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중앙영광교회

マリヤのお仕え

이용규목사, 2010-10-28 02:17:55

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神様は私達を自らお創りになり、また救ってくださり、選んで下さいました。
何故でしょうか?神様はその目的を明らかにされました。それは神様の聖なる仕事のためです。“God saved us and chose us to a holy work, not because that was his plan”「神が私たちを救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、私達の行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。」(Ⅱテモテ書1:9)
私達は神様が計画しておいて下さった業をするために、救いを受けました。
神様に仕え、神様の体である教会に仕え、教会の弟子として人々に仕えることは、私達の業の一つです。私達は何かすばらしい業を「したために」救いを受けたのではなく、仕える業を「するために」救いを受けたのです。

1.イエス様はこの世でどんな仕事をされましたか?
この世でイエス様ほど大きい、偉大なる、能力のある仕事をした人はいませんでした。
イエス様は本当に偉大なる生き方をなさいました。ですから天下(全世界)の万民はイエス様の前でひざまずき、イエス様に賛美の歌を上げるのです。
それならば、イエス様はこの世で果たしてどんなことをなさったのでしょうか?
どんな仕事のために人々も時代も超越して感動させ、神様にも非常な栄光になったのでしょうか?
イエス様は神様の前でご自分の生き方を次のように決心されました。
「行なうようにとあなたが与えて下さった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を表しました。」(ヨハネの福音書17:4)
イエス様の業はこの世で神様の栄光を表す業でした。神様を栄光にする仕事は簡単でした。神様がしなさいという仕事だけを良くすればよいのですから。イエス様が有名になられたのは、神様が下さった仕事を良くやったからです。イエス様は自分の事や世の誘惑を受けず、神様の業を最後までよく成し遂げられました。だからイエス様は十字架にまでお掛かりになられました。十字架にお掛かりになられることは決してイエス様の(肉体上の)仕事ではありませんでした。十字架は肉体を死なせるものであるために、絶対に(イエス様の)肉体のためではありませんでした。イエス様の魂の仕事、すなわち神様のために十字架にかかり果てられたのです。
このように神様とイエス様の関係のように、私達が本当にイエス様の弟子達であるならば、イエス様が重要だと思われる仕事を重要に思わなければならなく、イエス様が献身してなさる仕事は私達も献身して行わなければなりません。真実の弟子の姿は、その仕事の師にすっかり真似ることです。間違ったことをしている弟子にイエス様は厳重に叱りました。「サタン引き下がれ。あなたは私の邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイによる福音書16:23)
ペテロはイエス様が肉体の苦難を受け死ぬということはないと、徹底的にこの世のことを考えていました。しかしイエス様は十字架の死とその後の神様の業のことばかり考えていました。
イエス様は弟子たちにこのように言われました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネによる福音書6:27)

2.マリヤの家族はどのようにして神様の喜びになりましたか?
マリヤの家族は聖書において代表的な仕える家族でした。
彼等は神様と教会のために喜んで、一生懸命に支援をし、真に、良く仕えました。
ある日イエス様は彼らが住んでいる村のべタニヤをちょっと通りました。元来イエス様はガリラヤで生活なさっていましたが、季節々の行事には必ずエルサレムに来て、季節の行事を守っていました。イエス様はこの度も過越し節を守るために6日間のその前に来られました。ところでこの消息を聞いたマリヤの家族はイエス様を招待してお食事をすることにしました。このお食事がつまり仕えの現場でした。食事にはイエス様だけでなく、イエス様に従う人々もたくさん来ました。マリヤの家族達は信じる人たちに良く仕えました。
まず兄であるラザロはイエス様と一緒にいながら神と教会に仕えました。神と弟子たちと深い教会の交わりの時間を持ちました。神様の御言葉を心に刻み、神に祈り、聖徒達とみ言葉の中で交流し、霊的に気高い仕える姿でありました。
そしてマルタは料理の腕前が卓越していましたから台所で賛美歌を歌い、祈りながら何よりも神さまのことを考え、喜びながらおいしい料理を作りました。私たちの持っている才能でよいのです。決して他の人と比べる必要はありません。自分の持っているもので仕えることが最高のお仕えになるのです。それではマリヤはどのようにお仕えしたでしょうか?聖書にはマリヤのお仕えについて多く書かれています、なぜならマリヤのお仕えは特別でした。マリヤは、食べたい物も、着たい物も、欲しい物も節約して、その間準備していた純粋に精製された香油を持ってきて、値段も約300万円位になると言われていますが、マリヤにとっては大切なその気高い香油の入っている壺を割ってイエス様のために使おうと안뜰히香油を集めました。マリヤははっきりとした人生の目的を持っていました。「だからあなた方は食べるにしろ飮にしろ、何をするにしても、すべて神の栄光のためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)
イエス様はマリヤがイエス様のお葬式のために香油を準備したと知りました。イエス様の死のための最高のお仕えです。イエス様は私たちが生きるためにお金を出すことでなく、家を用意することではありませんでした。イエス様はご自身の命を和解のいけにえとして私達に下さいました。イエス様がこのように度外れた代価を払って下さったために私達が生きていられるのです。ところで300万円位の香油をイエス様に差し上げるのは何かもったいないことでしょうか?マリヤは明らかに感謝と感激で満たされ、もっと差し上げられないことを残念に思いました。マリヤはオズワルドの告白のように「神様の最高は私の最高」をしたのです。そしてマリヤが喜びと感激でイエス様に手厚くお仕えした重要な理由は、彼女はイエス様の恩恵を深くわかっていたためでした。この間死んだ兄のラザロを直ちにイエス様が生き返らせたためでした。ラザロを生き返らせたことと風邪を治したことと比較すれば、私達に永遠の命を下さることは、癌を完治させるよりももっと大きな事件と言えるでしょう。
だから私達はマリヤよりももっと大きな感激でお仕えする姿を自分の中に起こさなければなりません。

