私が聞いて、私が見た
御言葉//列王記下 20: 3-5
1. 人生+祈り=恵みの川
ヒゼキヤ王の祈りは非常によく知っている祈りだ。
非常に力のある祈りだ。非常に答えが早い祈りだ。
ヒゼキヤ王が病んでた、死にそうになった。神様が直接イザヤ預予言者イザヤを通じて、ヒゼキヤ王の命がもう期限になったと言いながらに、家族に遺言を残しなさいと言った。
この時にヒゼスギヤは神様に一生懸命に祈った。するとイザヤが宮殿の中の庭を去る前に神様の驚くべき答えが来着た。神様が彼をまた回復させてくれると、しかも 15年のも命を延ばしてくださった。
祈りの答えが早かっただけでなく、15年間のボーナス人生までもらったから驚くべき祈りの奇跡に違いない。
それではどのようにうしてヒスギヤの祈りはこんなに力があっただろうか?
彼はヨハネによる福音書 15:7でイエス様が約束した祈りをそのまました人だった。
'あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。'(ヨハネによる福音書 15:7)
1) 人生
'あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば' (ヨハネによる福音書 15:7)
ヒスぜギヤの人生はこの御言葉の人生と似ていた。それで彼は神様に祈る時に、神様の前で自分の人生を告白したのだ。
'ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。'(列王記下20: 3) これが死の前で彼が神様に祈った内容の全部だ。
普段神様の前での生活の姿が、祈り答えの重要な前提条件だ。それで聖書は 'あなたがたが。。。…つながっており、…。。。いつもあるならば' (ヨハネによる福音書 15:7) と祈りの前に強く言っている。
ヒスギヤは '父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い'(列王記下18: 3) 彼が祈りの中で自分の人生を神様に言えたということは、彼が普段どの位よい生活をしたのかをよく表してくれる。
人生が前提になった祈りは驚くべき恩恵の奇跡を起こす。ヒゼスギヤがもう証明したし、イエス様がまた約束してくださった事実だ。(ヨハネによる福音書 15:7)
ヒゼスギヤは普段神様の前で 3種類の人生を生きた。
神様の前で真実の人生、神様の前で完全に順従順する人生、神様を喜ばせる人生(善良な事)を暮し送った。神様はこの人生を喜んだ。それで彼の祈りにボーナスまで与えながら祝福してくださった。
ある事が目の前に迫って来たときの突然の善良な人生ではなく、普段の善良な人生が重要だ。神様は私たちの人生を常に見ている。しばらくきらっとしてみせるしまう一夜漬けの人生より普段の人生が大事である。普段常に真実で、普段常に順従順して、普段常に神様の喜びになる人生がヒゼスギヤの人生だった。
2) 祈り
'望むものを何でも願いなさい。' (ヨハネによる福音書 15:7)
一番目の段階は人生で、二番目の段階は祈りである。祈りをしなければならない。
善良な人生、正しい人生も重要だが、答えの恩恵を受けるためには必ず祈らなければならない。祈らないのに答えなさられることはない。答えは祈りの結果だからだ。
'得られないのは、願い求めないからで、'(ヤコブの手紙 4:2)
イエス様も祈ることをすごく強調した。
'求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 '(マタイによる福音書 7:7)
いかに人生が正しくても、祈らない人には恵みがない。むしろ傲慢になりやすい。自分の力でつくそうと思うからだ。ある意味では神様の助けが必要ないと思う人だ。
自分が神様を助けるのではなく、神様の助けを慕うのが健全な信仰の人の姿だ。
'主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。'(詩篇 18:2)
ヒスゼギヤは、自分が王だったが、すべての体面を下ろして神様に助けてくださいと泣きながら祈った。それでまた命を得るようになったのだ。祈る人生は恵まれた人生だ。ひとりではなく、全能なる神様が一緒になさるからだ。一方に祈らない人生は大変な人生だ。一人で生きる人生だからだ。
'それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。' (詩篇 50:15)
2. 祈る者の心構え
1) 祈りに対する信仰
クリスチャンの神様に対する信仰、イエス様に対する信仰、聖霊様に対する信仰、御言葉に対する信仰はすごい。ところでしかし、祈りに対する信仰は意外に弱い場合が多い。
神様が果して私の祈りを聞いていらっしゃろうか?訳もなく時間の無駄使いしているのではないか?果して祈ると效果があるか?
