「天国を準備する人々」
御言葉//フィリピ3:19-21
1. 何歳まで生きると思いますか。
「あなたは何歳まで生きると思いますか。」
この質問について、「私は100歳までは生きると思います。」と答えたいか。
違う。この質問に対する聖書的な正しい解答は、「私は『永遠』歳まで生きます。」ということである。
私たちは神様の子どもである。子どもなら、そのお方と同じ人生を生きることが当然である。よって、神様は永遠なる方でおられるため、子どもである私たちも永遠に生きることになっている。
それに、イエス様もはっきりおっしゃったのではないか。
「 わたしは复活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)
私たちは永遠に死なない。私たちは永遠に生きることになっている。
錯覚しないでほしい。大勢の人々は、体が死ぬとすべてが終わりだと思う。「死んじゃったらおしまいだ」と言う。そのため、すべてを終わらせようと自殺を計画する人もいる。いかに愚かなことであろうか。体の死は、死ではなくこれから始まりなのに。
ひよこが卵から出てひよこになる時は、自分が前入っていた体(皮)を全部やぶって殺して出る時こそ、ひよことして新しい人生を始める。誰が、皮をむいて出ることを死ぬと表現するか。ひよことしての新しい人生を始めるのである。そして、彼は卵の中にいる間、これから出る日のために一生懸命準備する。足も作って、羽も作って、毛も作って、目も作って、口も作って…彼は、卵の世界にいる間、全力で孵化を準備する。もし、卵に住んでいる時に孵化の準備がまったくできていなければ、彼は卵が割れたとき、本当に死んでしまう。ひよこにかえることができない。私たちの人生はまるでこのようである。この地上の人生は復活(永生)する前の卵の中にいる過程である。そうすると、この地上で何かをしなければならない。当然、天国(復活)を準備しなければならない。それによって、体の皮が破れる時(死ぬ時)私たちは永生(復活)の新しい人生を天国で生きることになる。
人生は永遠(天国)のための準備期間である。これができない人生は、たとえ彼がこの地上でいかに素晴らしい業績を残したとしても、彼は人生をただ浪費したに過ぎない。人生は短いけれど、永生は長い。今この地上でのあなたの人生が、これからの永生を左右することになる。
「あなたは何歳まで生きると思いますか。」
これに対する答えが、あなたの人生を質的に完全に変える原動力になる。天国を信じて、常に天国を考えながら生きる人と、天国の異邦人になっていつもこの地上のことばかり考える人は、その人生が違うことに間違いない。これこそ、天(天国)と地(世)の差を見せることになっている。この世の人生が全部だと思う人は、いつも地上のことだけ考える者であり、彼の神は腹で、彼の最後は滅びだと言われた。(フィリピ3:19)
その反面、信仰の人は違う。彼は、この地上での人生は少しの間にいるところに過ぎず、自分が本当に住むところは天国であることをよく知っている。そのため、彼はたとえ少しの間この地上にいるが、いつも天国を考えながら、準備する天国の市民権者(フィリピ3:20)として生活する。人生の目的が全然違うのである。天国を知らない人は、この地上のことを唯一な目的として生きるが、天国を知っている人は、この地上の人生をただ天国を準備する機会として使う。
あなたの天国観があなたの人生観を決め、あなたの人生の目的を決める。
天国がない人々は人生を楽しみながら、この地上でただ自分のことを満たすために走っていくが、天国がある人は、どんな問題があっても天国を見上げながらきちんと忍耐し、善なる人生を生きながら静かに天国を準備する人である。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋(テント)が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか(マンション)です。」(コリント二 5:1)
この地上の住みかは臨時のものなのでテントに過ぎず、天国の住みかは永遠に住むところであるため、神様が立派なマンションとして作ってくださる。そのため、私たちのこの地上の幕屋に人生を浪費しないで、永遠な天国の住みかのために人生を充実に過ごさなければならない。
2. イエス様が来られた目的は?
