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중앙영광교회

信仰は表現である

이용규목사, 2010-11-27 23:31:05

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クリスチャンにとって信仰ほど大切な物があるでしょうか。信仰より祝福された物があるのでしょうか。
イエス様も信仰について強調されました。 からし種一粒ほどの信仰があれば山に命じて海に移る力があり、 ‘信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。’(マタ21:22) ‘娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。’(マコ5:34)とおっしゃいました。
しかし、信仰をどのように表せば良いのでしょうか。どのようにすれば信仰生活が上手くいくのでしょうか。神様に喜ばれる信仰の姿はどんな姿であり、祝福される信仰はどんなものでしょうか。礼拝を奉げ、奉仕をし、伝道をする信仰の姿も尊いですか、それよりもさらに尊い信仰の姿があります。それは人生の中で常に信仰を表現しながら生きることです。信仰によって考え、信仰による言葉を言い、信仰による行動をすることなのです。考えや言葉、行動で神様の御言葉を表現するのです。信仰は表現する時に力を発揮します。信仰を持っているのなら表現しなさい。表現されない信仰は信仰ではありません。悪魔も私たちが信仰を表現する瞬間から活動することができません。信仰の表現は光を灯すことと同様です。光を灯す瞬間、暗闇は消えます。

1. 偉大なる信仰の先輩たち
信頼生活を何かすごい事をしなければならないことと思わないで下さい。すごい事は神様がなさいます。神様は私たちに絶対にすごいことを要求するのではありません。ただ私たちが信仰を表現するのを望んでおられます。
偉大なる信仰の先輩たちの姿はどのような姿だったでしょうか。
まず信仰の英雄であるモーセを見てみましょう。
モーセが民を導き、葦の海を渡ることができたのはなぜでしょうか。
モーセとイスラエルの民がエジプトを出て間もなく、彼らの前には葦の海が、後には世界最強のエジプト軍隊が迫って来ていました。このような危険な状況で彼らは海の中を乾いた地のように堂堂と歩きながら完全に勝利をおさめました。なぜそのようなことができたでしょうか。モーセが何かすごい業をおこなったのでしょうか。そんなはずありません。モーセはただ御言葉に頼って杖を持った手を海に向けて差し伸べただけです。それはとても簡単な事でした。誰にでも信仰さえあればできる事でした。モーセはただ信仰を表現したのです。そうすると神様が大きぴ風を起こして海を乾いた地に変えて下さいました。神様は私たちの信仰の表現を見て働かれます。神様は信仰の力を望んでおられるのではありません。力は神様にあります。ただ信仰の表現、表示だけを待っておられます。あなたの前に葦の海のような物がありますか。信仰の手を海の上に差し伸べなさい。そうすれば神様が起こす東風が吹くでしょう。必ず海が乾いた地に変わることでしょう。
ヨシュアとイスラエルの民はどうでしょう。
難攻不落のエリコ城は誰によって崩されたのでしょうか。ヨシュアでしょうか。それとも有名な将軍たちでしょうか。そんなはずありません。すべてが神様の御業なのです。神様は何にもしないでいる人にはどんな事もできないのです。信仰の表現がある所には必ず神様の御働きもあります。ヨシュアと民たちは神様の御言葉に頼ってただエリコ城の周りを回っただけです。その時に神様の御力が現われたのです。神様はおっしゃいます。‘あなたたちに信仰があるのならその信仰を隠さず、表現しなさい。そうすればあなたが表現する通りにわたしは働こう。’
12年間も出血が続いて苦労していた女も同様でした。彼女のした事はあまりにも簡単な事でした。彼女にはイエス様の服に触るだけで救われると思う信仰がありました。従って彼女はイエス様に手を差し伸べました。彼女は信仰を表現しただけです。その時にイエス様の癒しの力が彼女に現れたのです。あなたが信仰の力を発揮しようと思わないで、ただ手を差し伸べて下さい。信仰の表現だけをして下さい。そうすれは神様の御力が表れることでしょう。
胃癌にかかったある女性がいました。
彼女の状況は手術のために開けたところを見て医者もどうしょうもなく、閉じなければならならないほど悪かったです。彼女には希望がありませんでした。ある日、彼女は牧師からある言葉を聞き、神様の御心を悟りました。彼女は御言葉の約束を信じました。人たちが病気で苦しむことが神様の御心ではないということと、イエス様が私たちの代わりにお受けになった傷によって私たちが癒されたという事実を悟りました。
‘神様の御言葉に到達する者にとって、それは命となり全身を健康(薬)にする。’(箴4:22)
‘イエス様はわたしたち患いを負い、わたしたちの病を担った。’(マタ8:17)
‘そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。’(一ペト2:24)
彼女は御言葉に頼って自分の信仰を心から表現し続けました。
彼女は自分の膨らんだお腹を見る度にお腹が縮んだ姿を思いえかきました。そしてまた元気な姿で働く自分を描いて見ました。そうすると2、3カ月が過ぎた時にお腹は元通りになり、また少し時間が経ってから癌のすべての症状が消えてしまいました。
たとえ目に見えるお腹は膨らんだけど、体は死刑宣告を受けたけど、心は全能な神様の約束のみことばで満ち溢れていたのです。信仰は病に勝ちます。神様が病に勝つからです。信仰の表現の後には神様の御働きが伴ないます。
真の信仰は ‘オ、イエス様、私を治して下さい。’と言うたげではありません。神様が期待される信仰の姿は願うことが既に適ったと宣言する姿です。
‘イエス様がお受けになった傷によって私は既にいやされた。’
‘私は既に治された!’
目に見える物によらず、信仰によって考え、話し、行ってみて下さい。(二コリ5:7) これこそが信仰の力なのです。

