十字架と伝道
御言葉//ローマ人への手紙
1. 余裕で勝つ。
世の中には多くの困難と問題が増えている。 世の中は問題の地雷畑だ。
患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣か常に私達を狙っている。
果たしてこれらに勝つ力が世の中にあるだろうか? 聖書は語る。 ただ勝つのではなく、十分に勝てる力があると。 勝っても余る力があると語る。 そうだとすればこの力をもらいたくないのか? この力は世の中が与えてくれるものではなく、天からくれるものだ。
この力は何だろうか。 何がこのような超能力を発揮するのだろう。
「愛」である。「人の愛」でない「神様の愛」だ。 この愛を自分のものとして受け入れる人はパウロのように超能力(?)の所有者となる。 どんな厳しい環境にも勝ち抜くことができる。 神様の愛を受け入れる為には十字架の事件を自分の事として受け入れなければならない。 十字架の事件は私のせいで起きた事件であり、私の為に起きた事件であることを悟らなければならない。 「イエス様が私の為に血を流された。」 「イエス様が私の為に死なれた。」この二つの文章を心から静かに黙想してみよう。 十字架が貴方の心に臨まなければならない。 私と関係のない十字架は何の力もない。「十字架の自分化」が即ち、「神様からの愛の自分化」の過程である。 特に、この1週間は私の為に立てて下さった十字架をたくさん黙想する期間にしてほしい。
‘神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16) ’
‘だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。’(ローマ人への手紙8:35)
‘しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。’(ローマ人への手紙8:37)
神様の愛の力が私の中で流れる為には、‘確信’の心がなければならない。
パウロは自らこのように確信した。
‘わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。’(ローマ人への手紙8:38-39)
‘確信’は揺るぎない確固たる信仰だ。ここで語る真の信仰は神様の愛に対する確信だ。 神様が私をどれほど愛しているかを固く信じることが信仰だ。 十字架のその愛を少しも疑わない。 世の中は私を捨てたとしても神様は私を捨てない。 両親は私を忘れたとしても神様は私をお忘れにならない。 今でも神様は十字架で両腕を広げて仰る。 「私がこれほど貴方を愛するのだ。 私が貴方の為に十字架を背負うほど貴方を愛しているのだ。 貴方の為ならば何でもする事を望む」
神様の愛に対して確信のある人はどんな事でも恐れない。 死も、サタンも、現在の事も、決して恐ろしくない。どれも神様の愛の壁を突き抜けて私に入って来ることができないからだ。 それでパウロは死と悪い権力の前でもびくともしなかった。 むしろ彼らが怖がって震えるようにした。 神様が自分を愛しているという心強いスポンサーがあったからだ。
‘信頼’は「神様が私を愛される」ことに対する確信だ。この確信だけ揺るがなければ私達は必ず世の中を怯えさせる人物になるだろう。 パウロのように。
何を恐れているか? 何が怖いか? 何が心配で眠れないか?
「神様の愛」が貴方にあるではないか。「神様の十字架」があるではないか。 この愛さえあれば貴方は充分、勝つことができる。 これがパウロの武器であった。 愛がある所には恐れがあるはずがない。
絶対に十字架は世の中に勝てる力だ。 十字架は神様の愛で作られたからだ。十字架にはイエス様の血潮が流れるからだ。
2. 霊的な盲人
神様は言葉だけで「私が貴方を愛している」と仰らなかった。神様はこの愛を世の中の全ての人に見えるように高く立てて見せて下さった。 神様の愛を直接見せて下さった。 その期間が即ち、今週だ。 神様が私達をこのように愛されて独り子のイエスキリストを十字架に出してくれた一週間だ。それで私達はこの一週間を「苦難週間」と呼ぶ。神様が私達の罪を代わりに返す為に独り子のイエスを十字架にかけて死なせた一週間である為だ。
十字架は神様の愛を見せてくれる現場だ。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。’(ローマ人への手紙5:8)
