神様だけに近く(2)
御言葉//ヨシュア23: 6-8
1。 母鷲
先週の一週間の生活を先ず振り返って見よう。
神様を近付けるためにあなたはどんな生活を送ったのか?他の時よりどう違う人生を送っ たのか?
恵まれ、能力のある人生を送ることを願うのか?大事なことを大事だと思って、小さなことを一つでも実践する人生を生きて行かなければならない。
近主者福、神様を近付ける年が幸福をもらう年だ。神様との距離をなくして行く年になるように祝福する。
聖書では私たちの人生を 'わし'によく比喩する。
'あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。'(出エジプト記 19:4)
神様が出エジプトの歴史をどういう風に成したのかを、神様が直接表現した句節なのだ。私たちは '子鷲'、神様は '母鷲'だとおっしゃっている。もし神様が私たちの母鷲になって、私たちを負って導いたら、どんな人生の障壁も問題にならない。たとえ私たち前に泰山が塞いでいても一気に越えていくことができる。神様が私たちを負って飛ぶからだ。ところで驚くべき事実は、実際に神様は私たちの母鷲だというのだ。出エジプト事件がよく証明してくれる。
そして私たち神様はこのような方だ。
'長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。' (詩篇 103:5)
こんなに良い神様を近付けない人が理解出来ないだけだ。新年のデパートの良い福袋を買うためには前日から並んで待ちながら、神様に身近に来ることは、どうして苦しがるのだろうか?なぜ?なぜ?なぜ?本当の福袋は神様なのに。
世の中がとても大変で、たとえ若いと勇士たちがくたびれて倒れても、神様に望みを置いた人は、神様がまた新しくする。鷲のように新しくする。それで彼らは羽を伸ばすことであり、また羽ばたくようになるでしょう。
'主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。'(イザヤ書 40:31)
信仰の人は苦難の中に羽を伸ばす人だ。それでまた空高く羽ばたく人々だ。羽がない人には、墜落はすなわち死だ。しかし羽がある人には、墜落はすなわち飛上の機会だ。墜落はすぐ飛ぶことができる最高の機会だ。
信仰の人には墜落というのはない。ただ飛上があるだけだ。信仰の人には飛ぶことができる羽があるからだ。羽を伸ばすことができるのに、どうして墜落するのか?高い所から墜落して死んだ鳥を見たことがあるか?鳥は墜落して死ぬことがない。羽があるからだ。
それでは信仰の人の羽は何だろう?
サタンはイエス様にも、この羽を伸ばすことができないようにおびただしい誘惑をした。
2。 信仰の両羽
旧約のヨシュアと新約のイエス様は似ている部分が多い。
名前もまったく同じだ。ただヘブライ式発音がヨシュアで、ギリシャ式発音がイエスであるだけだ。ヨシュアは神様の民をカナンの地に導いた人で、イエス様は人類を天国に導く方だ。ヨシュアがイスラエル民に最後に頼んだ言葉とイエス様が 40日断食後にサタンから受けた誘惑の内容は同じだ。ここで信仰の人が、苦難や誘惑に落ちないで飛べる道が記録されている。
ヨシュア記 23:6-16の御言葉とマタイによる福音書 4:1-11の御言葉の中で信仰の両羽を捜すようにする。
1) 御言葉の羽
'だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。' (ヨシュア記23: 6)
'イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」'(マタイによる福音書4:4)
一番目の羽は御言葉の羽だ。
サタンはこの羽を縛りつけようと思う。この羽さえ縛りつければ、墜落して自ら死ぬようになるからだ。御言葉の羽を伸ばすことが容易ではないことを聖書は言ってくれる。そのため 'とても胆大に' '大きく力をつくして' 御言葉をすべて守って行いなさいと言った。大まかに都合にまかせていいかげんにすると、絶対に御言葉の羽を伸ばすことができない。サタンの邪魔がそんなに簡単ではない。イェス様は命をかけて御言葉を守った。生死がかかっているパン(財物)と御言葉を換えなかった。難しい時であればあるほど、御言葉の羽をすくめずに、折っておくのではなく、できればたくさん広げなければならない。それが墜落せず、飛べる唯一の道だからだ。恐ろしさと恐怖は私たちをもっとすくめるようにする。御言葉の羽を縛ってしまおうとする。
'御言葉を読む時間がどこにあるの?そんな時間があれば現実的に走りなさい。聖書を読むことは無駄なことなの。御言葉どおり暮すことは馬鹿みたいなことだ。お前は利口なんだ。お前の頭で暮せよ。他の重要な事がこれほど多いのに、のんびり聖書とか読んでるのかい?'