2.3つの信仰の表現
信仰の表現には考えと言葉と行動3つの種類があります。この 3つ種類は別々ではなく、一緒に力を発揮します。考えや言葉、行動が別になっていては真の信仰の表現だと言えません。心にもない言葉を言い続けることはできないのです。

1) 心の表現
神様はイスラエルの民に約束されたカナンの土地を確かにお与えになりました。ところが彼らは神様がお与えになった土地を受けることができませんでした。どうしてこのようなどんでもない事が起きたしょうか。彼らは上っていて与えられた土地を取りなさいという神様の命令に従いませんでした。彼らは神様を信じることができず、単純な信仰の表現ができませんでした。もちろん彼らが上がることをためらった理由は確かにありました。カナンの土地の人々がとても強いということを理由に結局、彼らは全能な神様に対する信仰の表現ができず、環境に対する信仰だけを強く表現しました。そのため、彼らは恐れたり(申1:21)リーダに不平を言ったり(申1:27), 心に大きい失望が生じたのです。‘我々の仲間は我々の心を挫いたではないか’ (申1:28)
彼らの心の中は恐ろしい環境のことでいっぱいになりました。神様が働かれる空間はどこにもありませんでした。
心が大事です。まず心が信仰を回復しなければなりません。心が御言葉の下図を描かなければなりません。心を環境に奪われてはいけないのです。何より心を守らなければなりません。心が常に神様の御心で満たされていなければなりません。心の中に神様がおられ、心が常に喜びに満たされ、心にいつも感謝がなければなりません。どんなに環境が心を奪おうとしても奪われてはいけないのです。心の中の絵が御言葉の絵で満たされている人は心に命と平和がある人です。しかし、心の中の絵が世の中の物でいっぱいになっている人は挫折と混沌、そして死によって崩れるようになります。
‘肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。’(ロマ8:6)
‘人は心で信じて義とされ…’(ロマ10:10)  
心に信仰の表現が満ち溢れている人は祝福された人です。

2) 言葉の表現
‘我々の仲間は我々の心を挫いたではないか…’(申1:28)
イスラエルの民を挫けさせたのは何でしょうか。彼らは直接カナンの土地を見たでしょうか。彼らはただ派遣された人たちの言葉だけを聞いて大きく挫けたのでした。言葉は重要です。あなたの一言のため、多くの人々が失望することになりかねます。失望はカナンの土地と結ばれています。失望した人は絶対にカナンの土地に入ることができないためです。失望は神様の御心に反することです。失望が他人の言葉から始まるという事実が恐ろしくありませんか。私たちは人を失望させる不信の言葉を言ってはいけません。失望からで救ってくれる信仰の言葉を言うように心懸けなければなりません。
ヨシュアとカレブはどのようにしてカナンの土地の主人になったのでしょうか。
他の人々は皆死んだにもかかわらず、なぜヨシュアとカレブは生きてカナンの土地に入ることができたでしょうか。その理由はただ一つでした。彼らは信仰の言葉を言ったからです。 ‘我々は彼らの前でいなごではなく、彼ら我々の餌食にすぎない’と堂々と言ったからです。(民14:9)
彼らは環境の立場から物事を言わずに徹底的に神様の立場から物事を言いました。信者は環境の肩を持ってはいけないのです。悪い環境の背後には必ず悪魔がいます。信者はどんな環境の中に立たされても御言葉に頼り、神様の味方にならなければなりません。そうすれば神様は私たちの味方になって下さいます。
派遣された12人は皆まったく同じ環境を見たにもかかわらず、どうして言う言葉はあんなに違っていたでしょうか。目に見える物に問題があるのではなく、見る人に問題があります。何を見るかは重要なことではありません。物事を見る観点が人の人生を変えます。
御言葉の目、神様の目、ヨシュアの目で見ることが信仰の回復なのです。

3)行動の表現
神様は先に信仰によって行動するのを望んでおられます。
イスラエルの民が神様の命令に従って上がっていたら聖書は変わったはずです。神様の命令に従うことは全然大変な事ではありませんでした。散歩するように上がれば良いのです。それはあまりにも簡単な事です。しかし、上がれば死ぬと信じ込むため、信仰がない人にとっては死ぬことより難しい事です。
ペトロも御言葉を頼って信仰をもって網を投げたら網が破れるほど魚を捕ることができました。網を投げる事はたとても簡単な事です。信仰をもっている人なら信仰の表現は誰にでもできます。神様は私たちに信仰の力を要求されるのではありません。ただ信仰の表現のみを望んでおられます。
御言葉どおり適ったと考えて下さい。
御言葉どおり適ったと言って下さい。
御言葉とおり適ったように行動して下さい。
それこそが神様の望んでおられる信仰のいけにえです。
それこそが神様が働かされる信仰の現場なのです。
あなたに信仰があると思いますか。その信仰を必ず表現して下さい。
信仰の表現がある所には必ず信仰の御働きが付いて来ます。
‘私は表現し、神様は働かれる’ ここそれが信仰の法則であります。

1 コメント

中森千草

2010-11-28 00:32:51

神様に対して純真な心を持つ事によって、道は開かれていくと思いました。
心の状態によって、後に続く表現や行動に大きく影響を与えてしまう。
どのような心で御言葉を受け入れるかが大事ですから、心が常に健康であるためにも、今日神様から頂いたメッセージを実行していきます。

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