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중앙영광교회

復活の人生

이용규목사, 2008-03-26 01:34:25

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「復活の人生」

御言葉//ヨハネによる福音書 20:19-23

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマの信徒への手紙4章25節)

イエス様は、私たちの罪の問題を解決してくださるために死なれ、私たちに永遠の命の確信を与えてくださるために、復活の初穂となさった。私たちの復活を、イエス様が代わりにしてくださったことを、知らなければならない。イエス様の復活が自分の復活になって、自ら復活の人生を生きるとここそ、復活が復活らしくなるだろう。
ヨハネによる福音書では、復活されたイエス様が弟子たちを三回尋ねておられた。
イエス様は直接尋ねられ、真の復活の人生を生きるために、三つを弟子たちに準備させた。この三つが彼らにとって力のある復活の人生を生きることができるようにした。それで、弟子たちは皆、喜んで殉教の道を歩みながら、福音を伝えたのである。復活されたイエス様が、自ら弟子たちに準備させた「復活の人生の三要素」 に対して探ってみよう。

1.復活の信仰
最初、復活されたイエス様が弟子に現われたのは、主日(復活された日)の夕方だった。
その時、弟子たちはユダヤ人を恐れ、戸に鍵をかけていた。イエス様を殺したユダヤ人たちが、自分たちも殺すかもしれないという恐れで、外にも出かけず、隠れて怖がっていた。彼らは世を恐れた。彼らは死を恐れた。そんな彼らが急に変わる。イエス様が三度目に彼らを訪問された時、もう彼らは外に出ることのみならず、海に出て魚を捕ったり、夜遅くまでいるのも平気だった。彼は大胆になった。わずか何日の間に何が起こったのだろうか?彼らをこのように変化させたことは他でなく、復活の信仰だった。 彼らは復活されたイエス様に直接会った。 自分たちの目で確認した。 これが彼らを完全に変えてしまった。 死を恐れていた弱虫から、死を征腹する復活の勇士たちに変わったのである。
この信仰がいくら重要だったかは、イエス様がただ一人のトマスの信仰のために弟子たちを二回目訪問されたことから分かる。(ヨハネによる福音書20章:26節~29節)イエス様は復活の信仰が全くなかったトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とおっしゃった。イエス様は今も私たち一人一人がどんな事があっても、信仰を持つのを切に望んでおられる。復活の信仰を! この信仰を持っている人は、決して人生が辛くなく、死も恐ろしくない。 復活はすなわち力であり、臨みであり、勝利であり、生命であるからだ。死んでもまたよみがえることが復活だから、 復活の確信がある人に何が恐ろしいだろうか。 復活の信仰こそ、世みに勝つ信仰である。それで、弟子たちもこの復活の信仰が入ると、世を恐れていた人たちが、世をおののかせるような人物たちに変ったのである。
「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。」(ヘブライ人への手紙11章35節)復活の信仰が彼らをこのように変化させたのである。
復活の信仰は、私たちにの恐れの心を消えさせ、復活の能力を与えてくれる。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思考分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(テモテへの手紙1章7節)
では、この復活の信仰はどうすれば持つことができるのだろうか。
「手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネによる福音書20章:20節)もちろん、当時、弟子たちは復活されたイエス様を見て、復活の信仰を持つようになった。しかし、イエス様ははっきりおっしゃった。「わたしを見たから 信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章:29節)
真に恵まれた復活の信仰は、復活の体験を通じて来るのではなく、復活の御言葉を通じて来る。御言葉を近付ければするほど、復活の信仰も私たちの身近に臨む。
復活されたイエス様は、弟子たちに復活の信仰をこのように与えてくださった。
「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように 書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」(ルカにより福音書24章:45節~46節)
「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マタイにより福音書16章:14節)
復活の証言の御言葉を信じることによって、つまり聖書を信じることによって、復活の信仰は私たちに臨む。
復活の信仰は人を強くし、胆大にさせる。死も恐れないようになる。
世の恐れは私たちを部屋の中に閉じこめておくが、復活の信仰は私たちを地の果てまで歩き回るようにする。初代教会の信仰の人たちは皆、復活の信仰を持つ人々だった。それで、彼らはどんな恐れもなく、刑務所も自分の家出入りするようにした人々だった。世を福音によって震動させた人物たちだった。

