「イエス様の三つの目的」
御言葉//ヨハネ17:11-13
1. 三つの目的
イエス様はなぜこの地に来られたのか。私たちから何かを得るためだろうか。宇宙の王様としておもてなしを受けるためだろうか。違う。イエス様は、「もらう」ためでなく、ご自分のすべてを私たちに全部「与える」ために来られた。 彼が私たちの代わりに受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされ、彼が私たちの代わりに死んで命を与え、私たちが永遠な命を得た。イエス様はご自分のすべてを惜しまず、残らず与えられるために来られた。そのため、真の主の教会は、与える教会の姿を持たなければならない。
しかし、イエス様が私たちに与えられることを切に願われたものがもう一つある。これが何だろう。これは、イエス様が来られた目的であり、この地に留まった目的であり、天国に行かれた目的にもなる。これは、人生でお金より、健康より、知恵より、何より大事なものである。これさえもっていれば、最高の人生を生きることができ、幸せな人生を生きることができる。
永遠な命の賜物は、私たちが天国に行くときこそ命のように大事であることが分かるが、「これ」はこの地で命のように大事である。そのため、イエス様は、「これ」を私たちに与えることをそんなに願われたのである。
「これ」は果たして何だろう。
「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる【大きな喜び】(good news of great joy)を告げる。」(ルカ2:10)
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には【平和(幸福)】、【御心に適う】人にあれ。」(ルカ2:14)
神様は、天使たちを通して、イエス様がこの地に来られた目的を語られた。
イエス様が来られた目的は、私たちに恐れを与えるためでなく、大きな喜びと幸福を与えるためである。 これは、イエス様を信じる私たちがこの地で必ず受け取って享受しなければならないことである。これを世の中に奪われてはいけない。主がこの地に与えられた最高のプレゼントであるからだ。
金より、健康より、知恵より大事であるからだ。
では、イエス様がこの地に留まった目的は何だろう。
イエス様はぶどうの木のたとえを通して、ご自分はまことのぶどうの木で、私たちは枝だとおっしゃった。そして、私たちをご自分の枝とした目的をこうおっしゃる。
「これらのことを話したのは、【わたしの喜び】があなたがたの内にあり、【あなたがたの喜び】が満たされるためである。」(ヨハネ15:11)
イエス様は枝である私たちに【ご自分の目的】を限りなく与えられるため、木としてこの地にいらっしゃったのである。イエス様が留まった目的も、【ご自分の喜び】を私たちに与えるためだった。
最後に、イエス様が天国に行かれた時、私たちに何を与えようとしたのか?について調べてみよう。
イエス様は天国に行かれる前に、神様にこう切にお祈りなさった。
「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、【わたしの喜び】が彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ17:13)
イエス様は天国に行かれる時にも私たちがご自分の喜びで満ち溢れることを望まれた。私たちがこの地で勝利するためには、「イエス様の喜び」を所有することより力あることはないからである。
結局、イエス様がこの地に来られた目的、留まった目的、天国に行かれた目的は、一言でいうと、「私たちに喜びを与えるため」であった。天国では永遠な命の祝福を受け取ることを望まれたが、この地では「イエス様の喜び」を享受することを望まれた。
あなたはこの喜びをどの程度持っているか。
「お-この喜び、主の賜物、お-この喜び、主の賜物、主に栄光ハレルヤ!主だけ賛美する!」」
この喜びをうまく受け入れない人は、なぜだと思うか。
私たちが神様が与えられた喜びを楽しめないと自分も苦しいだろうが、神様もとても苦しがられるだろう。神様を苦しめてはいけない。
神様を喜ばせる秘訣は簡単である。イエス様の喜びに満たされ、いつも喜んで生きることである。いつも楽しく生きることである。いつも幸せで生きることである。イエス様が与えられた喜びによって!!!
