感謝と私
御言葉//コロサイの信徒への手紙2:6-7
1.感謝の季節
秋は感謝の季節である。収穫の季節だからである。
それで、教会でも秋に収穫感謝祭の礼拝が捧げられる。どころが、今年の秋は著しく‘感謝’が似合わない季節みたいである。世界経済があまりにもひどい。特に韓国は株式だけではなくて、為替まで半分に下がって、韓国から仕送りをしてもらっている留学生たちには感謝よりは不平・不安の言葉が当たり前かも知れない。マスメディアと接すると、まるで、世界経済という大きいビルが崩れている感じがする。
‘このような時に神様に感謝の礼拝を捧げられるだろうか?感謝のことがないのに、どうすれば礼拝を捧げられるだろう?本気でない感謝を無理やりに捧げるべきであるか?’と思うこともありえない。
人々は環境が苦しく、感謝することがない時、感謝しなさいとすると、御座なりな顔をしてむきになる。自分と感謝はまったく関係がないと思う。しかし、この時こそ、感謝ができる絶好のチャンスである。
感謝し兼ねる時の感謝が濃い感動を与える。時には誰でも感謝することができる。誰でも捧げられる感謝は価値がない。しかし、苦しい時には違う。この時には誰でも感謝を捧げられることではない。力を持っている感謝だけが残る。感謝がろ過される。選り抜き感謝だけ残るようになる。誰でもできる感謝は何の力も持っていないが、誰でもできることではない感謝は素晴らしい力を持っている。神様が感動される感謝である。
信仰の人は価値薄い感謝に満足せず、価値ある感謝にチャレンジするべきである。
もしかして、都合がいい時は真の感謝の時ではないかも知れない。真の感謝の時は苦しい時である。今こそ、神様に感謝礼拝を捧げるべき、ちょうどいい時である。皆が苦しんでいる時だからである。
苦しい時は、特別に感謝する時である。もちろん都合がいい時も感謝する時であるが、だから我らはどんなことにも感謝すべきである。(テサロニケの信徒への手紙①5:18)
聖書も見ると、価値があって、感動的は感謝礼拝は都合がいい時ではなく、苦しい時に捧げられた。次に話す、イエス様の感謝礼拝・パウロの感謝礼拝がそうであった。
2.信仰感謝
そうしたら、どうすれば、苦しくて困った時、感謝を捧げられるだろう?
このような感謝は飾り気の感謝にすぎないではないか?絶対そうではない。
多くの人は感謝について勘違いしている。‘世の感謝’だけ感謝だと思っている。だから、世の都合がよければ、感謝し、悪かったら、感謝の扉が閉まってします。万が一、世に与えられる感謝しかないとしたら、‘どんなことにも感謝しなさい’とおっしゃった神様の御言葉は実現できなくなる。嘘になる。世では感謝できない時が多いからである。
感謝には‘世の感謝’よりもっと尊い感謝がある。それは‘主の感謝’である。
‘世の感謝’は環境から与えられる感謝であり、感情から来る感謝である。これは与件が与えられたら、誰でもできる感謝である。環境の感謝の主体は私であり、ただ環境に引っ張られるだけである。環境によって、泣いたり笑ったりする。
しかし‘主の感謝’は違う。環境の為ではなくて、主の為に感謝することである。信仰が感謝の原動力である。感情に与えられる感謝とは次元が違う。
神様はこれについて正確におっしゃっている。
‘あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。’(コロサイの信徒への手紙2:6-7)
神様が我らに命じた感謝は決して‘感情感謝’ではない。‘環境感謝’ではない。神様が望んでいる感謝は、キリスト・イエスによる‘主の感謝’であり、信仰に基づいた‘信仰感謝’である。主は根強い信仰を持って、感謝が溢れるようにしないとおっしゃった。この感謝こそ、神様が待たれている感謝で、働きを起こす感謝である。
イエス様の中で生きているか?そうしたら、どうやって生きるべきだとされている?
