誰が口のきけない者か?
マタイによる福音書9章:35-38節
1.誰が口のきけない者か?
D.Lムーディが私たちに骨身にしみることを言った。“それほど多くの神様の子どもたちが口のきけない者であるという事実は大変悲しいことだ。けれども、これは事実だ。両親たちは彼らの子どもたちが口のきけない者として生まれてくることは大きな災難と考える。両親はこの事実を大きな悲しみと感じる。しかしあなたは神様の子どもたちの中で口のきけない者が多いという事実を考えてみたことがあるだろうか?教会はこのような人々で満ちている。
彼らはキリストを証し出来ない。彼らは政治、スポーツ、芸術、旅行などのことについてはよく話をするけれど、神様の御子の話しについては口をきけない者だ。”やっぱり私自身は霊的に口のきけない者でないだろうか?此の点に関し、パウロは神様の御心をすがすがしくする人物である。
"私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。”(ローマの信徒への手紙1:16)
神様の前で自信を持って告白してみよう。
“○○○は福音を恥としない。福音は、韓国人をはじめ、日本人にも、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。"(ローマの信徒への手紙1:16)
神様は福音を誇らしく考える人を誇りに思われる。福音を恥ずかしく考えて言葉を出さないことはけっして神様の御心ではない。これは厳然としてサタンの高度な計略である。初代教会からずーっと伝道を妨害するサタンの圧迫が執拗に続いている。神様の御心は全然違う。神様は此の世を生かそうと願っていた。だから、生命の福音をすべての民に伝えることが神様の御心である、地の果てまでも、イエス様の証人になることが神様の願われることである。
最も健康な教会はどのような教会であろうか?イエス様の正しい証人になる教会である。
最も健康な聖徒はどのような聖徒であろうか?イエス様の正しい証人になる聖徒である。
最も大変に健康な人生はどのような人生であろうか?イエス様の正しい証人になる人生である。
教会も聖徒もイエス様の証人になるために存在している。
“しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それはあなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招きいれてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。”(ペトロの手紙Ⅰ 2:9)
教会が教会らしくなるためには伝道が生きなければならない。
イエス様がこの地上に来られた目的は福音を伝えるためであり(マルコによる福音書1:38)、パウロがそれほどまでにローマに行きたがった理由も生命の福音を伝えるためであった。ヨーロッパはパウロのおかげで繁栄し、先進国になった。
パウロを通して福音とキリスト教精神が先ずヨーロッパに入って行った為である。英語で聖書を翻訳した英国は海賊の国であったが、太陽が沈まない国に変わり、英国に留学した先覚者によって、日本やシンガポールなども立ち上がった。
福音は霊と肉の驚くべき神様の能力を持っている。神様はこの福音を私たちにお任せになられた。このことを私たちはミッションという。ミッションはつまり、使命である。使命を果たす人をmissionary(宣教士)という。信じるひとすべてが宣教士の使命を持っている。信仰の人であるならば、この仕事を決して、おろそかにしてはいけない。なぜならば、宣教(伝道)は神様が私に下さったミッションそのものであるからだ。使命をきちんと悟らなければならない。使命をろくに知らない人は使命を果たすことができない。伝道者の使命を回復しなければならない。初代教会の姿のように。
"彼等は毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア.イエスについて福音を告げ知らせていた。”(使徒言行録5:42)
神様は私たちを伝道者として立てられた。この世界の人々にイエス様を誇るものとして立てられた。"イエス様を信じますか?イエス様を信じればとってもとってもいいです。”
2.イエス様の心を持つことを願うか?
私たちが情熱的に福音を伝えるためにイエス様の心を持たなければならない。心が充満していなければならない。心の無い仕事は情熱も生じないばかりでなく、長く持続することが出来ない。イエス様の霊に対する愛はどうだったか?
