「チームの従順」
御言葉//申命記1:34-36
1. チームの従順とは?
神様の導きの目的は、私たちがカナンという祝福された土地に入ることである。
神様はモーセを通して、カナンに入る方法と、入って祝福を受ける方法について「申命記」に詳しく語っておられる。
カナンに入るためには、何を準備すべきであろうか。
イスラエルの民は、どんな準備できてなくて、荒れ野で40年間もその苦しい生活をしなければならなかったのか。
カナンの土地を占領する武器が足りなかったからか?あるいは、兵士の訓練が足りなかったからか?その理由は、別のところにあった。
「しかし、あなたたちは上って行こうとはせず、あなたたちの神、主の命令に逆らって、天幕にとどまって不平を言い合った。」(申命記1:26-27)
「主はあなたたちの不平の声を聞いて憤り、誓って言われた。この悪い世代の人々のうちで、わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない。」(申命記1:34-5)
他のことではなく、イスラエルの民の不従順によって、彼らはカナンの土地に入れなかったのである。もちろん、そのときにも従順がなかったわけではない。カレブ、ヨシュアは完全に従順した(36)。個人の従順は、全体の運命を変えられない。指導者がいかに一人でちゃんと従順しても、カナンの土地には入れなかった。神様は、指導者だけの従順を願われるのではなく、全体の従順を願われる。「全教会的な従順」、「団体の従順」、「チームの従順」こそ、荒れ野をカナンに変える力である。
そのため、モーセは申命記の最初の章で、カデシュ・バルネアの出来事を通して、「団体の従順」だけがカナンの土地に入る秘密兵器であることを強く述べている。
一般的に教会を見ると、牧師や少数の一般信徒の指導者だけが働き、残りの人々は自分の仕事が忙しく、教会の仕事に顔をあまり出さない場合が少なくない。まるで、自分と関係のないことのようにしている。だから、今の教会が力を出せないのである。「チームの従順」がないから、神様のカナンの御業が現れないのは当然なことである。教会で何か霊的なことを行うとき、例えば、特別早天祈祷会をするという場合に、すべての信者が皆集まってお祈りをすると、世が変わるのは時間の問題に過ぎないであろう。
エリコ城の前でイスラエルの民は、団体で鬨(とき)の声だけあげたのに、その城は一瞬で崩れ落ちた。いかにささやかなことでも、団体で従順すれば、このような素晴らしいことが起こる。普段は、シマウマが獅子のエサになるが、獅子がシマウマの前から逃げ出すときがあるという。シマウマが団体の従順で一つとなり、獅子の方に向かって走ると、獅子は恐れて逃げてしまうという。群れの従順は、獅子さえ追い出す力がある。このように、教会は従順の姿で一つにならなければいけない。それが、教会の力である。ほえたける獅子のように攻撃する悪魔を、泣かせて追い出す方法はこれしかない。教会は指導者を中心に「団体の従順」の力を養わなければならない。そうすると、カナンの土地は彼らのものとなる。各々が自分の状況によって、自分勝手に従順してはいけない。指導者を中心に、「チームの従順」が現れるときこそ、教会としての真面目(しんめんもく)が現れる。
日本人が世界的な民族になった理由の一つとして、世のどの民族よりも「団体の従順」がうまくできる民族であることが挙げられる。彼らは、旗1個だけあっても、ちゃんとリーダーに従順する。これが、彼らの力である。
カデジュ・バルネアであった団体の不従順の民にならず、エリコであった団体の従順の民になるべきであろう。
2. 彼らはなぜ従順できなかったのか。
カデジュ・バルネアでイスラエルの民が従順できなかった原因は何だったのだろうか。これは、現代の私たちを不従順に誘惑する強力な要素にもなる。三つに分けて考えてみよう。
1) 否定的な人の話
10名の偵察隊の否定的な報告が、イスラエルの民の心を揺り動かす決定的な要因となった。否定的な言葉は、肯定的な言葉よりはるかにパワーが強い。彼らは、民族の最高の指導者(モーセ)の話より、偵察隊の話をもっと信じた。なぜなら、彼らが否定的な言葉を言ったからだ。私たちは、誰でも思ったより簡単に否定的な言葉にだまされやすい。否定的な言葉は恐ろしい。否定的な言葉は恐ろしい伝染力と破壊力を持っているからだ。モーセも勝てなかったほどだから、その威力が分かるであろう。
