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중앙영광교회

洗足と十字架と伝道

이용규목사, 2008-03-19 23:56:02

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「洗足と十字架と伝道」

御言葉//ヨハネによる福音書 13:12-17

1.        人類最高の週間
人類の歴史上、最も偉大なこと、最も祝福されたことが行われた一週間があった。
もし、この一週間がなかったら、全人類は絶望と暗黒の中にいたかもしれない。この一週間によって、人類の運命は、死刑囚から自由者に変わった。人類最高の週間であるこの週間が、つまり、「受難週」である。神様が、誰も解決できない私たちの罪の問題を解決してくださるため、命まで失われながら、救いの御業をなさってくださった週間だからだ。神様は、独り子のイエス様を殺されることにより、私たちを生かせる十字架を高く立てられた。モーセの青銅の蛇を仰いだイスラエルの民を生かしたように、イエス様の十字架を信仰によって仰ぐ人類を生かせるためだった。
人類に対する神様の最高の大作は、天地を創られたことではなく、十字架を立てられたことだった。十字架には、神様のすべて(独り子まで)が全部投資されているからだ。私たちは、私たちのための神様の大きな御業の前に、見物人としているのではなく、十字架の主人公として感謝し、感激し、献身すべきである。なぜなら、十字架のすべての御業は、神様のためではなく、他人のためではなく、ただあなた自身のためのことだったからだ。受難週の見物人にならないで、信仰で共に十字架を立ててみよう。受難に共に参加してみよう。そうすると、特別な神様の恵みがあなたを満たしてくださるであろう。
イエス様は命まで落としながら、私たちのために救いの十字架を立ててくださったのに、黙っているわけにはいかない。信仰によって、十字架を自分のものにしなければならない。自分の中に主の十字架を立てなければならない。
信仰の人は、心に十字架がある人である。信仰の人は十字架を通して自分を見る人である。そのため、どんな罪人でも正しい人として見えるのである。十字架は、私たちを正しい人にしてくれる神秘の力である。

2.十字架の二つの模型
イエス様はご自分が十字架につけれれ、苦しみながら死ぬということを、すでにご存知だった。(ルカ22:15,16)それで、イエス様は最後の晩餐の時、二つの事を自ら弟子達に行われた。それは、つまり聖餐式と洗足式である。なぜイエス様はこの大事な時に、聖餐式をなさい、弟子たちの足を洗ってくださったのか? 聖餐式と洗足式は、イエス様の十字架の出来事の模型だからである。イエス様はこの二つの儀式を通じて、十字架の真の意味と恵み、能力を弟子たちに予め見せることを願われた。そのため、イエス様はこうおっしゃったのだ。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)。この御言葉は、イエス様が十字架につけられたら、その意味を悟るようになるという御言葉である。 聖餐式は、私たちのために十字架で死なれることを予め見せてくださった。パンは十字架で私たちのために与えてくださるイエス様の体を、杯は十字架で私たちのために流されるイエス様の血を象徴している。 「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」 杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される。」」(ルカ22:19,20)
マタイ、マルコ、ルカは 聖餐式を通じて十字架の恵みを強く表現しているが、一番霊的な福音書と評価される「ヨハネによる福音書」では、聖餐式が抜けていて、そこに洗足式が入っている。ヨハネには、霊的に見ると、抜けられないのが洗足式であったのに違いない。洗足式の中心的な意味は、十字架で罪を洗うことである。
聖餐式が私たちの「ために」してくださった十字架の「恵み」を見せてくれるなら、
洗足式は私たちに臨んだ十字架の「能力」を見せていると言えるだろう。
イエス様は聖餐式と洗足式を通じて、霊的な十字架を肉的に悟るように形象化してくださった。しかし、忘れてはいけないことは、この二つの儀式の本質は十字架であるという事だ。儀式が本質の前に立つと、形だけあって力は無くなることになる。儀式は本質を表せるための用具に過ぎない。皮は中身を守るための手段に過ぎないため、喜んで脱がされられる。本質の本質は十字架である。すべては十字架を表せるための用具に成らなくてはいけない。