それで聖書は祈りに対する信仰について強く言う。
'イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」'(マタイによる福音書 21:21-22)
'いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。' (ヤコブの手紙 1:6)
自分がする祈りに対する信仰を持たなければならない。それから信仰の祈りが出て、力の祈りが出る。
2) 3大代確信
神様は預予言者イザヤを通じて、ヒスゼギヤの祈りにこのように答えた。
'わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。'(列王記下20: 5)
私たちは祈る時、次のような 3つの確信を持たなければならない。
'神様が聞いている.'
'神様が見ている.'
'神様が直治してくださる.'
祈りをする詩篇時にこの 3種つの確信を持って意識して見なさい。
神様が今私の祈りを聞いていらっしゃる。
神様が今私の涙と祈る姿を見ている。
神様が今私の祈りに答えられる力と愛を持っていらっしゃる。
確かに祈りの質が変わるはずで、祈りの熱情が変わるでしょう。
神様は確かに私たちの祈りを聞いていらっしゃる。
'このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 '(マタイによる福音書 7:11)
神様は私たちの涙を見ているだけでなく、すべての都合をご存じである。
神様はジェエリコ城のザアカイも名前まであらかじめ分かって、いちじく桑の木に上がっていた彼を呼んだ。(ルカによる福音書19: 5)、ナタナエルに会う前に彼がいちじくの木の下にある時にもう彼を見ていらっしゃった。
神様は確かにおっしゃった。
'二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 '(マタイによる福音書 10:29-30)
神様は私たちよりもっと私たちをご存じるだ。親や家族、友達はわかってくれなくても、神様は私たちの都合が、私たちの痛みがすべて分かる。
神様は確かに答えを約束した。
'そうすればかなえられる。' (ヨハネによる福音書 15:7)
'求める者に良い物をくださるにちがいない。' (マタイによる福音書 7:11)
祈る度に必ず肝に銘じよう。
わたしの祈り、確かに神様が聞いていらっしゃる。神様が見ている。神様が答えてくださる。
そうするとまず祈りが変わるでしょう。そして人生が変わるでしょう。
祈りに対する信仰で信仰の祈りを起こして、
信仰の祈りで人生を復活させよう。
御言葉//列王記下 20: 3-5
1. 人生+祈り=恵みの川
ヒゼキヤ王の祈りは非常によく知っている祈りだ。
非常に力のある祈りだ。非常に答えが早い祈りだ。
ヒゼキヤ王が病んでた、死にそうになった。神様が直接イザヤ預予言者イザヤを通じて、ヒゼキヤ王の命がもう期限になったと言いながらに、家族に遺言を残しなさいと言った。
この時にヒゼスギヤは神様に一生懸命に祈った。するとイザヤが宮殿の中の庭を去る前に神様の驚くべき答えが来着た。神様が彼をまた回復させてくれると、しかも 15年のも命を延ばしてくださった。
祈りの答えが早かっただけでなく、15年間のボーナス人生までもらったから驚くべき祈りの奇跡に違いない。
それではどのようにうしてヒスギヤの祈りはこんなに力があっただろうか?
彼はヨハネによる福音書 15:7でイエス様が約束した祈りをそのまました人だった。
'あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。'(ヨハネによる福音書 15:7)
1) 人生
'あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば' (ヨハネによる福音書 15:7)
ヒスぜギヤの人生はこの御言葉の人生と似ていた。それで彼は神様に祈る時に、神様の前で自分の人生を告白したのだ。
'ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。'(列王記下20: 3) これが死の前で彼が神様に祈った内容の全部だ。
普段神様の前での生活の姿が、祈り答えの重要な前提条件だ。それで聖書は 'あなたがたが。。。…つながっており、…。。。いつもあるならば' (ヨハネによる福音書 15:7) と祈りの前に強く言っている。
ヒスギヤは '父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い'(列王記下18: 3) 彼が祈りの中で自分の人生を神様に言えたということは、彼が普段どの位よい生活をしたのかをよく表してくれる。
人生が前提になった祈りは驚くべき恩恵の奇跡を起こす。ヒゼスギヤがもう証明したし、イエス様がまた約束してくださった事実だ。(ヨハネによる福音書 15:7)
ヒゼスギヤは普段神様の前で 3種類の人生を生きた。
神様の前で真実の人生、神様の前で完全に順従順する人生、神様を喜ばせる人生(善良な事)を暮し送った。神様はこの人生を喜んだ。それで彼の祈りにボーナスまで与えながら祝福してくださった。
ある事が目の前に迫って来たときの突然の善良な人生ではなく、普段の善良な人生が重要だ。神様は私たちの人生を常に見ている。しばらくきらっとしてみせるしまう一夜漬けの人生より普段の人生が大事である。普段常に真実で、普段常に順従順して、普段常に神様の喜びになる人生がヒゼスギヤの人生だった。