感謝があふれるばかりになるよう、生きるべきだとされている。(コロ2:6-7)
イエス様を主として迎えたか?そうしたら、どうやって生きるべきだとされている?
感謝があふれるばかりになるよう、生きるべきだとされている。(コロ2:6-7)
御言葉で教われて、信仰が強まられた?そうしたら、どうやって生きるべきだとされている?
感謝があふれるばかりになるよう、生きるべきだとされている。(コロ2:6-7)
感謝の人生は信仰の人には必須項目である。
感謝がないクリスチャンは想像つかない。
感情に与えられた感謝ではなく、信仰に与えられる感謝で、常に充満した姿が、真の信徒の姿である。
真の感謝は感情から来ることではなく、信仰から出る。
力を持っている感謝は環境から来ることではなく、神様からくることである。
豊かな感謝は肉から来る感謝ではなく、霊から来る感謝である。
クリスチャンは4つの単語でなっている。
イエス、御言葉、信仰、感謝。この4つの単語が信仰において、重要な骨格である。
‘イエス様’を自分の主として迎えて、‘御言葉’で教われて、‘信仰’が強まって、‘感謝’の豊かな実を結ぶ人生が元気なクリスチャンの人生である。(コロ2:6-7)
だから、クリスチャンは誰よりも感謝が溢れる人生を生きるようになる。
3. 感謝の主導権
イエス様の感謝を通じて、感謝の素晴らしい力を探ってみる。
イエス様がいらっしゃる所にはいつも大勢の人が雲のように、寄り集まってきた。マタ15:32-38の御言葉にも同様であった。イエス様に寄り集まった人々が三日間帰る気もせず、イエス様の説教にはまっていた。しかし、問題が起こった。人々は男性だけ数えても四千名であるのに、場所は空の野であった。そして残っている食べ物はパン7つと小魚2匹しかなかった。その時は今より貧乏であったが、その状況はもっとひどかった。近日我らが遭われている現在状況より、はるかに苦しい状況であった。食べ物がなくて、飢えていたから、可愛そうであろう?こんな時のあなたならば、感謝ができるか?こんな状況に‘感謝’が相応しいか?しかし、驚くべき事実がある。
‘感謝は相応しくないほど、よく相応しい。’
その都合に相応しくなければ、相応しくないほど、神様にはぴったりである。
環境に相応しい感謝は価値がない。環境に相応しくない感謝ほど、その感謝はもっと輝くはずである。
感謝は苦しい時にするべきである。力ある感謝は苦しい時にする感謝である。この感謝は実力を持っている人だけできる。平凡な人は思いもよらないことである。だから、もっと尊いことである。
苦しければ苦しいほど、感謝しなさい。感謝ができない時ほど、覚まして感謝しなさい。これがイエス様の感謝であった。イエス様は、ただ環境は嘆かわしかったが、自分が持っていた粗末なパンを持って、神様に感謝した。
感謝は‘今’することである。今自分の環境で感謝することが真の感謝である。イエス様のこの‘現在感謝’に神様は素晴らしい奇跡を与えられる。1万2千名程の人々が、がっつり食べて、7篭が残った、理解できない奇跡が起きたことである。
感謝は環境を変えられる最後の力である。感謝する人には感謝しなければならない環境がやってくるはずである。
神様は感謝を喜ばれている。感謝する人にはいつも感謝の種をプレゼントとしてくださる。
受動的な人は、信仰が与える感謝よりは、環境が与える不平が先立ちやすい。
信仰の人は感謝の主導権を持っている人である。感謝の主導権は持っている人は環境を変えられる。世に勝てる。‘世に打ち勝つ勝利、それはわたしたしの信仰です。’(ヨハネの手紙①5:4)信仰の人がいる所には常に感謝が溢れて、感謝が溢れる所には環境が変わって、環境が変わることは、すなわち世に打ち勝つようになるためである。
強制に引っぱられる感謝者にならず、喜んで引っぱっていく感謝者になろう!
信仰で感謝の主導権を奪おう!
感謝の主導権を絶対環境に譲らないこと!