十字架は神様の愛の証拠場所だ。十字架は耳だけで聞いた神様の愛を目で直接見せてくれる現場だ。
十字架を見ても神様の愛が分からなければ「霊的盲人」だ。「霊的唖(おし)」になってもならないが、「霊的盲人」になってもならない。 何より十字架を通して神様の大きい愛を見ることができなければならない。貴方に向かわれたその愛を見るべきだ。
今日教会には霊的盲人が思ったより多い。十字架を見ても何も感じられない。花を見ては感嘆の声を連発するのに十字架を見ても感動を受けない。 十字架の中にある神様の愛を見ることができないからだ。
「塩狩峠」はクリスチャンだけでなく、世の中の人にも非常に感動的な事件だ。 北海道で約100年前に起きた実話を三浦綾子が小説にし、またそれが映画化された。
主人公である永野信夫が乗った汽車が塩狩峠の頂上に登ろうとした瞬間、汽車の後部客室が分離されてしまった。 分離された客室は峠の下に真っ逆さまに転げ落ち始めた。 この時、この客室に乗っていた信仰の強いクリスチャンである永野は自分の体を汽車のレールに投げる。彼の体が下敷きになって,汽車は止まるが、彼の体は残酷に潰されて彼はその現場で死ぬ。 勿論、汽車に乗っていた人は皆命が救われた。
彼を通して私達は十字架上のイエス様の姿を少しでも見ることができる。
苦難週間の十字架は神様の息子であるイエス様が貴方を永遠に生かす為に、貴方が乗っている
死亡への汽車を自らの体で止めて自分自身は死んだ事件だ。
人類の歴史で最も偉大な事件は十字架の事件だ。もし、この事件がなかったら、人類には希望も、罪の許しも、救いもなかっただろう。 この一週間は人類最高の福なる一週間だ。 本当に重要な一週間だ。命の十字架が、救いの十字架が、愛の十字架が、貴方の為に立てられた一週間だ。
共に体験して行く時に恵みはさらに多く臨むことだ。言葉だけ聞いて終わるような大した事のない一週間でなく、神様の苦難を共に体験して神様の愛を深く感じられる一週間になることを祝福する。
考えなしで、無意味に過ごさないようにしよう。
毎日早く起きて、TV・インターネット…世の中の楽しみを遠ざけて断食しながら神様の苦難に参加してみよう。 そして神様の愛を知らせる伝道者の生活を送ってみよう。パウロは神様の愛を深く体験したので福音を伝えることに自分の命も惜しまなかった。 そうするほど神様の愛の大切さを知ったからだ。この苦難週間中、断食しながら伝道してほしい。主イエス様は、食事はともかく、十字架の上で重い苦痛まで受けられた。 いくら断食が大変でも十字架の苦痛に比べられるか。 家庭でも、教会でも、苦難体験学校を開いてみよう。洗足もし、十字架を内容にした映画も見て断食もし、伝道もしよう。苦難を体で体験する分だけ恵みも倍加されるだろう。
3. 十字架と伝道
神様は十字架の愛を全世界の全ての民が受けることを願われた。
それで「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という十字架の名札を書く時も、ヘブル、ローマ、ギリシャの国語で書かせた。勿論、ビラドの手を借りて書いた。(ヨハネによる福音書19:19-22)多くの人々がこの名札を読んだと聖書に記されている。 人々は最初の伝道紙は十字架の名札と言ったりもする。
十字架は伝道の為に立てられた。
伝道で神様の十字架を日本に再び立ててみよう。 ビラドも伝道したのに私達がじっとしているのは話にならない。
御言葉//ローマ人への手紙
1. 余裕で勝つ。
世の中には多くの困難と問題が増えている。 世の中は問題の地雷畑だ。
患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣か常に私達を狙っている。
果たしてこれらに勝つ力が世の中にあるだろうか? 聖書は語る。 ただ勝つのではなく、十分に勝てる力があると。 勝っても余る力があると語る。 そうだとすればこの力をもらいたくないのか? この力は世の中が与えてくれるものではなく、天からくれるものだ。
この力は何だろうか。 何がこのような超能力を発揮するのだろう。
「愛」である。「人の愛」でない「神様の愛」だ。 この愛を自分のものとして受け入れる人はパウロのように超能力(?)の所有者となる。 どんな厳しい環境にも勝ち抜くことができる。 神様の愛を受け入れる為には十字架の事件を自分の事として受け入れなければならない。 十字架の事件は私のせいで起きた事件であり、私の為に起きた事件であることを悟らなければならない。 「イエス様が私の為に血を流された。」 「イエス様が私の為に死なれた。」この二つの文章を心から静かに黙想してみよう。 十字架が貴方の心に臨まなければならない。 私と関係のない十字架は何の力もない。「十字架の自分化」が即ち、「神様からの愛の自分化」の過程である。 特に、この1週間は私の為に立てて下さった十字架をたくさん黙想する期間にしてほしい。