3.        足を洗ってくださるイエス様
1) 洗足の意味
洗足式について、もっと詳しく探ってみよう。
イエス様がこの地上に来られた目的は、この世を救われるためだった。それによって、イエス様は、私たちの救い主になる。この救いを完成された所が、「十字架」である。十字架こそ、完全であり、生き生きとした福音の現場である。
洗足式は、十字架の救いの姿勢と能力を具体的に見せている。
イエス様は、ご自分が神様に帰られる時になったことを知り、最後の晩餐後、いきなり弟子たちの足を洗い始められた(ヨハネ13:3,4)。このとき、ペテロは非常に恐れ入り、イエス様がそうしてはいけない(わたしの足など、決して洗わないでください)と言ったら、イエス様は、ペテロにこの一言をおっしゃる。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」(ヨハネ13:8) 
そう。イエス様が私たちを洗ってくださらないと絶対できない。イエス様が洗ってくださらないと、清められることができない。汚い罪が解決されることができない。イエス様が私たちを洗ってくださることによって、イエス様は私たちの救い主になる。ここで、「洗ってくださる」というのが、肉の足を意味することか。違う。霊の足である罪を意味する。
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(一ヨハネ1:7)
罪のないイエス様の血潮が私たちを洗ってくれないと、私たちは救い主イエス様と何のかかわりもない。洗足は、自分の罪を主が洗ってくださる「十字架の模型」である。そのため、イエス様は、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたのだ(ヨハネ13:7) 。
「罪をあらうは イエスの血潮のみ。」(賛美歌184)

2) 仕える姿勢
イエス様がなぜ「足」を洗ってくださったか。これは、イエス様の「十字架の救い」は仕えの極致であることを語っている。その時代に、主人や客の足を洗うのは、僕しかいなかった。だから、弟子たちがイエス様の足を洗わないのも、当然な時代だった。そのために、イエス様はペテロにこう言われた。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかった。」(ルカ7:44)これは、ペテロを批判するということより、時代相をよく映し出している内容だと言える。弟子たちすらイエス様の足を洗わなかった時代に、イエス様が弟子たちの足を洗うというのは、天地開闢のようなことなのである。それで、弟子たちは驚いて断ったのである。イエス様は、君臨する王としてではなく、仕える者の姿として私たちの罪を洗ってくださることを願われた。これが、まさに赦すものの姿だろう。
では、洗足と十字架を比べてみよう。自分のために足を洗ってくれるほうがもっとありがたいか、自分のために代わりに十字架で死んでくれるほうのがもっとありがたいか。洗足式には感動するのに、十字架には何も感じない人々が多い。
イエス様は、ある罪人の女が香油でイエス様の足を洗ったとき、とても感動され、ほめ言葉と祝福をくださった。
洗足式はイエス様が足で自分を洗ってくださることだが、十字架はイエス様がご自分の血潮で自分を洗ってくださることである。そうすると、十字架に対して感動がないはずがあるだろうか。
水で洗ってくれることよりは、高い香油で洗ってくれることが貴重だが、いかに高い香油より、血潮で洗ってくれるほうがより貴重である。血潮には、イエス様の命が入っているためだ。十字架は、イエス様の血潮が直接私たちを洗ってくださった場所である。私たちが本当に感動の涙を流すべきところは、洗足式ではなく、主の十字架である。洗足式は、十字架の小さい模型に過ぎない。洗足式の本質は十字架である。イエス様は僕の心で十字架で血潮によって、私たちを清められた。
「十字架のみもとにこころせまり…この身をささぐるほかはあらじ」(賛美歌141)
信仰の人は、十字架にいつも感動し、感激し、涙を流す人である。

3) 「足を洗い合いなさい」という意味
イエス様は、弟子たちの足を洗い終わった後、彼らも足を洗う者になるようにと、3回も強調しながら語られた(14,15,17)。では、足を洗うというのは、何を意味するのか。もちろん、外面的に出ている姿は「仕え」である。では、その本質は何だろうか。仕えを器だというと、それに入るべき内容物は何だろうか。それが、つまり十字架であり、福音である。私たちは仕えの器に十字架の福音を入れて、人々に伝えなければならない。そうすると、十字架の血潮が彼らを清めてくださるだろう。これが、彼らの足を洗ってあげる真の意味である。そのため、イエス様はおっしゃる。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)
「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
私たちは、世に遣わされたイエス様の弟子たちである。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」(マルコ16:15)
自分が十字架で本当に死ぬことではなく、イエス様が背負った十字架を伝えるだけでいい。そうすると、同じ罪の清め、救いの御業が行われる。
「足を洗うこと」は、僕の心を持って、他人の罪を福音によって洗うことである。
今も主は、私たちが十字架の福音を伝えることを切に願われる。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(一コリント1:18)