イエス様はこの地上になぜ来られたのか。
もちろん、私たちを救われるために来られた。では、救いは何だろう。死ぬべき私たちに永生を与えてくださったことである。では、永生は何だろう。神様と一緒に天国で永遠に生きることである。結局、イエス様は私たちに天国を準備させるために来られたのである。そのため、イエス様は時間がある度に天国のことを話された。イエス様のすべての関心はこの地上ではなく、天国にあった。よって、イエス様は最初から「 悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って天国を述べ伝えられ、からし種、パン種、宝…などのたとえでずっと天国を教えてくださった。(マタイ13)
また、イエス様は天国の準備に本当に熱心だった。
弟子たちに「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:31)と言いつつ、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と言われた。イエス様の関心は、この地上にあるのではなくただ天国にあった。そのため、イエス様はこの地上のことを求めないで、天国を求めなさいとおっしゃったのである。充実した人生はいつも天国に関心をもって生きる人生である。あなたの今の人生はどうか。世の物に関心が多いか。あるいは、天国にもっと関心があるか。「何ゆえわが友 富にたよる 世のものすべてはもえつきるを」(賛美歌269)「あなたがたは地上に富を積んではならない…富は、天に積みなさい…」(マタイ6:19-20) あなたの天国の通帳の残高はどのくらいか。どの程度貯蓄されているか。
ある金持ちの議員がイエス様を尋ねてきて聞いた。(ルカ18:18-23)
「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエス様は神様の掟を守るようにとおっしゃった。そうすると、彼は自信満々で、子どもの時からちゃんと守ってきたと言った。イエス様はこの答えをお聞きになってこう言われた。
「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天(天国)に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
この言葉を聞いた彼は非常に悲しみながら(心配しながら)帰ってしまった。
なぜ彼は心配しながら帰ったのだろうか。聖書には大変な金持ちだったからだと書いてある。
もっと根本的な理由は、イエス様の関心事とその金持ちの関心事が全然違ったからである。イエス様は、天国の倉庫に富が積まれることを大事にしたが、金持ちがまったくそうではなかった。金持ちの議員は、たとえ宇宙を全部あげるとしても、天国のことには関心がなかった。彼は、ただこの地上の倉庫にだけ関心があった。イエス様は、天国の倉庫に積むことが真の金持ちになる道だと言われたが、金持ちにとっては、この地上の倉庫を空かせることこそ、死ぬことより大変なことであった。金持ちは地上のことだけ考える人だったので、天国に対するイエス様の御言葉が決して恵みにならず、逆に心配事になってしまったのである。
3. 天国を準備する人々
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二4:18)
あなたは今どこに目を注いでいるか。神様が少しの間の人生を与えてくださったのは、天国を準備する機会としてくださったのである。神様が今日の一日をまた与えてくださったのか。天国をもってうまく準備するように、恵みで与えてくださったのである。しかし、あなたは今何をしているか。何をするためにその貴重な時間(人生)を全部無駄にしているのか。
いざ天国に行くと驚くことが一つか二つくらいではないだろう。
「私はいったい80年間地球に住みながら何をしたんだろう。
天国のためにやったことがこんなになかったのか。
ああ、惜しい。朽ちるもののため人生を全部無駄にしてしまったんだ。」
このようなことがないように。
人生の本来の仕事は、永生(天国)を準備することである。
イエス様も天国を準備させるために来られ、聖書も天国を準備してくれる本である。
天国の準備はどこでするのか。この地上にだけできる。
天国の準備は誰がするのか。自分の天国は自分が準備しなければならない。
天国の準備はどのようにするのか。簡単である。神様が人生に与えてくださった目的通りに生きればいい。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト․イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エフェソ2:10)
神様が私たちのためにあらかじめ備えてくださったのは何だろうか。
私たちはどのような良い行いのために造られたか。