パウロはどうだった?パウロがいつも喜んで、感謝が溢れる人生を生きられた理由がどこから来ただろう?環境がよかったからである?絶対そうではない。今日この御言葉も監獄にいる時に書いた御言葉である。パウロの感謝は環境から与えられた感謝じゃなくて、信仰に与えられる感謝である。どんな病気も、監獄も、飢えも、神様から来るその方の感謝を奪えられなかった。‘主において常に喜びなさい。’(フィリピの信徒への手紙4:4)
信仰がいい人こそ、感謝が多く、
信仰が悪い人こそ、不平が多い。
有名な足跡の話しがある。ちょっと脚色して、分かち合いたいと思う。
ある人が苦しみながら、生きていて、天国に行った。
天国で自分の人生のビデオを見ていたが、自分の都合がいい時には足跡が4つであった。もちろん主の足跡2つと、自分の足跡2つであった。しかし、自分がかなり苦しんでいた時には足跡が2つしかなかった。彼は主に問い詰めた。“主よ!私がかなり苦しんでいた時にはどうして、私と一緒におられなかったでしょうか?どうして私から離れていらっしゃったでしょうか?”神様がおっしゃった。“足跡をよく見なさい。その2つの足跡は私のである。あなたが苦しんでいたから、あなたをおんぶして、歩いたんだよ。”
我らはどのような環境でも感謝できる。私が苦しんでいると、おんぶして行かれる神様がいつも我らと一緒におられるからである。
‘主よ!いい環境があるからではなく、善い神様がいらっしゃるから、私はいつも感謝しております。私のあふれる感謝を受け取ってください。神様、愛しています。神様、ありがとうございます。’
御言葉//コロサイの信徒への手紙2:6-7
1.感謝の季節
秋は感謝の季節である。収穫の季節だからである。
それで、教会でも秋に収穫感謝祭の礼拝が捧げられる。どころが、今年の秋は著しく‘感謝’が似合わない季節みたいである。世界経済があまりにもひどい。特に韓国は株式だけではなくて、為替まで半分に下がって、韓国から仕送りをしてもらっている留学生たちには感謝よりは不平・不安の言葉が当たり前かも知れない。マスメディアと接すると、まるで、世界経済という大きいビルが崩れている感じがする。
‘このような時に神様に感謝の礼拝を捧げられるだろうか?感謝のことがないのに、どうすれば礼拝を捧げられるだろう?本気でない感謝を無理やりに捧げるべきであるか?’と思うこともありえない。
人々は環境が苦しく、感謝することがない時、感謝しなさいとすると、御座なりな顔をしてむきになる。自分と感謝はまったく関係がないと思う。しかし、この時こそ、感謝ができる絶好のチャンスである。
感謝し兼ねる時の感謝が濃い感動を与える。時には誰でも感謝することができる。誰でも捧げられる感謝は価値がない。しかし、苦しい時には違う。この時には誰でも感謝を捧げられることではない。力を持っている感謝だけが残る。感謝がろ過される。選り抜き感謝だけ残るようになる。誰でもできる感謝は何の力も持っていないが、誰でもできることではない感謝は素晴らしい力を持っている。神様が感動される感謝である。
信仰の人は価値薄い感謝に満足せず、価値ある感謝にチャレンジするべきである。
もしかして、都合がいい時は真の感謝の時ではないかも知れない。真の感謝の時は苦しい時である。今こそ、神様に感謝礼拝を捧げるべき、ちょうどいい時である。皆が苦しんでいる時だからである。
苦しい時は、特別に感謝する時である。もちろん都合がいい時も感謝する時であるが、だから我らはどんなことにも感謝すべきである。(テサロニケの信徒への手紙①5:18)
聖書も見ると、価値があって、感動的は感謝礼拝は都合がいい時ではなく、苦しい時に捧げられた。次に話す、イエス様の感謝礼拝・パウロの感謝礼拝がそうであった。
2.信仰感謝
そうしたら、どうすれば、苦しくて困った時、感謝を捧げられるだろう?
