オアシス
人生の道は 頂上の道ではなくて、荒野の道と言います。そのため、人生は頂上に登ることが目的ではなく 荒野を最後までうまく通過すれば良いのです。
エジプトから出てきた イスラエルの民の人生の道も、シナイ山頂上を征服するのではなくて、長い荒野の道をひたすら進んでいくことでした。荒野の道において、あってはならないものは不平と不満で、なくてはならないものは水です。不平は荒野の途中で私たちを死に追い込みますが、水は荒野を越える力となります。人間が水の無い荒野でも死なないのは、所々にあるオアシスが水を浮かべているからです。どんなに喉が渇いて苦しんでた人でもオアシスにさえ到着すれば生き返ります。オアシスは荒野生命の源です。荒野には、数々の道があるといいます。しかしそれらは、まっすぐな道ではなく曲がった道です。その理由は、必ずオアシスを経て進むようになっているからです。どんなに道が広くまっすぐであっても、生命の水に続いてなければ、その道は死へと導く道に過ぎません。生命の道はただ一つ、オアシスに導く道です。
『荒野を読む』という本にこんな話がありました。
「荒野で生き延びるためには守らねばならないきまりがある。それは、オアシスに出会ったなら必ず寄ってから次に進まなければならないってこと。今は大丈夫だと、過ぎ去ってしまうと少し進んで 倒れてしまう。そうなれば、もう二度と立ち上がることが出来ない。オアシスに寄って十分な水を飲んで、休んでからまた進む人がもっと早く荒野を抜け出すことができる。」
人生が荒野なら、この人生の荒野で水を与えてくださる方はただ一人イエス・キリストです。
『しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人で泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』(ヨハネによる福音書 4:14)
その水が湧き出る場所は、聖殿であり、出てくるのは主日です。日曜日教会くれば永遠の命に至る水を飲むことになります。
『川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる。』(エゼキエル書 47:12)
『ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな音がするのを聞いた。』(ヨハネの黙示録 1:10)
『主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記 20:11)
一週間に1回教会に通うことは、荒野のような世界を1週間の間歩き進めることのできる 驚くべき生命の水を供給される祝福です。主日を守ることが出来ないほど、環境と心の余裕がない人は 砂漠でオアシスに出会っても寄ることの出来ないほど忙しい人と同じです。こんな人たちは、必ず途中で倒れてしまいます。とても愚かなひとです。
荒野のオアシスを知る人ならば、人生のオアシスを探し求めるようになります。
早く主日が来ることを、待ちわびるようになります。人生の生命の水が供給される日だからです。
教会に行く日がオアシスに出会うように喜ぶのが当然です。オアシスが近くなれば近くなるほど、力が湧き出て、希望に満ち溢れることが当然なことだからです。
人生の道は 頂上の道ではなくて、荒野の道と言います。そのため、人生は頂上に登ることが目的ではなく 荒野を最後までうまく通過すれば良いのです。
エジプトから出てきた イスラエルの民の人生の道も、シナイ山頂上を征服するのではなくて、長い荒野の道をひたすら進んでいくことでした。荒野の道において、あってはならないものは不平と不満で、なくてはならないものは水です。不平は荒野の途中で私たちを死に追い込みますが、水は荒野を越える力となります。人間が水の無い荒野でも死なないのは、所々にあるオアシスが水を浮かべているからです。どんなに喉が渇いて苦しんでた人でもオアシスにさえ到着すれば生き返ります。オアシスは荒野生命の源です。荒野には、数々の道があるといいます。しかしそれらは、まっすぐな道ではなく曲がった道です。その理由は、必ずオアシスを経て進むようになっているからです。どんなに道が広くまっすぐであっても、生命の水に続いてなければ、その道は死へと導く道に過ぎません。生命の道はただ一つ、オアシスに導く道です。
『荒野を読む』という本にこんな話がありました。
「荒野で生き延びるためには守らねばならないきまりがある。それは、オアシスに出会ったなら必ず寄ってから次に進まなければならないってこと。今は大丈夫だと、過ぎ去ってしまうと少し進んで 倒れてしまう。そうなれば、もう二度と立ち上がることが出来ない。オアシスに寄って十分な水を飲んで、休んでからまた進む人がもっと早く荒野を抜け出すことができる。」
人生が荒野なら、この人生の荒野で水を与えてくださる方はただ一人イエス・キリストです。
『しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人で泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』(ヨハネによる福音書 4:14)
その水が湧き出る場所は、聖殿であり、出てくるのは主日です。日曜日教会くれば永遠の命に至る水を飲むことになります。
『川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる。』(エゼキエル書 47:12)
『ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな音がするのを聞いた。』(ヨハネの黙示録 1:10)
『主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記 20:11)
一週間に1回教会に通うことは、荒野のような世界を1週間の間歩き進めることのできる 驚くべき生命の水を供給される祝福です。主日を守ることが出来ないほど、環境と心の余裕がない人は 砂漠でオアシスに出会っても寄ることの出来ないほど忙しい人と同じです。こんな人たちは、必ず途中で倒れてしまいます。とても愚かなひとです。
荒野のオアシスを知る人ならば、人生のオアシスを探し求めるようになります。
早く主日が来ることを、待ちわびるようになります。人生の生命の水が供給される日だからです。
教会に行く日がオアシスに出会うように喜ぶのが当然です。オアシスが近くなれば近くなるほど、力が湧き出て、希望に満ち溢れることが当然なことだからです。
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1 コメント
中森千草
2016-04-04 00:31:24
なかなか手に届かない。
教会通える環境にする事が、
大事だと考えています。