次回から神様が与えてくださった5つの人生の目的を一つ一つ勉強していきたいと思う。
人生の価値は天国をいかにうまく準備するかによるものである。
今日の自分の人生を点検してみよう。
「私は今日天国と関わる人生にどのくらい時間をかけたか。」
毎日天国を準備する人々!この聖なる天国の民が日本でも多く出るようイエス様の御名によってお祈りしつつ期待する。
「主よ。どうか私に、この地上における人生がいかに短いものであるかを思い起こさせてください。
どうか私に、ほんのわずかだけここにいるということを悟らせてください。」(詩篇39:4)
御言葉//フィリピ3:19-21
1. 何歳まで生きると思いますか。
「あなたは何歳まで生きると思いますか。」
この質問について、「私は100歳までは生きると思います。」と答えたいか。
違う。この質問に対する聖書的な正しい解答は、「私は『永遠』歳まで生きます。」ということである。
私たちは神様の子どもである。子どもなら、そのお方と同じ人生を生きることが当然である。よって、神様は永遠なる方でおられるため、子どもである私たちも永遠に生きることになっている。
それに、イエス様もはっきりおっしゃったのではないか。
「 わたしは复活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)
私たちは永遠に死なない。私たちは永遠に生きることになっている。
錯覚しないでほしい。大勢の人々は、体が死ぬとすべてが終わりだと思う。「死んじゃったらおしまいだ」と言う。そのため、すべてを終わらせようと自殺を計画する人もいる。いかに愚かなことであろうか。体の死は、死ではなくこれから始まりなのに。
ひよこが卵から出てひよこになる時は、自分が前入っていた体(皮)を全部やぶって殺して出る時こそ、ひよことして新しい人生を始める。誰が、皮をむいて出ることを死ぬと表現するか。ひよことしての新しい人生を始めるのである。そして、彼は卵の中にいる間、これから出る日のために一生懸命準備する。足も作って、羽も作って、毛も作って、目も作って、口も作って…彼は、卵の世界にいる間、全力で孵化を準備する。もし、卵に住んでいる時に孵化の準備がまったくできていなければ、彼は卵が割れたとき、本当に死んでしまう。ひよこにかえることができない。私たちの人生はまるでこのようである。この地上の人生は復活(永生)する前の卵の中にいる過程である。そうすると、この地上で何かをしなければならない。当然、天国(復活)を準備しなければならない。それによって、体の皮が破れる時(死ぬ時)私たちは永生(復活)の新しい人生を天国で生きることになる。
人生は永遠(天国)のための準備期間である。これができない人生は、たとえ彼がこの地上でいかに素晴らしい業績を残したとしても、彼は人生をただ浪費したに過ぎない。人生は短いけれど、永生は長い。今この地上でのあなたの人生が、これからの永生を左右することになる。
「あなたは何歳まで生きると思いますか。」
これに対する答えが、あなたの人生を質的に完全に変える原動力になる。天国を信じて、常に天国を考えながら生きる人と、天国の異邦人になっていつもこの地上のことばかり考える人は、その人生が違うことに間違いない。これこそ、天(天国)と地(世)の差を見せることになっている。この世の人生が全部だと思う人は、いつも地上のことだけ考える者であり、彼の神は腹で、彼の最後は滅びだと言われた。(フィリピ3:19)
その反面、信仰の人は違う。彼は、この地上での人生は少しの間にいるところに過ぎず、自分が本当に住むところは天国であることをよく知っている。そのため、彼はたとえ少しの間この地上にいるが、いつも天国を考えながら、準備する天国の市民権者(フィリピ3:20)として生活する。人生の目的が全然違うのである。天国を知らない人は、この地上のことを唯一な目的として生きるが、天国を知っている人は、この地上の人生をただ天国を準備する機会として使う。
あなたの天国観があなたの人生観を決め、あなたの人生の目的を決める。
天国がない人々は人生を楽しみながら、この地上でただ自分のことを満たすために走っていくが、天国がある人は、どんな問題があっても天国を見上げながらきちんと忍耐し、善なる人生を生きながら静かに天国を準備する人である。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋(テント)が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか(マンション)です。」(コリント二 5:1)
この地上の住みかは臨時のものなのでテントに過ぎず、天国の住みかは永遠に住むところであるため、神様が立派なマンションとして作ってくださる。そのため、私たちのこの地上の幕屋に人生を浪費しないで、永遠な天国の住みかのために人生を充実に過ごさなければならない。
2. イエス様が来られた目的は?