2) 祈り
'望むものを何でも願いなさい。' (ヨハネによる福音書 15:7)
一番目の段階は人生で、二番目の段階は祈りである。祈りをしなければならない。
善良な人生、正しい人生も重要だが、答えの恩恵を受けるためには必ず祈らなければならない。祈らないのに答えなさられることはない。答えは祈りの結果だからだ。
'得られないのは、願い求めないからで、'(ヤコブの手紙 4:2)
イエス様も祈ることをすごく強調した。
'求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 '(マタイによる福音書 7:7)
いかに人生が正しくても、祈らない人には恵みがない。むしろ傲慢になりやすい。自分の力でつくそうと思うからだ。ある意味では神様の助けが必要ないと思う人だ。
自分が神様を助けるのではなく、神様の助けを慕うのが健全な信仰の人の姿だ。
'主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。'(詩篇 18:2)
ヒスゼギヤは、自分が王だったが、すべての体面を下ろして神様に助けてくださいと泣きながら祈った。それでまた命を得るようになったのだ。祈る人生は恵まれた人生だ。ひとりではなく、全能なる神様が一緒になさるからだ。一方に祈らない人生は大変な人生だ。一人で生きる人生だからだ。
'それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。' (詩篇 50:15)
2. 祈る者の心構え
1) 祈りに対する信仰
クリスチャンの神様に対する信仰、イエス様に対する信仰、聖霊様に対する信仰、御言葉に対する信仰はすごい。ところでしかし、祈りに対する信仰は意外に弱い場合が多い。
神様が果して私の祈りを聞いていらっしゃろうか?訳もなく時間の無駄使いしているのではないか?果して祈ると效果があるか?
それで聖書は祈りに対する信仰について強く言う。
'イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」'(マタイによる福音書 21:21-22)
'いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。' (ヤコブの手紙 1:6)
自分がする祈りに対する信仰を持たなければならない。それから信仰の祈りが出て、力の祈りが出る。
2) 3大代確信
神様は預予言者イザヤを通じて、ヒスゼギヤの祈りにこのように答えた。
'わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。'(列王記下20: 5)
私たちは祈る時、次のような 3つの確信を持たなければならない。
'神様が聞いている.'
'神様が見ている.'
'神様が直治してくださる.'
祈りをする詩篇時にこの 3種つの確信を持って意識して見なさい。
神様が今私の祈りを聞いていらっしゃる。
神様が今私の涙と祈る姿を見ている。
神様が今私の祈りに答えられる力と愛を持っていらっしゃる。
確かに祈りの質が変わるはずで、祈りの熱情が変わるでしょう。
神様は確かに私たちの祈りを聞いていらっしゃる。
'このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 '(マタイによる福音書 7:11)
神様は私たちの涙を見ているだけでなく、すべての都合をご存じである。
神様はジェエリコ城のザアカイも名前まであらかじめ分かって、いちじく桑の木に上がっていた彼を呼んだ。(ルカによる福音書19: 5)、ナタナエルに会う前に彼がいちじくの木の下にある時にもう彼を見ていらっしゃった。
神様は確かにおっしゃった。
'二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 '(マタイによる福音書 10:29-30)
神様は私たちよりもっと私たちをご存じるだ。親や家族、友達はわかってくれなくても、神様は私たちの都合が、私たちの痛みがすべて分かる。
神様は確かに答えを約束した。
'そうすればかなえられる。' (ヨハネによる福音書 15:7)
'求める者に良い物をくださるにちがいない。' (マタイによる福音書 7:11)
祈る度に必ず肝に銘じよう。
わたしの祈り、確かに神様が聞いていらっしゃる。神様が見ている。神様が答えてくださる。
そうするとまず祈りが変わるでしょう。そして人生が変わるでしょう。
祈りに対する信仰で信仰の祈りを起こして、
信仰の祈りで人生を復活させよう。
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3 コメント
中森千草
2009-02-20 05:49:45
壁におでこをつけて、聖書をもって、必死に祈っている姿を・・・・・
私は壁におでこをつけませんでしたが、確信をもって祈りました。
神様は祈りに応えてくださいました。
これから私が歩く道。
険しくなく、安全な道を神様が与えてくださいました。
恥ずかしい話ですが、私は主日のメッセージで、ヒゼキヤ王の祈りを知りました。
神様は必ず見て、聞いて、きちんと応えてくださるという確信をもって祈ることが、どれほど神様が望んでおられるのか、体験を通してよく分かりました。
ヒゼキヤ王の祈り、get!