‘神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16) ’
‘だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。’(ローマ人への手紙8:35)
‘しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。’(ローマ人への手紙8:37)
神様の愛の力が私の中で流れる為には、‘確信’の心がなければならない。
パウロは自らこのように確信した。
‘わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。’(ローマ人への手紙8:38-39)
‘確信’は揺るぎない確固たる信仰だ。ここで語る真の信仰は神様の愛に対する確信だ。 神様が私をどれほど愛しているかを固く信じることが信仰だ。 十字架のその愛を少しも疑わない。 世の中は私を捨てたとしても神様は私を捨てない。 両親は私を忘れたとしても神様は私をお忘れにならない。 今でも神様は十字架で両腕を広げて仰る。 「私がこれほど貴方を愛するのだ。 私が貴方の為に十字架を背負うほど貴方を愛しているのだ。 貴方の為ならば何でもする事を望む」
神様の愛に対して確信のある人はどんな事でも恐れない。 死も、サタンも、現在の事も、決して恐ろしくない。どれも神様の愛の壁を突き抜けて私に入って来ることができないからだ。 それでパウロは死と悪い権力の前でもびくともしなかった。 むしろ彼らが怖がって震えるようにした。 神様が自分を愛しているという心強いスポンサーがあったからだ。
‘信頼’は「神様が私を愛される」ことに対する確信だ。この確信だけ揺るがなければ私達は必ず世の中を怯えさせる人物になるだろう。 パウロのように。
何を恐れているか? 何が怖いか? 何が心配で眠れないか?
「神様の愛」が貴方にあるではないか。「神様の十字架」があるではないか。 この愛さえあれば貴方は充分、勝つことができる。 これがパウロの武器であった。 愛がある所には恐れがあるはずがない。
絶対に十字架は世の中に勝てる力だ。 十字架は神様の愛で作られたからだ。十字架にはイエス様の血潮が流れるからだ。
2. 霊的な盲人
神様は言葉だけで「私が貴方を愛している」と仰らなかった。神様はこの愛を世の中の全ての人に見えるように高く立てて見せて下さった。 神様の愛を直接見せて下さった。 その期間が即ち、今週だ。 神様が私達をこのように愛されて独り子のイエスキリストを十字架に出してくれた一週間だ。それで私達はこの一週間を「苦難週間」と呼ぶ。神様が私達の罪を代わりに返す為に独り子のイエスを十字架にかけて死なせた一週間である為だ。
十字架は神様の愛を見せてくれる現場だ。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。’(ローマ人への手紙5:8)
十字架は神様の愛の証拠場所だ。十字架は耳だけで聞いた神様の愛を目で直接見せてくれる現場だ。
十字架を見ても神様の愛が分からなければ「霊的盲人」だ。「霊的唖(おし)」になってもならないが、「霊的盲人」になってもならない。 何より十字架を通して神様の大きい愛を見ることができなければならない。貴方に向かわれたその愛を見るべきだ。
今日教会には霊的盲人が思ったより多い。十字架を見ても何も感じられない。花を見ては感嘆の声を連発するのに十字架を見ても感動を受けない。 十字架の中にある神様の愛を見ることができないからだ。
「塩狩峠」はクリスチャンだけでなく、世の中の人にも非常に感動的な事件だ。 北海道で約100年前に起きた実話を三浦綾子が小説にし、またそれが映画化された。
主人公である永野信夫が乗った汽車が塩狩峠の頂上に登ろうとした瞬間、汽車の後部客室が分離されてしまった。 分離された客室は峠の下に真っ逆さまに転げ落ち始めた。 この時、この客室に乗っていた信仰の強いクリスチャンである永野は自分の体を汽車のレールに投げる。彼の体が下敷きになって,汽車は止まるが、彼の体は残酷に潰されて彼はその現場で死ぬ。 勿論、汽車に乗っていた人は皆命が救われた。
