「あなたは神様の神殿」
御言葉//コリントの信徒への手紙一3:16-17
1. 知らないのですか
神様は私たちに聞いておられる。「あなたがたは知らないのですか。」
この言葉は、「既に知っているのに、どうして実際は全く知らない人のように生活しているか?」の意味に近い。教えることより、覚醒を促す意味である。知っていても実際の生活がそうでなければ、実はよく知らない人である。その価値を本当に知っているならば、絶対そういうふうには生きないからだ。
西洋人たちが最初アフリカ大陸に行ったとき、アフリカの子どもたちが石でお手玉遊びをしていたのを見たという。しかし、驚いたことは、その石が普通の石ではなく、ダイヤモンドの原石だったことである。子どもたちは億台が超えるダイヤモンドで遊んでいた。子どもたちは、西洋人たちが与えるおいしい飴一つにとても感謝しながら、何回もお辞儀をしながら、自分のダイヤモンド原石を1個ずつあげたという。今考えてみると、あり得ないことである。億台を超えるダイヤモンドを、飴1個で変えるものだろうか。それも、とても感謝しながら。価値を知らないと、ダイヤモンドではなく、もっと貴重なものも、人々は捨ててしまう。アフリカの子どもたちは、飴の価値は味で分かったものの、ダイヤモンドの価値は全く知らなかった。ただ使えない石だと思った。誰も教えてくれなかったからだ。そのため、彼らは飴1個でなく、飴の工場も建てられるダイヤモンド原石を、飴1個に渡してしまったのである。
信仰は、価値を知ることである。飴の価値を知ることではなく、ダイヤモンドの価値を知ることである。肉のことの価値を知ることではなく、霊のことの価値を知ることである。世のことの価値を知ることではなく、天国のことの価値を知ることである。いかに貴重なものを与えても、価値を知らない人は捨ててしまう。
本当に価値のある人は、大事なこと(もの)の価値を知る人である。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。」(マタイ7:6)
イエス様がおっしゃった「神聖なもの」と「真珠」は何だろうか。今日の本文からその解答を見つけてみよう。真珠の中の真珠は、聖霊である。聖霊は、人間がもらえる最高のプレゼントである。聖霊は神様の霊であり、神様ご自分である。その大事な聖霊が、今私たちの内におられる。いかに素晴らしくて感動することだろうか。「私は、神様の神殿だ。」「今、私の中に聖霊様がいらっしゃる!」これより祝福された良い言葉がどこにあるだろうか。これより力のある言葉がどこにあるだろうか。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(コリント一3:16)
パウロがエフェソを訪問したときに、ある信者たちに聞いた。
「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか。」(使19:2)
パウロは決してこう聞かなかった。「信仰に入ったとき、病が癒されましたか。」「信仰に入ったとき、お金持ちになりましたか。」「信仰に入ったとき、成功しましたか。」聖霊は、健康、富、成功よりもっと大事なのである。信仰の証拠は、聖霊である。クリスチャンの証拠は聖霊だからだ。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ8:9)
聖霊を信仰のダイヤモンドとして知っている人は、当然、求めるようになる。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)
あなたは聖霊をどれほど愛しているか。どれほど願い求めているか。あなたの持ち物をすっかり売り払って、買いたいほど愛しているか。
初代教会の信徒たちはどうだったか。
復活され、天に上られる前に、イエス様が弟子たちに最も多く頼んだのは何だったか知っているか。「私の代わりに聖霊を遣わすから、どんなことがあっても必ず聖霊を受けなさい。」ということだった。(ヨハネ20:22, ルカ24:49, 使1:4,5, 使1:8//ヨハネ14章, 15章, 16章)
弟子たちは聖霊の価値を十分悟った。そのため、彼らは聖霊を受けるまで10日間も何もせず心を合わせて、熱心に祈っていた。 (使1:14)
人は、価値を認める分だけ献身する。
現在、聖霊の価値が天から地に落ちてしまった。
教会で最も無視されている方は聖霊である。一日一回も聖霊のことを考えず、一日一回も聖霊と話さず、一日一回も聖霊に従順しない人が少なくない。聖霊降臨節は、聖霊のお誕生日なのに、もしかして聖霊が私たちによって一人住まいの年寄りに扱いされているのではないだろうか。
2. 幸せの本当の秘訣は?
