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중앙영광교회

愛と懲らしめ

이용규목사, 2010-04-24 22:14:57

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いくら良いことでも片方に偏りますと多くの問題をもたらします。
伝道はもちろん重要なことではありますが、家庭や学業も投げ出して伝道にだけ集中することは深刻なことです。異端も一生懸命に伝道します。伝道自体に問題があるのではなく何かに偏ることが問題なのです。神様の御再臨はとても重要ですが、しかし再臨だけを強調した時にどんなに深刻な社会問題が起きたのか私たちは既に経験しています。また神癒も重要ですが、神癒だけを強調すると信仰の奇形現象が起き、結局は困難な状況に遭います。健康の秘密はバランスをとることです。バランスを保つことです。
全体的なバランスを失うと結局は沈没するか墜落することになります。体の一部分だけが急成長をしてしまうと結局、癌になり、体全体の健康を失うことになります。そして自分が好きな食べ物だけを摂取すると体の健康は失われます。いくら一方の翼が丈夫であろうと片方の翼が完全でないと飛行機は飛ぶことが出来ないのです。愛にも二つの翼があります。愛にも必ずバランスが必要なのです。そうでないといくら良い愛でも結局、相手を墜落させてしまいます。それでは愛のバランスとは何でしょうか?

1. 愛の二つの翼
愛にも必ず二つの翼があります。それは優しい愛と厳しい愛を指します。簡単に言えば愛と懲らしめです。懲らしめのない愛は人を墜落させ、愛のない懲らしめは人を沈没させます。この二つの翼のバランスが悪いと飛ぶことは出来ません。最近の人たちは一つの翼だけに集中しすぎていて結局、子供たちをだめにしたりします。愛に対する誤解を直ちに治さなければなりません。無条件に良くしてあげること、ほしがる物を全部与えること、してあげたいことを全部してあげることが果たして愛なのでしょうか?決してそうとは言えません。それはかえって相手(子供)に猛毒になりかねません。聖書で言っている愛とは‘良くしてあげること’ではなく, ‘正しく生きるようにさせること’です. 愛とは人の欲求を良く聞いてあげることではなく、その人が正しく生きるようにさせることなのです。
神様の愛は完全な愛です。私たちが正しく愛を実践するためには神様の愛の実践方法に従えば良いのです。神様は限りない憐れみをお持ちでしたが、反面、限りない厳しさも持っていらっしゃいました。神様はいつも愛と公議を同時にもっていらっしゃいましたが、ここで言う公議とは懲らしめを意味します。懲らしめは愛の別の表現方法です。そのため神様は次のように仰せられました。‘わが子よ、主の諭を拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように主は愛する者を懲らしめられる。’(箴3:11-12)  知恵のある父は可愛い子供を懲らしめられます。そして神様は私たちを愛しておられるため、私たちを懲らしめるのです。懲らしめは愛から出るので尊いものなのです。従って懲らしめは感謝をもって受けるべきです。懲らしめを軽んじたり、嫌がったり、懲らしめられても力を落としたりしてはいけません。なぜなら、懲らしめの中には神様の真の愛の宝が隠されているからです。
わが子を本当に愛していますか?そうであるなら必ず懲らしめなさい。懲らしめの鞭を打ちなさい。そうすればあなたの子供は正しく成長するのでしょう。 ‘懲らしめの杖は知恵を与える。放任されていた子は母の恥となる。’ (箴29:15) わが子を憎んでいますか?そうであるなら懲らしめないで下さい。好き勝手にするように放任して下さい。そうすればあなたの子供はあなたに恥をかかせてくれるでしょう。ところでさらに深刻な問題がありますが、それは多くの愚かな親が子供を懲らしめないということです。そして懲らしめないことが真の愛だと勘違いをしているのです。
チョン・チェボン詩人が書いた‘豆さんの子供教育’は私たちに厳しい忠告をしています。
‘荒野に送りだした子供は豆の木になり、
温室に入れた子供はもやしになる’
同じ豆であっても育て方によって木になったりもやしになったりするのです。もやしには常に必要な水が与えられ、温かいところで育つため根がないのです。根はすなわち自生力を意味します。もやしのように育った子供は決して自生力を持つことが出来ないのです。従って花を咲かせることも実を結ぶことも出来ません。つまり生産力が全くないので、かろうじて与えられるものを食べながら人生を終えることになるのです。しかし豆の木は違います。豆の木は荒波に耐えながら自ら水を探すため、自然に根が発達してものすごい自生能力を持つようになります。子供たちが良い根を張るようにさせる親が知恵のある親なのです。そのためには子供たちを荒野に送りださなければなりません。それがまさしく懲らしめであり、懲らしめは根付くための良い秘訣なのです。
厳しく育てた子供が親思いの子になり、ちやほやされて育てた子供は親不幸者になりやすいです。
甘やかして育てた子供は弱い者になり、厳しくしつけて育てた子供は強い者になります。
子供を放任しすぎるのも良くないのですが、今日のような過剰保護は深刻な問題をもたらします。その上、その深刻性が分からない親の無知がさらに深刻な問題をもたらします。 ‘若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。’ (箴23:13) 子供は親の責任です。親のよって子供はだめになることも良くなることも出来るからです。
‘若者の心には無知がつきもの。これを遠ざけるのは諭の鞭。’ (箴22:15) 知恵のある親は子供の心の中にある無知を取り除いてくれます。