2.復活の証人
これは、私たちの使命を述べている。
復活されたイエス様は、弟子たちに彼らが行うべきことを教えてくださった。使命があるからこそ仕事ができるし、使命があるからこそ正しい証人になる。使命がある人だけが、復活の人生を正しく過ごすことができる。
では、イエス様が弟子たちにくださった使命は何か?
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)
ここで「平和」は、御言葉を示す。
私たちは、御言葉を持って使わされた人々である。
「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」(エフェソ6:15)
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)
「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エフェ2:17)
私たちは皆イエス様から使わされた人々である。復活の証人として世に行くべきである。復活されたイエス様は、4つの福音書でこの使命を何回も強調しながらおっしゃっている。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)
復活の人生を生きていくためには、この使命を必ず回復しないといけない。それによって、復活の御業を神様と共にきちんとすることが出来る。
この使命は、自分が選ぶことが出来ない。復活された主の命令である。この命令がいかに大事かと言うと、神様がイエス様をこの世にお遣わしになった命令と同じだと言われた。イエス様は神様のこの命令を、死ぬまで従順した。私たちも、この命令にイエス様と同じく従順しなければならない。伝導は神様の命令である。しかも、地上命令である。天国を準備する最も大事な道は伝導である。それは、世の人々に天国の福音を伝えることによって、大勢の人々を地獄から救い、天国に導くことができるからである。


3.        復活の力
復活の人生をうまく生きるためには、復活の力を頂かなければならない。イエス様は、こうなさった。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:22) 復活の力は、つまり聖霊である。聖霊は、復活自体の力を持っておられる。「もし、イエスを死者の中から复活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から复活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)
では、イエス様が「聖霊を受けなさい」とおっしゃる前に、なぜ弟子たちに息を吹きかけただろうか。
息と聖霊は、原語で「プニュマ(pneuma)」で、同じ言葉である。そのため、中世の修道士たちは、深呼吸法を通して聖霊のご臨在を感じたのである。イエス様は、聖霊に満たされる方法を、「息を吹きかけてくださったこと」によって、教えられた。腹式呼吸でゆっくり、大きく息を吸ってはきながら、「神様、聖霊によって満たしてください。」と祈ってみよう。聖霊のご臨在をどんどん強く感じるようになると思う。
創世記2:7にも同じ表現がある。「主なる神は、土(アダマ )の塵で 人(アダム )を 形づくり、その鼻に命の息を 吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
創造の時、神様は命の息を吹き入れられ、私たちを生きる者としてくださったが、
救いの時、イエス様は復活の霊を吹き入れられ、私たちを永遠な命を得る者としてくださった。
聖霊を受けなさいとおっしゃったイエス様は、その後すぐ、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23)とおっしゃった。
これは、聖霊が私たちを通して行われる救いの御業を具体的に語られている。
罪の赦しがなければ、救いもない。聖霊は、罪の赦しの力を持っておられる。聖霊はイエス様の霊だからだ。罪が清められるためには、罪の赦しが必要である。イエス様はこのことのために十字架を背負い、十字架で血潮を流しながら、神様に罪の赦しを祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34) イエス様は、このお祈りを、私たちの中のおられるご自分の霊で続けるよう願われた。聖霊によって赦しの祈りをしなければならない。私たちはただ、福音の道具に過ぎず、福音の能力で行われる方は、私たちの中におられる聖霊である。
聖霊は祈りの霊である。
「『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
「聖霊の導きの下に祈りなさい。」(ユダ1:20)
「どのような時にも、「霊」に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:18)
聖霊によって彼らの罪を赦す祈りをしてほしい。
それが、復活の霊を頂いた私たちが、世に与える最高のプレゼントであり、能力である。
そうしないと、私たちが彼らにやってあげることが何もないと、聖書は語っている(23)。
復活の真の力は、聖霊によって赦しの祈りをする時に表れる。

私たちが復活の力のある人生を生きるためには、
「まず復活の信仰の持ち主にならなければならない。二番目は、復活の証人の使命を悟らなければならない。最後に、復活の力である聖霊に満たされなければならない。」と、復活されたイエス様は命令しておられる。
あなたはこの命令にどの程度従順しているのか。
それが、あなたの復活の人生の質を評価してくれるだろう。

