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중앙영광교회

이용규목사, 2010-09-20 02:35:08

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突然押し迫って来た台風のせいで農夫が真心を込めて作ったブドウがすべて落ちってしまったとしたら農夫の心はどれほど虚しいものでしょうか。
イエス様は私たちの人生にも必ず実らせるべき実があるとおっしゃいます。その実とは農夫のブドウよりはるかに大切な物です。なぜなら、その実は神様と直接結ばれているからです。‘あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子になるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。’(ヨハネ15:8)
神様に栄光を捧げ、イエス様の弟子になる道とは他でもなく神様のうちで多くの実を結ぶことなのです。それではその実は何であり、どのようにして実らせる物なのかをイエス様の御言葉を通して考えてみましょう。

1. 種の信仰
実を結ぶことこそ人生の目的です。
そのためイエス様は人生を畑に例えられました。畑は種が蒔かれないと実を結ぶことが出来ません。それでは人生の畑に蒔く種とは何でしょうか?世の中の畑に蒔く種はブドウの種、スイカの種、桃の種など多くの種類があります。人生の畑にはどんな種を蒔くべきでしょうか?お金の種、知識の種、名誉の種、夢の種などを蒔けば良いのでしょうか?人生の畑に蒔く種は世の中にある種とは異なって、神様がお造りになった種です。肉体の種ではなく魂の種であり、御言葉の種なのです。
‘種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。’(マルコ4:14) 
皆さんは神様の御言葉についてどのように思われますか?
‘初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。’(ヨハネ1:1)
御言葉はまさしく神様ご自身です。そのため、御言葉を無視することは即ち神様を無視することであり、御言葉を敬うことは即ち神様を敬うことにつながります。
イエス様の例えに初めて出て来る畑は道端にある畑です。道端にある畑を持っている人は御言葉に対して心を閉じた人です。御言葉を聞いても何の感動も関心もない人であり、御言葉は自分の人生とは何の関係もないと思う人です。
そして自分の人生の畑に蒔かれた神様がお与えになった命の種である御言葉に全く気付いてない人です。そのような人は御言葉を受け入れる態度を見ると全く真剣さが感じられません。御言葉を聞く時に居眠りをしたり、別の行動をしたりします。御言葉を受け入れず、外に落ちている姿があまりにも鮮明に見えます。体は礼拝を捧げていますが、心は他のことを考えています。 ‘あなたの仰せを味わえばわたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。’ (詩119:103) この御言葉が嘘のように聞こえる人です。
種に対する信仰がなければ種を蒔くことができません。お店で売っている種を信じるなら、神様が自らお与えになる御言葉の種を信じることは最もであり、当然なことです。かえって信じていない人が不思議なのです。
悪魔は御言葉の種の大切さをよく知っています。そのため、御言葉の種が蒔かれるところには一番先に悪魔が現れます。蒔かれる御言葉を素早く奪うためです。(マルコ4:15) 道端にある畑を持っている人は御言葉が蒔かれる前にすべて悪魔に奪われてしまいます。悪魔が狙っているのはお金でも健康でも名誉でもありません。悪魔は今も御言葉を狙っています。悪魔は御言葉の力を誰よりもよく知っているからです。私たちは悪魔が持っている種(御言葉)の信仰を取り戻すべきです。
お金を奪われることは悔しがるのに御言葉を奪われることはなぜ少しも悔しいと思わないでしょうか?御言葉の価値が分からないからです。お金を奪われることは少しの物を失うことでありますが、御言葉を奪われることは人生そのものを失うことになります。

2. 根の信仰
二つ目の畑は石だらけの畑です。ガリラヤにはこのような畑が多いですが、聖徒たちの心の中にも最も多いのがこの石だらけの畑です。石だらけの畑は外見から見ると全然悪くないように思えます。青い芽がきれいに出てくるため、初めの頃はとても正常に見えます。ところが少し時間が過ぎると根がないため、すぐに枯れてしまいます。イエス様は石だらけの畑について次のように仰せられます。‘御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらく続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。’(マルコ4:16,17) 芽が出てくることだけに満足してはいけません。芽は土が浅い石だらけの畑からも出てきますし、湿気さえあれば出てきます。ところが根は違います。根は種だけではなく、必ず土がなければ根付くことができません。
御言葉にも根が重要なのです。御言葉の根が人生の中につかないと私たちは艱難に遭った時、簡単につまずいてしまいます。根が土につくように御言葉の根は私たちの人生と直接つながっています。御言葉と人生が別な物になりますと根がつくことはできません。根は御言葉と人生がつながる部分であるためです。信じる人は根深い木にならなければなりません。そのためには御言葉が人生の中に徹底的に入り込まなければなりません。御言葉に従い、御言葉を行い、御言葉を人生の中に適用する姿こそが人生の中にしっかりと根がついた姿です。御言葉を受け入れるだけで行わないなら芽の信仰に過ぎないため、根がつくことは出来ません。土がないところに根がつかないように適用しない所には御言葉の根はつきません。教会の中ではたくさんの恵みを受けて信仰がよい人に見えるのに、世の中に出ると根がつかないため、すぐに御言葉の芽が枯れてしまい、御言葉とは全く関係のない人生を生きる人があまりにも多いのです。
彼らはいつも後悔しながらも石だらけの畑のような信仰生活を続けているのです。そして彼らは教会の中では芽が出るのに、教会を出るとすぐに枯れてしまう悪い習慣の輪を断ち切ることが出来ません。
この輪を断ち切るためには畑をよく耕さなければなりません。大きい石は取り出し、小さい石は砕いて根が良くつくような畑にしなければなりません。種を蒔くことも重要ですが、畑を耕すことはさらに重要なことです。種を蒔いた経験がある人はよく分かるはずです。種を蒔く時間は本当に短いですが、種を蒔く畑を作る作業は莫大な努力と時間が必要です。なぜこのように誠意を尽くすのでしょうか?その理由は根をよくつかせるためです。あなたは主日礼拝の時に神様の種、命の種、人生の種である御言葉を頂くためにどれほどの準備をしているのでしょうか?準備された礼拝は豊かな実を保障してくれます。種が蒔かれるままよく根がつくはずです。種(御言葉)に眼を向けず、自分自身の畑の問題を解決しようと努力してみて下さい。きっと人生は変わることでしょう。