2. 懲らしめに対する見る目を変える方法
信じる人にも苦難と患乱が訪れます。重要なのはそれに対する考え方を変えることです。イエス様も耐えきれない十字架の懲らしめをお受けになりました。それは滅亡のための懲らしめではなく、人類の救いのために与えられた神様からの最高の愛の懲らしめでした。信仰を持っている人に来る懲らしめは徹底的に神様から与えられる愛の懲らしめでありますし、それを乗り越えた後には驚くほどの栄光が待っているのです。愚かな人は懲らしめを軽んじて嫌がり、失望しますが、賢い人は懲らしめられる時に自分が神様の私生児ではなく、実の子供であることを悟り、懲らしめを感謝しながら耐え切ります。
それではどうすれば懲らしめられた時に感謝することが出来るのでしょうか?

1) イエス様を考えなさい
苦難の時には私たちが何を考えているのかが重要なのです。何を見ているのかによって考え方が変わってきます。懲らしめの時に私たちが真っ先に集中して考えなければならないのは十字架の上のイエス様です。  ‘信仰の創始者または完成者であるイエスを見つめながら。’ (ヘブ12:2)イエス様は苦難に打ち勝った勝利のモデルです。信仰の中での苦難はたとえそれが十字架の死のような大きな懲らしめだとしても絶対に悪くならないことを神様は自ら証明して下さいます。イエス様の苦難は全世界の人に有益となりました。しかし、イエス様はこのような途方もない懲らしめをどのようにして勝ち抜かれたのでしょうか?イエス様は懲らしめの後に来る良い結果を信仰の目で見つめられたのでした。 ‘このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、十字架の死を耐え忍び’(ヘブ12:2) 懲らしめの意味は ‘正す’, ‘訓練’なのです。そのため、懲らしめられた後は歪んだものが直され、未熟なことが上手に出来るようになります。苦難の時は神様から与えられる苦難の後に来る祝福を考えて下さい。そうすれば悲しみの代わりに微笑みを浮かべることが出来るのでしょう。

2) 御言葉を考えなさい
神様の御言葉には偽りがないです。たとえ天地が無くなることがあっても神様の御言葉は約束通り叶えられます。辛い時は信仰を持って神様の御言葉に頼らなければなりません。聖書にははっきりと次のように書かれています。 ‘子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。’ (ヘブ12:5,6) 苦難が来た時は神様が約束なさった御言葉を覚えなさい。その御言葉が私たちに大きな力になってくれると信じます。御言葉を黙想し、暗記すれば世の中ではもらえない力をもらうことが出来ます。‘神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。’ (ヘブ12:7) 懲らしめは神様の特別な扱いなのです。実の子供としての扱いなのです。そのため、懲らしめは神様の愛の最高の表現なのです。従って私たちは懲らしめられる時は神様に感謝すべきです。‘私は神様の本当の子供なのだ!’

3) 自分のお父さんを見なさい
お父さんを見れば神様が見えます。お父さんは神様の影なのです。子供を叱らない親はいないと言っています。小さい時、両親に一度も叱られなかった子供はおそらくいないでしょう。親は子供を愛するためにその表現として叱ったり、鞭を打ったりしたのでしょう。‘肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。’ (ヘブ12:10) 神様は肉親の親よりもっと私たちを愛され、私たちが正しく育つことを望んでおられます。そのために神様は私たちに愛の懲らしめをお与えになるのです。神様は私たちを形式上の子供ではなく、実の子供として育てることを望んでおられます。

4) 実を考えなさい
聖書には懲らしめの特徴が良く表現されています。‘およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。’ (ヘブ12:11) たとえ懲らしめの姿が楽しそうに見えるとしたら誰も懲らしめを嫌がらないでしょう。むしろ皆が懲らしめを慕うでしょう。そして先を競って懲らしめを受けようとするでしょう。高いお金を払ってまで懲らしめを受けようとするかもしれません。しかし、懲らしめられる瞬間は悲しくなり、辛くなり、失望や絶望まで与えられるので、出来れば避けたいのです。そのために多くの人は懲らしめを嫌がります。ところが懲らしめられた後の姿は全く違う姿なのです。懲らしめは義と平和の最高の実を結ばせてくれます。その実を考える人は懲らしめを尊い物として受け入れることが出来ます。あなたの目の前に懲らしめがあるのでしょうか?目の前だけを見ないで懲らしめの後に来る姿を想像して見て下さい。そうすれば懲らしめの大切さがすぐに分かるのでしょう。
種をまくことは大変なことです。しかし収穫する時はそれ以上の幸せを味わうことが出来るのです。‘種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。’ (詩126:6)

あなたは今、懲らしめられていますか?
神様の愛を信じなさい。そして神様の御言葉に耳を傾けなさい。
神様は次のようにはっきりと仰せられます。
‘だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すとこなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。’ (ヘブ12:12-13)

1 コメント

中森千草

2010-04-25 02:59:24

鍛えをいただいています。
私の弱い部分に対して、いろんな形で。
私の成長が遅いのが原因ですが、長いです。
何度も押しつぶされそうになりましたが、イエス様の存在により
光のほうを見ることができています。
解決法は、御言葉です。

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