2. イエス様の喜びが自分の喜びになる方法
どうすれば、私たちもイエス様の喜びで満たされることができるだろうか。
この喜びは、世の中が与える喜びとは違う。金が与える喜びとは次元が異なる。この喜びがあれば、天国のような喜びの深い境地に達する。環境と関係なく喜べる。条件と関係なく喜べる。いつも喜べる。この喜びを持ちたくないのか。その方法を、イエス様は詳しく教えてくださっている。
1) 従順は喜びを呼ぶ
イエス様はぶどうの木のたとえで、枝がぶどうの木に完全にくっついていることで、たくさんの実を結ぶとし、くっつくことが具体的にどんな意味かを、ご自分の姿を通してこうおっしゃる。
「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)
「これらのことを話したのは、【わたしの喜び】があなたがたの内にあり、【あなたがたの喜び】が満たされるためである。」(ヨハネ15:11)
私たちがイエス様の喜びで満たされる道は簡単である。イエス様のように、神様の御言葉に従順すればいい。掟を守ればいい。枝が木についていると、木の栄養分がそのまま枝に入り、豊富な実が結ばれるように、私たちがイエス様についていると、イエス様の喜びは私たちにそのまま入り込んで、私たちにも喜びが満たされる。
イエス様の喜びをもらいたいのか。イエス様にくっついていなさい。イエス様に従順してみなさい。
そうすると、イエス様の喜びは自然にあなたの内なる人を満たしてくださるだろう。
2) 一つになることは、喜びを呼ぶ。
イエス様は天国に行かれる前に、神様にこう切にお祈りなさった。
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11)
「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、【わたしの喜び】が彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ17:13)
イエス様は続けて「彼らも一つになりますように」(21,22,23)と、威張って神様にお祈りなさった。なぜだろう。一つになることが喜びの秘密であるからだ。
イエス様が神様と一つになったのは、「三位一体」である。これは一つになった完璧な姿である。これがすなわちイエス様の喜びの秘密である。教会は一つにならなければならない。イエス様と神様の仲のように一つにならなければならない。いかにお金がたくさんあって物足りなさを感じなくても、夫婦が背を向けてしまうと、その家庭に笑う声が聞こえないだろう。
「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。」(箴言17:1)
「いさかいの好きな妻と一緒に家にいるよりは/屋根の片隅に座っている方がよい。」(箴言25:24)
一つになることと喜びは直接つながっている。枝が木についているのも、結局一つになっている姿である。神様と目上の人には従順によって、同僚や目下の人には愛によって一つになると、天の喜びと地の喜びはいつもそこに満ち溢れるだろう。
3. successの道
神様は私たちが幸せなことを望まれる。神様の御前で成功することを願われる。神様の御前で成功するためにはどうすればいいだろうか。上記で話したように、イエス様が与えられた喜びで生きればいい。
イエス様の喜びで生きるためには、どの姿を持たなければならないのか。
successという単語にはsが三つある。私たちが完全な喜びの人生を生きるためには、自分に3sが必要である。
第一、顔にはsmile(笑み)のsが常に必要である。
化粧はできなくてもスマイルはいつもつけていかなければならない。大勢の人々は一人になったときに深刻な表情をする。人の前にも笑わなければならないが、一人になっているときも笑わなければならない。神様がご覧になっているからである。一人になっているとき笑う人が、本当に笑う人である。「笑みの父」と呼ばれるノーマン カズンズ(Norman Cousins)は、骨が固まって死んでしまう病にかかった。この病は治療ができる薬がない。絶望の中で過ごしていたある日、書斎から本を一冊とって読んだが、その中に「心の楽しみは良い薬である。」(箴言17:22)の御言葉が書いてあった。この新しい薬を見つけたノーマンは、その日から折が良くても悪くても昼も夜も笑い続けた。ところで、本当に驚くべき奇跡が起こった。曲がっていた指が伸ばされ、体が正常に戻った。その後、彼はUCLAで75歳まで医学部の教授をしながら、笑いについて研究した。この話を聞いた韓国のある女性も、笑いによって同じ病から解放された。それだけでなく、笑いは癌、うつ病、どもりまで癒す素晴らしい力があることが証明された。