イエス様はこの地上になぜ来られたのか。
もちろん、私たちを救われるために来られた。では、救いは何だろう。死ぬべき私たちに永生を与えてくださったことである。では、永生は何だろう。神様と一緒に天国で永遠に生きることである。結局、イエス様は私たちに天国を準備させるために来られたのである。そのため、イエス様は時間がある度に天国のことを話された。イエス様のすべての関心はこの地上ではなく、天国にあった。よって、イエス様は最初から「 悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って天国を述べ伝えられ、からし種、パン種、宝…などのたとえでずっと天国を教えてくださった。(マタイ13)
また、イエス様は天国の準備に本当に熱心だった。
弟子たちに「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:31)と言いつつ、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と言われた。イエス様の関心は、この地上にあるのではなくただ天国にあった。そのため、イエス様はこの地上のことを求めないで、天国を求めなさいとおっしゃったのである。充実した人生はいつも天国に関心をもって生きる人生である。あなたの今の人生はどうか。世の物に関心が多いか。あるいは、天国にもっと関心があるか。「何ゆえわが友 富にたよる 世のものすべてはもえつきるを」(賛美歌269)「あなたがたは地上に富を積んではならない…富は、天に積みなさい…」(マタイ6:19-20) あなたの天国の通帳の残高はどのくらいか。どの程度貯蓄されているか。
ある金持ちの議員がイエス様を尋ねてきて聞いた。(ルカ18:18-23)
「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエス様は神様の掟を守るようにとおっしゃった。そうすると、彼は自信満々で、子どもの時からちゃんと守ってきたと言った。イエス様はこの答えをお聞きになってこう言われた。
「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天(天国)に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
この言葉を聞いた彼は非常に悲しみながら(心配しながら)帰ってしまった。
なぜ彼は心配しながら帰ったのだろうか。聖書には大変な金持ちだったからだと書いてある。
もっと根本的な理由は、イエス様の関心事とその金持ちの関心事が全然違ったからである。イエス様は、天国の倉庫に富が積まれることを大事にしたが、金持ちがまったくそうではなかった。金持ちの議員は、たとえ宇宙を全部あげるとしても、天国のことには関心がなかった。彼は、ただこの地上の倉庫にだけ関心があった。イエス様は、天国の倉庫に積むことが真の金持ちになる道だと言われたが、金持ちにとっては、この地上の倉庫を空かせることこそ、死ぬことより大変なことであった。金持ちは地上のことだけ考える人だったので、天国に対するイエス様の御言葉が決して恵みにならず、逆に心配事になってしまったのである。
3. 天国を準備する人々
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二4:18)
あなたは今どこに目を注いでいるか。神様が少しの間の人生を与えてくださったのは、天国を準備する機会としてくださったのである。神様が今日の一日をまた与えてくださったのか。天国をもってうまく準備するように、恵みで与えてくださったのである。しかし、あなたは今何をしているか。何をするためにその貴重な時間(人生)を全部無駄にしているのか。
いざ天国に行くと驚くことが一つか二つくらいではないだろう。
「私はいったい80年間地球に住みながら何をしたんだろう。
天国のためにやったことがこんなになかったのか。
ああ、惜しい。朽ちるもののため人生を全部無駄にしてしまったんだ。」
このようなことがないように。
人生の本来の仕事は、永生(天国)を準備することである。
イエス様も天国を準備させるために来られ、聖書も天国を準備してくれる本である。
天国の準備はどこでするのか。この地上にだけできる。
天国の準備は誰がするのか。自分の天国は自分が準備しなければならない。
天国の準備はどのようにするのか。簡単である。神様が人生に与えてくださった目的通りに生きればいい。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト․イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エフェソ2:10)
神様が私たちのためにあらかじめ備えてくださったのは何だろうか。
私たちはどのような良い行いのために造られたか。
次回から神様が与えてくださった5つの人生の目的を一つ一つ勉強していきたいと思う。
人生の価値は天国をいかにうまく準備するかによるものである。