イェス様の耳にささやいたサタンは、昨日も今日も一生私たちを誘惑する。できれば御言葉を遠ざけなさいと。
だまされてはいけない。だまされない人が賢い人だ。人にだまされるよりもっと恐ろしいのがサタンにだまされることだ。人にだまされれば、ただ財物だけが損失になるが、サタンにだまされれば魂と人生を根こそぎ盗まれる。
神様の御声を聞こう。神様は確かにおっしゃる。
'難しいほど御言葉を近付けなさい。死にそうなのか?御言葉をもっと近付けなさい。それが君が生きる道なんだ。'
サタンに御言葉を奪われるな。
サタンがどんなものをすべて与えると言っても御言葉と換えるな。
人はご飯で生きるのではなく、御言葉で生きるということを肝に銘じよう。
'難しいときほど御言葉を近く!'
2) 礼拝の羽
'その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。'(ヨシュア記23: 7)
'すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」'(マタイによる福音書4:10)
二番目の羽は礼拝の羽だ。サタンは私たちが神様に礼拝を捧げることを嫌やがる。それで手段と方法を選らばずに礼拝を邪魔して、礼拝を奪おうと思う。甚だしくはイェス様に世の中のすべての国と光栄を見せながら、神様に礼拝するのではなく自分に礼拝すればこのすべてのものを全部与えるとまで言った。礼拝を邪魔する誘惑が如何に大きいかを予想できる。
もし今あなたの前にこんな事が起きたら、あなたはどうするだろうか?
もし月給も二倍にし、社長職に昇進させて 80歳まで定年を保障してくれるから、主日礼拝だけはやめなさいと言えばどうするだろうか?
イエス様は 'すべての天下'を与えるという提案を受けたが、'神様を礼拝'することと換えなかった。少しもためらうことなく断った。なぜ?すべての天下より礼拝がずっと大事だったからだ。エリックリドルはオリンピックの金メダルと主日礼拝を換えなかった。
イェス様は、サタンが神様に礼拝を捧げないように誘惑した時に、きっぱりとサタンを退けた。'サタンよ退きなさい。'
あなたの礼拝を邪魔するとか奪おうとすることがあるか?考えるひまも与えずにきっぱりと退けなさい。'サタンよ退きなさい。お前は私を墜落するようにする者だな。'
世の中で御言葉と礼拝より重要で急ぐべきことはない。
墜落する時に一番重要で急ぐべきことは '羽を伸ばすこと'であるからだ。
信仰の両羽を伸ばすことが急務だ。
誰よりサタンはこれを非常によく知っている。それでイエス様の信仰の二つの羽を折ってしまおうと思ったのだ。これだけ折ってしまえば、すべてのゲームは終了だからだ。
ヨシュアもこの秘密が分かったから、イスラエル民に信仰の両羽をつけてほしかったのだ。
'難しいときほど礼拝を近く' しなければならない。サタンは難しいときほど礼拝を遠ざけるようにする。私たちはこれを誘惑に落ちたとよく言う。サタンの誘惑に負けてはいけない。その道は簡単だ。難しいときほど礼拝を近付けるのだ。
'ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。'(ヘブライ人への手紙 10:25)
'主日も集まって、水曜日も集まって、金曜日も集まって、早天祈祷会にも集まって礼拝しましょう!'
礼拝のために集まることに力をつくす民に、希望がある。
礼拝をサボるのは、授業をサボるより人生に致命的だ。
イエス様が受けた誘惑の中で二番目は、神様を疑いながら試しなさいという誘惑だった。(マタイによる福音書4:7) これは信仰の胴体と言える。ヨシュアも御言葉と礼拝を信仰の胴体に連結している。'ただあなたたちの神様だけに、近づけなさい。' (ヨシュア記23: 8) という御言葉が、日本語聖書には神様だけ信頼しなさいという話に表現されている。二つの羽を伸ばすとき、ただ信仰で伸ばさなければならない。信仰で御言葉を実践して、信仰で礼拝を捧げなければならない。疑心で御言葉を受けて、疑心で礼拝を差し上げる人には、いつ墜落の危機が来るかも知れない。常に不安だ。
あなたには驚くべき二つの羽がある。飛びなさい!
ただ信仰で御言葉の羽を伸ばしなさい!
ただ信仰で礼拝の羽を伸ばしなさい!
それで墜落をあなた人生の羽ばたきの機会にしなさい!