ヨンセ大学のファン・スガン教授は、健康の秘訣についてこう話した。
「健康の秘訣は、イエス様をちゃんと信じ、イエス様に似たような生活をすることだ。」
私たちの体には、一日約3~400個の癌の細胞が生じるが、笑う人は癌にかからないという。癌細胞の天敵は、笑いだという。
そして、「明るい表情は、成功の契約書である。笑うとすべてが通じる。」と話した。
私たちは誰も笑いながら生きたいし、愛し合いながら生きたいし、平和で生きたい。しかし、これが思ったより簡単ではない。逆に、憎む人を愛そうとすると、ストレスをもっと受ける場合がある。どうすればこのいい実りが人生に自然に結ばれるだろうか。実は木があれば自然に結ばれる。木がないのに実を作るのは、形はできるかもしれないが、力はない。
愛と喜びと平和は、聖霊の実である。聖霊が結んでくださる実である。聖霊がおられると、自然に結ばれる実である。聖霊が結んでくださる実を、人が結ぶというのは、不可能に近い。それゆえ、自分の力で愛し、喜び、平和で生きることはとても難しいことである。信仰の人は、自分の力ではなく、聖霊の力で生きる人である。そうすると、聖霊の実は自然に結ばれる。
愛し合いながら生きようと努力するより、まず聖霊の人になるように努力すべきである。
喜びながら生きようと努力するより、まず聖霊に満たされるように祈るべきである。
平和で生きようと努力するより、まず聖霊の導きをいただこうと努力すべきである。
聖霊はこのすべて(実)の木だからだ。木だけきちんと育てば、実は自然についてくる。
多くの人々はだまされて生きている。環境のせいで、幸せになれないという。
ステファノは、石に投げられ死にながらも、天使のような明るい表情を見せたし、パウロは牢に入っているものの、「喜びの伝道士」として「重ねて言います。喜びなさい。」と言いながら(フィリピ4:4)、逆に牢の外にいる人々に喜びを分かち合った。決して環境によって彼らが幸せになったわけではない。彼らは、環境がよい人々ではなく、聖霊に満たされた人々だった。(使6:5, 55, 使 9:17)
環境と幸せは無関係だが、聖霊と幸せは直接つながっている。聖霊は幸せの木だからだ。その大事な聖霊が今あなたの内におられる。幸せの実を結んであげることを願われる。これより素晴らしくて喜びのニュースが他にあるだろうか。
イエス様は私たちを孤児にはしておかないと言われた。(ヨハネ14:18)
この孤児とは、両親のいない子ではない。聖霊がおられない子である。もっと正確にいうと、聖霊を忘れ、無視しながら生活している人である。信じる人にはすでに聖霊がおられるからだ。実は孤児ではないのに、自ら孤児のように生活しているクリスチャンがこのごろ非常に多い。
3. 聖霊によって生きるためには?