そして、続けていきます。
田辺高幸
2009-02-21 18:55:18
それこそ奇跡だろう。浮き世の人間は奇跡をまるでマジックのようなことだと思う。だから変な悪徳新興宗教に捕まって騙される。僕から言わせれば、奇跡とはそんなもんじゃない。いかがわしい教祖の大魔術に比べれば、僕の周りに起きた奇跡は地味だ。だけどそれは自分にとっては大奇跡以外何物ではなかった。奇跡とはそういうものだ。
主は本当に凄い。ヨハネによる福音書15章7節にある「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたのうちにいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」。その言葉に嘘はなかった。今日題材に上がっているヒゼキヤ王のように聖書にも書かれる歴史上の人物だけでなく、自分のような小さな者にさえ、そのことを証明させたからだ。真剣な祈りは神様は真剣に叶えてくれるのだ。
このことは祈りを知らなければ実現しなかったことだった。これはハッキリ書ける。人生は祈りが基本なのだと思う。
祈りとは何だろうと考える。それは神様との会話である。だからここに信仰心がなければ祈りは出来ない。それを誰にするのか。それは天の父であり、主であり、聖霊様である。この三位一体の神様に会話することが祈りなのだと思う。それがなければファリサイ派のように、ただ形式化された意味のない祈りとなってしまう。
祈りは会話。だからこそ祈りをしよう。しかし、そこに御利益など求めない。ただ話しをするためにする。その中で真剣なことを叶えてくれればそれでいいと思っている。神社に行ってお賽銭投げて自分の願いを叶えて欲しいなどとする光景をたくさん見かけるが、それは叶えられない。真の神に祈る。それが僕らがやらなければないことだろう。それしか望みはないのだと思う。
古郡武志
2009-02-22 09:54:03
ヒゼキヤの死を目の前にした祈りの前提として、普段の良い人生があった。
普段の良い人生とは、祈り・礼拝・御言葉講読・伝道・献金・奉仕そういったことを何年・何十年と繰り返していく人生なのだろう。
「普段の良い人生」に対比される言葉が、「一夜漬けの人生」…
「一夜漬けの人生」うーん、耳に痛い言葉ですね。
学生時代の試験対策やレポート…会社の仕事も
一夜漬けを繰り返してきました。
残念ながら、このリップルもそうかもしれません。
世の中が手を抜いて、手っ取り早く成果を求める傾向が強まってきたからか…
私も残念ながら、そんな傾向と無縁ではいられません。
書店に行けば、手っ取り早く成果を求めるための書籍もゴロゴロしています。
「すぐ身につく英語」
「外国語なんて長い期間毎日こつこつとやらなくてはいけないのに何言ってるの」と鼻で笑いながらも手っ取り早く得られる成果にどこか心魅かれるものがある・・・
重厚な演技で知られる仲代達也という俳優がいるが、その人は「無名塾」という学校を作り、そこで舞台俳優の育成を行っている。
塾生には最初の三年間で俳優の基礎を徹底的にたたきこむというのだが、彼曰く、「①舞台の上を普通に歩く、②正しい日本語を話す の2点を教えるだけで3年は終わってしまう」という。そして、彼が心配しているのは、「効率が再優先の世の中で手っ取り早くテレビに出たいという若者が多い今、そんな3年にも渡る基礎訓練に耐えられる者がいるのか?」ということである。
たしかに、ヒゼキヤの祈りは想像を絶するほどあまりに早く応えられた祈りです。しかし、これを単純に「すぐ答えられた」とみるわけにはいきません。その祈りの力の背景には、彼が営々と繰り返してきた善い生活、神を喜ばせる生活があったのでしょう。
日頃見向きもせず、気にもかけていなかったのに、適えてほしいことがあるときだけ急に祈りだす…あまり、よい例えではありませんが、遺産相続のときに急にあらわれる親戚というのを思い出します。
祈りが応えられるタイミングも様々な事情によって異なるでしょう。
でも、しかし、祈るときはヒゼキヤと同じような台詞を用いることができるように・・・
粘り強く、くじけず、あきらめずに、善い生活を送りたいと思います。