御言葉//ヨシュア23: 6-8
1。 母鷲
先週の一週間の生活を先ず振り返って見よう。
神様を近付けるためにあなたはどんな生活を送ったのか?他の時よりどう違う人生を送っ たのか?
恵まれ、能力のある人生を送ることを願うのか?大事なことを大事だと思って、小さなことを一つでも実践する人生を生きて行かなければならない。
近主者福、神様を近付ける年が幸福をもらう年だ。神様との距離をなくして行く年になるように祝福する。
聖書では私たちの人生を 'わし'によく比喩する。
'あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。'(出エジプト記 19:4)
神様が出エジプトの歴史をどういう風に成したのかを、神様が直接表現した句節なのだ。私たちは '子鷲'、神様は '母鷲'だとおっしゃっている。もし神様が私たちの母鷲になって、私たちを負って導いたら、どんな人生の障壁も問題にならない。たとえ私たち前に泰山が塞いでいても一気に越えていくことができる。神様が私たちを負って飛ぶからだ。ところで驚くべき事実は、実際に神様は私たちの母鷲だというのだ。出エジプト事件がよく証明してくれる。
そして私たち神様はこのような方だ。
'長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。' (詩篇 103:5)
こんなに良い神様を近付けない人が理解出来ないだけだ。新年のデパートの良い福袋を買うためには前日から並んで待ちながら、神様に身近に来ることは、どうして苦しがるのだろうか?なぜ?なぜ?なぜ?本当の福袋は神様なのに。
世の中がとても大変で、たとえ若いと勇士たちがくたびれて倒れても、神様に望みを置いた人は、神様がまた新しくする。鷲のように新しくする。それで彼らは羽を伸ばすことであり、また羽ばたくようになるでしょう。
'主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。'(イザヤ書 40:31)
信仰の人は苦難の中に羽を伸ばす人だ。それでまた空高く羽ばたく人々だ。羽がない人には、墜落はすなわち死だ。しかし羽がある人には、墜落はすなわち飛上の機会だ。墜落はすぐ飛ぶことができる最高の機会だ。
信仰の人には墜落というのはない。ただ飛上があるだけだ。信仰の人には飛ぶことができる羽があるからだ。羽を伸ばすことができるのに、どうして墜落するのか?高い所から墜落して死んだ鳥を見たことがあるか?鳥は墜落して死ぬことがない。羽があるからだ。
それでは信仰の人の羽は何だろう?
サタンはイエス様にも、この羽を伸ばすことができないようにおびただしい誘惑をした。
2。 信仰の両羽
旧約のヨシュアと新約のイエス様は似ている部分が多い。
名前もまったく同じだ。ただヘブライ式発音がヨシュアで、ギリシャ式発音がイエスであるだけだ。ヨシュアは神様の民をカナンの地に導いた人で、イエス様は人類を天国に導く方だ。ヨシュアがイスラエル民に最後に頼んだ言葉とイエス様が 40日断食後にサタンから受けた誘惑の内容は同じだ。ここで信仰の人が、苦難や誘惑に落ちないで飛べる道が記録されている。
ヨシュア記 23:6-16の御言葉とマタイによる福音書 4:1-11の御言葉の中で信仰の両羽を捜すようにする。
1) 御言葉の羽
'だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。' (ヨシュア記23: 6)
'イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」'(マタイによる福音書4:4)
一番目の羽は御言葉の羽だ。
サタンはこの羽を縛りつけようと思う。この羽さえ縛りつければ、墜落して自ら死ぬようになるからだ。御言葉の羽を伸ばすことが容易ではないことを聖書は言ってくれる。そのため 'とても胆大に' '大きく力をつくして' 御言葉をすべて守って行いなさいと言った。大まかに都合にまかせていいかげんにすると、絶対に御言葉の羽を伸ばすことができない。サタンの邪魔がそんなに簡単ではない。イェス様は命をかけて御言葉を守った。生死がかかっているパン(財物)と御言葉を換えなかった。難しい時であればあるほど、御言葉の羽をすくめずに、折っておくのではなく、できればたくさん広げなければならない。それが墜落せず、飛べる唯一の道だからだ。恐ろしさと恐怖は私たちをもっとすくめるようにする。御言葉の羽を縛ってしまおうとする。
'御言葉を読む時間がどこにあるの?そんな時間があれば現実的に走りなさい。聖書を読むことは無駄なことなの。御言葉どおり暮すことは馬鹿みたいなことだ。お前は利口なんだ。お前の頭で暮せよ。他の重要な事がこれほど多いのに、のんびり聖書とか読んでるのかい?'
