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중앙영광교회

信仰と肯定

이용규목사, 2009-03-21 18:12:43

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信仰と肯定
ローマ人への手紙4章17~21節

1、アブラハムはどんな人か?
 まずはじめにローマ人への手紙4章17節から21節までゆっくり精読してみよう。各節ごとに流れているアブラハムの姿がある。それは信仰の強力なエネルギーだ。アブラハムは信仰の父である。彼は信仰に生き、信仰の人生を送った人だ。彼の絶対的信仰の前では100歳の年も膝を屈するのだった。
アブラハムの信じる神と私が信じる神の差異は何か?人生の差異は信仰の差から来る。神は誰にでも時代を超越して同一の方であるが、その人の信仰の門が大きければ大きいほどその人に入って来られる。アブラハムが信じていた神様を私が信じる神と比較してみよう。アブラハムが信じていた神様は死んだ人を生き返らせる神であられる。人を死なせることも出来、生かすことも出来る生命の主人であられた神様である。そしてアブラハムが信じていた神様は存在していないものを呼び出して存在させる神であられた。万物を有るようにすることが出来るし、無くもすることが出来る万物の主人であられる神様である。
万一私が信じる神様がこのような神様であれば疾病が,死が、貧しさがなぜ怖いか?すべてが神様の手の中にあるではないか?だからアブラハムの生き方の態度は超人間的な肯定の姿であった。アブラハムは自分の体が100歳になり死んだようなものだったが、そして希望は完全に消えた状態であったが、神は必ず息子を下さるという確信を持っていた。アブラハムは環境が与える不可能を不可能と見ず、絶対可能だと信じていた。なぜか、神様のためだ。彼にとって信仰は不可能を可能にする能力であった。彼は神様を信じる信仰によりこの世において超肯定の人生を歩んだ。信仰はまさに人生の中では絶対肯定の姿であらわれる。信仰が神様との関係を意味するとすれば、肯定は世の中との関係で具体的にあらわれる姿である。信仰の人は、世の中で超肯定、絶対肯定の人生を歩むようになる。信仰の父アブラハムのようにである。我々は神様、イエス様、聖霊様のために超肯定的な生き方をするしかない。この方が真に我々と共におられることを知っているならば絶対肯定の生き方をしないということがかえっておかしい。環境は今、この瞬間も我々を誘惑している。
状況がそうなのだから否定的な人になるのも当然だと絶対にだまされないようにしなければならない。
信仰の人であればあるほど肯定的な生き方をする。「肯定的な人は信仰の人だ」という命題は真では無いが、「信仰の人は万事に肯定的な人だ」は真である。そうであれば、「否定的な人は信仰のない人だ」も真である。(命題が真であれば、その対偶も真のため)信仰の人と否定的な態度は似つかわしくない。信仰があるか?その信仰は何で証明できるか?アブラハムのように肯定的な生き方の姿であなたの信仰を世の中に証明しなさい。神様はあなたの証人になって下さるであろう。アブラハムの神様はまさにあなたの神様であられるから。