信じる人々の内にはすでに聖霊がおられる。(使2:38, コリント一3:16, コリント一 6:19)
イエス様は、私たちを孤児にはしておかないために、聖霊を私たちに遣わしてくださった。ところで、私たちは聖霊によって生きていない。なぜだろうか。聖霊によって生きるためには、どうすればいいだろうか。
まず、自分の内におられる聖霊を常に考えなければならない。意識しなければならない。考えの中に聖霊がおられる人が、聖霊によって生きる人である。聖霊に従う人は、聖霊のことを考えるようになる。(ローマ8:5) あなたは一日どれほど聖霊を意識しているか。自分の内におられる聖霊を意識しながら、その汚い考えをすることができるものか。その悪い言葉が言えるものか。誰もいないからといって、そのような罪を犯してもいいものか。人はそばにいなくても、聖霊はあなたの内におられるのではないか。
あなたは、本当にそばにいる人をもっと意識しているか。内におられる聖霊をもっと意識しているか。
二番目は、聖霊といつも交わりをしなければならない。聖霊は交わりの霊である。(コリント二13:13) 聖霊は、私たちと交わりをすることを願われる。もしかして、あなたは聖霊に一日一言も言っていない冷たい人ではないか。聖霊は人格を持っておられる。夫が妻に一日一言も言わなかったら、きっと大きな問題があるだろう。聖霊と自然な交わりが生きなければならない。何をしても聖霊と相談し、聖霊に愛の告白、感謝の告白をするのが正常である。どれほどの多くの人々が、聖霊と非正常的な同居をしているだろうか。
三番目は、聖霊に従順しなければならない。
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)
「霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)
神様は、神様の神殿を壊さないで、聖なる者になりなさいとおっしゃった。(コリント一3:17)
「聖なる」というのは、肉的でなく、霊的だという意味である。霊的な人は、肉の欲に従わず、聖霊に従う人である。
私たちが聖霊に従えば、聖霊の実は自然に結ばれる。
聖霊によって生きる人は、
いつも聖霊を意識し、
いつも聖霊と交わりをし、
いつも聖霊に従順する人である。
あなたの聖霊の生活はどうか。
聖霊を喜ばせる人は、その人生に喜びが絶えないであろう。
御言葉//コリントの信徒への手紙一3:16-17
1. 知らないのですか
神様は私たちに聞いておられる。「あなたがたは知らないのですか。」
この言葉は、「既に知っているのに、どうして実際は全く知らない人のように生活しているか?」の意味に近い。教えることより、覚醒を促す意味である。知っていても実際の生活がそうでなければ、実はよく知らない人である。その価値を本当に知っているならば、絶対そういうふうには生きないからだ。
西洋人たちが最初アフリカ大陸に行ったとき、アフリカの子どもたちが石でお手玉遊びをしていたのを見たという。しかし、驚いたことは、その石が普通の石ではなく、ダイヤモンドの原石だったことである。子どもたちは億台が超えるダイヤモンドで遊んでいた。子どもたちは、西洋人たちが与えるおいしい飴一つにとても感謝しながら、何回もお辞儀をしながら、自分のダイヤモンド原石を1個ずつあげたという。今考えてみると、あり得ないことである。億台を超えるダイヤモンドを、飴1個で変えるものだろうか。それも、とても感謝しながら。価値を知らないと、ダイヤモンドではなく、もっと貴重なものも、人々は捨ててしまう。アフリカの子どもたちは、飴の価値は味で分かったものの、ダイヤモンドの価値は全く知らなかった。ただ使えない石だと思った。誰も教えてくれなかったからだ。そのため、彼らは飴1個でなく、飴の工場も建てられるダイヤモンド原石を、飴1個に渡してしまったのである。
信仰は、価値を知ることである。飴の価値を知ることではなく、ダイヤモンドの価値を知ることである。肉のことの価値を知ることではなく、霊のことの価値を知ることである。世のことの価値を知ることではなく、天国のことの価値を知ることである。いかに貴重なものを与えても、価値を知らない人は捨ててしまう。
本当に価値のある人は、大事なこと(もの)の価値を知る人である。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。」(マタイ7:6)
イエス様がおっしゃった「神聖なもの」と「真珠」は何だろうか。今日の本文からその解答を見つけてみよう。真珠の中の真珠は、聖霊である。聖霊は、人間がもらえる最高のプレゼントである。聖霊は神様の霊であり、神様ご自分である。その大事な聖霊が、今私たちの内におられる。いかに素晴らしくて感動することだろうか。「私は、神様の神殿だ。」「今、私の中に聖霊様がいらっしゃる!」これより祝福された良い言葉がどこにあるだろうか。これより力のある言葉がどこにあるだろうか。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(コリント一3:16)
