表現されない愛は愛ではありません。愛は他の人から表現される時に初めて生命力を発揮します。だから神様はコリント人への手紙13章を通して愛の具体的な表現方法に対してみ言葉を下さいました。先週には[愛は忍耐強い姿で現れる。][愛は親切な姿で現れる。][愛は寛大の(ねたまない)姿で現れる。]に対して理解しました。今日は続いて次の3つの愛の実践的な徳目についてよく見て見ましょう。
神様がクリスチャンに実践しなさいという愛は感情的な愛ではありません。どうして感情的な愛で耐えることの出来ない環境に耐えることができるでしょうか?むしろ耐えることの出来ないことが感情的な愛によりふさわしいでしょう。神様が私たちに期待している愛は人格的な愛です。人格と愛は直結しています。愛の実践はつまりイエス様のご人格と御品格に近づいていく過程です。
1.神様の愛を守ることは難しいことですか?やさしいことですか?
神様は信じる人々に特別な贈り物を下さいました。これはつまり戒律です。ところで多くの人々は戒律を感謝して受けるのでなく、恐れや負担感で受け取ります。まるで神様が人生に下さる大きい荷物の靴下です。実は決してそうではありません。このことはまた信じる人の大きい誤解中の一つでないでしょうか?神様は私たちの思い荷物を取り除いてくださるためにイエス様を此の世に送ってくださり、イエス様は十字架に私たちの罪の荷をすべて負ってくださって神様の元に帰られました。神様は私たちに荷物を負うためではなく、荷物を取り除くことをしたいと願っておられます。ところでなぜ戒律が荷物になるのでしょうか?神様の下さる愛は荷物ではなく、私たちの人生の力です。
[神を愛することは、神の掟を守ることです。難しいことではありません。](ヨハネ一5:3)
これはまるで誰かが私たちによい自動車をプレゼントとしてくれるようなものです。自動車自体の重さはものすごく重いものです。とても私たちの力では負うことは出来ません。けれど自動車は私たちの荷物ではありません。自動車は私たちを周りからも保護してくれ遠こを平安に行く力になります。私たちに多くの利益と助けになります。自動車を引いていくのでなく、乗っていくときにだけ自動車といいます。
[神様の戒律は世を勝利する力です。](ヨハネ一5:4)
だから戒律を守る人は福を受けるのです。
戒律を守るとき、私たちは神様の前で大胆さを持ち、何であろうと助けの方法を神様から受け,神様の喜びになります。(ヨハネ一3:21-22)
それならば神様の戒律は何でしょうか?
[その掟とは、神の子イエスキリストの菜を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです。](ヨハネ一3:23)
イエス様を信じ、人々を愛することは戒律の中の戒律です。これはなぜ難しいですか?考えてみたら誰でも可能なことです。ところでこの実践能力は非常なものです。誌に勝ち、世に打ち勝つ能力がここに現れています。信じる人は兄弟愛を生命のように思わなければなりません。これが信じる人の本質のためです。
[たとえ山を動かすほどの信仰を持っていようと愛がなければ無に等しい。](コリント一13:2)
2.愛は謙遜である。
[愛は自慢せず、高ぶらない](コリント一13:4)
愛の4番目の姿は謙遜です。愛の表現は自分を出して立てることではありません。私たちの堕落した本質は、出来るなら自分を引き上げ、他人は引き摺り下ろします。しかし愛
はそうではありません。愛は自分を引き摺り下ろし、他人を引き上げます。これが謙遜の姿です。イエス様は子の大きな愛で、自分を無にするほど完全に自分を引き摺り下ろし、天から地まで降りてこられ、神様から人になり降りてこられ、十字架まで低くなられました。代わりに私たちを地獄のそこから引き上げ天国へまで引き上げてくださいました。これがまさにイエス様の謙遜的愛の感動的な姿です。
謙遜な人は、自分を低くしながら相手側の心を高くする人です。まるでシーソー遊びで自分を低くして相手側を高くするという意味です。謙遜な愛はこのように偉大な力を発揮します。
[何事も利己心や虚栄心からするのでなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考えなさい](フィリピ2:3)
高慢な人は他の人をけなすことは好み、謙遜な人は他の人を高くすることを好みます。高慢な人は他の人を批判するアラを探そうとしますが、謙遜な人は他の人の善いところを探し伸ばそうとします。
[憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。](箴言10:12)
イエス様は現場で姦淫して捕まった女の過ちを見逃してくださいました。愛は決して罪をただすのではなく、罪を覆います。
3.愛は礼儀と等しい。
[愛は礼を失せず、](コリント一13:5)