否定的な言葉は、聞かないのが一番いい。聞くとその瞬間に汚染されてしまう。
2) 否定的な環境(状況)
二番目は、否定的な環境である。偵察隊は、土地は良いと言った。しかし、問題はそこに住んでいる人々だった。原住民はとても強く見え、自分はいなごのように見えたと言った。すべての状況には、肯定的な面と、否定的は面がいつも存在する。問題は、どれを選ぶかである。かわいそうに、彼らは否定的なことですべてを決めてしまった。否定的な面を見て決める人は失敗するしかないが、肯定的な面を見て決める人は、成功が報償された人である。
あなたは今何を見ているか。否定的な環境を見ないで、神様を見上げよう。信仰の創始者または完成者であるイエスを見つめよう。青銅の蛇を仰ごう(民数記21:9)。そうすると、命を得る。大変な苦難のなかで望みがなくなってしまったエレミヤも、神様を見上げたときに回復されたのではないか。
「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(哀歌3:22)
3) 従順による損失
イスラエルの民が「上って(土地を)取りなさい」とおっしゃった神様の命令に不従順した決定的な理由は、上っていくと巨人に殺されてしまうかもしれないと思ったからである。そこで、彼らは生きるために不従順したのである。この世で人々が最も恐れることが、損害を受けることである。だから、信仰のない人は、徹底的に利益と損失によってすべてを決める。
しかし、信仰の人は違う。信仰の人は、利益・損失と関係なく、神様の御言葉によって、すべきか、すべきではないかを決める。決定の基準が違う。よって、信仰のない人は、決定に対する結果について自分が全面的に責任を担わなければならないが、信仰の人は神様が責任を担ってくださる。
では、本当の利益はどちにあるのか。
不従順の利益がもっと大きいか?絶対違う。その瞬間は生きたように見えるが、結局、彼らはカナンの土地に入れず皆死んでしまった。荒れ野で40年間も苦労ばかりしながら死んでしまった。
従順だけしたら、その苦労をせずすぐカナンの土地に入って、祝福された人生を生きたはずであろう。
従順することが死ぬことより大変か?でも、従順しなければならない。それだけが、唯一な生きる道であるからだ。それだけが、最高の有益になるからだ。それだけが、神様が責任を担ってくださることだからだ。
3. 時(とき)を見逃さないように。
従順することに、とても重要なことが一つある。
従順する行為よりもっと重要なことがあるが、それは、従順の「時」である。
イスラエルの民がカデシュ・バルネアで全く従順しなかったわけではない。彼らは従順した。神様の御言葉通りに山に上った。(申命記1:41) 彼らは、神様が怒られ、彼らに再び荒れ野に戻りなさいと言われた後になってから、山に上った。しかし、もう遅かった。これは、従順ではない。なぜなら、彼らは時をすでに見逃してしまったからだ。時を見逃してしまった従順は、従順ではない。
同じ事も、いつするかによって、従順にもなれるし、不従順にもなれる。
「その仕事」より、「その時」がもっと重要である。神様がしなさいとおっしゃるときにするのが、真の従順である。自分がやりたいときに勝手にするのは、従順ではなく、放縦である。
教会でも、礼拝の時があるし、奉仕の時があるし、祈りの時がある。
礼拝の時に、掃除するからといって騒がし、奉仕の時間にお祈りするからといって座っていると、とても大変である。
その事自体は決して悪いことではないが、時に合わないために、よくないことになる。時を知らない人が周囲にいると、本当に困るであろう。
「主よ、時を見分ける知恵をお与えください!」
いかに良い言葉も、時に合わなければ、悪い言葉になってしまう。
「正しく答える人には喜びがある。時宜にかなった言葉はいかに良いものか。」
知恵のある人は、時をよく見分ける人である。
雨が降ると泣く青蛙も、母蛙には従順した。しかし、彼は時を見逃してしまった。そのため、青蛙の間違った従順は、一生自分を苦しませた。
従順にも時がある。時を見逃してはいけない。
従順の時について敏感になろう!
神様が従順するようにと言われたときに、指導者だけの従順ではなく「一体の従順」によって、私たちに約束された「カナンの土地」に入る祝福された教会になろう!
御言葉//申命記1:34-36
1. チームの従順とは?