6 コメント

박유진

2008-03-26 01:35:45

前半部と1はイン・ソンジョンさんが、2はイ・ドンフンさんが訳してくださいました。ありがとうございました。

田辺高幸

2008-03-27 09:11:27

自分が新釈聖書を読んで感じたことは、弟子たちは、イエス様が十字架で死ぬ前までは決して強い人間ではなく、むしろ弱い人間だったことだった。ペトロに至っては、あれだけ忠誠心を誓いながらも、主の言葉の通り、自分が助かりたいために裏切っている。こんな弟子たちが最後には殉教の道を辿っていた。何故だろうと思うと、やはり主の復活がキーポイントとなる。明らかに復活された後に弟子たちは、今までの弱さは嘘だったように、力強く信仰を持ち福音を伝えていった。
復活の信仰とここに書いてあるが、まさにその通りだ。死を恐れていた弱虫としか言えない弟子たちが、主の復活により、自分たちは復活するという信仰が彼らに芽生えたのだ。人間、死ぬことが一番怖いが、主は死んで3日目に復活を遂げて、信仰心があれば決して死なない永遠の命を見せてくださった。それを知ったから、弟子たちは弱さを克服したのだと思う。
主が復活した後に弟子たちに伝えた命令は、福音を伝えて多くの人を弟子にしなさいということだった。主が復活されたように、信じれば永遠の命を得ることができるのだから、それを伝えることで多くの人を救いなさいということだ。主の復活を目の当たりにした弟子たちは、怖いものはなかった。永遠の命を得られる確信が、彼たちを福音を伝える活動を力強くさせた。多くの人を救うために精力的に動いた。そしてそれは殉教者の道を歩ませたのだけど、死も恐れないで主の命令の下に御国への導きをする役割に人生を捧げた。彼らは間違いなく御国に行ったし、今もなお、僕たちの心の中にも永遠に生き続けている。
この復活だが、それに大きな力を与えているのは聖霊だ。三位一体の神である聖霊は、当然、主の霊である。主が復活し永遠の命を示されたのだから、その霊が心にいるのだから、我々も当たり前だが永遠の命を得ている。先週は復活祭だったが、それをただ主の復活を祈ることのみに終始してしまったが、実は自分が主のように復活すること、つまり永遠の命を得ているということをすっかり忘れていた。それを示された天の父、主、そして精霊様に、それに感謝したい気持ちでいっぱいになったし、それを持っていたいと思う。

木下 

2008-03-27 17:23:12

腹式呼吸でゆっくり、大きく息を吸ってはきながら、「神様、聖霊によって満たしてください。」と祈ってみたいと思います。日常生活では、複式呼吸する機会があまりありません。お祈りをするときは今まで浅い呼吸をしてきたと思います。今後も、聖霊様が私たちに与えてくださる「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」の9つの豊かな実を受けて、実際に日常生活で適用できるようにお祈りしたいと思います。聖霊様の祈りの霊、復活の力を与えてくださったイエス様に感謝いたします。

安間チョウコ

2008-03-28 08:48:28

復活と弟子
ここで言われている1)復活の信仰、2)復活の証人、3)復活の力(伝道)、それは弟子達にイエス様を地の果てまで伝道する情熱の人に変えた。
1)イエス様を裏切ったユダは大声で泣き、自分のしたことを後悔し自殺した。ユダを含め12人の弟子は、生前、師の教えに鈍かったが心の目が開き、自分たちの使命を悟った。私は神の愛とイエス様の愛(アガペの愛)を信じる者である。
2)しかし私はイエス様が奇跡の数々を人々に行い神の子のお力をお見せになったことを喜んで信じてはいない信者である。奇跡を起こされなくても、神の子であり、神を具現化された方として充分に信じるに値するから奇跡は本質的なものではないと思っているからだ。私は、此の世のつとめを終えたとき、神の元に帰ることを願い、復活を信じている。
3)伝道は難しい。私の親しい者さえも導けないでいる。イエス様の奇跡に私がつまずいており、イエス様を伝道する難しさがある。信仰はイエス様の奇跡の実態だけを言うものではないと思う。自分の存在感への疑問や、人間が真理を求めずにおれない清らかなものへの渇望も神との交流を求めずにおれない根本性があると思う。ある意味では、余りにも世の利益の追求とはかけ離れているため理解してもらえず、大多数の世の人々から迫害を受ける。それにはジッと忍耐するしかない。忍耐が信仰と自分を強め、謙虚に謙虚を何重にも重ね着て、強い信仰により、ステファノのように神様に人々の心の成長をお祈りするしかない。
今回韓国に行き、通りすがりの人々の親切を沢山受けた。清らかな瞳、清らかな話し振り、清らかな心を感じ、神の国の平和に満たされた。韓国は神の国の雰囲気、環境がある。日本は悪の雰囲気と環境でどうにもならないものを感じる。日本は昔から心は三流国なのに、日本の立地条件がよいのか経済的に繁栄している。神よ、あなたはいつまで日本を繁栄させておくのですか。どうぞ、韓国のクリスチャンが、ステファノのようになり、日本人の心を改心させる、(大変に骨の折れる)役目を取って下さいますように、そして私も韓国のクリスチャンと一緒になりその役目が取れますように、切に切にお願いいたします。