8 コメント

박유진

2008-03-19 23:58:31

2は、イ・ドンフンさんが訳してくださいました。
ありがとうございました。

中森千草

2008-03-20 05:50:48

聖餐式と洗足式の意味を深く知ることができました。 
十字架に対する思い、そして、私たちの使命を教えてくださっている。
イエス様が背負った十字架をきちんと伝え、神様から与えられている この世でしか出来ない働きを、しっかりしていきます。
感動を受けないと、感動を伝えることが出来ない。
十字架に対するおもいは、私の罪のために血を流されたイエス様に、申し訳ない気持ちが大きく、感動は小さかった。
今日、聖餐式に参加して、聖霊様のお働きによって、十字架が心のなかにしっかりとたてられました。日を追うごとに、十字架の感動は増していくことでしょう。

安間チョウコ

2008-03-20 07:22:58

十字架の意味
病気を持っていて苦しみを受けているひと、自分が生んだ子供が脳性麻痺など障害児で一生子供と付き合う人、その人には十字架が見えるに違いない。私の十字架は何か?健忘症の母か?連絡が薄い弟家族達か?
十字架の苦しみが苦しみと感じられない感覚の低さ、見ていても無知のための認識不足が罪で、十字架の血潮で洗ってもらうのは、わたしの公平に欠ける自己中心さ、それゆえの無知、他の人への感覚の弱い対応、対策、等を私は自分の十字架として背負って、これらに自分を渡さないように克己していく日々にしなければならない。これらのために言い訳や弁解を許すとしたら、十字架上のイエス様は泣いてしまわれる。十字架は生きていくための本当の正しさを言うものだ。イエス様の説かれる隣人への愛、弱いものへ手を差し伸べる愛については頭で知っている。けれども私は時間がないと言い訳しながらどれだけ多くの人を切り捨ててきた事だろう。他の人のために祈ると言いながらどれだけその人の身になって祈っただろう。
私にとって十字架は恐ろしい。十字架は本物だからだ。生きることのつらさ、苦しさを身に味わって体験することを意味する。それも人間として人間に出来ること、私が私に出来ることの使命を帯びている。十字架があるからキリスト教はすごい。

津田浩史

2008-03-21 06:18:03

”「足を洗うこと」は、僕の心を持って、他人の罪を福音によって洗うことである。”という説教の言葉が、最も印象深く感じました。
「僕の心」では、教会以外でも、会社や家庭など周りの人々に対し、僕の心を持って接しているかをもう少し考えていかなければならないと思いました。
 また、「他人の罪を福音によって洗う」ことは、クリスチャンの使命を端的に表した言葉ですね。私たちは自分の罪をイエス様の血潮によって贖って頂きました。私たちはイエス様にはなれませんが、イエス様の御業を伝えること、自分がイエス様に似た者となることで、他の人々の罪を清められるということがわかりました。

 あと、本日は家庭訪問礼拝にいらして頂きありがとうございました。家族みなが多くの恵みをいただくことができました。
 ただ、牧師先生が昼食断食のため全くおもてなしをできず、申し訳ありませんでした。今度改めて皆さんをご招待させて下さい。
 ありがとうございます。

木下 

2008-03-21 07:18:15

イエス様が私たちの罪を清めるために十字架にはりつけにされ、復活されました。この偉大な業を成し遂げるために、私たちの身代わりとなられたことに感謝します。自分自身の心にいつもイエス様がおられることを望みます。物事がうまくいかず心が穏やかでない日があります。しかし、イエス・キリストの御名でお祈りをすると心に安らぎが与えられることがよくあります。イエス・キリストの御名を与えてくださった神様に感謝します。イエス様は弟子たちの足を洗うことを通して仕える者の姿として模範を示してくださいました。仕えることは持続的な忍耐が必要ですし、柔和で謙虚な気持ちを持ち続けなければならないので容易なことではないと思います。しかし、イエス様が模範を示しておられる以上は似た者になるように、言葉、行動、姿勢等、努めていく必要があると感じました。