3.誠実な仕える姿とはどんなことでしょうか?
この世に真実に仕えるにはどんな姿が現れるでしょうか?奴隷(しもべ)の姿です。僕の定義が仕える者だからです。だからイエス様も私達に仕える姿を見せて下さる時には、僕の姿を見せて下さいました。この時代の僕の代表的な仕事で、僕の姿というのはご主人の足を洗って差し上げることでした。外出から帰って来られた主人は荒れ野の汚れた泥でいつも汚れていました。僕はいつも主人の足をきれいに洗って差し上げる姿が仕える姿勢です。イエス様はこの僕の姿勢で弟子の足を洗って下さいました。
またお互いが仕えあわねばならない、偉大な人物になろうとするなら、僕にならなければならないと教えられました。イエス様は王として来られましたが、ひざをかがめて仕える王として来られました。
私達も神さまの王子、王女として生きるなら、仕える王子王女として生きなければなりません。
マリヤもイエス様に最善のお仕えをしたいために、マリヤは水でなく高価な香油でイエス様の足を直接拭いてあげ、手ぬぐいではなく、自分の髪でイエス様の足をふいて差し上げました。最上の神様に最善をしたのです。これはどんなに神も、この福音がのべつたえられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイによる福音書26:12)
イエス様は仕える仕事を大変に気高いと考えておられました。福音と同じ水準で言われました。信じる人が行くところは福音が現われなければならないだけでなく、仕える姿もつき従っていてなければなりません。イエス様がこの世に来られたのは仕えるためでありました。

4.ユダはなぜ滅びたか?
ユダは私達の反面教師です。だから聖書はマリヤの仕えの後にユダの悪い姿を記録しているのです。
ユダはイエス様の弟子でした。イエス様のお陰で良く生きて来ました。しかしユダは感謝が無いばかりかイエス様を売ることまで考えました。彼はどうしてそうかというと仕えることを知らない人だったからです。仕えるということは相手を考え、相手のためにすることです。ユダは自分のことばかりを考え仕事をする人でありました。そればかりでなく、神様の仕事も自分のものに考え、献金も盗むこともありました。人生の目的はただ自分自身のためでした。聖書ではユダを泥棒としています。
ユダは神様の仕事をぬかりなくしながらも、心の中では自分のことばかりを考えている悪い人でした。そればかりでなくマリヤの香油も盗もうと考えていました。マリヤがそれを売ってユダがお金の管理をして、その一部を盗もうと考えていました。だから彼はマリヤの仕えることにものすごく腹を立てたでしょう。聖書を詳しく読むと、仕えることの反対は盗むことと悟らなければなりません。
信仰の人は盗みをしてはいけません。それではどうしたらよいでしょうか?マリヤのように仕える人に、なればいいのです。私はマリヤのような生き方をとるか?ユダのような生き方をとるか?選択は自分でしなければなりません。神様は今でも私達の賢明な選択を待っておられます。

1 コメント

中森千草

2010-10-28 20:44:57

仕える事は、自分の持っているもので出来るのだと
気付いたとき、すぐに行なえる仕事だと思いました。
いろいろ考え過ぎたぶん、行いにまで到達するのに時間がかかったり、出来ていなかったことに反省しています。
心が動いたら、すぐに体を動かすことを、忘れずにいきます。

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