3. 実の信仰
三つ目の畑は茨の畑です。
この畑の種はよく根を張り、枯れずに最後まで育ったのです。しかし、もどかしいことは実が結ばれていないことです。根には何の問題もないのになぜ実を結ぶことができなかったのでしょうか?その原因は茨にあります。茨が大きくなって実を結ぶことを止めてしまったためです。どんなに土が良くても畑が茨だらけですと実を結ぶことが出来ません。最後まで育ったとしても栄養分がすべて奪われるため実らせることが出来ません。
私たちの人生の畑ではどんな物が私たちの力を奪うのでしょうか?何が人生の茨(雑草)でしょうか?イエス様は正確にお教えになります。‘この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。’(マルコ4:19) 御言葉が実を結ぶことを邪魔する茨は明らかにあります。それは世の中のことに対する思い煩いと富の誘惑、世の中に存在する欲望なのです。これらは一見みると私たちの人生に必要な物、良い物に見えます。そのため、人たちは思い煩いや誘惑、欲望の深刻性について鈍感なのかもしれません。しかし、聖書にはこれについてとても深刻に書かれています。‘霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。’(箴17:22)‘あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。’(マタイ6:27)‘そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。’(ヤコブ1:15,16)
騙されてはいけません。思い煩いや誘惑、欲望は茨、そして毒薬なのです。
賢い農夫は絶対に茨や雑草を大きくさせません。目に見えると素早く取ってしまいます。実を結ぶためには良い種や畑も重要ですが、良い環境がなければ良い実を結ぶことが出来ないことを農夫はよく知っているのです。
ところが問題は茨(雑草)が茨に見えず、穀物より良い物に見えるということです。そのため、人々の中にはむしろ思い煩いや誘惑、欲望の雑草を自ら大きくさせている人もいるのです。思い煩いや誘惑、欲望は思い切って取らなければなりません。なぜなら、それらは人生の中で最も恐ろしい雑草であるためです。
目の前にどんな有益があるとしても騙されてはいけません。思い煩いや誘惑、欲望は結局、人生の実をすっかり奪ってしまいます。最善(BEST)の一番怖い敵は最悪ではなく、第2の最善(次善)であることを覚えなければなりません。
一緒に叫んでみましょう。
‘世の中の思い煩いは私の人生の茨だ!誘惑と欲望は私の人生の雑草だ!’‘見つけると直ちに取ってしまおう’御言葉の実が結ばれないようにする犯人は心の中にある思い煩いと誘惑、欲望なのです。

4. 霊的な雑草(茨)の除去剤
心配したくないのに心配になり、誘惑されたくないのに誘惑の手が近づき、欲張りたくないのにしきりに欲望の芽が伸びてきます。雑草は蒔かなくても自然に出てきます。
心の中にある雑草(茨)はどうすれば除くことが出来るのでしょうか?
このような雑草を英語聖書では‘あらゆることとほしがる物に対する思い煩い’と表現しています。結局、誘惑と欲望も思い煩いにつながっているのです。頻繁に現れる人生の思い煩いを取り除く方法は何でしょうか?‘どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。’(フィリ4:6,7) 祈ることです。祈りがあるところでは思い煩いは枯れてしまいます。祈る時には平和の神様が私たちの心の中で働かれるためです。祈りはすべての思い煩いを追い払ってくれます。思い煩いに襲われる時はすぐに祈らなければなりません。そうすれば御言葉を奪われず、実を結ぶことが出来ます。
畑に種が必要であるように私たちの人生にも御言葉が必要です。
畑の雑草をしきりに取り除かなければならないように、私たちもしきりに祈らなければなりません。
そうすれば神様が畑に実をお与えになるように私の人生にも尊い実をお与えになるはずです。‘わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。’(ヨハネ15:7,8)
まず御言葉を蒔いて、祈りを持って育ってなければなりません。
そうすれば人生の実が30倍、60倍、100倍、1000倍になるように神様が実らせて下さるでしょう。
特に今回の40日特別早天礼拝が皆さん一人一人に御言葉の種が蒔かれ、祈りを持って育てられた結びの良い実を得ることができる天国の宴になるように祝福します。

1 コメント

中森千草

2010-09-20 08:37:38

現在与えられている環境は、信仰をする上でとてもすばらしく、
感謝の日々です。
この10ヶ月という歳月は、この先忘れられないものになるでしょう。
いろんな状況が与えられ、祈りをひと時も欠かすことができず、
何より家族が祈りを求める切実な姿は、忘れることができません。
準備して、受け入れ、そして育てる。
どの工程も重要ではありますが、どんな環境においても、
忍耐を持って追い続けることは容易なことではない。
しかし、ゴールは必ずある。
だから、私はやめません。

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