愛の5番目の姿は礼儀と等しいものです。礼儀が叶っているということは相手側を尊敬するということです。だから相手に不名誉とか恥をかかせることや、侮辱感を与える言葉や行動をしないことです。相手方に[私が本当に愛を受けている。]という心を与えることが礼儀正しい姿の結果である。他の人の心をこつこつとたたくような痛みをくれる人は正しい礼儀の愛が欠乏している確率が高いでしょう。韓国のある有名なデパートの役員たちが売り場を通りながら職員たちの笑顔を点検しながら笑顔を作るようにしようといいました。その理由はつまりこのようなことです。[この間から顧客の不満の中で笑わない販売職員に対しての不満が非常に多かった。]ということです。真の顧客サービスの出発は硬く無表情な挨拶ではなく明るく微笑んでいることです。無表情な挨拶は受けないだけでなく、いやになるときもあります。相手方に不快にさせる行為は絶対に愛の表現ではありません。
私たちの教会が愛で評判の教会になるためにはどうすればよいでしょうか?挨拶するだけでよいのです。相手方に[本当に私はこの教会から愛を受けているなあ]と感じられる心からの礼儀の愛の挨拶です。知らない人で、初めて見かけた人で、関係が作られていない人であるほど、合わない人であればあるほどいつも明るく微笑んで愛の挨拶を分かち合いましょう。そうすれば教会はすぐに変わります。愛は必要な人に私たちの挨拶を通して
愛が入っていくからです。世は今、愛の飢饉の時代を生きています。誰が愛の泉を供給してくれますか?愛のパイプである私たちがしなければ誰に期待することが出来るでしょうか?
イエス様は会うすべての人に愛の供給者の生き方を生きられました。イエス様はどんな罪人にも罪をたださず人格的に対応してくださいました。だからイエス様に会った人は誰でも希望をもらって新しい生き方の道を歩むことが出来ました。その代表的な人物がザアカイです。ザアカイは税理長でした。税理長はその時代の罪人中の罪人でした。住民たちのお金を税金という項目で好きなように搾取したからです。ユダヤ人たちは彼を相手にしませんでした。ところでイエス様がその町を過ぎるという噂を聞いてザアカイは[イエスはどんな人だろうか]と思いながら見ようと桑の木に登りました。そのときイエス様はザアカイを見て、彼の罪をとがめることはありませんでした。彼に侮辱を与える事はありませんでした。[ザアカイや、早く降りてきなさい、私は今日あなたの家に泊まりたい。](ルカ19:5)イエス様はザアカイを蔑視しませんでした。人情と愛のお言葉をかけてくださいました。彼の人格を尊敬で見てくださいました。そのときザアカイはおびただしい愛の電流を経験することになったのです。だから彼は自分の財産の半分も貧しい人のために施すといったのです。愛が入れば人は変わります。愛が乏しくなれば人はだんだん怒ってむっとします。しかし愛が供給されるとだんだんすぼんでいた心が広がってきます。困難な人であるほど人情をあげなければなりません。困難な人であるほど傷つけたりせず、愛を注いであげなければなりません。これが回復の力です。
4.愛は私心がありません。
[愛は自分の利益を求めず](コリント一13:5)
6番目の愛の姿は私心がないことです。自分中心的な考えはいつも愛を阻んでしまいます。自分の利益を先に考えるならば相手を愛することは出来ません。考えを換えなければなりません。自分よりも相手を先に考えることが私心のない愛です。
神の愛は「me first」(自分先)でなく[you FIRST](あなたが先)です。
イエス様は自分のためではなく、あなたのためにご自分を下さったのです。この愛はまさに世を救い、世を変わらせる力となりました。
[キリストが教会を愛し教会のためにご自分を下さったように](エペソ5:25)
[[キリストが私たちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまりいけにえとして私たちのためか身に捧げてくださったように、あなた方も愛によって歩みなさい。](エペソ5:2)
イエス様は教会のために、私たちのためにご自身を捨てられました。イエス様の愛は私心がまったくありませんでした。ただ私たちに対する考えしかありませんでした。私たちがよくなり、よく生きることがイエス様の目的でした。目的が正しい人は愛の人です。自分のための目的を持つ人はその中に愛はありません。ただ愛の仮面を使って演劇をしているだけです。誠の神の愛は他の人のために、教会のためにです。愛はまさにその目的でなければなりません。自分の利益のために他人をだましてはいけません。他人へ被害を与えてはいけません。これが愛の本質です。
自分の利益のために教会や共同体に損害を被らせてはいけません。協会や共同体のために自分を与えることが愛です。愛は自分の利益を求めることではありません。
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3 コメント
이용규목사
2010-02-03 17:32:42
안마상과 황후연님이 수고해 주셨습니다.
황후연
2010-02-03 21:01:49
中森千草
2010-02-17 05:51:28
心が痛み反省しました。
愛には、これほどの意味があるのかもよく分かりました。
これからの自分にとって、いいきっかけとなりました。