イエス様は失った霊にすべての関心が集中しておられた。
イエス様はすべての都市と村をあまねく歩きながらすべての疾病と痛みを治され、天国の福音を宣布しながら、御言葉を教えて下さった。神様は民を愛しておられた。
イエス様は群衆を見られて、心からあわれまれた。この御言葉は、はらわたがよじれるような苦痛と痛みを感じたという意味である。大変に苦しまれたということである。なぜイエス様は群集を見てそれほどまでに苦しまれたのであろうか?
彼らが不治の病にかかっていたためであろうか?彼らが食べるものが無かったためであろうか?彼らの家族や職場に大きな問題が起こったためであろうか?違う、そのようなものよりももっと深刻な問題が生じたためである。それはなんだろうか?"また、群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。"(マタイによる福音書9:36)
牧者のいない羊は、死んだも同然である。これと同じに、イエス様のいない人生は死んだも同然の人生といえる。簡単に言えば、霊的に死の方向に向かっていく群衆を御覧になってこのように苦しまれたということである。これをよく理解できないなら、幼い学生を乗せていた運転手が運転中に死んでしまったら、学生たちの運命はどうなるだろうか?
万一、そのバスの中に私の家族が乗っているとして、そのバスが運転手を失ったまま下り坂を突っ走って行ったら、その時のあなたの心情はどうだろうか?
これがまさに信じない人を見るイエス様の心情である。イエス様は大変苦しまれた。どのようにしてでも、出来ることなら、彼らを救ってあげたい心情である。イエス様は救ってあげる人が余りにもいないことを嘆き、神様に収穫する働き手を送ってくださるように祈りなさいと言われたのである。
霊魂を愛しておられるイエス様のみ心が非常によく現れている。
"収穫は多いが、働き手が少ない"(マタイによる福音書9:37)
神様が今日本を御覧になられて言われたようである。99%以上が牧者のいない羊たちであり、ひょっとすると世界で最高に収穫の多い国であるかもしれない。しかし、収穫の働き手は世界で最も少ない国の中の一つである。
神様は今でも人を呼んでおられる。”誰か収穫しようと行くものはいないか?”
“神様私が行きます。神様私がします。私を送ってください。”他人に任せてはならない。どんな言い訳も言ってはならない。伝道を出来なくさせる言い訳は100%サタンが与えるいいわけであることを心に留めておこう。神様の心を抱き、鎌を持ってすぐ収穫の畑に出よう!そして多くの人々が収穫の働き手になるように神様にお祈りしよう。
"神様!収穫の畑に働き手を送ってください。日本の収穫の畑に多くの働き手を送ってください。働き手が足りないです”イエス様の弟子であれば、霊に対する愛ではらわたがよじれるほどの苦しみや福音に対する熱い熱情を持たなければならない。それだけでなく、救いの尊こ具として、能力のある収穫の働き手として認められるだろう。弟子がつまり収穫の働き手である。永遠の生命という果実を収穫する恵みを受けた収穫の働き手のことである。
3.神様を喜ばせたいか?
神様はどのようなことで喜ばれるだろうか?イエス様は失ってしまった羊一匹を探すたとえを通して神様の喜びを次のようにお話なさっている。
"言っておくがこのように悔い改める一人の罪びとについては、悔い改める必要の無い99人の正しい人についてよりも大きな喜びがある。"(ルカによる福音書15:7)そして、放蕩息子のたとえを通して、放蕩息子が帰ってきたとき、父親は、兄がねたみ、試練にあうほど、放蕩息子が帰ってきたことをうれしがり、喜び、祝宴を催したといわれる。神様は失った霊が帰ってくることが最高に喜ばれる。神様を喜ばせたいか?簡単だ。伝道しなさい。神様を離れた霊が神様のもとに帰るようにしなさい。イエス様を知らない霊たちにイエス様を知らせなさい。そのたびごとに、天国ではあなたために祝宴が始まるだろう。
"あなた方が自分では労苦しなかったものを刈入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りに預かっている。”(ヨハネによる福音書4:38)他の事は労苦して収穫をさせるものであるが、伝道だけは違う。私達が収穫さえすればそれでよい。だから伝道は簡単なことである。苦労をせず、よく育った果実を収穫すればそれでよいのであるが、これよりも簡単な仕事が、恵まれた事が他にあるのだろうか?
