があなたを待っているのでしょう。
そしてその信仰をもって神様の御名を呼び求めなさい。‘主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。’ (ロマ10:13) 人は自分の信仰以上の祈りは出来ないのです。自分が信じている程度の祈りが出来るのです。信仰をもって奉げる祈りは奇跡を起こす力があります。信仰の祈りは救いの実を結びます。
イエス様ははっきりと約束なさいました。
‘信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。’ (マタ21:22)
3. 伝道と愛
伝道を上手にするためには神様に対する愛と人に対する愛が必要です。愛は伝道をするための原動力なのです。パウロは伝道の人でした。伝道のために生き、伝道のために死んだ人でした。彼は愛を実践する人でした。パウロは神様を自分の命よりも愛しました。そのため彼は次のように告白しています。
‘しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。’ (使20:24)
パウロは自分の同胞を自分の命より愛しました。パウロは深い悲しみと心の中に絶え間ない痛みがあると言いました。それはなぜでしょうか?その悲しみや痛みはパウロの個人の問題のためではなく、イスラエルの民がイエス様を信じないことから来る悲しみと痛みでした。パウロは本当に自分の同胞を愛しました。そのため、彼は次のように言いました。‘キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。’ (ロマ9:3) このような同胞に対する尊い愛がパウロにとって疲れることなく、福音を宣べ伝えることができる力になったのです。
伝道は完全な愛の表現方法です。伝道には神様に対する愛、人に対する愛が全て入っています。世の中で表現できる最高の愛は伝道なのです。信じない人を本当に愛していますか?そうであればためらってはいけません。次のように愛を表現しなさい。 ‘主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。’
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1 コメント
中森千草
2010-04-18 00:20:03
イエス様が漁に出かけるペトロと兄弟たちに話された場面が浮かび、
福音を伝えることが神様の御心であり、神様にとっての喜びだと悟りました。
神様は、私にいい仕事をするための生活環境を与えてくださっています。
見過ごしていました。
愛を伝える最高の仕事ができる喜びをもって、歩いていきます。