2、信仰の人の5つの絶対肯定
 そうであれば信仰の人はどのような超肯定、絶対肯定の姿を回復しなければならないであろうか?聖書を通して肯定の具体的な姿を調べてみよう。この五つの肯定をいつも黙想しながら適用すれば、卓越した効果をあげるだけでなく、生き方が驚くほど肯定的に変わるだろう。
1)能力絶対肯定
神様の能力に対して絶対肯定の考えを持たなくてはならない。“イエスは言われた。「できれば」と言うか。信じるものには何でもできる」”(マルコによる福音書9:22)
父親が鬼神に取り付かれた息子をイエス様に連れてきた。彼はイエス様にこのようなことをお願いした。"霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。「おできになるなら」、わたしどもを憐れんでお助けください。"(マタイによる福音書9:22)このときイエス様はこの父親を非常に怒られた。"「できれば」と言うか。""出来るならば"という表現は人々の間では至極当然の言葉だが、神様には絶対ふさわしくない表現だ。それでイエス様は怒られたのだろう。神様は全能な方だ。神様に不可能なことはない。だから"できるなら"という表現は神様に大変失礼な表現だ。仮定法は絶対肯定の世界にはあり得ない.仮定法は巧妙な否定の表現にすぎない。神様に対する表現を換えなければならない。”出来ればではなく、必ず出来る”と換えなければならない。神様は何でもお出来になる。全能の方でおられる。神様に対してこのような生き方の態度、絶対肯定の態度が回復されなければならない。これがまことの信仰の回復だ。マタイによる福音書9:27~29で盲人2人がイエス様の後ろについて来ながら大声を出していた。彼らは家の中にまでイエス様について入ってきた。そのときイエス様は彼らに尋ねた。"わたしにできると信じるのか"(マタイによる福音書9:28)
イエス様は治してくださる前にまずこの質問をなさる。我々の信仰がこの質問にどのように答えるのか?イエス様は出来るという人にのみ働かれる。成し遂げられると思う人には成し遂げられ、成し遂げられないと思う人には成し遂げられれない。神様に対して絶対肯定の心を持たねばならない。信仰は神様に超肯定の心を持つことである。
「我々は出来ないけれど神様は出来る。」 
「私が出来ないのに神様も出来ない」という心は捨てなければならない。
神様を自分と同じ水準に置くことは神様に対する最高の冒涜だ。神様に絶対肯定の信仰を持つことが最高の信仰だ。アブラハムが100歳の不可能の中にいても神様に肯定の心を失わずにいたではないか?
2)自分の絶対肯定
 自身を否定的に見る人は何事も成し遂げることができない。たとえ、自分の弱点があっても、神様ゆえに絶対肯定の心を持たなくてはいけない。自分にいつも自信をもって話さなければならない。「あなたはできる。あなたはすごい人だ。あなたは神様の傑作だ。あなたは王の系統を引く祭司長だ」 
 少し歪んだ器だとしても、私の中には天の宝が入っているので、私は最高に貴重な存在だ。自分に対する超肯定の心の持ちようはこの世の何よりも貴重な宝ものであり、世の中に勝つことのできる能力だ。ダビデがゴリアテの前で勝利したのもこのためでありヨシュアとカレブがカナンの巨人たちに勝てると思ったのもこの能力のためであった。私たちは神様ゆえに必ずできる人だ、絶対に滅びない。「できると言われた方は、私の力である神様」であるからだ。他人や環境が私を悲惨にするのではない。私自身に対する私の否定的な考えが私を破壊するに過ぎない。
3)環境の絶対肯定
自分が身を置いている環境を悲観しないようにしなければならない。
人生を生きていれば、落胆し、ため息が出て、絶望的な状況に遭遇することもある。しかし、そのとき、信仰の人は環境の奴隷として引きずられてはいけない。
パウロは環境に対する絶対的肯定をこのように宣布した。
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピの信徒への手紙4:13)
このみ言葉は信じる人が超能力の所有者という言葉ではない。どのように難しい環境の中でもよく勝利することが出来る、環境に対して超肯定の信仰が現れている。パウロはどんな悲惨な状況でも、どのような貧しい状態でも満足し、良く適応することができる秘法を信仰の中に発見した。それはまさに環境に対する絶対肯定の姿勢だ。
"神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように
共に働くということをわたしたちは知っています。" (ローマの信徒への手紙8:28)
環境も結局神の選ばれた材料に過ぎない。信じる人は環境が与える絶対否定に信仰が与える絶対肯定で勝利する人である。信仰で環境が与える否定を征服する姿はまさに環境絶対肯定の姿である。
4)祈りの絶対肯定
 信仰の人にとって祈りに対する絶対肯定の姿勢は捨てることの出来ない祝福である。だからイエス様はこれについて直接強くおっしゃられている。
"だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。"(マルコによる福音書11:24)
そうすれば、山も動かすことのできる能力が現れるとおっしゃった。祈りに対して絶対肯定がどんなに重要かをよく表現されている。そしてマタイによる福音書では、"信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。(マタイによる福音書21:22) "といっておられる。信仰の人は祈りの中に強い肯定、絶対肯定が生きている。
5)御言葉絶対肯定
 "というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るからです。" (ヘブライ人への手紙4:12)
そのように、わたしの口から出る私の言葉もむなしくは、わたしの元に戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書55:11)
御言葉の能力、御言葉の成就を信じなければならない。そのために御言葉に対して疑いを捨て絶対肯定の心を持たなければならない。これに対してアブラハムは馬鹿みたいに徹底していた。彼は100歳になって自分の体が死んでいるようなものであることを知りながらも、神様が約束したことを実現させる方だと確信されたのです。(ローマの信徒への手紙4:21)
アブラハムは神の御言葉に対して絶対肯定の姿勢を失うことがなかった。どのような不可能な環境の中でさえも彼は御言葉を否定することはなかった。神様の御業は、その人の肯定の態度に比例する。神様は肯定の人を通して御働きになられる。否定的な人々はサタンの道具として使われやすい。否定的な考えはサタンが与える誘惑で、肯定的な考えは神様が下さる能力である。超肯定の人生を生きる人々は超能力の幸福を必ず見い出す。