中森千草

2008-03-28 09:32:22

イエス様の復活で、感謝することがたくさんありました。
復活のために、十字架で血を流されたイエス・キリスト、 そのすさまじい光景を目の当たりにされた天のお父様の心境、感謝せずに生きることはできない。 そして、復活を通して私たちに与えくださった永遠なる命、弟子としての使命、平和への道に導く仕事をいただきました。神様からいただいた仕事を、がんばります。
会社のスタッフのイスラエル人が、私をクリスチャンだと知ると、家族も?ずっとまえから?とか聞かれ、最後にはどうしてユダヤ人にならなかったの?と言われました。でも、私が主日礼拝でのことを話すと興味をもってくれます。本当の幸せをつかんでもらいたいから、イエス・キリストが真の神であることを、伝えていきます。

古郡武志

2008-03-28 17:41:35

1. 復活の信仰
 「復活の信仰は人を強くし、大胆にさせる。死も恐れないようになる。」
  私は、いつも恐れに縛られて生きているのだと思う。「この人と関係が悪くなったらどうしようか?試験に落ちたらどうしようか?彼女にふられたらどうしようか?職を失ったらどうしようか?」わたしたちを縛る「恐れ」の数々は枚挙に暇がない。このような恐れの数々は、生活を息苦しいものにし、私たちの目を神様からこの地上のことに引き戻す要因となる。
  その恐れのうち最たるものが「死」である。小さいころから、「人間は死んだらどうなるだろうか?」という疑問を持ってきた。しかし、社会人になってからは、仕事のことなどで頭が一杯になり、この「死」に対する恐れや疑問はあえて心の奥底に封印してきたのだと思う。
  「死」を「すべての終わり」と仮定したとき、人生は一瞬の刹那を自分の享楽・快楽のために消費することになってしまうと思う。さればこそ、私の頭の中にあったのは、「一生遊んで暮らせるためのお金を稼いで、沖縄・ハワイ・グレートバリアリーフなどのリゾートでのんびり暮らしてみたいなあ・・・」という願望であり、「もしあと一週間で死ぬとしたら、何がしたい?」と聞かれれば、「貯金を全部使い果たして、世界のおいしいものを食べ尽くしたい」という答えが出てきてしまったのだと思う。(もし今同じ問いを受けたら、どうであろうか?地上での残された少ない時間を神様そして人のために捧げたいという思いは当然あるが、残りの少ない時間を自分の快楽のために消費し尽したいという思いから自由にはなっていない。)
  いずれにせよ、人間が抱く「死」への恐れは、人生を清く正しいものから遠ざけ、享楽・快楽に没入させるバイアスとして強く作用することは間違いない。
  最も恐るべき「死」をうちやぶられたイエス様、私たちに「復活の霊」を吹き入れて、永遠の命を得るものとして下さったイエス様、あなたがいらっしゃるからこそ、私は「自分の快楽のためだけに生きたい」という誘惑に陥らないようにし、少しであっても人のために何かをしてあげたいと思うことができる。心から感謝します。
  私には「この地上での限られた生」という経験主義的思考の呪縛が未だに強く働いている。しかし、イエス様は、「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃっている。
 心の中に確固たる復活への信仰をもち、経験主義的思考の呪縛、そしてそこから生じる快楽主義的・享楽主義的性向を滅ぼしたいと思う。

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