伝道する人は本当に知恵のあるひとである。
伝道する人の本当の福を取り逃がすことのないように祝福する。
サタンの誘惑によって話せなくなった口を祭壇の御言葉の火で必ず治療しなさい。
完治させなさい。そして4月の伝道大会で先頭に立つ、知恵のある弟子になってみよう。
マタイによる福音書9章:35-38節
1.誰が口のきけない者か?
D.Lムーディが私たちに骨身にしみることを言った。“それほど多くの神様の子どもたちが口のきけない者であるという事実は大変悲しいことだ。けれども、これは事実だ。両親たちは彼らの子どもたちが口のきけない者として生まれてくることは大きな災難と考える。両親はこの事実を大きな悲しみと感じる。しかしあなたは神様の子どもたちの中で口のきけない者が多いという事実を考えてみたことがあるだろうか?教会はこのような人々で満ちている。
彼らはキリストを証し出来ない。彼らは政治、スポーツ、芸術、旅行などのことについてはよく話をするけれど、神様の御子の話しについては口をきけない者だ。”やっぱり私自身は霊的に口のきけない者でないだろうか?此の点に関し、パウロは神様の御心をすがすがしくする人物である。
"私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。”(ローマの信徒への手紙1:16)
神様の前で自信を持って告白してみよう。
“○○○は福音を恥としない。福音は、韓国人をはじめ、日本人にも、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。"(ローマの信徒への手紙1:16)
神様は福音を誇らしく考える人を誇りに思われる。福音を恥ずかしく考えて言葉を出さないことはけっして神様の御心ではない。これは厳然としてサタンの高度な計略である。初代教会からずーっと伝道を妨害するサタンの圧迫が執拗に続いている。神様の御心は全然違う。神様は此の世を生かそうと願っていた。だから、生命の福音をすべての民に伝えることが神様の御心である、地の果てまでも、イエス様の証人になることが神様の願われることである。
最も健康な教会はどのような教会であろうか?イエス様の正しい証人になる教会である。
最も健康な聖徒はどのような聖徒であろうか?イエス様の正しい証人になる聖徒である。
最も大変に健康な人生はどのような人生であろうか?イエス様の正しい証人になる人生である。
教会も聖徒もイエス様の証人になるために存在している。
“しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それはあなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招きいれてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。”(ペトロの手紙Ⅰ 2:9)
教会が教会らしくなるためには伝道が生きなければならない。
イエス様がこの地上に来られた目的は福音を伝えるためであり(マルコによる福音書1:38)、パウロがそれほどまでにローマに行きたがった理由も生命の福音を伝えるためであった。ヨーロッパはパウロのおかげで繁栄し、先進国になった。
パウロを通して福音とキリスト教精神が先ずヨーロッパに入って行った為である。英語で聖書を翻訳した英国は海賊の国であったが、太陽が沈まない国に変わり、英国に留学した先覚者によって、日本やシンガポールなども立ち上がった。
福音は霊と肉の驚くべき神様の能力を持っている。神様はこの福音を私たちにお任せになられた。このことを私たちはミッションという。ミッションはつまり、使命である。使命を果たす人をmissionary(宣教士)という。信じるひとすべてが宣教士の使命を持っている。信仰の人であるならば、この仕事を決して、おろそかにしてはいけない。なぜならば、宣教(伝道)は神様が私に下さったミッションそのものであるからだ。使命をきちんと悟らなければならない。使命をろくに知らない人は使命を果たすことができない。伝道者の使命を回復しなければならない。初代教会の姿のように。
"彼等は毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア.イエスについて福音を告げ知らせていた。”(使徒言行録5:42)
神様は私たちを伝道者として立てられた。この世界の人々にイエス様を誇るものとして立てられた。"イエス様を信じますか?イエス様を信じればとってもとってもいいです。”
2.イエス様の心を持つことを願うか?