笑うことがあろうがなかろうが、いつも笑わなければならない。このような人が、イエス様の喜びをいただいた人の姿である。
笑うと人がつき、笑うと金がつき、笑うと健康がつく。
笑うと本当に祝福が来る。これは神様の法則である。
笑いは祝福である。
「笑う教会 我が教会」
「与える教会 主の教会」
世の中のすべての教会がこの二つの姿を回復しなければならないだろう。
二番目は、足にsが必要である。このsは spring(スプリング)である。スプリングは、足の笑う姿である。足が喜んでいると、いつもスプリングのように軽い。スプリングの足が恵みのある足だ。どんなことをしてもいつも喜びが溢れて足が自動的に動く姿である。これと反対に重い足がある。ギブスした足もある。やむを得ずむりおしに足をずるずる引きずって動く足である。この足はまた挫く確立が高い。
三番目は、心にsが必要である。このsは Spirit(聖霊)である。心に聖霊がおられる人は喜ぶ。聖霊は喜びの霊であるからだ。そして、聖霊に満たされた人は、善なることにだれより強い熱情を持っている。熱情(enthusiasm)という言葉の意味は、神様の中にいるという意味である。従って、神様の霊である聖霊が自分の内に満たされると、それはすなわち熱情のオリジナルになるということである。聖霊に満たされた人は、心から喜びの熱情が満ち溢れる。そのため、どんなことをしても心から湧き上がる喜びを感じるようになる。
信仰の人は心の喜び、足の喜び、顔の喜びをもたなければならない。
この喜びの三位一体がある人こそ、イエス様の真の弟子である。イエス様の喜びと能力がその中で満ち溢れているからである。
あなたの顔は一日どの程度たくさん笑っているか。
あなたの足は一日どの程度たくさん笑っているか。
あなたの心は一日どの程度たくさん笑っているか。
あなたは一日どの程度たくさん神様を笑わせているか。
あなたがイエス様の喜びによって笑うと、神様は必ず笑われるということを覚えてほしい。主の喜びになりたいのか。神様を考えながらずっと笑いなさい。そうすると、神様の御顔のしわもなくなるだろう。
「笑う家庭 我が家庭
笑う教会 我が教会
笑う国 我が国」
あなたが行く先々で笑いが流行るように!
御言葉//ヨハネ17:11-13
1. 三つの目的
イエス様はなぜこの地に来られたのか。私たちから何かを得るためだろうか。宇宙の王様としておもてなしを受けるためだろうか。違う。イエス様は、「もらう」ためでなく、ご自分のすべてを私たちに全部「与える」ために来られた。 彼が私たちの代わりに受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされ、彼が私たちの代わりに死んで命を与え、私たちが永遠な命を得た。イエス様はご自分のすべてを惜しまず、残らず与えられるために来られた。そのため、真の主の教会は、与える教会の姿を持たなければならない。
しかし、イエス様が私たちに与えられることを切に願われたものがもう一つある。これが何だろう。これは、イエス様が来られた目的であり、この地に留まった目的であり、天国に行かれた目的にもなる。これは、人生でお金より、健康より、知恵より、何より大事なものである。これさえもっていれば、最高の人生を生きることができ、幸せな人生を生きることができる。
永遠な命の賜物は、私たちが天国に行くときこそ命のように大事であることが分かるが、「これ」はこの地で命のように大事である。そのため、イエス様は、「これ」を私たちに与えることをそんなに願われたのである。
「これ」は果たして何だろう。
「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる【大きな喜び】(good news of great joy)を告げる。」(ルカ2:10)
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には【平和(幸福)】、【御心に適う】人にあれ。」(ルカ2:14)
神様は、天使たちを通して、イエス様がこの地に来られた目的を語られた。
イエス様が来られた目的は、私たちに恐れを与えるためでなく、大きな喜びと幸福を与えるためである。 これは、イエス様を信じる私たちがこの地で必ず受け取って享受しなければならないことである。これを世の中に奪われてはいけない。主がこの地に与えられた最高のプレゼントであるからだ。
金より、健康より、知恵より大事であるからだ。
では、イエス様がこの地に留まった目的は何だろう。