今日の自分の人生を点検してみよう。
「私は今日天国と関わる人生にどのくらい時間をかけたか。」
毎日天国を準備する人々!この聖なる天国の民が日本でも多く出るようイエス様の御名によってお祈りしつつ期待する。
「主よ。どうか私に、この地上における人生がいかに短いものであるかを思い起こさせてください。
どうか私に、ほんのわずかだけここにいるということを悟らせてください。」(詩篇39:4)
リスト
Status | 番号 | タイトル | 投稿者 | 日付 | 閲覧数 |
---|---|---|---|---|---|
194 |
目的1-神様の喜び8 |
2007-11-21 | 471 | ||
193 |
목적1-하나님의 기쁨50 |
2007-11-20 | 1333 | ||
192 |
天国を準備する人々7 |
2007-11-13 | 526 | ||
191 |
천국을 준비하는 사람들47 |
2007-11-12 | 1964 | ||
190 |
人生の目的を探って8 |
2007-11-06 | 437 | ||
189 |
인생의 목적을 찾아서53 |
2007-11-05 | 1181 | ||
188 |
どうすれば、どんなことにも感謝することができるか?7 |
2007-10-31 | 779 | ||
187 |
어떻게 하면 범사에 감사할 수 있을까?60 |
2007-10-29 | 1780 | ||
186 |
ノアの過ち7 |
2007-10-23 | 481 | ||
185 |
노아의 실수57 |
2007-10-22 | 1407 | ||
184 |
神様のために8 |
2007-10-16 | 430 | ||
183 |
여호와를 위하여60 |
2007-10-15 | 1021 | ||
182 |
あなたのために7 |
2007-10-08 | 485 | ||
181 |
너를 위하여64 |
2007-10-08 | 1028 | ||
180 |
4番目の従順7 |
2007-10-02 | 695 | ||
179 |
4번째 순종67 |
2007-10-01 | 1235 | ||
178 |
従順の4段階8 |
2007-09-25 | 648 | ||
177 |
순종의 4단계61 |
2007-09-24 | 1618 | ||
176 |
神様の愛の言語 |
2007-06-26 | 422 | ||
175 |
하나님의 사랑의 언어41 |
2007-06-25 | 1724 |
7 コメント
安間チョウコ
2007-11-14 07:16:43
聖書のみ言葉が私の頭に沢山たまっていて、必要なときに適したみ言葉が頭から引き出せるようになったら真のクリスチャンに近づいてきたといえると思う。日本の教会では、暗記は教会学校ではさせるが、厳しくないからいい加減にしてきてしまった。
暗記は本当に大切なものだと受け止めている。しかしこの頭の悪さ!どうしょうもない!
通勤の時間や、そんなこまごまとした時間を利用して聖句の暗記をしようと思うのだが、すぐに忘れてしまってなかなか出てこない。弟子訓練の時、暗記したのも「喉もと過ぎれば暑さ忘れる」で
今はほとんど忘れている。
日曜日の使役訓練で牧師様が言われたように、つねに聖書に触れ、み言葉を大切にしないと暗記も上手く行くものではないとわかった。暗記を自分に強制するのは、クリスチャンを自分に強制し、険しい坂を一歩一歩踏みしめていくようなものだ。自分はいい加減なクリスチャンでいいのか?真のクリスチャンとしてこの世の中を生き抜きたいのか?ああー道のりは厳しいけれど真のクリスチャンに憧れてやまないので、暗記苦手ですが毎日努力します。
中森千草
2007-11-15 05:48:24
田辺高幸
2007-11-15 07:03:49
これは難しい問いだ。というか分からない。いつ死ぬかは人間には絶対に分からないことだ。知っているのは神様だけだ。神様が僕を造ったんだから、それを知っているのは神様だ、としか言えない。
神様は人間を造られた。ものは、何かしら目的が無ければ造らない。僕が絵を描くのは、自分の楽しみというのもあるが、僕が絵を見て楽しんだのだから、それを人にも味わって欲しいと思うから描く。それが目的だ。だから僕は絵を描く。そして人に見せる。
僕は人間である。当然、神様が造ってくれた。目的を持って造ってくれた。だけど、困ったことはその目的が自分にはさっぱり分からない。だからこの40日間の旅で探していこうとしているわけだ。それが分かって、初めて人生が始まるのだろう。そしてそれを果たした時に、神様が僕を呼んでくれるのだろう。まだまだ長生きしそうな感じではある。目的が分かったところで、それを果たせるのに時間がかかりそうな感じがするからだ。