私たちが情熱的に福音を伝えるためにイエス様の心を持たなければならない。心が充満していなければならない。心の無い仕事は情熱も生じないばかりでなく、長く持続することが出来ない。イエス様の霊に対する愛はどうだったか?
イエス様は失った霊にすべての関心が集中しておられた。
イエス様はすべての都市と村をあまねく歩きながらすべての疾病と痛みを治され、天国の福音を宣布しながら、御言葉を教えて下さった。神様は民を愛しておられた。
イエス様は群衆を見られて、心からあわれまれた。この御言葉は、はらわたがよじれるような苦痛と痛みを感じたという意味である。大変に苦しまれたということである。なぜイエス様は群集を見てそれほどまでに苦しまれたのであろうか?
彼らが不治の病にかかっていたためであろうか?彼らが食べるものが無かったためであろうか?彼らの家族や職場に大きな問題が起こったためであろうか?違う、そのようなものよりももっと深刻な問題が生じたためである。それはなんだろうか?"また、群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。"(マタイによる福音書9:36)
牧者のいない羊は、死んだも同然である。これと同じに、イエス様のいない人生は死んだも同然の人生といえる。簡単に言えば、霊的に死の方向に向かっていく群衆を御覧になってこのように苦しまれたということである。これをよく理解できないなら、幼い学生を乗せていた運転手が運転中に死んでしまったら、学生たちの運命はどうなるだろうか?
万一、そのバスの中に私の家族が乗っているとして、そのバスが運転手を失ったまま下り坂を突っ走って行ったら、その時のあなたの心情はどうだろうか?
これがまさに信じない人を見るイエス様の心情である。イエス様は大変苦しまれた。どのようにしてでも、出来ることなら、彼らを救ってあげたい心情である。イエス様は救ってあげる人が余りにもいないことを嘆き、神様に収穫する働き手を送ってくださるように祈りなさいと言われたのである。
霊魂を愛しておられるイエス様のみ心が非常によく現れている。
"収穫は多いが、働き手が少ない"(マタイによる福音書9:37)
神様が今日本を御覧になられて言われたようである。99%以上が牧者のいない羊たちであり、ひょっとすると世界で最高に収穫の多い国であるかもしれない。しかし、収穫の働き手は世界で最も少ない国の中の一つである。
神様は今でも人を呼んでおられる。”誰か収穫しようと行くものはいないか?”
“神様私が行きます。神様私がします。私を送ってください。”他人に任せてはならない。どんな言い訳も言ってはならない。伝道を出来なくさせる言い訳は100%サタンが与えるいいわけであることを心に留めておこう。神様の心を抱き、鎌を持ってすぐ収穫の畑に出よう!そして多くの人々が収穫の働き手になるように神様にお祈りしよう。
"神様!収穫の畑に働き手を送ってください。日本の収穫の畑に多くの働き手を送ってください。働き手が足りないです”イエス様の弟子であれば、霊に対する愛ではらわたがよじれるほどの苦しみや福音に対する熱い熱情を持たなければならない。それだけでなく、救いの尊こ具として、能力のある収穫の働き手として認められるだろう。弟子がつまり収穫の働き手である。永遠の生命という果実を収穫する恵みを受けた収穫の働き手のことである。
3.神様を喜ばせたいか?
神様はどのようなことで喜ばれるだろうか?イエス様は失ってしまった羊一匹を探すたとえを通して神様の喜びを次のようにお話なさっている。
"言っておくがこのように悔い改める一人の罪びとについては、悔い改める必要の無い99人の正しい人についてよりも大きな喜びがある。"(ルカによる福音書15:7)そして、放蕩息子のたとえを通して、放蕩息子が帰ってきたとき、父親は、兄がねたみ、試練にあうほど、放蕩息子が帰ってきたことをうれしがり、喜び、祝宴を催したといわれる。神様は失った霊が帰ってくることが最高に喜ばれる。神様を喜ばせたいか?簡単だ。伝道しなさい。神様を離れた霊が神様のもとに帰るようにしなさい。イエス様を知らない霊たちにイエス様を知らせなさい。そのたびごとに、天国ではあなたために祝宴が始まるだろう。
"あなた方が自分では労苦しなかったものを刈入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りに預かっている。”(ヨハネによる福音書4:38)他の事は労苦して収穫をさせるものであるが、伝道だけは違う。私達が収穫さえすればそれでよい。だから伝道は簡単なことである。苦労をせず、よく育った果実を収穫すればそれでよいのであるが、これよりも簡単な仕事が、恵まれた事が他にあるのだろうか?