パウロがエフェソを訪問したときに、ある信者たちに聞いた。
「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか。」(使19:2)
パウロは決してこう聞かなかった。「信仰に入ったとき、病が癒されましたか。」「信仰に入ったとき、お金持ちになりましたか。」「信仰に入ったとき、成功しましたか。」聖霊は、健康、富、成功よりもっと大事なのである。信仰の証拠は、聖霊である。クリスチャンの証拠は聖霊だからだ。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ8:9)
聖霊を信仰のダイヤモンドとして知っている人は、当然、求めるようになる。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)
あなたは聖霊をどれほど愛しているか。どれほど願い求めているか。あなたの持ち物をすっかり売り払って、買いたいほど愛しているか。
初代教会の信徒たちはどうだったか。
復活され、天に上られる前に、イエス様が弟子たちに最も多く頼んだのは何だったか知っているか。「私の代わりに聖霊を遣わすから、どんなことがあっても必ず聖霊を受けなさい。」ということだった。(ヨハネ20:22, ルカ24:49, 使1:4,5, 使1:8//ヨハネ14章, 15章, 16章)
弟子たちは聖霊の価値を十分悟った。そのため、彼らは聖霊を受けるまで10日間も何もせず心を合わせて、熱心に祈っていた。 (使1:14)
人は、価値を認める分だけ献身する。
現在、聖霊の価値が天から地に落ちてしまった。
教会で最も無視されている方は聖霊である。一日一回も聖霊のことを考えず、一日一回も聖霊と話さず、一日一回も聖霊に従順しない人が少なくない。聖霊降臨節は、聖霊のお誕生日なのに、もしかして聖霊が私たちによって一人住まいの年寄りに扱いされているのではないだろうか。
2. 幸せの本当の秘訣は?
ヨンセ大学のファン・スガン教授は、健康の秘訣についてこう話した。
「健康の秘訣は、イエス様をちゃんと信じ、イエス様に似たような生活をすることだ。」
私たちの体には、一日約3~400個の癌の細胞が生じるが、笑う人は癌にかからないという。癌細胞の天敵は、笑いだという。
そして、「明るい表情は、成功の契約書である。笑うとすべてが通じる。」と話した。
私たちは誰も笑いながら生きたいし、愛し合いながら生きたいし、平和で生きたい。しかし、これが思ったより簡単ではない。逆に、憎む人を愛そうとすると、ストレスをもっと受ける場合がある。どうすればこのいい実りが人生に自然に結ばれるだろうか。実は木があれば自然に結ばれる。木がないのに実を作るのは、形はできるかもしれないが、力はない。
愛と喜びと平和は、聖霊の実である。聖霊が結んでくださる実である。聖霊がおられると、自然に結ばれる実である。聖霊が結んでくださる実を、人が結ぶというのは、不可能に近い。それゆえ、自分の力で愛し、喜び、平和で生きることはとても難しいことである。信仰の人は、自分の力ではなく、聖霊の力で生きる人である。そうすると、聖霊の実は自然に結ばれる。
愛し合いながら生きようと努力するより、まず聖霊の人になるように努力すべきである。
喜びながら生きようと努力するより、まず聖霊に満たされるように祈るべきである。
平和で生きようと努力するより、まず聖霊の導きをいただこうと努力すべきである。
聖霊はこのすべて(実)の木だからだ。木だけきちんと育てば、実は自然についてくる。
多くの人々はだまされて生きている。環境のせいで、幸せになれないという。
ステファノは、石に投げられ死にながらも、天使のような明るい表情を見せたし、パウロは牢に入っているものの、「喜びの伝道士」として「重ねて言います。喜びなさい。」と言いながら(フィリピ4:4)、逆に牢の外にいる人々に喜びを分かち合った。決して環境によって彼らが幸せになったわけではない。彼らは、環境がよい人々ではなく、聖霊に満たされた人々だった。(使6:5, 55, 使 9:17)
環境と幸せは無関係だが、聖霊と幸せは直接つながっている。聖霊は幸せの木だからだ。その大事な聖霊が今あなたの内におられる。幸せの実を結んであげることを願われる。これより素晴らしくて喜びのニュースが他にあるだろうか。
イエス様は私たちを孤児にはしておかないと言われた。(ヨハネ14:18)
この孤児とは、両親のいない子ではない。聖霊がおられない子である。もっと正確にいうと、聖霊を忘れ、無視しながら生活している人である。信じる人にはすでに聖霊がおられるからだ。実は孤児ではないのに、自ら孤児のように生活しているクリスチャンがこのごろ非常に多い。
3. 聖霊によって生きるためには?