彼を通して私達は十字架上のイエス様の姿を少しでも見ることができる。
苦難週間の十字架は神様の息子であるイエス様が貴方を永遠に生かす為に、貴方が乗っている
死亡への汽車を自らの体で止めて自分自身は死んだ事件だ。
人類の歴史で最も偉大な事件は十字架の事件だ。もし、この事件がなかったら、人類には希望も、罪の許しも、救いもなかっただろう。 この一週間は人類最高の福なる一週間だ。 本当に重要な一週間だ。命の十字架が、救いの十字架が、愛の十字架が、貴方の為に立てられた一週間だ。
共に体験して行く時に恵みはさらに多く臨むことだ。言葉だけ聞いて終わるような大した事のない一週間でなく、神様の苦難を共に体験して神様の愛を深く感じられる一週間になることを祝福する。
考えなしで、無意味に過ごさないようにしよう。
毎日早く起きて、TV・インターネット…世の中の楽しみを遠ざけて断食しながら神様の苦難に参加してみよう。 そして神様の愛を知らせる伝道者の生活を送ってみよう。パウロは神様の愛を深く体験したので福音を伝えることに自分の命も惜しまなかった。 そうするほど神様の愛の大切さを知ったからだ。この苦難週間中、断食しながら伝道してほしい。主イエス様は、食事はともかく、十字架の上で重い苦痛まで受けられた。 いくら断食が大変でも十字架の苦痛に比べられるか。 家庭でも、教会でも、苦難体験学校を開いてみよう。洗足もし、十字架を内容にした映画も見て断食もし、伝道もしよう。苦難を体で体験する分だけ恵みも倍加されるだろう。
3. 十字架と伝道
神様は十字架の愛を全世界の全ての民が受けることを願われた。
それで「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という十字架の名札を書く時も、ヘブル、ローマ、ギリシャの国語で書かせた。勿論、ビラドの手を借りて書いた。(ヨハネによる福音書19:19-22)多くの人々がこの名札を読んだと聖書に記されている。 人々は最初の伝道紙は十字架の名札と言ったりもする。
十字架は伝道の為に立てられた。
伝道で神様の十字架を日本に再び立ててみよう。 ビラドも伝道したのに私達がじっとしているのは話にならない。
リスト
Status | 番号 | タイトル | 投稿者 | 日付 | 閲覧数 |
---|---|---|---|---|---|
311 |
復活と伝道4 |
2009-04-16 | 327 | ||
310 |
부활과 전도17 |
2009-04-13 | 521 | ||
309 |
十字架と伝道4 |
2009-04-11 | 294 | ||
308 |
십자가와 전도18 |
2009-04-06 | 547 | ||
307 |
誰が口のきけない者か?4 |
2009-04-03 | 339 | ||
306 |
누가 벙어리인가?16 |
2009-03-30 | 480 | ||
305 |
肯定と勤勉4 |
2009-03-26 | 290 | ||
304 |
긍정과 근면15 |
2009-03-23 | 477 | ||
303 |
信仰と肯定3 |
2009-03-21 | 294 | ||
302 |
믿음과 긍정15 |
2009-03-16 | 569 | ||
301 |
「満たすこと」3 |
2009-03-13 | 310 | ||
300 |
채움17 |
2009-03-09 | 594 | ||
299 |
空けることと満たすこと4 |
2009-03-04 | 350 | ||
298 |
비움과 채움16 |
2009-03-02 | 1034 | ||
297 |
感謝を忘れていないか?2 |
2009-03-01 | 331 | ||
296 |
감사를 잊지는 않았는가?21 |
2009-02-23 | 1205 | ||
295 |
私が聞いて、私が見た3 |
2009-02-19 | 358 | ||
294 |
내가 들었고 내가 보았노라16 |
2009-02-16 | 676 | ||
293 |
誰を捜し求めるか?4 |
2009-02-13 | 335 | ||
292 |
누구를 찾을 것인가?19 |
2009-02-09 | 616 |
4 コメント
이용규목사
2009-04-11 21:45:16
바쁜 중에도 신경써 주셔서 감사합니다.