伝道する人は本当に知恵のあるひとである。
伝道する人の本当の福を取り逃がすことのないように祝福する。
サタンの誘惑によって話せなくなった口を祭壇の御言葉の火で必ず治療しなさい。
完治させなさい。そして4月の伝道大会で先頭に立つ、知恵のある弟子になってみよう。
リスト
Status | 番号 | タイトル | 投稿者 | 日付 | 閲覧数 |
---|---|---|---|---|---|
310 |
부활과 전도17 |
2009-04-13 | 529 | ||
309 |
十字架と伝道4 |
2009-04-11 | 308 | ||
308 |
십자가와 전도18 |
2009-04-06 | 560 | ||
307 |
誰が口のきけない者か?4 |
2009-04-03 | 347 | ||
306 |
누가 벙어리인가?16 |
2009-03-30 | 506 | ||
305 |
肯定と勤勉4 |
2009-03-26 | 307 | ||
304 |
긍정과 근면15 |
2009-03-23 | 498 | ||
303 |
信仰と肯定3 |
2009-03-21 | 319 | ||
302 |
믿음과 긍정15 |
2009-03-16 | 603 | ||
301 |
「満たすこと」3 |
2009-03-13 | 324 | ||
300 |
채움17 |
2009-03-09 | 624 | ||
299 |
空けることと満たすこと4 |
2009-03-04 | 366 | ||
298 |
비움과 채움16 |
2009-03-02 | 1177 | ||
297 |
感謝を忘れていないか?2 |
2009-03-01 | 346 | ||
296 |
감사를 잊지는 않았는가?21 |
2009-02-23 | 1301 | ||
295 |
私が聞いて、私が見た3 |
2009-02-19 | 384 | ||
294 |
내가 들었고 내가 보았노라16 |
2009-02-16 | 714 | ||
293 |
誰を捜し求めるか?4 |
2009-02-13 | 365 | ||
292 |
누구를 찾을 것인가?19 |
2009-02-09 | 675 | ||
291 |
ダビデと聖殿4 |
2009-02-07 | 382 |
4 コメント
이용규목사
2009-04-03 18:56:27
늘 감사합니다.
中森千草
2009-04-04 06:22:35
そして、生きているのは使命を果たすため!
世間の目を恐れ萎縮していた私に、神様は伝道のすばらしさを教えてくださいました。
何よりも伝道はやりがいのある仕事であり、どのような喩えで話せばいいのか分かりませんが、感動が体に押し寄せる感覚を味わいました。
方法は千差万別である。
神様が与えてくださっている賜物をそのまま活かした方法が、行いやすいと思います。
私は、神様をありったけの表現で自慢するこの瞬間が、1番生きがいを感じます。
神様の救いによって私はクリスチャンとなり、そして最高の任務を与えられていることを、ちょっぴり自慢したいです。
古郡武志
2009-04-05 15:48:23
電車で通勤をしていると「人身事故」によって鉄道のダイヤが乱れる場面によく遭遇する。
「人身事故」とは、おおよそ走ってくる鉄道に身を投げて自らの命を絶つ行為である。
痛ましい話しだか、慣れっこになっているのかもしれない。
よく迷惑そうに、「死ぬのだったら、もう少し人に迷惑をかけないやり方で死ねばいいのに」
などと語る人もいるが、そういう考えに慣れっこになってしまっているのかもしれない。
この自らの命を絶たざるを得ないという事情には、第三者には想像を絶するものがあるのだろう。すべての人に裏切られ続け、一切人間などを信じられなくなったとか…とんでもない額の負債を背負い、人に迷惑をかけて自責の念にかられたとか・・・
人間に裏切られ続けても、どんな過ちを起こしてしまったとしても、自分が神様によって生命を与えられた大切な存在であり、人が裏切ろうと過ちを犯そうとも神から愛される存在であることを認識できれば、生きる希望が湧き出てくるのではないか。
「あなたは、愛されるため生まれた人。あなたの生涯は愛で満ちている。」という歌詞の一節でわかるように…
自殺者が多いというニュースは教会に通うようになってから、気になっているニュースである。
もちろん日本は、世界の中では豊かな国に属する方であるが、福音を受け入れている人が1%にも満たないという数字が示す以上に、日本人の心の闇は、広くかつ深く、絶望的といえるかもしれない。
この心の闇に光をもたらすことのできる方はイエス・キリストしかいない。
本当に日本は収穫の多い国なのだと思う。
ただ、私は、世間の目を恐れて、「口のきけない者」になってしまっているのかもしれない。
私は、愛する祖国「日本」を本当に深く憐れんでいただろうか?