信じる人々の内にはすでに聖霊がおられる。(使2:38, コリント一3:16, コリント一 6:19)
イエス様は、私たちを孤児にはしておかないために、聖霊を私たちに遣わしてくださった。ところで、私たちは聖霊によって生きていない。なぜだろうか。聖霊によって生きるためには、どうすればいいだろうか。
まず、自分の内におられる聖霊を常に考えなければならない。意識しなければならない。考えの中に聖霊がおられる人が、聖霊によって生きる人である。聖霊に従う人は、聖霊のことを考えるようになる。(ローマ8:5) あなたは一日どれほど聖霊を意識しているか。自分の内におられる聖霊を意識しながら、その汚い考えをすることができるものか。その悪い言葉が言えるものか。誰もいないからといって、そのような罪を犯してもいいものか。人はそばにいなくても、聖霊はあなたの内におられるのではないか。
あなたは、本当にそばにいる人をもっと意識しているか。内におられる聖霊をもっと意識しているか。
二番目は、聖霊といつも交わりをしなければならない。聖霊は交わりの霊である。(コリント二13:13) 聖霊は、私たちと交わりをすることを願われる。もしかして、あなたは聖霊に一日一言も言っていない冷たい人ではないか。聖霊は人格を持っておられる。夫が妻に一日一言も言わなかったら、きっと大きな問題があるだろう。聖霊と自然な交わりが生きなければならない。何をしても聖霊と相談し、聖霊に愛の告白、感謝の告白をするのが正常である。どれほどの多くの人々が、聖霊と非正常的な同居をしているだろうか。
三番目は、聖霊に従順しなければならない。
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)
「霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)
神様は、神様の神殿を壊さないで、聖なる者になりなさいとおっしゃった。(コリント一3:17)
「聖なる」というのは、肉的でなく、霊的だという意味である。霊的な人は、肉の欲に従わず、聖霊に従う人である。
私たちが聖霊に従えば、聖霊の実は自然に結ばれる。
聖霊によって生きる人は、
いつも聖霊を意識し、
いつも聖霊と交わりをし、
いつも聖霊に従順する人である。
あなたの聖霊の生活はどうか。
聖霊を喜ばせる人は、その人生に喜びが絶えないであろう。
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5 コメント
中森千草
2008-05-15 06:05:20
”聖霊降臨節” に参加して、体で言うと心臓の部分にあたると思ったくらい、私にとっては重要であり、悟りを得ることができました。聖霊様にきちんと働きができれば、道は開かれると、思いました。
安間チョウコ
2008-05-16 19:10:24
使役訓練で、今週の説教から2つを選んで適用しなさいと(間違って聞いた?)の宿題をリップルします。①聖霊内在の自覚・・私は聖霊をこの教会で教えていただきキリスト教を正しく理解することが出来ました。聖霊理解は信仰生活の第一入門と思います。だから牧師は洗礼を受ける前に聖霊について教えそれに従って一生の人生を歩む決意を持たせるべきだと思います。しかし聖霊だけでなく、三位一体の神にお祈りする必要を強く感じますので、神様、イエス様と祈りながら聖霊も育てています。②今週の朝の祈祷会で聖霊は仕事をする、働くものであると聞きました。隣人に仕え、神の国を建てていく役をすると、聖霊様がおられるので此の世でキリスト教信仰を具体化していく役を私の中でして下さる事を知りました。③そのためには私の体が神の神殿にならなければならないということです。み言葉が大変大切でみ言葉を伝える役が私達であるということでした。み言葉を私の腹の中に蓄えるだけではなくそれを消化したら外に向かって宣布しなければならないことを知りました。
以上から信仰は神様が聖書を通して何を言おうとしているかを観察、分析し、表面的字面(じづら)の理解よりも深く読み込み、つねに自分の外、または隣人を意識しながら、(主観的感覚経験が根底にあるが、それをより客観的にして)隣人と御言葉、信仰の宝を共有できるようにしたい。そのために適用として①聖書を自分のために読むのでなく宣布するために読む読み方が出来るようにする。②聖霊という素晴らしい賜物(プレゼント)を知ってもらうようにキリスト教と聖霊の賜物をセットにして1週間に一度は人に伝道する機会を作る。