古郡武志

2008-03-21 17:53:57

1.「信仰によって、十字架を自分のものにしなければならない。自分の中に主の十字架を立てなければならない。」
   私が信仰を持つようになる前は、クロスのペンダントがあるように、十字架を何となくかっこいいとは思っていたが、それはあくまで日本でクリスマスが商業主義的な年中行事であるように、全く表面的・浅薄的な理解であった。
   その次に、キリストの教えに触れ、「全人類を救うために死なれたことに感謝しなければならない」と思うようになった。あるとき、クリスチャンの友人と話したときに「イエス様は、何のために十字架で死なれたの?」と聞かれ、「全人類を救うため」と答えたのだが、「まだ十字架の本当の意味がわかっていない」と言われたのである。実はそのときは何でそういうことを言われたのかわからなかった。
   今に至って、何で友人がそう言ったのかわかるようになった。他人事のように、イエス様は全人類を救うために死なれたというのではなく、イエス様は、他ならぬ私自身のために死んで下さったのである。私自身を罪から救うために死んで下さったのである。私自身はイエス様のために何をしたわけでもないのに、私のために過酷な苦しみを受けて死んで下さったのである。この世の中で他人のために死ねる人はどれだけいるだろうか?ほとんどいないだろう。
   信仰の人は、心に十字架がある人という。私は、心に十字架がいつもあるのか?自分の命を捧げてくれたイエス様に対する感謝の念は絶えずあるのか?率直に自分を振り返ると、世的な欲望や感情に支配され、十字架への思いを忘れているのではないかと思うときが多い。いつも心に十字架を置くようにしたい。心が十字架から離れそうになるときはこう考えてみたい。「おまえから何の世話にもなっていない方が、おまえを救うために死んで下さったのに、おまえはそんなことでいいのか?」
2.洗足式
   昨年は、私は足を洗ってもらったが、今回は足を洗う立場にもなった。血潮で私の罪を洗い流して下さったイエス様に対する感謝の言葉を心の中で唱えながら、足を洗った。そのときの気持ちはうまく言葉で表現できないのであるが、本当に私自身が満たされたような気持ちになったのである。
   ただし、本当の重要な意味は、洗足式それ自体ではなく、福音によって他人の罪を洗うことだと知ったので、少しでも洗足式を通して示されたイエス様の御心が私の生活を通して実現するように頑張りたいと思う。
   洗足式の帰りに、JRの切符売り場で困っている人を助けてあげた際に伝道用紙を渡したのある。実はそのとき通り過ぎようかどうしようか迷ったのであるが、何かが背中を押してくれたようにも感じたのである。
   身を低くかがめて弟子の足を洗うイエス様の姿は本当に美しい姿だと思う。えらくもないのに傲慢な心に陥りがちな愚かな自分に行くべき道を指し示して下さっている。「イエス様、私のために死んで下さって本当に有難うございます。」

田辺高幸

2008-03-22 09:23:51

生きていると、正直嫌なことに出会うことがある。生きていると悔しいことに出会うこともある。生きていると悲しいことに出会うこともある。
これらのことに出会うとくじけそうになる。だけど、そん時に天を見上げる。すると天で僕のことを祈ってくださるイエス様を思い出す。イエス様は僕を生かすために十字架で死なれたのだ。苦しんで磔にされたのだ。これを考えると、自分のさっきの感情は消え失せる。イエス様に比べれば大したことではないのだ。
今週は誰も解決できることのない僕の罪の問題を解決するために、命まで失われながらも救いの御業をなさってくださった週間だ。イエス様がこの世に来られ、そして御言葉を伝え、そして僕を罪から解放してくださった大切な週だ。だからこそ僕は天を見上げるとイエス様がしてくださったことを改めて思い知らされるのである。忘れてはならないことをいっそう忘れないようにと思うのだ。十字架によって救われた僕ということを再意識するのである。
特に洗足式は自分にとって印象に残る場面だ。それはペトロとの会話の中身がそうだったが、今回はイエス様に洗ってもらわないと罪は洗われないということを知り、改めてイエス様しか罪を洗える方はいないことを思い知らされた。僕は直接洗って頂いていないが、信じることにより罪を洗ってもらった。今の僕がいるのはこれがあるからだ。
イエス様に感謝いっぱいである。この感謝を常に持って生きて行こうと思う。僕が生きているのは間違いなくイエス様が救世主として人を生かしてくださったからだ。

安間チョウコ

2008-03-24 06:17:06

日曜日ごとに書くことになりましたが、今日はここに書かせていただきます。私にとって’08年の復活祭は意義深いイースターになりました。ところで明日朝早くから、水曜日までの短い韓国旅行をします。前の日本の教会に、韓国から4人家族の方が来られていました。その時、親友と2人で東京の名所をご案内し、楽しい時を持ちました。この韓国の友達のところに、親友と一緒に尋ねます。親友のお姑さんがショートステイに入っているほんの短い間ですが、ようやく10年ぶりに3人で会えます。興奮します。彼女の通っている教会も見て来ようと思っています。

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