このような感謝は飾り気の感謝にすぎないではないか?絶対そうではない。
多くの人は感謝について勘違いしている。‘世の感謝’だけ感謝だと思っている。だから、世の都合がよければ、感謝し、悪かったら、感謝の扉が閉まってします。万が一、世に与えられる感謝しかないとしたら、‘どんなことにも感謝しなさい’とおっしゃった神様の御言葉は実現できなくなる。嘘になる。世では感謝できない時が多いからである。
感謝には‘世の感謝’よりもっと尊い感謝がある。それは‘主の感謝’である。
‘世の感謝’は環境から与えられる感謝であり、感情から来る感謝である。これは与件が与えられたら、誰でもできる感謝である。環境の感謝の主体は私であり、ただ環境に引っ張られるだけである。環境によって、泣いたり笑ったりする。
しかし‘主の感謝’は違う。環境の為ではなくて、主の為に感謝することである。信仰が感謝の原動力である。感情に与えられる感謝とは次元が違う。
神様はこれについて正確におっしゃっている。
‘あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。’(コロサイの信徒への手紙2:6-7)
神様が我らに命じた感謝は決して‘感情感謝’ではない。‘環境感謝’ではない。神様が望んでいる感謝は、キリスト・イエスによる‘主の感謝’であり、信仰に基づいた‘信仰感謝’である。主は根強い信仰を持って、感謝が溢れるようにしないとおっしゃった。この感謝こそ、神様が待たれている感謝で、働きを起こす感謝である。
イエス様の中で生きているか?そうしたら、どうやって生きるべきだとされている?
感謝があふれるばかりになるよう、生きるべきだとされている。(コロ2:6-7)
イエス様を主として迎えたか?そうしたら、どうやって生きるべきだとされている?
感謝があふれるばかりになるよう、生きるべきだとされている。(コロ2:6-7)
御言葉で教われて、信仰が強まられた?そうしたら、どうやって生きるべきだとされている?
感謝があふれるばかりになるよう、生きるべきだとされている。(コロ2:6-7)
感謝の人生は信仰の人には必須項目である。
感謝がないクリスチャンは想像つかない。
感情に与えられた感謝ではなく、信仰に与えられる感謝で、常に充満した姿が、真の信徒の姿である。
真の感謝は感情から来ることではなく、信仰から出る。
力を持っている感謝は環境から来ることではなく、神様からくることである。
豊かな感謝は肉から来る感謝ではなく、霊から来る感謝である。
クリスチャンは4つの単語でなっている。
イエス、御言葉、信仰、感謝。この4つの単語が信仰において、重要な骨格である。
‘イエス様’を自分の主として迎えて、‘御言葉’で教われて、‘信仰’が強まって、‘感謝’の豊かな実を結ぶ人生が元気なクリスチャンの人生である。(コロ2:6-7)
だから、クリスチャンは誰よりも感謝が溢れる人生を生きるようになる。
3. 感謝の主導権
イエス様の感謝を通じて、感謝の素晴らしい力を探ってみる。
イエス様がいらっしゃる所にはいつも大勢の人が雲のように、寄り集まってきた。マタ15:32-38の御言葉にも同様であった。イエス様に寄り集まった人々が三日間帰る気もせず、イエス様の説教にはまっていた。しかし、問題が起こった。人々は男性だけ数えても四千名であるのに、場所は空の野であった。そして残っている食べ物はパン7つと小魚2匹しかなかった。その時は今より貧乏であったが、その状況はもっとひどかった。近日我らが遭われている現在状況より、はるかに苦しい状況であった。食べ物がなくて、飢えていたから、可愛そうであろう?こんな時のあなたならば、感謝ができるか?こんな状況に‘感謝’が相応しいか?しかし、驚くべき事実がある。
‘感謝は相応しくないほど、よく相応しい。’
その都合に相応しくなければ、相応しくないほど、神様にはぴったりである。
環境に相応しい感謝は価値がない。環境に相応しくない感謝ほど、その感謝はもっと輝くはずである。
感謝は苦しい時にするべきである。力ある感謝は苦しい時にする感謝である。この感謝は実力を持っている人だけできる。平凡な人は思いもよらないことである。だから、もっと尊いことである。
苦しければ苦しいほど、感謝しなさい。感謝ができない時ほど、覚まして感謝しなさい。これがイエス様の感謝であった。イエス様は、ただ環境は嘆かわしかったが、自分が持っていた粗末なパンを持って、神様に感謝した。
感謝は‘今’することである。今自分の環境で感謝することが真の感謝である。イエス様のこの‘現在感謝’に神様は素晴らしい奇跡を与えられる。1万2千名程の人々が、がっつり食べて、7篭が残った、理解できない奇跡が起きたことである。
感謝は環境を変えられる最後の力である。感謝する人には感謝しなければならない環境がやってくるはずである。
神様は感謝を喜ばれている。感謝する人にはいつも感謝の種をプレゼントとしてくださる。
受動的な人は、信仰が与える感謝よりは、環境が与える不平が先立ちやすい。
信仰の人は感謝の主導権を持っている人である。感謝の主導権は持っている人は環境を変えられる。世に勝てる。‘世に打ち勝つ勝利、それはわたしたしの信仰です。’(ヨハネの手紙①5:4)信仰の人がいる所には常に感謝が溢れて、感謝が溢れる所には環境が変わって、環境が変わることは、すなわち世に打ち勝つようになるためである。