イェス様の耳にささやいたサタンは、昨日も今日も一生私たちを誘惑する。できれば御言葉を遠ざけなさいと。
だまされてはいけない。だまされない人が賢い人だ。人にだまされるよりもっと恐ろしいのがサタンにだまされることだ。人にだまされれば、ただ財物だけが損失になるが、サタンにだまされれば魂と人生を根こそぎ盗まれる。
神様の御声を聞こう。神様は確かにおっしゃる。
'難しいほど御言葉を近付けなさい。死にそうなのか?御言葉をもっと近付けなさい。それが君が生きる道なんだ。'
サタンに御言葉を奪われるな。
サタンがどんなものをすべて与えると言っても御言葉と換えるな。
人はご飯で生きるのではなく、御言葉で生きるということを肝に銘じよう。
'難しいときほど御言葉を近く!'
2) 礼拝の羽
'その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。'(ヨシュア記23: 7)
'すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」'(マタイによる福音書4:10)
二番目の羽は礼拝の羽だ。サタンは私たちが神様に礼拝を捧げることを嫌やがる。それで手段と方法を選らばずに礼拝を邪魔して、礼拝を奪おうと思う。甚だしくはイェス様に世の中のすべての国と光栄を見せながら、神様に礼拝するのではなく自分に礼拝すればこのすべてのものを全部与えるとまで言った。礼拝を邪魔する誘惑が如何に大きいかを予想できる。
もし今あなたの前にこんな事が起きたら、あなたはどうするだろうか?
もし月給も二倍にし、社長職に昇進させて 80歳まで定年を保障してくれるから、主日礼拝だけはやめなさいと言えばどうするだろうか?
イエス様は 'すべての天下'を与えるという提案を受けたが、'神様を礼拝'することと換えなかった。少しもためらうことなく断った。なぜ?すべての天下より礼拝がずっと大事だったからだ。エリックリドルはオリンピックの金メダルと主日礼拝を換えなかった。
イェス様は、サタンが神様に礼拝を捧げないように誘惑した時に、きっぱりとサタンを退けた。'サタンよ退きなさい。'
あなたの礼拝を邪魔するとか奪おうとすることがあるか?考えるひまも与えずにきっぱりと退けなさい。'サタンよ退きなさい。お前は私を墜落するようにする者だな。'
世の中で御言葉と礼拝より重要で急ぐべきことはない。
墜落する時に一番重要で急ぐべきことは '羽を伸ばすこと'であるからだ。
信仰の両羽を伸ばすことが急務だ。
誰よりサタンはこれを非常によく知っている。それでイエス様の信仰の二つの羽を折ってしまおうと思ったのだ。これだけ折ってしまえば、すべてのゲームは終了だからだ。
ヨシュアもこの秘密が分かったから、イスラエル民に信仰の両羽をつけてほしかったのだ。
'難しいときほど礼拝を近く' しなければならない。サタンは難しいときほど礼拝を遠ざけるようにする。私たちはこれを誘惑に落ちたとよく言う。サタンの誘惑に負けてはいけない。その道は簡単だ。難しいときほど礼拝を近付けるのだ。
'ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。'(ヘブライ人への手紙 10:25)
'主日も集まって、水曜日も集まって、金曜日も集まって、早天祈祷会にも集まって礼拝しましょう!'
礼拝のために集まることに力をつくす民に、希望がある。
礼拝をサボるのは、授業をサボるより人生に致命的だ。
イエス様が受けた誘惑の中で二番目は、神様を疑いながら試しなさいという誘惑だった。(マタイによる福音書4:7) これは信仰の胴体と言える。ヨシュアも御言葉と礼拝を信仰の胴体に連結している。'ただあなたたちの神様だけに、近づけなさい。' (ヨシュア記23: 8) という御言葉が、日本語聖書には神様だけ信頼しなさいという話に表現されている。二つの羽を伸ばすとき、ただ信仰で伸ばさなければならない。信仰で御言葉を実践して、信仰で礼拝を捧げなければならない。疑心で御言葉を受けて、疑心で礼拝を差し上げる人には、いつ墜落の危機が来るかも知れない。常に不安だ。
あなたには驚くべき二つの羽がある。飛びなさい!
ただ信仰で御言葉の羽を伸ばしなさい!
ただ信仰で礼拝の羽を伸ばしなさい!
それで墜落をあなた人生の羽ばたきの機会にしなさい!
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神様だけに近く(2)4 |
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하나님만 가까이(2)14 |
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神様だけに近く(1)4 |
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荒野の信仰4 |
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イエス様 (クリスマス)と私4 |
2008-12-26 | 381 |
4 コメント
이용규목사
2009-01-16 20:28:48
번역해 주셨습니다.