イエス様の心を忘れずに、生きる希望の灯をともせるように伝道をしていきたいと思う。
田辺高幸
2009-04-08 09:42:38
僕は身体障害者の人たちと3カ月ほど仕事をしたことがある。ほとんどが足の不自由な方だったけれど、中には口がよく回らない人がいた。彼らは大変な思いをして話を伝えようとしていた。そんなそういう環境に僕はいた。そんななかで、僕は非常に大切なものをもらった。彼らを通して口ではない伝導を受けたのである。
この言葉を聞くと疑問に思う人もいるだろう。伝導は口で伝えるものだと考える人にはそう思うだろう。しかし、僕はそんな人が味わえないだろうそれを確実に受けたのである。
この会社は身体障害者のためにキリスト教の団体が設立した会社だった。主が今から2000年以上も前に、主は多くの人たちの癒しの活動を行っていた。その精神は確実に今も引き継がれていた。そしてそれが実践された形としてこの会社は生まれたと僕の目に見えた。その中で働く人々は、自分の与えられた能力を思い切り使って働いていた。もしこの不自由さが神の与えたものならば、彼らはそれを受け入れ必死に働いていたということになる。そんな彼らに神様は癒しを与える形で働く場所を作り、そしてそこで働く人は自然にそれを受け入れ、自分の与えられた能力で必死に働いていた。そんな神様と働く人たちのその関係は、僕にとってどんな伝導カードよりも説得力に満ちていたものだった。
つまり口が聞けないとか関係なく、そのキリストの精神が生んだ活動が僕を動かしたのである。だから僕は思う。活動こそが人の心を動かしキリストへ近づけるのだと思う。パウロがそうだった。彼は伝導の旅をたくさんした。ただ話して信徒を増やしたのではないだろう。キリストの精神を実践することで彼は多くの国にキリスト教を伝導したのだと思う。口が聞けないことを問題にするより、根本的な部分、つまりキリストの精神を持って生きて行けないから出来ないことを問題にすべきだろう。これは自分が最も反省しなくてはならないことだから、なおさらそう思うのだ。
伝導大会。でもこれは毎日がそうである。その時に、自分がどのようにして伝導されたのかを思い出し、行わないといけない。口で言っても信じない人は多い。だけど、キリストの精神で接し、その後に伝導カードを渡したら、人は「これがキリスト教なのか?」と関心を持ってくれるかも知れない。口でない伝導を受けた人間として僕はそう思うのだ。これは小さいことで構わないと思う。道に迷った人に親切に場所を教える、電車の中でお年寄りに席を譲る、悩む人の話を全て聞くなど、そんなことでもいいと思う。そしてそこから伝導を始める。「私が頂いたキリストの精神があるからそうしただけです」。そんな一言でいいのではないかと思う。地味な活動だけどそうして行きたい。何故ならば、僕がそう導かれたからである。