神様の導きの目的は、私たちがカナンという祝福された土地に入ることである。
神様はモーセを通して、カナンに入る方法と、入って祝福を受ける方法について「申命記」に詳しく語っておられる。
カナンに入るためには、何を準備すべきであろうか。
イスラエルの民は、どんな準備できてなくて、荒れ野で40年間もその苦しい生活をしなければならなかったのか。
カナンの土地を占領する武器が足りなかったからか?あるいは、兵士の訓練が足りなかったからか?その理由は、別のところにあった。
「しかし、あなたたちは上って行こうとはせず、あなたたちの神、主の命令に逆らって、天幕にとどまって不平を言い合った。」(申命記1:26-27)
「主はあなたたちの不平の声を聞いて憤り、誓って言われた。この悪い世代の人々のうちで、わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない。」(申命記1:34-5)
他のことではなく、イスラエルの民の不従順によって、彼らはカナンの土地に入れなかったのである。もちろん、そのときにも従順がなかったわけではない。カレブ、ヨシュアは完全に従順した(36)。個人の従順は、全体の運命を変えられない。指導者がいかに一人でちゃんと従順しても、カナンの土地には入れなかった。神様は、指導者だけの従順を願われるのではなく、全体の従順を願われる。「全教会的な従順」、「団体の従順」、「チームの従順」こそ、荒れ野をカナンに変える力である。
そのため、モーセは申命記の最初の章で、カデシュ・バルネアの出来事を通して、「団体の従順」だけがカナンの土地に入る秘密兵器であることを強く述べている。
一般的に教会を見ると、牧師や少数の一般信徒の指導者だけが働き、残りの人々は自分の仕事が忙しく、教会の仕事に顔をあまり出さない場合が少なくない。まるで、自分と関係のないことのようにしている。だから、今の教会が力を出せないのである。「チームの従順」がないから、神様のカナンの御業が現れないのは当然なことである。教会で何か霊的なことを行うとき、例えば、特別早天祈祷会をするという場合に、すべての信者が皆集まってお祈りをすると、世が変わるのは時間の問題に過ぎないであろう。
エリコ城の前でイスラエルの民は、団体で鬨(とき)の声だけあげたのに、その城は一瞬で崩れ落ちた。いかにささやかなことでも、団体で従順すれば、このような素晴らしいことが起こる。普段は、シマウマが獅子のエサになるが、獅子がシマウマの前から逃げ出すときがあるという。シマウマが団体の従順で一つとなり、獅子の方に向かって走ると、獅子は恐れて逃げてしまうという。群れの従順は、獅子さえ追い出す力がある。このように、教会は従順の姿で一つにならなければいけない。それが、教会の力である。ほえたける獅子のように攻撃する悪魔を、泣かせて追い出す方法はこれしかない。教会は指導者を中心に「団体の従順」の力を養わなければならない。そうすると、カナンの土地は彼らのものとなる。各々が自分の状況によって、自分勝手に従順してはいけない。指導者を中心に、「チームの従順」が現れるときこそ、教会としての真面目(しんめんもく)が現れる。
日本人が世界的な民族になった理由の一つとして、世のどの民族よりも「団体の従順」がうまくできる民族であることが挙げられる。彼らは、旗1個だけあっても、ちゃんとリーダーに従順する。これが、彼らの力である。
カデジュ・バルネアであった団体の不従順の民にならず、エリコであった団体の従順の民になるべきであろう。
2. 彼らはなぜ従順できなかったのか。
カデジュ・バルネアでイスラエルの民が従順できなかった原因は何だったのだろうか。これは、現代の私たちを不従順に誘惑する強力な要素にもなる。三つに分けて考えてみよう。
1) 否定的な人の話
10名の偵察隊の否定的な報告が、イスラエルの民の心を揺り動かす決定的な要因となった。否定的な言葉は、肯定的な言葉よりはるかにパワーが強い。彼らは、民族の最高の指導者(モーセ)の話より、偵察隊の話をもっと信じた。なぜなら、彼らが否定的な言葉を言ったからだ。私たちは、誰でも思ったより簡単に否定的な言葉にだまされやすい。否定的な言葉は恐ろしい。否定的な言葉は恐ろしい伝染力と破壊力を持っているからだ。モーセも勝てなかったほどだから、その威力が分かるであろう。
否定的な言葉は、聞かないのが一番いい。聞くとその瞬間に汚染されてしまう。
2) 否定的な環境(状況)
二番目は、否定的な環境である。偵察隊は、土地は良いと言った。しかし、問題はそこに住んでいる人々だった。原住民はとても強く見え、自分はいなごのように見えたと言った。すべての状況には、肯定的な面と、否定的は面がいつも存在する。問題は、どれを選ぶかである。かわいそうに、彼らは否定的なことですべてを決めてしまった。否定的な面を見て決める人は失敗するしかないが、肯定的な面を見て決める人は、成功が報償された人である。
あなたは今何を見ているか。否定的な環境を見ないで、神様を見上げよう。信仰の創始者または完成者であるイエスを見つめよう。青銅の蛇を仰ごう(民数記21:9)。そうすると、命を得る。大変な苦難のなかで望みがなくなってしまったエレミヤも、神様を見上げたときに回復されたのではないか。