古郡武志
2008-05-17 09:55:01
私には、このアフリカの子供達のことを笑うことはできまい。富や成功といった地上での一時的な楽しみのために時間を使い、いろいろと悩み苦しんだりするが、聖霊様のことを考える時間は少なく、内なる聖霊様をきちんともてなすことができなかったと悩み苦しむことが少ないからである。
神様の霊であり、神様ご自身である聖霊様が私の中にいらっしゃるなんて、こんなにすごいことはないと思うし、聖霊様の声をきちんと聞いてこなかったことを申し訳なく思い、また正直な話、もったいないことをしてきたと思っている。
そして、「人の目」という規制が取り払われ、サタンの声が強く働きやすい一人の時間、たしかに私には、聖霊様がささやいていたのだ…「怠けてはいけない」「そんなことをしてはいけない」…でも、私は、聞こえないふりしているのか、聞こえても従わずに甘くて心地よいサタンの声に耳を傾けてしまうのか…聖霊様の声を無駄にしてしまっていた。特に一人の時こそ、内なる聖霊様の声に耳を傾けて従順し、清く生きていきたいと思う。
あらためて、聖霊について書かれたみ言葉を読み返すと、イエス様が約束して下さった聖霊は本当に何にも代えがたい貴い働きをして下さることを悟ることができる。(例:「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」)このような貴いものが自分の中にあることをもっと誇らねばならないと思った。
聖霊様、今まできちんと言うことを聞かずに申し訳ありませんでした。
2.「教会で最も無視されている方は聖霊である。」
たしかに、一般的に教会では、クリスマスにイエス様の誕生について語り、イースターでイエス様の復活について語ったりしているが、聖霊様について語っているのをあまり聞いたことがない。何となく、教会で無視されているのは、よくわかるのである。
しかし、私は、教会で無視したくなるバイアスが働くのも理解できるような感じもある。実は、日本で、一般的に「霊」という言葉でイメージされる言葉の中で何があるかを考えてみたら、「幽霊」「心霊写真」「霊媒師」などであり、どことなく怪しさがつきまとう。つまり、正しい生を導く神様の霊ではなく、何となく「肉体とは別の精神的なもの」というイメージのもとで、迷える人々をさらに惑わす道具として使われる不確定概念なのである。
したがって、邪推なのかもしれないが、「霊」とつく言葉を持ち出すと人を遠ざけることになり、実際に人間の形をとって現れて下さったイエス様の話の方がしやすいことから、「聖霊」の話は避けるということになっているのかもしれない。
しかし、クリスチャンである私は、世間での「霊」に対するイメージがどのようなものであるかにかかわらず、神様から頂いた聖霊に従って生きていかねばならない。特に大事なことは、「聖霊」それ自体は直接視認することができないが、私たちへの聖霊の働きを自らの行動を通して視覚化できるということだ。愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制…おそらく、私はこれらの聖霊の働きを視覚化できていないので、きちんと視覚化、すなわち、他の人にも私の姿を通して、「愛」や「喜び」などが見えるように、信仰を深めて頑張らなければならないと思う。
田辺高幸
2008-05-17 10:06:50
自分の中に暮らす方は誰なの?それは主がくださった聖霊様が我が家のように暮らしておられる。助けを下さるために。
自分がこうして生きられるのは何故なの?それは天におられる主が守って下さるからだ。その、時に厳しく、時に試練を与え、時に一人にさせて考えさせたり。でもそこにはいつも感じるものがある。それは優しい眼差し。
子供はダイヤモンドより、おいしい飴を求める。ダイヤモンドの価値を知らないから、その美味しい甘みに喜びを感じる。天の父、主、聖霊様はダイヤモンド。その価値を知っている者と知らない者では貰う物に大差がある。恵みと瞬間に消え去る幻。幻は消えれば恐ろしい現実が待っている。けれど恵みは消えないで希望の光を自分の歩む道に照らす。価値を知って前を歩こう。その価値を知って喜ぼう。そしてその価値を知って常に心に描いて、毎日暮らそう。
木下
2008-05-18 17:02:42