中森千草
2009-04-12 00:04:31
その姿をみて涙を流された神様
真の愛を心に留めることが出来ました。
今までは十字架を抱いていましたが、背負う重いものとなりました。
血潮と十字架に対しての重みがどれ程のものであるか分かることができ、消えない記憶として残ると思います。
十字架を背負い、神様の愛をきちんと伝える者となっていきます。
田辺高幸
2009-04-12 10:26:59
使役訓練が終わる。その時に、僕は使役訓練だけでなく、自分が受けた訓練を全て振り返ることはもちろん、何故自分がイエス・キリストを信じたかを考えた。その時に、浮かんだことは、前に弟子訓練が終わって皆で言った旅行の時に、皆さんにお話しした内容だった。今も変わっていないである。むしろそれが自分の信仰の源になって、神について着いて行っていることにつながっていることが分かったのである。
訓練では恵みの話をたくさんした。それは神様に感謝したことを皆さんに報告したかったからしたし、それは神が間違いなく存在することを証明するものにもなると思ったからした。しかし、そこで僕は欠けているものがあったと今になって気がついた。それは受けた恵みを、どう社会に反映させていくかということだった。どうも恵みの話ばかりになってくると、どうも自分のことだけで話が終わりがちだ。だけどそれは自分だけが与えられたものであって、これで終われば単なる自閉した世界に陥る。今生きるこの世界を見渡す。そうすると多くの人が苦しみを受けている現実がある。そんな中で、自分は恵みを頂いたけれど、多くの人に対して受けた恵みを配る努力を自分はしていなかったと思う。だからそんな自閉した恵みだけの話で終わってしまっていた。聖書を開けば、例えば、主はパンを4000人に分け与えたこと、サマリア人に対して多くのユダヤ人が差別する中で、そうはせずむしろ何の差別もしないで付き合ったこと、多くの病に苦しみ人を癒したことが書かれている。何度も読んでいるにも関わらずその精神を引き継がないでノコノコと自分は毎日を過ごしていた。だからこの辺について非常に反省をしている。自分が見た十字架を忘れていた。神が何故このような形で十字架を見せたのか、それに対しての返答を僕はしなかった。だからこれからはしっかりそのことを胸に秘めて行動を起こして行きたいと思う。
あるテレビを見た。大分昔だったけど非常に感動を覚えた。関西地区のある地域の話だった。貧しい老人が多く住み、その方たちは保険料が払えない状況になっているという。保険料が払えなければ病院にいっても10割本人負担になってしまい、高いお金を払わなくてはならなくなる。病院に行けない状況になってしまう。そんな中で、保険料を払ってなくても普通のお金で行けるようにしている病院があった。正式な病院名は忘れてしまったが、そこにはキリストという言葉があったのだけは覚えている。つまりキリスト教の団体が運営する病院である。そこにまた僕は十字架を見た。最初に僕がキリスト教の素晴らしさをまた見させて頂いたのである。日本は数では少ないかも知れないが確実に十字架は立てられているのだ。これがドンドン増えていけばいいと思う。そのためにキリストの精神で社会に暮らして、そこから少しでもいいから広げていこうと思う。何も大きなことから始めなくてもいいと思う。こうして自然に日本に十字架が立てられていけばいいなと思う。出来ることから広めたいと思う。
古郡武志
2009-04-15 11:21:25
幼い頃、夏休みになるとよくNHKで中継される「夏の全国高校野球大会」を見ていた。
試合に勝った方は、チームメンバーが一列に整列して、高らかに校歌を斉唱するのに対し、試合に負けた方は、身をかがめて甲子園(会場となっている球場)の土を集めるのである。もちろん、土を集める彼らとて、みじめな思いにとらわれているわけではない。
再びここに来て、今度は勝利の喜びを味わう。土を持って帰ってみながら、その思いを新たにする。そんな考えもあるのである。
しかし、高らかに校歌を歌うチームと身をかがめて土を集めるチームは比べるべくもない。勝利の栄光を味わうチームと背中に敗北の哀愁がただようチーム…
冒頭の聖書の一節を読みながら、僕の脳裏には、高校野球の試合後の場面が浮んでいたのである。
私は、これから勝利をするものだと思っていた。しかし、それは間違いであったのである。つまり、私は、イエス様の死によってすでに勝利をしていたのだった。
私は、勝利の栄光を一刻も早く欲しいと思っていたが、神様の恵みはそんなものではなかった。実はもはや勝利の栄光を手中にしていたのである。
勝利者は勝利者らしく堂々と振舞わなければならない。
あの球児たちが高らかに校歌を歌うように、私も福音を高らかに述べ伝えないといけない。世間に背をむけて、身をかがめていなかっただろうか?
苦難週間を振りかえってみると、まるで敗北者のように過ごしてしまったことが悔やまれる。
映画「パッション」を見たときにあまりの残酷な描写に目をそむけながらも人類救済のために血を流され、死なれたその姿に感動をしたのであるが、それは偉い人の物語に感動したに過ぎないのであった。
しかし、イエス様は人類救済のためではなく他ならぬ私のために死なれたのである。
私は、そのために罪に勝つことになった。だから、イエス様の十字架は試合での勝利を告げる球場の場内アナウンスのようなものである。
私は、このアナウンスを聞き逃していたかもしれない。しかし、聞き逃していようかい
まいが、「勝利者」であることに変わりはない。「勝利者」らしくいつでも胸を張って威風堂堂と人生を歩んでいきたい