「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(哀歌3:22)
3) 従順による損失
イスラエルの民が「上って(土地を)取りなさい」とおっしゃった神様の命令に不従順した決定的な理由は、上っていくと巨人に殺されてしまうかもしれないと思ったからである。そこで、彼らは生きるために不従順したのである。この世で人々が最も恐れることが、損害を受けることである。だから、信仰のない人は、徹底的に利益と損失によってすべてを決める。
しかし、信仰の人は違う。信仰の人は、利益・損失と関係なく、神様の御言葉によって、すべきか、すべきではないかを決める。決定の基準が違う。よって、信仰のない人は、決定に対する結果について自分が全面的に責任を担わなければならないが、信仰の人は神様が責任を担ってくださる。
では、本当の利益はどちにあるのか。
不従順の利益がもっと大きいか?絶対違う。その瞬間は生きたように見えるが、結局、彼らはカナンの土地に入れず皆死んでしまった。荒れ野で40年間も苦労ばかりしながら死んでしまった。
従順だけしたら、その苦労をせずすぐカナンの土地に入って、祝福された人生を生きたはずであろう。
従順することが死ぬことより大変か?でも、従順しなければならない。それだけが、唯一な生きる道であるからだ。それだけが、最高の有益になるからだ。それだけが、神様が責任を担ってくださることだからだ。
3. 時(とき)を見逃さないように。
従順することに、とても重要なことが一つある。
従順する行為よりもっと重要なことがあるが、それは、従順の「時」である。
イスラエルの民がカデシュ・バルネアで全く従順しなかったわけではない。彼らは従順した。神様の御言葉通りに山に上った。(申命記1:41) 彼らは、神様が怒られ、彼らに再び荒れ野に戻りなさいと言われた後になってから、山に上った。しかし、もう遅かった。これは、従順ではない。なぜなら、彼らは時をすでに見逃してしまったからだ。時を見逃してしまった従順は、従順ではない。
同じ事も、いつするかによって、従順にもなれるし、不従順にもなれる。
「その仕事」より、「その時」がもっと重要である。神様がしなさいとおっしゃるときにするのが、真の従順である。自分がやりたいときに勝手にするのは、従順ではなく、放縦である。
教会でも、礼拝の時があるし、奉仕の時があるし、祈りの時がある。
礼拝の時に、掃除するからといって騒がし、奉仕の時間にお祈りするからといって座っていると、とても大変である。
その事自体は決して悪いことではないが、時に合わないために、よくないことになる。時を知らない人が周囲にいると、本当に困るであろう。
「主よ、時を見分ける知恵をお与えください!」
いかに良い言葉も、時に合わなければ、悪い言葉になってしまう。
「正しく答える人には喜びがある。時宜にかなった言葉はいかに良いものか。」
知恵のある人は、時をよく見分ける人である。
雨が降ると泣く青蛙も、母蛙には従順した。しかし、彼は時を見逃してしまった。そのため、青蛙の間違った従順は、一生自分を苦しませた。
従順にも時がある。時を見逃してはいけない。
従順の時について敏感になろう!
神様が従順するようにと言われたときに、指導者だけの従順ではなく「一体の従順」によって、私たちに約束された「カナンの土地」に入る祝福された教会になろう!
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2 コメント
中森千草
2008-05-29 06:18:46
信仰は、神様に対する畏れをもつことにより、従う姿だと思います。
以前は、旧約が怖くて・・・・・ でも今は、正しく神様への畏れをもつことができました。神様への畏れが強くなると、従順することが当然のことであって正しこであることを、イスラエル人を通して学ぶことができ、従順は勝利だと思いました。
安間チョウコ
2008-05-30 22:16:16
日本の教会にいるときは、属会というなら婦人会が私の所属だが、小さい教会なので、教会会員全員を理解するから大まかに言えば教会全体が属会かもしれない。奉仕として掃除当番はほぼ毎週何らかの形であり、ほかに礼拝案内係、お茶当番、お花当番等毎週何らかの当番が巡って来た。
中央栄光教会に属会が出来てからAT HOME的で良い。属会のことを毎日のお祈りに覚え、1週間を過ごす。どのくらい属会に従順出来ていますか?といわれたら、信仰の友、聖家族として非常に従順している。日本の教会は言葉が通じるから、陰口まで出る。しかし私たちの属会は、ほぼ日本語と韓国語が半分半分のグループなので、信仰や霊についても言葉で持って充分hに説明が出来ないのでその大切な何かをそれぞれが実感し、日曜日に集まり、その大切なものを確認し学びあう属会なので真に弟子にふさわしい。ただ残念なことは奉仕の仕事は教会に沢山ある、奉仕グループだけがするのでなく、属会としての奉仕についても考えてみたいなあと思う。