イエス様はぶどうの木のたとえを通して、ご自分はまことのぶどうの木で、私たちは枝だとおっしゃった。そして、私たちをご自分の枝とした目的をこうおっしゃる。
「これらのことを話したのは、【わたしの喜び】があなたがたの内にあり、【あなたがたの喜び】が満たされるためである。」(ヨハネ15:11)
イエス様は枝である私たちに【ご自分の目的】を限りなく与えられるため、木としてこの地にいらっしゃったのである。イエス様が留まった目的も、【ご自分の喜び】を私たちに与えるためだった。
最後に、イエス様が天国に行かれた時、私たちに何を与えようとしたのか?について調べてみよう。
イエス様は天国に行かれる前に、神様にこう切にお祈りなさった。
「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、【わたしの喜び】が彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ17:13)
イエス様は天国に行かれる時にも私たちがご自分の喜びで満ち溢れることを望まれた。私たちがこの地で勝利するためには、「イエス様の喜び」を所有することより力あることはないからである。
結局、イエス様がこの地に来られた目的、留まった目的、天国に行かれた目的は、一言でいうと、「私たちに喜びを与えるため」であった。天国では永遠な命の祝福を受け取ることを望まれたが、この地では「イエス様の喜び」を享受することを望まれた。
あなたはこの喜びをどの程度持っているか。
「お-この喜び、主の賜物、お-この喜び、主の賜物、主に栄光ハレルヤ!主だけ賛美する!」」
この喜びをうまく受け入れない人は、なぜだと思うか。
私たちが神様が与えられた喜びを楽しめないと自分も苦しいだろうが、神様もとても苦しがられるだろう。神様を苦しめてはいけない。
神様を喜ばせる秘訣は簡単である。イエス様の喜びに満たされ、いつも喜んで生きることである。いつも楽しく生きることである。いつも幸せで生きることである。イエス様が与えられた喜びによって!!!
2. イエス様の喜びが自分の喜びになる方法
どうすれば、私たちもイエス様の喜びで満たされることができるだろうか。
この喜びは、世の中が与える喜びとは違う。金が与える喜びとは次元が異なる。この喜びがあれば、天国のような喜びの深い境地に達する。環境と関係なく喜べる。条件と関係なく喜べる。いつも喜べる。この喜びを持ちたくないのか。その方法を、イエス様は詳しく教えてくださっている。
1) 従順は喜びを呼ぶ
イエス様はぶどうの木のたとえで、枝がぶどうの木に完全にくっついていることで、たくさんの実を結ぶとし、くっつくことが具体的にどんな意味かを、ご自分の姿を通してこうおっしゃる。
「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)
「これらのことを話したのは、【わたしの喜び】があなたがたの内にあり、【あなたがたの喜び】が満たされるためである。」(ヨハネ15:11)
私たちがイエス様の喜びで満たされる道は簡単である。イエス様のように、神様の御言葉に従順すればいい。掟を守ればいい。枝が木についていると、木の栄養分がそのまま枝に入り、豊富な実が結ばれるように、私たちがイエス様についていると、イエス様の喜びは私たちにそのまま入り込んで、私たちにも喜びが満たされる。
イエス様の喜びをもらいたいのか。イエス様にくっついていなさい。イエス様に従順してみなさい。
そうすると、イエス様の喜びは自然にあなたの内なる人を満たしてくださるだろう。
2) 一つになることは、喜びを呼ぶ。
イエス様は天国に行かれる前に、神様にこう切にお祈りなさった。
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11)
「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、【わたしの喜び】が彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ17:13)
イエス様は続けて「彼らも一つになりますように」(21,22,23)と、威張って神様にお祈りなさった。なぜだろう。一つになることが喜びの秘密であるからだ。
イエス様が神様と一つになったのは、「三位一体」である。これは一つになった完璧な姿である。これがすなわちイエス様の喜びの秘密である。教会は一つにならなければならない。イエス様と神様の仲のように一つにならなければならない。いかにお金がたくさんあって物足りなさを感じなくても、夫婦が背を向けてしまうと、その家庭に笑う声が聞こえないだろう。