新約聖書を読んでいると、イエス様の視点が僕と違っていることに気が付く。それは、僕が浮き世に生きているから、それに関心がある(というかそれで精一杯)面があるのに対し、あくまでも関心は天国にあることが分かる。それはやはり次に行く場所である天国を確信し、そしてヨン様(牧師様)が言われる通り天国へ行く準備をしていたのだろう。イエス様は自分が神様が何のために浮き世に自分をお送りになられたのかを知っていた。救世主として人を救うために来た、それを分かっていた。だから天国に行く準備も出来た。自分は、その目的がまだ分からないから、その準備が出来ないでいる。自分は目的探しを始めたばかりだから、これから天国に行く準備ができる段階になれるようになろう。
生きていて感じるのは意識だ。それが死ぬ時に途切れるとは到底思えない。体は滅んでも、意識は残ると思う。体とともに意識が無くなるなんて信じられないことだ。
そうすると、次に行く場所はやはりあの世なのだろう。その時、天国と地獄があって、どちらかに行くことになるのだろう。それを決めるのは、やはり神様が僕を造られたときの目的をしっかり行ったか、行わなかったがだろう。神様の判断を委ねるしかない。その時、僕は神を見るのだろう。
でも天国に行きたいから目的果たします、なんてことはしたくはない。神様が目的を造られたのだからただ純粋に果たしたい、それで結果が天国であればいいと思っている。だって天国行きたいからなんてだけで心にもなく目的は果たすのは違うだろう。純粋に僕らのことを造ってくれたのだから、それには純粋に果たさないとおかしいだろう。神様の心をしっかり知って目的を果たすべきだろう。だから目的探した後には、今まで歩むことの無かったキレイな人生を送りたいと思う。神様が常にいて送れる毎日を過ごしたいと思う。まだ目的が分からないから、ここまで行ってないけどそう思う。
古郡武志
2007-11-15 16:39:18
「あなたは何歳まで生きると思いますか?」に対する聖書的な正しい回答は、私は「永遠」際まで生きます。」である。おそらく、この質問を発した人にとっては、生とはこの地上での生命しか意味しないのに対し、回答者は、生というものにはこの地上でのものだけに限定されないという確信がある。
私も、キリスト教を信仰するようになる前までは前者の人間であった。「人は、死んだら無になってしまうのか?死後の世界はあるのか?ないのか?あるとすれば、どのような世界なのか?」という質問が頭の中を支配していた。「死後の世界が有るとしても体験できるわけがないし、死後の世界に行ってきたという人の話を聞けるわけもないのだから・・・」と結局ややこしいことは考えるのをやめて、この短い地上での生を如何にして充実したものにするか、刹那をいかに楽しく生きるかに関心を向けて生きてきたように思う。
でも、イエス様は「永遠の生命」が与えられることを教えて下さいました。死んだらすべてが終わると誤信して短い刹那のために心血を注ぐより、「永遠の生命」という
真理を悟り、そのためにきちんと準備ができるように生きていく。そうしてこそ、この短い地上での生を充実したものにすることができるのだと思う。
しかし、私は、このままだと神様の御前に立たされたときに後悔しそうでならない。今まではきちんと準備ができていなかったが、神様が人生に与えて下さった目的通りに生きて、きちんと天国を準備するようにしたい。そして、天国にきちんと富を積んでいきたい。
津田浩史
2007-11-17 08:52:50
先週の「神様が目的を持って自分をお作りになった」こと、そして今週の「この世界はテントであり、死後に行く天国に私の永遠の住みかがある」こと、どちらも自分の心に植えつけなければなりません。最近は引越し問題で悩んでいましたが、さしずめテントの置き場と性能に悩んでいるようなものでしょうか。
こうした世俗的な悩みを捨て、神様の視点から高いレベルで自分の目的を考え果たせるよう、これから努力します。そのために弟子訓練に励みます。
藤田弘量
2007-11-17 11:40:14
自問自答してみました。 痛切に信じたいと思っています。
かつて私は人命救助の任務を担っていました。 厳しい訓練を経て、数え切れないほど現場に出動しました。 修羅場と化した現場で生命の強さと弱さ、死の現実をこの眼で見てきました。 永久の命・・・現場では考える余裕がありませんでした。
生命・・・と表現すると、霞の中にある神秘的なイメージを感じます。
人体・・・と表現すると、科学的なイメージを感じます。
人の体はタンパク質であり単に物質にすぎません。
地上で生きている間、霊を宿す大切な物質です。
神様に導かれた霊を大切にしたいと思います。
イエス様を心から信じる霊に成長させたいと思います。
永久の命を信ず・・・地上で残された時間の全てをイエス様の喜びになるように、そして永遠の命のために生きていきたいと思います。
木下
2007-11-18 07:07:06
私は、現在、いろいろな問題のある環境に置かれています。わたしは、一つ一つ、神様にお祈りをして問題を解決していただくように願っています。私の力ではなく、神様の御力に委ねていきたいと思います。問題が起きたとき、問題だけに考えが支配されないように、天国を見ながら忍耐できるように努めていきたいです。