감사합니다.
中森千草
2009-01-17 09:44:13
私の周りにいる無宗教の人で、病気におかされている人、仕事のことで問題を抱えている人がいますが、手をあわせて神様を求めたり、信仰によって生きる希望が湧いてくることを聞き、どんな状況の中にいても人の行き着くところは神様なんだと思いました。
信仰者だけではなく、信仰を持っていない人たちからも学ぶことは多く、その純粋さに心が打たれました。
今の私は、御言葉のカレンダーによって毎日が支えられ、勇気と希望を持って強く生きることが出来ています。
礼拝も増えました。それは神様でしかすべてを変える事ができないことを、神様が見せてくださったからです。
世の中の人々が神様に近ずくチャンスが今なのかと考えたりもします。
神様の喜びとなる真の信仰者になりたいと思います。
古郡武志
2009-01-18 09:30:09
今日の経済恐慌は表面上は「信頼できるものは何もない」との虚無的な観念を強めているようでありながらも、あるものに対する信頼を絶対的に強めている。
昨年の日本における上場企業の倒産数は戦後最大を記録し、国際的な優良企業といえども莫大な赤字を記録し、リストラを行っている。もちろん、ついこの前まで高収入で栄華を誇っていた外資系金融マンも、高給どころかリーマンのように職場がなくなってしまう有様である。サラリーマンは、「何でも有りの世の中になった」などと自嘲気味に話すのであるが、会社などまったく確かなものではない。たしかに、今日を無事に乗り切ったとしても、明日にはどうなっているかわからない。
かといって政府が信頼できるかどうか…国家債務は膨張して、いつ破綻するかわからないし、「定額給付金」などという理念も何もない愚策(個人的見解)に血眼を上げている姿
を見てもとてもとても…
そこで、信頼できるのは何か?やはり金である。
会社が倒産しても、あるいは国の社会福祉政策が崩壊しても、とりあえず、手元に金さえあれば何とかなる。そこで、消費を徹底的に抑制して、お金を貯めようとする。
過度な消費生活を抑えて、倹約に努める経済生活の是非は問わないにしても、人々の意識の中で聖書で言うところの「パン」の占める割合、「パン」に対する信頼度が絶対的に高まる時代なのであろう。
私は、私自身の生活の中で「パン」を大切にするにしても、主だけを固く信頼する生活に努力したいと思う。何故なら、「パン」は永遠という時間軸の中では意味を持たないものであるからだ。節約・倹約に努めて口座に巨額の金を残したところで、神の御前では意味がないということであろう。
永遠という時間軸においては、すべてを創造された「神」に近づくことのみが意味あるということである。
あきやすく、根気のない私であるが、説教にも出てきたように小さなことをこつこつと実践する信仰生活を送るように努力したい。
ところで、私は「福袋」はあまり買ったことがない。たしかにすごいお得なような感じもするが、開けてみたらはずれの品物も多いからだ。
「福袋」を買うよりは、心の中に「福音袋」を持つほうがよいのではないか?袋の中身が「福音」とあらば、決してはずれはないはずだ。
私という「袋」から出てきた福音で、みんなが「当たり」と喜ぶようにもなったらいいとも思う。「福音袋」はいかがでしょう?
田辺高幸
2009-01-18 10:04:39
この繰り返し。そして毎日思う。神様は近くにおられる。しかも非常に誠実で、正しい方で、僕の持つ原罪を一つ一つ消し去ってくださる。そんな方が僕の近くにおられる。どんな時だって神様は近くにおられる。全てが感謝だ。
これが僕の喜び。しかし、喜びの中には、犠牲になられた方がいらっしゃる。主は、僕の罪のために唾をはきかけられ、鞭で打たれ、屈辱的な言葉をぶら下げられ、手を釘で打たれ、足を縛られ、体は十字架につけられ、そして命を落とされた。僕らの神様の愛は、その主の死があってこそ。それを忘れないように毎日を生きる。全てが感謝だ。
そして罪深き人である僕に贈られた聖霊様。全てに感謝だ。僕の道を正してくださる。所詮何一つ僕は出来ない。こんな僕を助けてくださっている。全てが感謝だ。
天の神様に全て感謝だ。主の僕らのために犠牲になられたことで僕は命を与えられたことに全てに感謝だ。毎日道を正して歩ませてくださる聖霊様に全てに感謝だ。三位一体の神様に全てに感謝だ。これを胸に、毎日神様が近くに居てくださることに全てに感謝、ただ感謝、純粋に感謝だ。