強制に引っぱられる感謝者にならず、喜んで引っぱっていく感謝者になろう!
信仰で感謝の主導権を奪おう!
感謝の主導権を絶対環境に譲らないこと!
パウロはどうだった?パウロがいつも喜んで、感謝が溢れる人生を生きられた理由がどこから来ただろう?環境がよかったからである?絶対そうではない。今日この御言葉も監獄にいる時に書いた御言葉である。パウロの感謝は環境から与えられた感謝じゃなくて、信仰に与えられる感謝である。どんな病気も、監獄も、飢えも、神様から来るその方の感謝を奪えられなかった。‘主において常に喜びなさい。’(フィリピの信徒への手紙4:4)
信仰がいい人こそ、感謝が多く、
信仰が悪い人こそ、不平が多い。
有名な足跡の話しがある。ちょっと脚色して、分かち合いたいと思う。
ある人が苦しみながら、生きていて、天国に行った。
天国で自分の人生のビデオを見ていたが、自分の都合がいい時には足跡が4つであった。もちろん主の足跡2つと、自分の足跡2つであった。しかし、自分がかなり苦しんでいた時には足跡が2つしかなかった。彼は主に問い詰めた。“主よ!私がかなり苦しんでいた時にはどうして、私と一緒におられなかったでしょうか?どうして私から離れていらっしゃったでしょうか?”神様がおっしゃった。“足跡をよく見なさい。その2つの足跡は私のである。あなたが苦しんでいたから、あなたをおんぶして、歩いたんだよ。”
我らはどのような環境でも感謝できる。私が苦しんでいると、おんぶして行かれる神様がいつも我らと一緒におられるからである。
‘主よ!いい環境があるからではなく、善い神様がいらっしゃるから、私はいつも感謝しております。私のあふれる感謝を受け取ってください。神様、愛しています。神様、ありがとうございます。’
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성경과 나20 |
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礼拝と私5 |
2008-11-29 | 320 | ||
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예배와 나21 |
2008-11-24 | 774 | ||
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苦難と私5 |
2008-11-20 | 344 | ||
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고난과 나20 |
2008-11-17 | 724 | ||
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成長と私4 |
2008-11-12 | 351 | ||
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성장과 나19 |
2008-11-10 | 667 | ||
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伝道と私4 |
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전도와 나25 |
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感謝と私5 |
2008-10-30 | 550 | ||
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감사와 나25 |
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仕えと私5 |
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教会と私4 |
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교회와 나24 |
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誘惑に陥らないためには7 |
2008-10-03 | 394 | ||
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시험에 들지 않으려면30 |
2008-09-29 | 1752 | ||
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わが人生の羊飼いは?6 |
2008-09-25 | 386 | ||
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내 인생의 목자는?30 |
2008-09-22 | 871 | ||
253 |
人生の最小値の板を伸ばしなさい7 |
2008-09-18 | 421 |
5 コメント
이용규목사
2008-10-30 04:50:33
감사합니다.