「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。」(箴言17:1)
「いさかいの好きな妻と一緒に家にいるよりは/屋根の片隅に座っている方がよい。」(箴言25:24)
一つになることと喜びは直接つながっている。枝が木についているのも、結局一つになっている姿である。神様と目上の人には従順によって、同僚や目下の人には愛によって一つになると、天の喜びと地の喜びはいつもそこに満ち溢れるだろう。
3. successの道
神様は私たちが幸せなことを望まれる。神様の御前で成功することを願われる。神様の御前で成功するためにはどうすればいいだろうか。上記で話したように、イエス様が与えられた喜びで生きればいい。
イエス様の喜びで生きるためには、どの姿を持たなければならないのか。
successという単語にはsが三つある。私たちが完全な喜びの人生を生きるためには、自分に3sが必要である。
第一、顔にはsmile(笑み)のsが常に必要である。
化粧はできなくてもスマイルはいつもつけていかなければならない。大勢の人々は一人になったときに深刻な表情をする。人の前にも笑わなければならないが、一人になっているときも笑わなければならない。神様がご覧になっているからである。一人になっているとき笑う人が、本当に笑う人である。「笑みの父」と呼ばれるノーマン カズンズ(Norman Cousins)は、骨が固まって死んでしまう病にかかった。この病は治療ができる薬がない。絶望の中で過ごしていたある日、書斎から本を一冊とって読んだが、その中に「心の楽しみは良い薬である。」(箴言17:22)の御言葉が書いてあった。この新しい薬を見つけたノーマンは、その日から折が良くても悪くても昼も夜も笑い続けた。ところで、本当に驚くべき奇跡が起こった。曲がっていた指が伸ばされ、体が正常に戻った。その後、彼はUCLAで75歳まで医学部の教授をしながら、笑いについて研究した。この話を聞いた韓国のある女性も、笑いによって同じ病から解放された。それだけでなく、笑いは癌、うつ病、どもりまで癒す素晴らしい力があることが証明された。
笑うことがあろうがなかろうが、いつも笑わなければならない。このような人が、イエス様の喜びをいただいた人の姿である。
笑うと人がつき、笑うと金がつき、笑うと健康がつく。
笑うと本当に祝福が来る。これは神様の法則である。
笑いは祝福である。
「笑う教会 我が教会」
「与える教会 主の教会」
世の中のすべての教会がこの二つの姿を回復しなければならないだろう。
二番目は、足にsが必要である。このsは spring(スプリング)である。スプリングは、足の笑う姿である。足が喜んでいると、いつもスプリングのように軽い。スプリングの足が恵みのある足だ。どんなことをしてもいつも喜びが溢れて足が自動的に動く姿である。これと反対に重い足がある。ギブスした足もある。やむを得ずむりおしに足をずるずる引きずって動く足である。この足はまた挫く確立が高い。
三番目は、心にsが必要である。このsは Spirit(聖霊)である。心に聖霊がおられる人は喜ぶ。聖霊は喜びの霊であるからだ。そして、聖霊に満たされた人は、善なることにだれより強い熱情を持っている。熱情(enthusiasm)という言葉の意味は、神様の中にいるという意味である。従って、神様の霊である聖霊が自分の内に満たされると、それはすなわち熱情のオリジナルになるということである。聖霊に満たされた人は、心から喜びの熱情が満ち溢れる。そのため、どんなことをしても心から湧き上がる喜びを感じるようになる。
信仰の人は心の喜び、足の喜び、顔の喜びをもたなければならない。
この喜びの三位一体がある人こそ、イエス様の真の弟子である。イエス様の喜びと能力がその中で満ち溢れているからである。
あなたの顔は一日どの程度たくさん笑っているか。
あなたの足は一日どの程度たくさん笑っているか。
あなたの心は一日どの程度たくさん笑っているか。
あなたは一日どの程度たくさん神様を笑わせているか。
あなたがイエス様の喜びによって笑うと、神様は必ず笑われるということを覚えてほしい。主の喜びになりたいのか。神様を考えながらずっと笑いなさい。そうすると、神様の御顔のしわもなくなるだろう。
「笑う家庭 我が家庭
笑う教会 我が教会
笑う国 我が国」
あなたが行く先々で笑いが流行るように!
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1 コメント
박유진
2007-05-09 09:10:23
ご了承くださいませ。