3 コメント

中森千草

2009-03-21 22:10:59

”神様だからおできになる”
この思いによってとても心が強くなり、生きる力となっています。
祈るとき、環境に対して、すべての生活において、この思いは私にとって絶対必要である。
その結果、数々の証しが生まれました。
御言葉を素直に受けいれられるように、神様は働かれました。
私が聖書を手にした時点で、肯定の姿勢を与えてくださったことに深く感謝しています。

田辺高幸

2009-03-21 22:20:32

アブラハムの信じる神と、我々が信じる神は同一である。万物創世の神であり、全てを作り、その逆に無くすこともできる。ならば、何故、我々は不安にかられるのか。ここにアブラハムと我々の信仰の度合いの違いがある。アブラハムは信仰の父と言われる。全てを神に委ねていた人だ。神様の御業に確信を持っていた。神様に不可能など無い。だから揺るぐことなく神様に従ったのである。この態度に神に信仰を持つ者は、学ぶことは余りに多い。
アブラハムは神様の言われたことに対して肯定的だった。半端ななく肯定的だった。例えば、イサクの誕生の話がある。普通なら100歳で子供が出来るなんて(奥様のサラは90歳を超えていたのだから)、信じない。だけど彼は信じた。神様の御業に肯定的だった。だからこそ、彼は子供を授けられたのである。
我々は、万物創世の天の父、その御子である主、そして主が我々にお与えになられた聖霊の三位一体の神を信じる者である。この存在にこそ肯定の力を持つべきである。不安にかられることもあるが、だからこそこの神を信じないといけない。その時の先生となるのが、アブラハムだろう。揺るぎない神への肯定的な姿を見て学ばないといけない。それで前に進んで歩けば恵みは与えられる。
神様への肯定と同時に、ここでは自分の肯定、環境の肯定、祈りの肯定、御言葉の肯定も必要だろう。これらがあって信仰の人となれる。アブラハムはそんな人であった。
信仰の父であるアブラハムに学んでいこうと思う。

古郡武志

2009-03-22 10:26:35

今回の説教を聴きながら思いだす言葉があった。それは「なんくるないさー」と「ケセラセラ」という言葉である。
「なんくるないさー」は沖縄の方言で「なんとかなるさ」という意味であり、「ケセラセラ」はスペイン語で「なるようになる」という意味であるらしい。
これらの言葉は私の好きな言葉である。楽天的な思考を表す言葉であり、また人間が環境のことにくよくよ思い悩んだってしょうがないとの人間の力の限界を悟っている言葉のようでもあるからだ。
しかし、これは、悪い状況への対処法としては、人間の限界を悟り、じたばたするのをやめるという意味において、諦めの側面からのアプローチである。人間がくよくよ思い悩んでもしょうがない、そんな心持ちだけで本当に悪い状況に対応できるのだろうか?
「自分の力ではどうしようもない。」という思考方式でもある程度までは耐えることができよう。しかし、本当に絶望的ともいえる状況を乗り切るにはいまいち力強さやパワーが不足しているような気がするのである。「なぜなら、自分ではどうしようもできない」の後ろにつながる言葉がないからである。
100歳になったアブラハムが子の誕生を信じたのは、神は約束を実現する力をお持ちの方だと信じていたからであり、パウロが貧しい環境でも空腹であっても物が不足していても対処できたのは、自分を強くしてくれる神の力を信じていたからである。
諦念に支配された心よりも、神の力での確信に満ちた心の方が自信をもって難局に対処できるのだと思う。
「神を愛するものには、万事が益となるように共に働く。」
神様は、良いことも悪いと思えることも含め、全体として良い方向に働くようにはからって下さる。この苦難を通して、神様は私に何を学ばせようとしているのか?そう考えると自信をもって難局に臨めると思う。
この御言葉は、本当にありがたいと思い、よく短縮して「万事が益」と唱えている。

「自分ではどうしようもできない。でも神様にはおできになる」
 自分に対する諦念と神様に対する確信、この2つを両輪として、悪い環境にも勝利できるように頑張っていきたいと思う。

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