中森千草
2008-10-30 05:31:26
そしてかえってきた言葉は、神様に感謝することは、当然で当たり前のこと。でした。
彼らには、感謝しなさいという言葉は不必要で、神様に感謝することは言われて行うのではなく、自然と体からでる行動であることを知りました。
クリスチャンになるまえは、イスラエルの人たちを見習うことなど考えたことは無かったですが、今は、見習う所がたくさんあります。
苦しみの中にとどまるのではなく、今は感謝することが少し難しいですが、イエス様のような感謝ができるように、まず考えを変えていきたいと思います。
田辺高幸
2008-10-30 07:32:38
ごく普通のことには慣れてしまって感謝を忘れる。これが非常に怖いことだ。僕らが生きているのは、神様が見守ってくれているからであるのだが、それを当たり前と思い、感謝の気持ちを忘れる。だから無事に恵みを頂きながら生きているのだから感謝を忘れてしまってはいけない。毎日感謝の日々を行えるように生きたいと思う。ナチュラルにそうなりたいと思う。
神様は必ず助けてくださる。これはハッキリ言える。このことに対して感謝したい。神様へ感謝を捧げるお祈りをいつも捧げたいものだ。これからはそうしたいと思う。そうすればナチュラル感謝が出来る人になって、神様もお喜びになられる、そう思ってます。
古郡武志
2008-11-02 09:43:38
おいしいものを生み出した自然の力に…
材料の良さを引き出してくれる料理人…
そして、自分がおいしいものを食べて幸せな時間を過ごしていることに…
だから、外食でおいしいものを食べられたときには感謝の念が湧いて出てくる。(但し、レベルとしては、環境から来る感謝ではあるが)
もちろん、お客様として店員から「ありがとうございました」と言われる立場ではあるけれども、店を立ち去るときにも「ごちそうさまでした。ありがとう」と言いたいし、店員と客がお互いに感謝し合うことは外食産業というビジネスにおいてみられる心暖かな一コマの風景ではないだろうか?
ビジネス形態の変化という要因もあるのだろうが、「ごちそうさま」という挨拶すらせずに食事が終わるとさっさと何も言わずに立ち去る客が増えたというような話しを聞いたことがある。推測するに、「お金を払っている客なのだから、何で自分がお礼を言わなければいけないのか?」という強固な顧客意識が心理の深層にあるのではないかと思う。
つまり、金を払うという自らの行為によっておいしいものが食べられるという結果が生じたという意識であり、さらに突き詰めると、「いいことは自分の努力によって生じたものだ」「わるいことは、自分の外から出た要因だ」という意識になる。
いいことがあっても感謝をせず、わるいことがあれば自分のことは棚に上げて、「誰が悪い」だの「彼が悪い」だのと文句を言っている人がいるが、こういう人は「評論家」と言われるタイプでビジネスの世界では嫌われるタイプの人であろう。
今後厳しい経済状況になれば、「誰が悪い」「彼が悪い」といった不平不満が充満する世の中になるだろうが、私が感謝の力で光を放っていきたい。
身近な例に例えていえば、職場の近くの定食家で少々味に難有りで割高に感じられても、食べ物があること自体に感謝して力強く「ごちそうさまでした。神様有難うございました」と言えるような人間になりたいと思う。(但し、その店にもう一度行くかどうかは別にして…)
安間チョウコ
2008-11-02 19:15:38
いつも感謝し、いつも喜び、祈り生きて生きたい。特に私は人生の後半に入っているけれど、神からとおざかる生き方には欲、悪いものに支配されると思う。至上の喜びは神と、一緒に、自然のめぐりを大切にして生きていくことおおもう。